有川千明の現在(一)
「神妙な顔で何を見ているのですか?」
後ろからの声に健斗は慌てて手紙を閉じた。
上司である雨ノ宮睦月(あまのみやむつき)は健斗の手に握られた紙を覗こうとする。
「いや、特に、なにも。仕事をしなくちゃいけませんね」
健斗はその手紙が隠れる場所を探した。机の上に乱雑に置かれたレファレンス資料に紛れるように、さりげなく手紙を移動させる。
雨ノ宮は、訝しんでいた。
動揺した素振りを見せてしまった。その言動は、雨ノ宮の好奇心をそそり、丸い瞳が健斗を覗く。その目が、手紙の中身をとめることがないようにと切に願う。紛らわすように訊いてみる。
「ところで、何かご用があったのですか?」
「そうです。お忙しいところ申し訳ございません。こちらに目を通していただけないでしょうか」
雨ノ宮が手に持った紙束は厚みがあった。ところどころに緑の付箋が貼られた紙束を健斗は受け取る。
「お客様からの改善要望一覧」
健斗は表紙に書いてあるタイトルをそのまま読んだ。
「付箋に記された箇所が山岡さんが主体となって携わった箇所です」
健斗はゲーム部門のクリエイターとして七年間、同じ部署で働いている。紙束を捲り、パラパラと付箋のある箇所に目を通す。そこには、自分の仕事が否定されているような、文言が散らばっていた。
キャラクターから感情が伝わってこない。動作に性格が現れていない。そもそも魅力的でない。
まだ、紙束のほんの数ページであったが、既に健斗の心は折れそうになる。
読まなければいけない内容ではあるが、今の健斗には、そのレポートに十分な注意を払える自信がなかった。
「あとで、じっくり読みます」
「わかりました。ところで、今のプロジェクトの進捗具合はどうですか?」
すぐに健斗はプログラム設計書を開いた。
マウスを手にし、彼女の視線がディスプレーに注がれるよう、健斗は開発中のプログラムの説明をする。
「敵キャラクターを人間性を出すために要件定義がされてますが、なかなか上手くいかなくて。どうにも、人間っぽい動きってのは理屈じゃ説明できないんですよ。動作や攻撃パターンをいくつか変えて試しているんですけどね」
健斗は「このように」と実際にプログラムを実行し、敵キャラクターの動きを再現させた。
だが、雨ノ宮の返事がない。
健斗は振り返り、背後にいる上司の顔を見上げた。あろうことか、雨ノ宮はディスプレーを見ていなかった。
「この有川千明さんって方は、大変なご病気にかかっているのですか?」
彼女は不安をにじませ手紙を広げていた。コアラのような円形な瞳は、横書きに書かれた健斗宛ての手紙に注がれている。とても気がかりだと、潤んだ眼差しを健斗へ向けた。
「ちょっと。なにやっているんですか?」
健斗は腰を浮かして手紙を引き戻そうとした。
雨ノ宮は軽やかに一歩下がって、健斗の右手を避けた。空振りした健斗は勢いよく床に伏した。
「おい。大丈夫か?」と、周囲のプログラマーの視線が健斗に向く。
なんて哀れで、悲しい男なんだ――と、心に浸りながら自らを思索する。
「ごめんなさい。でも……」
小柄な雨ノ宮は謝罪の表情を宿した。
「でも?」と、健斗は少し強めの声で雨ノ宮の言葉を被せた。
プログラマーたちは手を止め、健斗と雨ノ宮の会話を注視する。
「会社に送られてきた手紙ですよね。見ていいものだと思ってしまいました。冒頭が、なんだか、気になる内容だったので読み進めてしまったのです。すみません。私にも見る権利はあると思ってしまいました」
すぐに、雨ノ宮の主張には反論することができた。
「会社に個人宛で送られた手紙も一般的にはプライバシーの一部とみなされるはずです。プライバシー権は法的に保護されていますし、侵害することは違法のはずですよ」
今まで、悲観的な感情を表に出すことはなかった。
雨ノ宮は頭を下げ、手紙を健斗に返す。
「すみません。ただ、全部読んでしまいました」
雨ノ宮は、うかつな失敗を悔いる表情を見せる。それは、学校の先生を『お母さん』と呼んでしまった時のような、ビデオ通話を切り忘れて私生活をさらけ出してしまった時のような、苦さも混じる表情であった。
速読し、最後まで目を通しておいて、そんな顔をされても、と呆れる。
「仕方ないです。気を付けてください」
「本当に申し訳ないです」
深々と雨ノ宮が頭を下げると、艶のある長い髪が彼女の表情を隠した。
これでは、どちらが上司なのかと、疑問に思うことがある。
この上司がなぜ、成長著しいバザーラホールディングスで異例の出世街道を進んでいるのだろうか。彼女の経歴を詳しくは知らない。
それにしても、手紙を見られたのは健斗の汚点だ。
頑なに雨ノ宮に手紙を見せたくなかったのは、彼女がこういったミステリアスな題材が大好物で、彼女自身に関係のない話であっても土足で人が秘める謎を詮索してくると、同僚に聞いていたからだ。
そして、健斗はその大切な思い出を踏みにじられたくなかった。
「極めてプライベートな手紙なので、見なかったことにしてください」
先手を打ち、頭を下げた。
「でも、困っていますよね。有川さん?」
雨ノ宮は首を振り、肩まで切られた黒上が軽やかに揺れた。
「お願いです。この手紙のことは忘れてください」
健斗の頼みに雨ノ宮はギリシャの迷路を眺める少女のように悩まし気だった。
「でも……」と溢す雨ノ宮に「大丈夫です!」と被せる。
「私の気が収まらないです」
意を決して雨ノ宮が詰め寄ってきた。
「有川さんの悲痛な想いに応えてあげなくてもいいんですか?」
健斗は「はい?」と言葉を溢す。
「この手紙に書いてあるように、有川さんは山岡さんと同期になる予定だったんですよね。同じ釜の飯を食べたかつての仲間が困っているんです。いいのですか?」
「釜の飯ですか?」
雨ノ宮の古めかしい言葉が気になった。
「そうです。事件がきっかけで山岡さんと有川さんは同期になることはなかった。有川さんは入社することができなかったんです。彼女にとっても人生が変わってしまう事件だったんですよ。有川さんは山岡さんと同い年なんじゃないのですか?」
健斗は大学進学の道を選ばずに、高校を卒業して、すぐにバザーラホールディングスに入社した。
入社前、内定者が集う研修会が行なわれた。会場には大学生や院生が多く、肩身の狭い思いをしたのを覚えている。
『もしかして、同級生かな?』と、研修会場の隅っこで声をかけてきた有川千明の姿が浮かんだ。
「そうですね。同級生ですが、何か関係ありますか?」
「はい。関係あります。私とも同い年です。同じ年を生きた同士が助けを求めています。ほっとけないのです!」
言われてハッと気がついた。健斗と雨ノ宮は、共に二十五の歳である。組織には、ピラミッドの上下の関係が存在していて、時々、雨ノ宮と同い年であることを忘れてしまう。
バザーラホールディングスは設立からすぐに急成長を遂げたスタートアップ企業であり、実力と実績があれば年齢を問わずに重要なポストが与えられる。
ゲーム開発部長である雨ノ宮がどのように出世したかは知らず、年齢の隔たりを感じさせない企業に属すると、歳に対する意識が薄れていく。
「雨ノ宮さんと有川さんが同い年だからという理由はあまり関係ないと思いますが」
共通項は年齢だけだ。いくら年齢が同じでも、性別、国籍、宗教と異なる属性を持つ者は多様にいる。困ったからといって、求められれば、その全ての人に手を差し伸べることなどできないだろう。
「それだけじゃありません。山岡さんが新たな可能性に気づく手掛かりとなるはずです」
「どういうことでしょうか?」
健斗は目を細め、雨ノ宮を見つめる。
「先ほど拝見したプログラムも、同じ構造に塞がれているように感じました。気を悪くしないで聞いていただきたいのですが、お世辞にも、人間の動きのようには感じませんでした」
包み隠さずストレートな物言いをされた。
健斗の目の前の画面の中では、キャラクターたちが優雅に歩いている。
「成績が揮わない若手社員を指導をするように、人事課から要請があったんです」
健斗は「指導ですか……」と、無感情に応えたが、内心では酷く動揺をしていた。どちらかといえば、たしかに自分はお荷物社員に分類されるだろう。だが、上司から直接言葉を伝えられるのは、いくら健斗でも応える。
「そう。指導です。良い機会になるとは思いませんか?」
それが、有川千明の手紙とどういった関係があるのだろう。健斗の困惑した顔を覗きながら雨ノ宮は続けた。
「山岡さんの弱点を補うことができると思うんです」
雨ノ宮は確信をもって語りかける。
「バザーラホールディングスは山岡さんに期待をしているんですよ。山岡の能力は十分に評価している。不足している部分を改善するんです」
雨ノ宮の発言の意図が全く伝わってこない。健斗が怪訝な顔を向けると、雨ノ宮は更に補足した。
「つまり、感情を具現化する能力を伸ばすんです。映像に感情を与えることができれば山岡さんは羽ばたけるはず。有川さんが何を伝えたくてこの手紙を書いたのか、いい出題だと思いませんか」
千明の手紙が教材のように扱われていることに嫌悪感を抱いた。
「それは、随分とこじつけのように感じますけど」
冷めた声を出す。それに、人間のように動くアルゴリズムを組みたてるために、人の感情の理解など必要であろうか。
「こじつけでしょうか?」
「はい」と、間髪入れずに応えることができた。
「申し訳ありません。私はこじつけではないと思います。作品を生み出すということには心を注入しなければいけないのではないでしょうか。それが、いくらプログラムであっても」
その無垢な灼熱さが、今は単なる煩わしさとなっていた。
室内のプログラマーたちは完全に作業の手を止め、健斗と雨ノ宮の会話に耳を傾けていた。
この部屋の長である雨ノ宮は、周囲の視線など気にもせず、健斗に向かって、一枚の紙を差し出した。
「これは?」
用紙の表題には『個人研修プログラム』と記載されている。
「山岡さんへの研修プログラムを作成するように上からの指示があったのです」
「はぁ」と、健斗は項垂れる。
用紙の中を見れば、研修概要やスケジュール、狙い、効果など記載する欄があり、その全てが白紙になっている。
「勝手ですが、山岡さんの研修プログラムにしましょう」
「はぁぁ」と溜息交じりの萎んだ声を溢す。
「それに、有川千明さんの手紙には、金子社長の死にはいくつかの謎が存在すると書いてありました。バザーラホールディングスにとっても必要な情報かもしれません」
健斗は、雨ノ宮の心が躍動していることを見透かしている。興味本位で踏み入られていいはずもない。千明のことを想うと、胸にしんみりとした感傷が漂ってくる。
七年前の健斗の眼には儚く彼女の姿が映っていた。自分と同じような心の暗さを抱いて、隠す、そんな彼女が気になっていた。
「正直、気乗りしませんね。そんな理由でこの手紙に向き合っても千明は納得しないと思います」
「おっしゃることは分かります。それなら、別のように考えてみてはどうでしょうか。私は山岡さんの研修のために七年前の事件を調査する。山岡さんは千明さんの願いに応えるために調査する」
「もちろん、有川さんの想いには応えたいと思っていますが……」
手紙を読んだ時から決意はしていた。だが、千明の想いに応えるために、雨ノ宮は必要ない。
「では、決まりですね」と、雨ノ宮が顔をほころばせる。
都合のいい解釈をするな――と健斗の顔は歪んだ。
「いえ……」と健斗が否定の言葉を口に出そうとした時、室内をパチパチという音が木魂した。プログラマーたちの拍手の音だ。掌の鼓動が重なり合って、徐々に増幅した響きが空間を満たしていく。
協調性があって、居心地が良い職場であった。健斗は、この職場が凄く好きだ。だけど、彼らの人柄が、今はとても鬱陶しい。
雨ノ宮は流れ星を見つけた少女のように微笑んでいた。
完全に雨ノ宮にペースは握られていた。
「思い立ったが吉日ですね。それなら、行きましょう?」
彼女はオフィスのガラス張りの出入り口を指さす。
「どこにですか?」
本当に雨ノ宮の行きたい場所がわからなかった。
「そこの住所に書かれた場所です」
雨ノ宮の人差し指は健斗の右手が握っている手紙を示していた。
有川から送られてきた手紙には『住所』が二カ所記載されている。一つは、バザーラホールディングスの住所で、もう一つは有川千明の自宅と思われる住所が記載されていた。
「冗談ですよね?」
「いいえ。本気です。今から開始しましょう。オン・ザ・ジョブ・トレーニングです」
雨ノ宮は胸を張る。
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