第96回アカデミー賞受賞式において、アジア人に対する差別的な行動があったと多くの批判が集まっている。
1人目は、助演男優賞を受賞したロバート・ダウニーJr.。
前年の受賞者である中国系ベトナム人の米俳優、キー・ホイ・クァン氏が彼にオスカー像を渡す際、目も合わさずに受け取り、ほかの俳優とのみ握手をして受賞スピーチを開始した。
2人目は、主演女優賞を受賞したエマ・ストーン。
前年の受賞者である中国系マレーシア人のミシェル・ヨーがオスカー像を手渡そうとしたとき、なぜかとなりのジェニファー・ローレンスに近づき、ジェニファーからエマに像を渡したかのようなかたちになった。
その後ヨー自身が、「エマとジェニファーが親友だから、ジェニファーと一緒に像をわたしたかった」という意図を説明している。
……なんてことがあった。
この出来事をきかっけに「アジア人透明人間現象」、つまりその場にいるのに空気として扱われることについて、多くの人が言及した。
非常にセンシティブな問題なので書こうかどうか迷ったが、10年近くドイツに住む日本人として思うところがあったので、「透明人間」として扱われたほろ苦い経験を書いていきたい。
ドイツの大学在学中、透明人間のように存在を無視された
日本の大学を卒業後、わたしはドイツの大学に正規学生として入学した。
専攻は政治学で、言語学や自然科学系、音楽系とはちがい、外国人(ノンネイティブ)がまったくいない分野だ。
1学期目、3人一組で各テーマについて発表するグループワークを課されたときのこと。
わたしはとなりに座っていた女の子2人と同じグループになった。顔は知っているが名前は知らない、くらいの仲だ。
教師が上から順番にテーマを読み上げ、希望チームがあるかを確認する。
うーん、どれがいいかな。
そう考えていたら、となりの女の子が「それはうちのチームがやりたいです」と挙手。
どうやら2人で話して、そのテーマを選ぶことにしたようだ。オッケー、じゃあそれをやろう。
授業はちょうど昼前だったので、授業後はどのグループも3人で話しながらメンザ(食堂)に向かう。
わたしも2人とランチしながら自己紹介でも、と立ち上がったが、2人は「ねぇどうする~?」と話しながら、教室を出て行ってしまった。
あれ……?
翌週の授業で、勇気を出して自分から「分担どうする?」と2人に話しかけた。すると返事は、「もう決めた」とのこと。
「わたしがここ、この子がここをやる予定だよ」
「? じゃあわたしはどこを担当するの?」
「うーん、まだ決まってないのは導入だから、そこをお願い!」
「え……うん、わかった」
導入は基本的に、「分担」の範囲ではない。手が空いた人や、最初のセクションを担当した人がおまけでやるものだ。
このグループワークで発表した内容をそのままレポートとして提出し、それで成績がつく。内容がない導入担当では、わたしはレポートが書けない。
どうしよう、みんな10分以上発表するのに、わたしだけ1分程度の導入を担当するなんて、成績が下がっちゃう。でも2人はもうそれで進めてるみたいだし、わたしのドイツ語じゃ、発表しても迷惑かもしれないし……。
頭を抱えたわたしは、ドイツ人の彼氏(現在の夫)に相談。
「わたし、仲間外れにされちゃって……」と、屈辱と悲しさで涙を浮かべながら話した。
すると彼は眉を顰め、「2人のFacebookを探そう。メッセージを書くぞ」とパソコンを起動。
「彼女の代理人として聞くが、なぜ彼女に仕事を渡さないんだ。彼女がレポートを書けないだろう。相談なくテーマと分担を決めた理由を説明してくれ」
2人からはすぐに返事がきて、「悪気はなかった」「彼女も同意していると思ってた」という。で、「こういう割り振りはどう?」という提案がきた。
しかし彼は、「いやいや、そもそも話し合ってすらいないのが問題なんだけど。君たちはお互い『どこをやりたい?』って相談して担当を決めたはずだろ。なぜ彼女には、どこを担当したいかを聞かないんだ。話にならない」とブチ切れ。
わたしは彼に、「その場で反論しなかったわたしも悪いし、担当をくれたからもういいよ」と伝えた。
大ごとにしたくなかったし、なによりみじめだったから。
でも彼は憤慨し、
「あのな、そんなのは当たり前なんだ。俺は5年近く大学にいるけど、グループワークの担当は毎回、全員の意見を聞いてから決める。そんな当たり前のことを、『してくれた』って感謝する必要はないんだよ」
と言った。
そうだ、なんでわたしは「弱い人間」という立場でものを考えていたんだろう。3人でやるグループワークなんだから、3人で話し合うのが当然じゃないか。「担当をくれた」なんて、そんなふうに思わなくてよかったのに。
……という出来事があった。
患者のわたしを無視…アジア人が「見えない」人たち
ではこの女の子2人は、意地悪だったんだろうか。
いや、たぶんそうじゃない。
わたしと話したくないとか、わたしをいじめてやろうとか、そういう意図はなかったと思う。
ただ単純に、彼女たちの「グループ」の頭数に、わたしが入っていなかっただけで。
その2人は、別の授業ではみんなでちゃんとグループワークするんだよ。輪になって話して、連絡先交換して、食堂でランチして……って、普通にさ。
でも彼女たちにとって、わたしは透明人間。だから相談してくれなかった。それだけ。
似たような経験は何度かあって、たとえばバセドウ病にかかって専門医を訪れたとき、症状を説明したら遮られて、ぞんざいに処方箋を渡された。
「これはどういう薬ですか?」と聞いたけど、医者は早口で専門用語を並べ立て、わたしと目を合わせようともしない。
「どういう意味かわからないので、スペルを書いてもらえますか。ググります」と言っても無視。
困ったわたしは、次の診察に夫を連れていった。すると医者は笑顔で、夫に細かく説明をし始める。患者はわたしなのに。
ああ、この人にはわたしが見えてないのね。
紹介してくれたホームドクターに「あの人はわたしの目を一度も見ず、夫にだけ話しかけた。そんな人に治療を任せられないから別の人を紹介してほしい」と依頼。
ドクターは驚いて、普段は予約できない有名な先生の病院に予約をねじ込んでくれた。
それはドクターの優しさはもちろん、そういう対応をしないと、差別を助長したことになってしまうと理解していたからだと思う。
外国人にとって「空気扱いされる」のはよくある話
アカデミー賞授賞式をきっかけに、「アジア人の透明人間化」「空気として扱われる」ことについて、多くのポストがされた。
そう、これは本当によくあることなのだ。暴力を振るわれる、暴言を吐かれるといった類のものではないから、目立たないだけで。
された側も、「モヤモヤするけど悪気はなかったみたいだし、強く発言しなかった自分も悪いしな。きっと気のせいだ」と、相手を責めるより自分を納得させて気持ちに折り合いをつけることが多い。
「なんでそんなことするの」と言っても「悪気はなかった」と言うし、「差別じゃないか」と言うと「そんなつもりはない」って言うし。ならどこかで手を打つしかないじゃん、と。
でも「いないように扱われる」って、すごくつらくてさ。みじめで、情けなくて、悲しくて、心がどんどん削られていくんだよ。
わたしはここにいるのに、みんなと仲良くしたいのに、なんでそんなことするの?って。
映画業界は「なんでもかんでもポリコレ配慮でおかしくなってる」と言われることがあるけど、それくらい本気で存在を主張しないと、いないことにされてしまう現実もあるのだ。
差別は自覚の有無ではなく、どう見えるかで判断される
アカデミー賞授賞式に関して、こんな記事もあった。
これを単に「無礼」「失礼」と批判するのではなく、ここだけ切り取って「人種差別だ」と断言してしまうのも短絡的なようにも思える。批判は見えたことに対して行い、憶測で罵倒することは避けたいところだ。
「失礼なのは明らかだが、こういう行動をした理由が人種であるか否かを判断できない以上、人種差別だと断言すべきではない」という趣旨である。
言いたいことはわかる。でも「無自覚な差別」がある以上、この主張は通用しない。
差別というのは、「状況を踏まえてどう見えるか」で判断されるものだから。
ロバート・ダウニーJr.が壇上の全員と握手をしなかったら、それは差別ではない。でもアジア系の俳優のみを無視したとなれば、差別に「見える」。
なぜそう判断されるかといえば、わたしや上記で紹介したポストのように、似たような経験をして「差別された」と傷ついた人がたくさんいるからだ。
ナチュラルにアジア人を見下している人なんて、本当にどこにでもいるからね。
レストランで奥の狭い席に通されたとか、列で順番を抜かされたとか、聞き飽きるくらい聞いたよ。やられたこともあるし。
なんでそうするかというと、その人たちにとってアジア人は「そう扱ってもいい存在」だから。視界に入らない、透明人間だから。
だから多くの人が声をあげたのだ。
「わたしたちはここにいるぞ!」と。
(ちなみに紹介した記事の筆者の方は、Xのポストで追記しています)
同じ人間として尊重しあおう、というだけの話
断っておきたいのは、この記事を書いた理由は、差別に対して怒りに震えているわけでも、アジア人の1人として義憤に駆られているわけでもない。
わたしの経験を紹介することで、この問題について考える機会が少しでも増えればいいな、という素朴な思いでこの記事を書いている。
ぶっちゃけ、アジア人に対して内心どう思ってようが、それは個人の自由だ。人の心までは縛れない。
しかし「どう見えるか」は重要で、意図がどうであろうと、「差別」と捉えかねない言動はすべきではない。それが、多様性を掲げた世界で生きる、わたしたちのルールだ。
もっと簡単に言えば、わたしもあなたも同じ人間としてお互いを尊重しよう、というだけ。
グループワークで苦い思いをしたわたしはその後、「外国人として生きていくなら強くあろう」と決めた。
わたしを無視した医者には、最後に「患者はわたしなのに無視されて不愉快でした。ほかの先生を探します」と言って退室した。
わたしは、透明人間なんかじゃないから。
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【著者プロフィール】
名前:雨宮紫苑
91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&
ハロプロとアニメが好きだけど、
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