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東京都調布市、三鷹市、府中市の三市にまたがって存在した軍用飛行場、調布陸軍飛行場跡を歩いてきました。
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東京都調布市、京王線に乗って飛田給駅にやってきました。
他府県在住の方などに、たまに読み方を聞かれる飛田給(とびたきゅう)駅。
この駅の北側には東京都営の調布飛行場がありますが、この飛行場は昭和16(1941)年に設置された軍用飛行場「調布陸軍飛行場」を原型としています。
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飛田給駅の北を走る甲州街道を府中駅方向へ歩いていくと、甲州街道の側道沿いに調布陸軍飛行場の掩体壕「白糸台掩体壕」が保存されています。
調布陸軍飛行場の周辺にはアジア・太平洋戦争後期の昭和19(1944)年6月から9月にかけ、飛行場の航空機を敵の空爆から防御する掩体壕が無蓋のもの約100基、有蓋のもの約30基、計約130基造られたという。
現在も残るこの白糸台掩体壕は、静かな住宅地の中にいきなり現れるので驚く人も多いのではないでしょうか。
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かつて調布陸軍飛行場の飛行機が、忍者のように身を隠していた白糸台掩体壕の内部。
よく見ると飛行機を格納する正面の洞口だけでなく、その反対側にも穴が開いています。
爆風逃がしとか排水のためですかね。
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白糸台掩体壕から甲州街道を横断し、その北側にある府中市立白糸台小学校の北面には有蓋掩体壕「朝日町掩体壕」が工場に同化するように残っています。
こちらは戸建住宅に囲まれた場所に位置しており、白糸台掩体壕より隠れている感があります。
調布陸軍飛行場の掩体壕は敗戦後にその多くが取り壊され、府中市内にはもうこの2基しか残っていないとのことです。
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朝日町掩体壕から東へ500メートルほど歩くと、府中市朝日町を南北に走る朝日町通りに出ました。
朝日町通り沿いには北区西ヶ原の海軍下瀬火薬製造所跡地から移転してきた東京外国語大学、陸軍中野学校跡地から移転してきた警察大学校・警視庁警察学校の施設が建ち並んでいます。
この場所もかつての調布陸軍飛行場の軍用地でしたので、これら3つの施設は旧軍用地から旧軍用地へと移ってきた形になりますね。
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東京外国語大学等の東側は、調布市、府中市、三鷹市の3市にまたがる都立武蔵野の森公園が広がっています。
武蔵野の森公園の敷地も、かつての調布陸軍飛行場の軍用地内にあたります。
敗戦後は米軍が進駐し、昭和48(1973)年に全面返還されるまで米軍調布基地や関東村住宅地区となっていました。
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武蔵野の森公園の北端には、今は使われていない玉石張りの水路が東側を流れる野川方向に向かって延びています。
この玉石張りの水路は、調布陸軍飛行場への水の侵入防止のため、また周壁に代用するために当時の東京市が36万円(現在の価値で約1億3千万円)をかけ建設したものだそうです。
玉石は多摩川から採取されたもので、西武鉄道場内引き込み線でここまで運びこまれ、構築作業は大部分が刑務所受刑者によって行われたという。
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玉石張りの水路沿いに武蔵野の森公園を東へ歩いていくと、大沢グラウンド通りに出ました。
大沢グラウンド通り沿い、武蔵野の森公園の三鷹市域にあたる場所に、掩体壕が2基保存されています。
こちらは大沢2号掩体壕と呼ばれる有蓋掩体壕で、調布陸軍飛行場に配備されていた陸軍三式戦闘機「飛燕」等、陸軍の戦闘機を爆撃から守っていました。
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こちらは大沢2号掩体壕から大沢グラウンド通りを150mほど南下したところにある大沢1号掩体壕。
壕口が封鎖されており、壁には陸軍三式戦闘機「飛燕」の絵が描かれています。
掩体壕は主に「飛燕」用に造られていたと言われ、掩体壕の大きさは飛燕と同じ規格で造られているという。
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大沢1号掩体壕から大沢グラウンド通りを南東へ約1km、徒歩約13分の位置には調布陸軍飛行場の門柱が残されています。
調布陸軍飛行場にはアジア・太平洋戦争中、飛行第244戦隊が本拠として展開し、首都圏の防空の任を負っていました。
アジア・太平洋戦争後期、飛行第244戦隊の「飛燕」は帝都上空へ来襲するアメリカ陸軍戦略爆撃機B29の迎撃にあたり、空対空体当たり攻撃を行うなど帝都防空戦を戦っています。
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門柱に掲げられた「東京調布飛行場」の表札。
誰がいたずらをしたのか、「東亰調布飛行場(亰は京の異字体)」のはずが、一本縦線がいれられ「東東調布飛行場」になっています。
いたずらは当然けしからんものですが、うまくやりおったなという気がしなくもありません。
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大戦中その俊敏軽妙さから、青空を截って飛ぶ燕に似ていると言われた陸軍三式戦闘機「飛燕」を、帝都上空へ飛び立たせた調布陸軍飛行場。
しかしアジア・太平洋戦争末期、硫黄島が陥落してアメリカ軍のB29に護衛戦闘機P51マスタングがつくようになると、その性能差から飛燕によるB29迎撃は困難なものとなっていきました。
やがて飛行第244戦隊が沖縄沖への特攻機支援のため鹿児島の知覧へと移転すると、燕のいなくなった調布陸軍飛行場は昭和20(1945)年5月25日、空襲をうけて関連施設が焼失、燕の巣は壊滅してしまいました。
(訪問月2020年10月)