東京都武蔵村山市三ツ木の軍事遺跡、多摩陸軍飛行場三ツ木地区防空壕跡を歩いてきました。

虫の苦手な、すっかり都会っ子になってしまった子供たちを連れて、武蔵村山市の野山北公園にやってきました。
野山北公園の東側には「あそびの森」という、山の斜面を利用したアスレチックがあり、自然と親しみながら身体を動かすことができます。
「あそびの森」の目玉は、丘陵の中を走るスピードの速い滑り台で、これを目当てに来たのですが、訪問時は故障していたのか使用中止で子供たちはブーブー言ってました。

さて、こちらは野山北公園の管理所にあった、公園の地図です。
東側にある「あそびの森」から、遊歩道を西方へ進んでいくと管理所があり、管理所からさらに西へ進んだところに表示されている「赤坂谷戸」には、アジア・太平洋戦争中に構築された防空壕の跡が残っているという。
「三ツ木地区防空壕跡」と呼ばれるこの軍事遺跡を見に、子供たちと森林の中を赤坂谷戸まで歩いてきました。
丘陵地帯が雨や湧き水などによって浸食された谷状の地形、谷戸。
赤坂谷戸の道は、丘陵の側面を歩ける「誰でも里山コース」という整備された遊歩道になっていて、子供の足でも歩きやすくなっています。
壕というものは大抵、灌木の茂みの後ろに掘ってあるものといいますが、その例にもれずこの丘陵の樹林の中にも、防空壕が隠されています。

遊歩道から丘陵の斜面を見ていくと、時折古いフェンスが設けられている箇所が発見できます。
上部に鉄条網までつけられた物々しいこのフェンスは、丘陵の斜面地に構築された防空壕への立ち入りを防止するために設けられたものです。
土砂の流入や灌木によってわかりにくくなっている防空壕跡ですが、フェンスを探せば発見しやすくなっています。

フェンスの中には防空壕が、黒々とした口をぽっかりと空けています。
谷戸という地形のためか、丘陵の土はかなり脆くなっているように見え、今にも崩落してしまいそうです。
しかしなぜこんな里山の中に、軍は複数の防空壕を作ったのでしょうか。

続いて赤坂谷戸の「誰でも里山コース」を、赤坂駐車場方向に向かって歩いていきます。
「うわっ、虫がいる!」自分よりもはるかに小さい小虫にビビりながら、「誰でも里山コース」を歩く子供たち。
まあ確かに右手に沼があるためか、この辺りは虫が多い感じでした。

沼の上には木製橋が渡してあって、その橋を渡ったところに、わかりやすい防空壕跡がありました。
赤坂谷戸の防空壕は人間のためのものではなく、航空機用の燃料等を備蓄するための壕、あるいは航空機そのものを避難させる掩体壕であったという。
アジア・太平洋戦争の末期、帝都東京は連日のように空襲にさらされており、特に飛行場は真っ先に狙われる軍事施設だったといえるでしょう。

フェンスの前には、「三ツ木地区防空壕跡」の解説板が立っていました。
解説によれば、これらの防空壕跡は、現在の米軍横田基地の前身である多摩陸軍飛行場等の防空壕であるという。
多摩陸軍飛行場とは、立川陸軍飛行場の付属施設として昭和15(1940)年に建設された飛行場で、新鋭戦闘機を筆頭とする各種航空兵器の審査が行われており、日本本土空襲が常態化した戦争末期には防空のための飛行部隊が駐留していました。

今の壕口の大きさからはいまいち想像がつきませんが、帝都を守る日本陸軍は太平洋戦争後期、きたるべき本土決戦に向けて、この壕の中に航空兵器の物資、あるいは航空機本体を隠していた、という理解でいいのでしょう。
しかし軍需物資の保管・備蓄のための地下壕は、湿気のために金属が錆びてしまうなど難点があり、湿気対策は必須だったとされています。
谷戸という、現在でもいかにも水気の多いこの場所が、はたして物資の保管場所として適切なのかと疑問に思いましたが、当時はもう、そんな余裕もなくなっていたんでしょうねえ…。
(訪問月2022年5月)
虫の苦手な、すっかり都会っ子になってしまった子供たちを連れて、武蔵村山市の野山北公園にやってきました。
野山北公園の東側には「あそびの森」という、山の斜面を利用したアスレチックがあり、自然と親しみながら身体を動かすことができます。
「あそびの森」の目玉は、丘陵の中を走るスピードの速い滑り台で、これを目当てに来たのですが、訪問時は故障していたのか使用中止で子供たちはブーブー言ってました。
さて、こちらは野山北公園の管理所にあった、公園の地図です。
東側にある「あそびの森」から、遊歩道を西方へ進んでいくと管理所があり、管理所からさらに西へ進んだところに表示されている「赤坂谷戸」には、アジア・太平洋戦争中に構築された防空壕の跡が残っているという。
「三ツ木地区防空壕跡」と呼ばれるこの軍事遺跡を見に、子供たちと森林の中を赤坂谷戸まで歩いてきました。
丘陵地帯が雨や湧き水などによって浸食された谷状の地形、谷戸。
赤坂谷戸の道は、丘陵の側面を歩ける「誰でも里山コース」という整備された遊歩道になっていて、子供の足でも歩きやすくなっています。
壕というものは大抵、灌木の茂みの後ろに掘ってあるものといいますが、その例にもれずこの丘陵の樹林の中にも、防空壕が隠されています。
遊歩道から丘陵の斜面を見ていくと、時折古いフェンスが設けられている箇所が発見できます。
上部に鉄条網までつけられた物々しいこのフェンスは、丘陵の斜面地に構築された防空壕への立ち入りを防止するために設けられたものです。
土砂の流入や灌木によってわかりにくくなっている防空壕跡ですが、フェンスを探せば発見しやすくなっています。
フェンスの中には防空壕が、黒々とした口をぽっかりと空けています。
谷戸という地形のためか、丘陵の土はかなり脆くなっているように見え、今にも崩落してしまいそうです。
しかしなぜこんな里山の中に、軍は複数の防空壕を作ったのでしょうか。
続いて赤坂谷戸の「誰でも里山コース」を、赤坂駐車場方向に向かって歩いていきます。
「うわっ、虫がいる!」自分よりもはるかに小さい小虫にビビりながら、「誰でも里山コース」を歩く子供たち。
まあ確かに右手に沼があるためか、この辺りは虫が多い感じでした。
沼の上には木製橋が渡してあって、その橋を渡ったところに、わかりやすい防空壕跡がありました。
赤坂谷戸の防空壕は人間のためのものではなく、航空機用の燃料等を備蓄するための壕、あるいは航空機そのものを避難させる掩体壕であったという。
アジア・太平洋戦争の末期、帝都東京は連日のように空襲にさらされており、特に飛行場は真っ先に狙われる軍事施設だったといえるでしょう。
フェンスの前には、「三ツ木地区防空壕跡」の解説板が立っていました。
解説によれば、これらの防空壕跡は、現在の米軍横田基地の前身である多摩陸軍飛行場等の防空壕であるという。
多摩陸軍飛行場とは、立川陸軍飛行場の付属施設として昭和15(1940)年に建設された飛行場で、新鋭戦闘機を筆頭とする各種航空兵器の審査が行われており、日本本土空襲が常態化した戦争末期には防空のための飛行部隊が駐留していました。
今の壕口の大きさからはいまいち想像がつきませんが、帝都を守る日本陸軍は太平洋戦争後期、きたるべき本土決戦に向けて、この壕の中に航空兵器の物資、あるいは航空機本体を隠していた、という理解でいいのでしょう。
しかし軍需物資の保管・備蓄のための地下壕は、湿気のために金属が錆びてしまうなど難点があり、湿気対策は必須だったとされています。
谷戸という、現在でもいかにも水気の多いこの場所が、はたして物資の保管場所として適切なのかと疑問に思いましたが、当時はもう、そんな余裕もなくなっていたんでしょうねえ…。
(訪問月2022年5月)
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