東京都立川市高松町の軍事遺跡、立川飛行機株式会社跡を歩いてきました。

子供たちを連れて、三井ららぽーと立川立飛店にやってきました。
三井ららぽーと立川立飛店は、株式会社立飛ホールディングスが三井不動産との協業で、多摩都市モノレール立飛駅の周辺に拡がる広大な立飛グループの敷地に2015年に開業したショッピングモールです。

ショッピングモールの目の前は多摩都市モノレールの立飛駅で、駅名は立飛グループの立飛からきています。
立飛駅の周辺はすべて立飛グループの敷地で、グループ敷地は多摩都市モノレールの隣駅・高松駅にまで及ぶという広大っぷりです。
立飛グループの敷地は、モノレールを挟んでららぽーと側が東地区、反対側が西地区、高松駅の南東側が南地区等という区分けになっているようです。
多摩都市モノレール高松駅の南東方向に拡がる南地区には、かつてのアジア・太平洋戦争中、軍用機を生産していた、立川飛行機株式会社会社の工場がありました。
上の地図は昭和12(1937)年の頃のこの付近の地図と、今の地図を並べたもので、今の高松駅の南東側(立飛グループ南地区)には、当時から大きな建物が建ち並んでいたことがわかります(地図は「今昔マップ on the web」から抜粋)。
南地区は、現在では立飛グループの不動産を他の企業に貸し出す不動産賃貸業が行われていて、通運会社等が入居しているようです。

南地区の高松駅前道路沿いには、「立飛企業株式会社発祥之地」と刻まれた高さ3メートルほどの白い石碑が建っています。
ここにいう「立飛企業」とは、「立川飛行機株式会社」が敗戦でアメリカ軍に接収された後に、名前を変えて存続した企業でした。
つまりこの石碑は、南地区が立川飛行機株式会社の創設された場所であったことを示しています。

「立飛企業株式会社発祥之地」の碑の奥に、白いコンクリート造りの塔が建っています。
この塔は立川飛行機株式会社の各工場に配水をしていた給水塔で、昭和13(1938)年に建造されたものだという。
窓のない最上階が水を貯める水槽になっていて、水槽の内容量は50トン、平成17(2005)年まで使用されていたそうです。

立川飛行機というと、九九式高等練習機等の練習機の開発・生産や、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の移管生産で知られていますが、あまり知られていないところでは、東大航空研究所とともに設計・開発した、長大な航続距離を持つ陸軍機キ77があります。
写真はWikipediaから抜粋したキ77です。
昭和19(1944)年7月、立川飛行機が試作した陸軍機キ77第一号機は、当時満州国だった新京、ハルビン、白城子の三点を結ぶ三角コースを飛翔し続け、その飛行距離は16,235キロメートルに及び、それまでの世界記録だったイタリアのサボイア・マルケッティSMー82型の12,935キロメートルを大幅に破ったという。

戦時であったために非公認記録となりましたが、この記録は、昭和44(1969)年にアメリカのボーイングB52Hが作った18,245キロメートルの飛行距離記録が出るまで破られなかったというから、当時の立川飛行機の航空技術の高さを示していると言えるでしょう。
惜しむらくは、敗戦によって航空機産業が停止させられ、サンフランシスコ講和条約によってやっと解禁となった時には、その技術が時代遅れのものとなってしまったことでしょうか。
解禁後、再度飛行機を開発したものの、往時の航空産業を取り戻すことはできず、現在立川飛行機は、不動産賃貸業を主力事業とする「立飛ホールディングス」となっています。
(訪問月2022年5月)
子供たちを連れて、三井ららぽーと立川立飛店にやってきました。
三井ららぽーと立川立飛店は、株式会社立飛ホールディングスが三井不動産との協業で、多摩都市モノレール立飛駅の周辺に拡がる広大な立飛グループの敷地に2015年に開業したショッピングモールです。
ショッピングモールの目の前は多摩都市モノレールの立飛駅で、駅名は立飛グループの立飛からきています。
立飛駅の周辺はすべて立飛グループの敷地で、グループ敷地は多摩都市モノレールの隣駅・高松駅にまで及ぶという広大っぷりです。
立飛グループの敷地は、モノレールを挟んでららぽーと側が東地区、反対側が西地区、高松駅の南東側が南地区等という区分けになっているようです。
多摩都市モノレール高松駅の南東方向に拡がる南地区には、かつてのアジア・太平洋戦争中、軍用機を生産していた、立川飛行機株式会社会社の工場がありました。
上の地図は昭和12(1937)年の頃のこの付近の地図と、今の地図を並べたもので、今の高松駅の南東側(立飛グループ南地区)には、当時から大きな建物が建ち並んでいたことがわかります(地図は「今昔マップ on the web」から抜粋)。
南地区は、現在では立飛グループの不動産を他の企業に貸し出す不動産賃貸業が行われていて、通運会社等が入居しているようです。
南地区の高松駅前道路沿いには、「立飛企業株式会社発祥之地」と刻まれた高さ3メートルほどの白い石碑が建っています。
ここにいう「立飛企業」とは、「立川飛行機株式会社」が敗戦でアメリカ軍に接収された後に、名前を変えて存続した企業でした。
つまりこの石碑は、南地区が立川飛行機株式会社の創設された場所であったことを示しています。
「立飛企業株式会社発祥之地」の碑の奥に、白いコンクリート造りの塔が建っています。
この塔は立川飛行機株式会社の各工場に配水をしていた給水塔で、昭和13(1938)年に建造されたものだという。
窓のない最上階が水を貯める水槽になっていて、水槽の内容量は50トン、平成17(2005)年まで使用されていたそうです。
立川飛行機というと、九九式高等練習機等の練習機の開発・生産や、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の移管生産で知られていますが、あまり知られていないところでは、東大航空研究所とともに設計・開発した、長大な航続距離を持つ陸軍機キ77があります。
写真はWikipediaから抜粋したキ77です。
昭和19(1944)年7月、立川飛行機が試作した陸軍機キ77第一号機は、当時満州国だった新京、ハルビン、白城子の三点を結ぶ三角コースを飛翔し続け、その飛行距離は16,235キロメートルに及び、それまでの世界記録だったイタリアのサボイア・マルケッティSMー82型の12,935キロメートルを大幅に破ったという。
戦時であったために非公認記録となりましたが、この記録は、昭和44(1969)年にアメリカのボーイングB52Hが作った18,245キロメートルの飛行距離記録が出るまで破られなかったというから、当時の立川飛行機の航空技術の高さを示していると言えるでしょう。
惜しむらくは、敗戦によって航空機産業が停止させられ、サンフランシスコ講和条約によってやっと解禁となった時には、その技術が時代遅れのものとなってしまったことでしょうか。
解禁後、再度飛行機を開発したものの、往時の航空産業を取り戻すことはできず、現在立川飛行機は、不動産賃貸業を主力事業とする「立飛ホールディングス」となっています。
(訪問月2022年5月)
コメント