東京都調布市深大寺の植物公園、神代植物公園を歩いてきました。

子供たちを連れて、夏の暑い盛り、調布市の神代植物公園にやってきました。
完全に訪問時期を間違ってしまったようで、電車のつり広告などでよく見かける、有名なバラ園にほとんどバラが咲いていませんでした。
少し前にくりはま花の国に行ったときもそうでしたが、夏に花は見にいくものじゃありませんね。

神代植物公園は1961(昭和36)年の開園ですが、そのルーツは第二次世界大戦期に造成された防空緑地「神代緑地」です。
1939(昭和14)年、当時の東京市の外周に環状緑地帯計画が策定され、翌年には皇紀2600年の記念事業という名目で6か所に大緑地が造成されました。
神代緑地(現神代植物公園)のほか、現在の舎人公園、水元公園、小金井公園、砧公園、篠崎公園がそれに該当し、空襲に対する延焼防止等が目的のひとつになったことから、これら大緑地は当時「防空大緑地」と総称されていたという。

神代緑地は、1941(昭和16)年度までに71ヘクタールの買収が完了したものの、戦争の長期化とともに、深刻化した食糧不足を補うために、1943(昭和18)年の段階で総面積の53%が耕作地に変わっていたとされています。
アジア・太平洋戦争の敗戦後、神代緑地は1946(昭和21)年からサツマイモ苗の生産に取り組んだというから、戦時中神代緑地で栽培されていたのは、大きいばかりで味がないと言われる、1942(昭和17)年に「かんしょ農林一号」と名付けられた戦時型のサツマイモだったのかもしれません。
ちなみに戦時中日本兵としてニューブリテン島で連合軍と戦い、戦後は調布のこの付近に居宅を構えた漫画家の水木しげるさんは、戦争中食べた「かんしょ農林一号」を「世界で一番まずい芋」と語っています。
バラ園を堪能することはできませんでしたが、その奥には全面ガラス張りの大温室があり、熱帯の植物を堪能できました。
熱帯の植物といえば、アジア・太平洋戦争中、兵站を軽視していた日本軍の各部隊が、飢えをしのぐために口にしていたという印象です。
この大温室にも、熱帯の果実が栽培されていました。

熱帯の果実として、もっともメジャーなバナナです。
日本軍の食糧不足は慢性的・全軍的なもので、例えば、フィリピンの日本軍が遠くに所属不明の部隊を発見し、敵かどうかの判断に迷ったものの、すぐ芋掘りを始めたのでそれで友軍とわかって安心したという戦記を読んだことがあります。
出版されているフィリピンの戦記などを読んでみると、確かに多くの将兵が芋掘り等をしていて、フィリピンの木芋は現地語でカテモカホイといい、焼けばホクホクしてサツマイモに近い味がしたなどと書かれていました。
青く硬いこのバナナも、焼けばイモのようにホクホクした味覚だったと、フィリピンルソン島で戦ったある学徒兵が語っています。

こちらは同じく太平洋戦争の戦場となったインドネシアの、スマトラ島の熱帯雨林に自生するショクダイオオコンニャク。
シデムシをおびき寄せるために腐った肉のような強烈な臭いを放つことで知られる花で、「世界一、高くて臭い」としてギネス認定されているという。
しかし食糧不足に悩んでいた日本軍は、この臭い植物からもコンニャクを作ろうとしたと言われています。

そんな大温室の出口には、パイナップルが並んでいました。
前述の水木しげるさんは、上官からパイナップルの缶詰をもらった際に、缶切りを持っていなかったものの、あまりのパイナップル食べたさに、指の力で缶詰の缶に穴を空けて食べたという。
戦後、再び指で缶詰の缶に穴を空けようとしても決してできなかったというから、当時の日本軍兵士の食糧事情を表す重要なエピソードなんでしょうね。

「食料は敵の腹中にあり。欲しくば敵を撃滅せよ」これが天皇の軍隊である皇軍の本領で、日本軍上層部は兵隊にろくな食糧を供給しなかった、というより、国が貧しくてできなかった、とされています。
日本兵たちは、遠いニューギニアで連合軍の食糧を奪ったところ、食生活がニューギニアの山中へ来て内地よりも程度が高くなったという皮肉を感じるとともに、連合軍と大日本帝国のはじめから勝負にならない文明の差を端的に見せつけられる思いがしたという。
前述の水木しげるさんも、戦地で連合軍から食糧の缶(レーション)を奪い取った際、「なかには一食が全部かんづめでビフテキから野菜、パンからコーヒー、デザートの果物までセットされているのに大いにおどろいた。我々のめし茶わんに1パイくらいと毎日しょうゆ汁とは大いに違っていた…」と当時の思いを振り返っており、アジア・太平洋戦争は、戦う前からすでに負けていた戦争だったと言えるのかもしれない。
(訪問月2022年8月)
子供たちを連れて、夏の暑い盛り、調布市の神代植物公園にやってきました。
完全に訪問時期を間違ってしまったようで、電車のつり広告などでよく見かける、有名なバラ園にほとんどバラが咲いていませんでした。
少し前にくりはま花の国に行ったときもそうでしたが、夏に花は見にいくものじゃありませんね。
神代植物公園は1961(昭和36)年の開園ですが、そのルーツは第二次世界大戦期に造成された防空緑地「神代緑地」です。
1939(昭和14)年、当時の東京市の外周に環状緑地帯計画が策定され、翌年には皇紀2600年の記念事業という名目で6か所に大緑地が造成されました。
神代緑地(現神代植物公園)のほか、現在の舎人公園、水元公園、小金井公園、砧公園、篠崎公園がそれに該当し、空襲に対する延焼防止等が目的のひとつになったことから、これら大緑地は当時「防空大緑地」と総称されていたという。
神代緑地は、1941(昭和16)年度までに71ヘクタールの買収が完了したものの、戦争の長期化とともに、深刻化した食糧不足を補うために、1943(昭和18)年の段階で総面積の53%が耕作地に変わっていたとされています。
アジア・太平洋戦争の敗戦後、神代緑地は1946(昭和21)年からサツマイモ苗の生産に取り組んだというから、戦時中神代緑地で栽培されていたのは、大きいばかりで味がないと言われる、1942(昭和17)年に「かんしょ農林一号」と名付けられた戦時型のサツマイモだったのかもしれません。
ちなみに戦時中日本兵としてニューブリテン島で連合軍と戦い、戦後は調布のこの付近に居宅を構えた漫画家の水木しげるさんは、戦争中食べた「かんしょ農林一号」を「世界で一番まずい芋」と語っています。
バラ園を堪能することはできませんでしたが、その奥には全面ガラス張りの大温室があり、熱帯の植物を堪能できました。
熱帯の植物といえば、アジア・太平洋戦争中、兵站を軽視していた日本軍の各部隊が、飢えをしのぐために口にしていたという印象です。
この大温室にも、熱帯の果実が栽培されていました。
熱帯の果実として、もっともメジャーなバナナです。
日本軍の食糧不足は慢性的・全軍的なもので、例えば、フィリピンの日本軍が遠くに所属不明の部隊を発見し、敵かどうかの判断に迷ったものの、すぐ芋掘りを始めたのでそれで友軍とわかって安心したという戦記を読んだことがあります。
出版されているフィリピンの戦記などを読んでみると、確かに多くの将兵が芋掘り等をしていて、フィリピンの木芋は現地語でカテモカホイといい、焼けばホクホクしてサツマイモに近い味がしたなどと書かれていました。
青く硬いこのバナナも、焼けばイモのようにホクホクした味覚だったと、フィリピンルソン島で戦ったある学徒兵が語っています。
こちらは同じく太平洋戦争の戦場となったインドネシアの、スマトラ島の熱帯雨林に自生するショクダイオオコンニャク。
シデムシをおびき寄せるために腐った肉のような強烈な臭いを放つことで知られる花で、「世界一、高くて臭い」としてギネス認定されているという。
しかし食糧不足に悩んでいた日本軍は、この臭い植物からもコンニャクを作ろうとしたと言われています。
そんな大温室の出口には、パイナップルが並んでいました。
前述の水木しげるさんは、上官からパイナップルの缶詰をもらった際に、缶切りを持っていなかったものの、あまりのパイナップル食べたさに、指の力で缶詰の缶に穴を空けて食べたという。
戦後、再び指で缶詰の缶に穴を空けようとしても決してできなかったというから、当時の日本軍兵士の食糧事情を表す重要なエピソードなんでしょうね。
「食料は敵の腹中にあり。欲しくば敵を撃滅せよ」これが天皇の軍隊である皇軍の本領で、日本軍上層部は兵隊にろくな食糧を供給しなかった、というより、国が貧しくてできなかった、とされています。
日本兵たちは、遠いニューギニアで連合軍の食糧を奪ったところ、食生活がニューギニアの山中へ来て内地よりも程度が高くなったという皮肉を感じるとともに、連合軍と大日本帝国のはじめから勝負にならない文明の差を端的に見せつけられる思いがしたという。
前述の水木しげるさんも、戦地で連合軍から食糧の缶(レーション)を奪い取った際、「なかには一食が全部かんづめでビフテキから野菜、パンからコーヒー、デザートの果物までセットされているのに大いにおどろいた。我々のめし茶わんに1パイくらいと毎日しょうゆ汁とは大いに違っていた…」と当時の思いを振り返っており、アジア・太平洋戦争は、戦う前からすでに負けていた戦争だったと言えるのかもしれない。
(訪問月2022年8月)
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