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宮城県仙台市宮城野区の軍事遺跡、陸軍歩兵第四連隊兵舎跡を歩いてきました。
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子供たちを連れ、仙台宮城野区の榴岡公園内にある仙台市歴史民俗資料館に行ってきました。
仙台市歴史民俗資料館は、木造二階建て寄棟造瓦葺、壁は漆喰塗り、建物の角隅にコーナーストーンを装飾し、ガラス入り上げ下げ窓や洋風円柱のポーチなどの特徴がみられる建物です。
この建物は、1874(明治7)年9月の完成とみられ、1945(昭和20)年のアジア・太平洋戦争の敗戦まで旧大日本帝国陸軍が兵舎として約70年間使用していた「陸軍歩兵第四連隊兵舎」です。
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上写真は仙台市歴史民俗資料館内に展示されていた1933(昭和8)年発行の仙台市の榴岡公園周辺地図です。
旧陸軍歩兵第四連隊は、現在の仙台市宮城野区五輪の榴岡公園の大部分とその北側周辺を含む地域に駐屯していました。
敗戦後、この歩兵第四連隊跡地には1956(昭和31)年まで米軍が駐留して兵舎を米軍が使用、その後1975(昭和50)年まで東北管区警察学校として使用されました。
現在は他の歩兵第四連隊兵営の建造物が解体されていく中で、この建物だけが資料館として残されています。
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2023年3月24日に、新たに宮城県有形文化財(建造物)に指定されるなど、展示物だけでなく建物も価値ある仙台市歴史民俗資料館。
しかし県外から訪れる人は少ないのか、入館時に、お子さんたちはどちらの小学校ですかと聞かれた際、東京の小学校ですと答えたらとても驚かれ、この暑い中わざわざ来ていただきありがとうございますと言われました。
やっぱりこういう資料館て、あまり人が来ないんですかねえ…。
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資料館1階は受付窓口とロビーになっており、常設展示室や企画展示室があるのは2階です。
近衛師団司令部庁舎などと比べ、階段に窓が少なく、ちょっと暗い印象でした。
しかし建築当時としてはモダンな建物で、宮城県内の洋風建築としては最初のものだという。
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階段の側面には、和風雲の形をした彫りも入っています。
和風雲刳型という装飾のようです。
現代では無駄なものとして切り捨てられそうですが、昔の日本には、こういう目立たない階段一段一段の側面に、このような凝った装飾を施そうという職人が多かったんでしょうね。
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2階に到着すると、子供たちはさっそく常設展示室に行き、窓口でもらった「夏休みクイズラリー2023」の館内クイズにチャレンジし始めました。
子連れだとゆっくり展示を見れないものですが、こういう子供向けクイズラリーをやってもらえると子供たちはそっちに夢中になって、親は解放されるのでありがたいものです。
全部で五つのクイズがあって、全問正解すると景品が一つもらえるのですが、遠くから来たのを労ってくれたのか息子は景品を二つ貰っていました。
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常設展示室の隣には、内務班の復元室内や戦時資料を展示した四連隊コーナーという小さいながらも歩兵第四連隊に関する展示室があります。
歩兵第四連隊、及びその上級組織である陸軍第二師団というと、アジア・太平洋戦争ではガダルカナル島の戦いでしょうか。
1942(昭和17)年8月、アメリカとオーストラリアの分断等を目的として建設していたガダルカナル島の飛行場をアメリカ海兵隊に占領された日本軍は、陸軍の一木支隊、続いて川口支隊を投入してこれを奪い返そうとしたものの、拙速を重んじた攻撃は失敗し、さらに歩兵第四連隊を含む第二師団がこの戦いに投入されました。
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第二師団による米軍ガダルカナル基地攻撃は、さきに行われた一木支隊、川口支隊による2度の攻撃失敗を踏まえ、十分に準備し態勢を整えてから一挙に決戦を強いるはずでした。
しかしその準備は、ジャングルという自然の障害を軽視したために、敵陣前においてまたも戦列を整えることができず、結局各部隊はバラバラに攻撃することになってしまいました。
結果、第二次総攻撃は失敗しただけでなく、アメリカ軍基地の占領によって敵の食糧等を奪えると判断していた日本軍の甘い目論見は外れ、以後の食糧・弾薬の補給不足は深刻化し、ガダルカナル島(ガ島)はさながら「飢島」の様相を呈したという。
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こちらは初年兵教育期間中において、その取扱いに些細な粗相でもあると、天皇の名において厳しい肉体的制裁が加えられたという小銃。
しかしこの小銃も、「餓島」となったガダルカナル島においては、ジャングルに捨てられることなったという。
当時の天皇の神聖性も、飢餓という脅威の前には、その力を発揮することはできなかったようです。
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しかし小銃は捨てても、兵隊が捨てなかったのが飯盒でした。
飯盒は食器であり、食器を使うのは人間だけであり、したがって食器を捨てることは人間ではなく一匹の獣になることと同義であったという。
人肉を喰らう者もあったという餓島ですが、兵士たちは極限の飢餓においても飯盒を持ち続けることで、可能な限り人間でいようとしたのでしょうか。
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しかし大日本帝国は、そうした極限状態に兵隊が陥っても、敵の捕虜となることを許さない国でした。
一人で歩くことができず、撤収できない第二師団の傷病兵は、軍の撤収行動の邪魔となるから、小銃で、手榴弾で、あるいは部隊によっては昇こう錠の服毒で覚悟の自決をし、あるいはさせられていったという。
そうした非命に散った兵士たちを、大日本帝国は殉国勇士として讃え、その遺族の家を「殉国勇士の家」として戦争の遂行のために祀り上げたというから、戦争の虚しさを感じざるを得ない。
(訪問月2023年8月)