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福島県いわき市勿来町の風船爆弾打ち上げ基地、東部第12309部隊勿来基地跡を歩いてきました。
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上の写真は江戸東京博物館で撮った風船(気球)爆弾の復元模型です。
風船爆弾は、旧日本軍がアメリカ本土攻撃のために開発した純国産兵器であり、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器で、この兵器を使って米本土を攻撃した作戦をふ号作戦といいました。
陸軍によって秘密裡に開発・製造された風船爆弾は、太平洋沿岸に作られた三か所の打ち上げ基地より、1944(昭和19)年11月から翌年4月にかけて9000個あまりが打ち上げられ、偏西風に乗って300個弱がアメリカ大陸に到達して山火事等を起こすとともに、オレゴン州では6人が犠牲になったという。
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前述の風船爆弾の打ち上げ基地には、千葉県の一宮、茨城県の大津、そして福島県の勿来が選ばれ、今もその遺構が見られるという。
というわけで、その遺構を見学にJR常磐線の駅、勿来(なこそ)駅前にやってきました。
ちょっと早い時間にやってきたせいか、駅前には誰もいませんでしたね。
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勿来駅のすぐ南にある跨線橋からは、ふ号作戦のために風船爆弾打ち上げ基地が造られたという山間が見えます。
ふ号作戦で風船爆弾を打ち上げるための基地選定に際し、「打ち上げ基地が仙台以南の太平洋岸であること」が絶対条件だったそうです。
場所が仙台以南に限定されたのは、風船爆弾でアメリカ本土を攻撃する計画が決まった時、すでに日本軍は連合軍に対し敗戦続きの劣勢にあり、万が一にも風船爆弾がソ連領土に流れてしまい、ソ連と事を構える事態になることだけは絶対に避けなければならなかったからだという。
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こちらは、ふ号作戦のために建設された勿来基地の縮図です。
勿来基地のすぐ東側を常磐線が走っており、その向こうは太平洋の海岸となっています。
放球基地が海岸のそばに作られたのは、可能な限り米本土の近い場所という理由からだけでなく、気球に吊るすバラスト(和紙製の袋に砂を入れた重り)として使う砂を容易に手に入れられるからという理由もあったそうですね。
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勿来駅の跨線橋を渡り、常磐線の西側を、線路に沿うようにして300メートルほど南下してきました。
上写真の車両進入禁止となっている道の先には、交差する形で常磐線の線路が走っており、この道は先で常磐線の線路下をくぐる地下道になっています。
また、右手のガードレールの下は水路になっています。
上の勿来基地縮図によると、この辺りから、常磐線から打ち上げ基地へ気球や器材を運ぶ引き込み線が敷かれていたようです。
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このコンクリートの構造物は、その引き込み線が水路を越えるために造られた橋台の跡であるという。
ふ号作戦で勿来から放球された大量の気球は、日本各地の軍需工場から常磐線で勿来駅へ、そして勿来駅からこの引き込み線を通って勿来基地へと運びこまれました。
アジア・太平洋戦争当時、陸軍合同会議でふ号作戦が実行可能と決断され、気球の量産と放球基地の選定等が進められたのが1944(昭和19)年3月末のことであるから、この橋台が造られたのもその頃のことであると推測できます。
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橋台の上には、橋を固定していたと思われるボルト痕が残っていました。
常磐線によって運ばれてきた気球は、楮製の和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて造った、直径10mという紙の気球でした。
すでに海外植民地から手に入る物資がほとんどなくなっている中、和紙とこんにゃく糊という、純国産の資源のみによって造られた風船爆弾は、他の軍需品と資源を競合することがなかったため、短期間で約9000発もの気球を製造することができたという。
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「降雨時冠水注意」という警告札がつけられたこちらのコンクリートも、当時の橋台跡のようです。
日本中の和紙製造業者が作った和紙を、こんにゃく糊を使って貼り合わせたのは、男たちが根こそぎ戦場に動員された中、銃後を守っていた若い女学生でした。
男の節くれだった指だと和紙の表面に傷をつけてしまい、そこから気球の水素ガスがもれるおそれがあったところ、女性、それも若い女性の柔らかい指先は、和紙の貼り合わせにうってつけだったそうです。
しかし動員された女学生たちは、偏西風に気球をのせる計画にあわせる形で過酷なノルマを課せられ、劣悪な環境と慣れない作業で、文字通り指先に血をにじませて一日何十枚という気球原紙を造ったという。
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縮図の通り、引き込み線の線路跡を辿っていくと、かつて勿来基地の衛兵舎があったという辺りに「風船爆弾基地図」と題した、勿来基地縮図等が載った案内板が立てられています。
風船爆弾の打ち上げ基地は、放球の直後に地上風の影響を受けにくくするために、このような山で遮蔽された場所に建設されました。
これは防諜上の配慮もあったようで、秘密兵器だった風船爆弾は、勿来の住民には公然の秘密だったものの、喋れば憲兵の厳しい検索があるため誰もが口を閉ざして生活していたという。
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ふ号作戦放球部隊の基幹隊員は、航空主兵の時代において、活躍の場がなくなっていた千葉市作草部の気球連隊の将兵でした。
その気球連隊の中からふ号作戦の実行要員として新部隊が再編成され、この部隊は「東部第12309部隊」と呼称され、勿来基地には東部第12309部隊の第三大隊(二個中隊、早川与八大隊長以下六百名)が配置されたという。
この気球隊のほか、勿来基地には、爆弾の信管を扱う砲兵や、爆弾の補給を行う段列要員として歩兵・輜重兵・工兵・はては騎兵までもが集められましたが、寄せ集めであったためあまり士気が高くなかったそうです。
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自らの驕慢によって世界中を敵に回し、連合軍との圧倒的な戦力差から戦争が絶望的となってしまった大日本帝国。
ふ号作戦は、孤立化・戦況の悪化によって人的資源・物的資源が次々と失われゆく中、女学生、和紙、こんにゃく糊といった帝国内に残されたものを根こそぎかき集めて風船爆弾を造り、活躍の場がなくなった気球連隊と、当時その存在がまだ知られていなかった偏西風(神風)によって実行されました。
戦果こそ少なかったものの、絶望的な状況においても持てる物を最大限に活用して最善を尽くし、相手に一矢報いようとしたふ号作戦の記録は、もうちょっと一般に知られてもいいと思います。
(訪問月2023年8月)