静岡県浜松市天竜区の軍事遺跡、陸軍中野学校二俣分校跡を歩いてきました。
現在地は、天竜区二俣町の「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」前です。
かつてこの場所には、アジア・太平洋戦争中のスパイ養成学校として知られる陸軍中野学校の分校「陸軍中野学校二俣分校」がありました。
二俣分校の設立は1944(昭和19)9月、大日本帝国の劣勢はすでに明らかな時期であり、二俣分校は中野学校とは違い、当初からゲリラ戦術、破壊工作の訓練を目的に設立された軍学校でした。
陸軍中野学校二俣分校校趾碑の前には、当時使われていたという渡河訓練船用錨等が置かれています。
渡河訓練とは河川の本流(天竜川)に、鉄船を錨で固定し横に並べ、その上に板を渡し架橋を作るという訓練で、ここにある錨は当時使われていた貴重な一本であるという。
それにしては雨ざらしで保存状態は良好とは言い難く、どこか博物館的なところに移した方がいいんじゃないかなと思った次第です。
渡河訓練船用錨の下には、陸軍の軍用地境界標石も二基、横倒しで並べられていました。
この石柱は、「陸軍中野学校二俣分校笹岡工兵廠舎敷地境界杭」と解説がついています。
1944(昭和19)年9月1日の二俣分校開校の日、この地に歩兵や工兵、砲兵など様々な兵種の見習士官約230人が集合したという。
こちらは校趾碑の横にあった陸軍中野学校二俣分校校趾碑建立之記釈文。
これによると、分校開校から遊撃戦幹部要員として教育を受けたものは四期、800有余名に及ぶという。
また下の方には、分校の構内図なども掲載されていました。
その構内図によると、ここ陸軍中野学校二俣分校校趾碑がある辺りが二俣分校の正門付近であったようです。
水の量は変わったのかもしれませんが、すぐ南側に川があり、正門前に橋があるという地形も今と同じように思われます。
当時、生徒たちは天竜二俣駅から橋を通って正門をくぐったと思われますが、すでに戦局が風雲急を告げていたころ、どのような思いを胸に二俣分校にやってきたのでしょうか。
陸軍中野学校二俣分校校趾碑のすぐ北側にあるこの平屋建ては、構内図から当時の建物ではないかと推測されます。
前記の釈文によると、二俣分校は旧工兵第三連隊の廠舎を選んで開設されたとあるから、二俣分校ではなく工兵第三連隊の建物なのかもしれませんね。
陸軍中野学校二俣分校の出身者として有名なのが、アジア・太平洋戦争の敗戦後もフィリピン・ルパング島で潜伏を続け、1974年に帰国した小野田寛郎さんですかね。
1944(昭和19)年9月、陸軍中野学校二俣分校に入校した小野田寛郎さんは、ここで主に遊撃戦の教育を受け、同年12月にフィリピンに着任、以後約30年にわたって遊撃戦を続けました。
いかに上官の命令とはいえ、約30年間も味方が来るのを待ち続けて戦い続けるなんて、現代の感覚からすれば狂気の沙汰としか思えませんが…。
しかし小野田さんがフィリピンに派遣される直前、つまり日本軍の旗色が極度に悪くなった1944(昭和19)年頃は、「一億玉砕」というのが日本国民の合言葉になっていました。
すなわち、日本が敗北するときは、一億の日本人が一人残らず死んだ時…言い換えれば、たった一人でも日本人が生きている限り、日本は断固として戦うのだというのが合言葉でした。
その合言葉を信じ、戦況が悪かろうが絶望的になろうが、最後まで国のために戦い抜こうとした人々がやってきたのが、この二俣分校であったのかもしれない。
(訪問月2023年10月)
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