IMG_7772
千葉県柏市根戸の軍事遺跡、東部歩兵第83部隊跡を歩いてきました。
IMG_7767
現在地はJR常磐線北柏駅の北北東約1kmの位置にある高野台児童公園です。
この周辺には戦前、帝都東京の防空を担う陸軍高射砲第二連隊が置かれていました。
高野台児童公園の北側入り口には、高射砲第二連隊の営門跡とされる門柱が立っています。
IMG_7761
しかしアジア・太平洋戦争中の1943(昭和18)年、この高射砲第二連隊が東京に移転すると、新たに東部歩兵第83部隊と東部工兵第14部隊という部隊が入ってきて、それぞれ高射砲第二連隊跡地を西側と東側に分けて利用していました。
この高射砲第二連隊の営門も、東部歩兵第83部隊・工兵第14部隊の営門として使われ続け、その時営門には「東部歩兵第八十三部隊」との掛札が出ていたそうです。
東部歩兵第83部隊というのは、近衛歩兵第二師団第五連隊(千葉県佐倉)の補充部隊である東部第64部隊が召集兵を収容しきれないため、さらにその補充部隊として、召集兵を短期間受け入れて促成教育を施し、次々と送り出す臨時編成の部隊だったという。
IMG_7760
こちらは営門のすぐ隣に移設保存された、「高射砲第二連隊」及び「東部歩兵第83部隊・工兵第14部隊」で使われていた歩哨所。
東部歩兵第83部隊に入営する者は軍隊経験のほとんどない初年兵であり、1943(昭和18)年という時期を考えると学徒兵が主であったと思われます。
東部歩兵第83部隊に入営することになった学徒兵は、常磐線我孫子駅から30分ほど歩いてやってきたといい(当時は北柏駅はなかった)、娑婆の常識が一切通じない軍隊生活に不安を抱えながら、この歩哨所の前を通ったことでしょうね。
IMG_7762
営門のすぐ近くには、令和5年3月に柏市教育委員会が設置した案内板があります。
案内板には高射砲第二連隊のことについてはたくさん書かれていますが、東部歩兵第83部隊・工兵第14部隊のことについてはほとんど触れられていません。
解説の末尾に「…その後この敷地を東部14部隊(東側)と東部83部隊(西側)が利用しました。」と、そういえばそんなこともありましたね的に触れられているだけです。
それもちょっと寂しいので、この記事では東部歩兵第83部隊に、次回は東部工兵第14部隊にフォーカスを当てたいと思います。
IMG_7763
案内板の右下には、「兵舎略図」が掲載されていました。
高射砲第二連隊の兵舎略図として掲載されたものと思料されますが、しかしこの略図、図の中に「八三部隊本部」や「十四部隊本部」があるなど、高射砲第二連隊転出後にやってくる部隊の名前が表示されており、高射砲第二連隊兵舎略図とは言えないのでは?と思いました。
高射砲連隊に毒ガス室を配置する必要があるとも思えないし、農耕中隊という謎の中隊があったりして、ちょっとよく分かりませんな。
IMG_7776
こちらは、略図上の「農耕中隊」兵舎南側に走る軍用地境界線に今も残っている陸軍軍用地境界標石。
確かに現在、農地となっている場所の角にある軍用地境界標石なのですが、敵航空機を迎撃する高射砲連隊に「農耕中隊」という部隊があったとは思えず、ならば東部歩兵第83部隊の中隊ですかね?
しかし東部歩兵第83部隊は六つの小銃中隊(武器としては小銃・擲弾筒・軽機関銃)と二つの機関銃中隊(機関銃と歩兵砲隊)、一つの通信中隊から構成される部隊だったというから、やはり農耕中隊は謎です。
IMG_7777
こちらは、略図上の「機関銃中隊」の南側軍用地境界線上にある、道路の中に埋もれてしまったと思わしき軍用地境界標石(推定)。
この機関銃中隊も、なぜ高射砲連隊に機関銃中隊があるのかいまいち分かりません。
通信中隊と並んでいることから、こちらは東部歩兵第83部隊の機関銃第一中隊の兵舎ではないでしょうか。
IMG_7771
というわけで、高射砲第二連隊の兵舎配置図としては不適ではないかと思った略図ですが、その略図に、現存する高射砲第二連隊の建物として載っているのがこの建物です。
1938(昭和13)年ころに建てられた鉄筋コンクリート造りの建物で、「照空予習室及測遠機訓練所」という、高射砲連隊に特有の建物であるという。
この「照空予習室及測遠機訓練所」は間口8メートル、奥行16メートル、高さは10メートルあり、中は吹き抜けになっていて三階建てに相当する建物です。
IMG_7774
「高射砲連隊に特有の建物」である根拠は、建物屋上にあるこの起重機装置(クレーン)の支柱にあります。
高射砲連隊はクレーンでこの建物の屋上に「測遠機」を引き揚げ、飛行機との距離を計測する訓練をしていたという。
このような建物は、ここ柏と加古川の2箇所しか現存しておらず、そのうちクレーンの支柱はこの建物にしか残存していない貴重なものとされています。
IMG_7773
1943(昭和18)年、高射砲第二連隊が東京に移転し跡地に東部歩兵第83部隊が入ってくると、用途のなくなった「照空予習室及測遠機訓練所」は軍馬の餌を保管する「馬糧庫」となったとか。
ちなみに軍馬を使っていたであろう機関銃中隊が使っていた蒲鉾兵舎は、平屋建てで床がない、兵舎とは言えないようなもので、兵たちは踏み固められた土間で起居していたそうです。
日本軍では馬も銃や帯剣と同様兵器であり、それも「活兵器」だから、まずもって馬が第一、初年兵は馬より序列が低かったという。
そうした事情から、東部歩兵第83部隊が入ってきた際、兵舎よりも馬の餌の保管庫の方に、状態の良い建物が当てられてしまったんですかね…。
(訪問月2023年11月)