広島県竹原市忠海町の島、大久野島を歩いてきました。
前回の「広島陸軍兵器補給廠忠海分廠」跡地近くにある忠海港フェリーターミナルから、休暇村客船に乗ってうさぎ島「大久野島」に渡りました。
忠海港から大久野島に渡る手段はこの休暇村客船と大三島フェリーがありますが、チケットは共通でどちらに乗っても構わないようです。
ただし休暇村客船には車を載せることができません。
忠海港から大久野島には、休暇村客船で約15分の道のりです。
瀬戸内海国立公園の一角にあり、500~600羽のうさぎが生息することから人気のリゾート地である大久野島。
しかしこの島は、第二次世界大戦中秘密裏に毒ガスを製造していた島であり、その当時は情報管理のため地図からも抹消されていたという軍事機密の島、そしてそこで働いていた多くの人々が毒ガスの被害に苦しんだ島でした。
休暇村客船は大久野島の第二桟橋に接岸し、桟橋には休暇村の無料シャトルバスが待っています。
桟橋周辺は人の行き来が頻繁にある場所だからでしょうか、大久野島観光の主役であるアナウサギが集まっていました。
慣れているのかアナウサギたちはバスや車を恐れる様子はないので、バスにひかれてしまうんじゃないかとはらはらしましたが、そんな心配は必要なさそうでした。
ウサギは人間よりも視界が広いというし、感覚も鋭いので平気なんでしょうね。
休暇村シャトルバスに乗り、大久野島島唯一の宿泊施設である「休暇村大久野島」本館前まで移動してきました。
休暇村本館前は空けた広場になっていて、ここも宿泊客等で人が多いためか、エサを求めるアナウサギがたむろしていました。
普通小さなうさぎは、大きな人間を見ると警戒して近寄ってこないものでしょうが、大久野島のうさぎは人間から餌をもらいまくっているからでしょうか、人を発見すると猛ダッシュで近づいてきて「餌くれよ」とアプローチしてきます。
ダッシュうさぎといったところですね。
ウサギ慣れしているわけでもない娘でもこのとおり、すぐアナウサギに取り囲まれてしまいました。
娘の方を見ているのではなく、みんなして外側の方向を見ているのがなんかの陣形っぽくて面白かったです。
かわいくて愛らしいうさぎですが、群れの上下関係に厳しい動物として知られており、この形にもなんか意味があるのかもしれません。
大久野島の毒ガス工場は、1927(昭和2)年に設置が決まり、1929(昭和4)年からイペリットガスの実験製造が始まったとされています。
日中戦争がはじまった1937(昭和12)年から1941(昭和16)年頃が毒ガス製造の最盛期であったといわれ、当時の従業員は3000~6000人といわれています。
毒ガス工場においてはイペリットやルイサイトというびらん性の毒ガスが重要な毒ガスとして生産されていましたが、そのほか発煙筒や信号筒などの筒類も製造されていました。
休暇村本館近くに、現在の地図と、毒ガス工場時代のこの付近(三軒家工場群)の地図を重ね合わせた案内板がありました。
その地図によると、休暇村本館の玄関付近は毒ガス工場の「A三号工室」があった場所であり、また、この案内板付近には「A四仏式黄一号工室」があったようです。
この場合における「A」とはびらん剤のことであり、「黄一号」はイペリット、「仏式」はフランス式なので、この付近には毒ガス工場時代、フランス式イペリット製造工場があった、ということになります。
当該案内板の前方は休暇村本館のすぐ西隣に当たる場所であり、ここには毒ガス工場時代の戦争遺跡「三軒家毒ガス貯蔵庫跡」があります。
この二つの穴には毒ガス工場時代、猛毒で皮膚がただれるびらん性の毒ガス「イペリット」が貯蔵されていたという。
三軒家毒ガス貯蔵庫の床には、タンクを置いていた湾曲した台座が今も残されています。
この台座の上に、毒ガス貯蔵用10トンタンクが置かれ、管を使って工場から直接タンクに毒液が送り込まれていたという。
案内板によると、イペリットやルイサイトなどの液体毒ガスを保管したタンクは、腐食を防ぐため内部に鉛を張り付けたものだったそうです。
また貯蔵庫の壁には、文字、数字、記号などが書かれていますが、その中にある英文字は、戦後残存する毒ガスの処理にやってきた進駐軍の手によるものでしょう。
休暇村本館の南側にある小山の岩肌には、防空壕の壕口を塞いだ痕がいくつもあります。
こうした防空壕は、人が入るものというより毒ガスや毒ガス製造に関わる物資を置く場所として、戦中島内に約50箇所掘られたものだそうです。
敗戦後、このような防空壕には残された毒ガス・くしゃみ剤(あか箱)が進駐軍の指導により集積され、海水と次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を注入し加水分解により腐敗変敗させる処理がとられたという。
休暇村本館のすぐ東隣には「検査工室跡」という、毒ガス工場時代の建物がそのまま残っています。
検査工室では毒ガス製品の管理、機密書類の保管、毒ガスの検査などが行われていました。
検査工室の隣には「研究室跡」という同じく毒ガス工場時代の建物があります。
この建物は毒ガスの研究室と薬品庫として使われていたという。
これらの建物は大久野島に休暇村が整備されたころ、一時宿泊施設として利用されていたことがあったそうです。
こうした戦争遺跡に囲まれた休暇村大久野島のところにあった「A三号工室」では、即効性のびらん性猛毒ガス、ルイサイトが作られていました。
ルイサイトの製造工程は複雑かつ危険なもので、作業者が重症を負う事故が絶えなかったものの、人々は国のため、戦争に勝つために、痛みに耐えて懸命に作業し続けたという。
次回は、そんな大久野島毒ガス工場の歴史と被害について展示する大久野島毒ガス資料館を訪問します。
(訪問月2023年12月)
コメント
コメント一覧 (2)
懐かしいです。
子供が小さいころ、毎年夏に泊まりに行ってました。
少し前は、中国人観光客が占領していると聞いたのですが今は、いないのでしょうね~
(中国人観光客そのものが少なくなっていると聞いています)
日常を忘れられる良いところでした。
また遊びに来ます。
コメントありがとうございます。
休暇村が年末の休館前だったためか、人も多くなく快適な島旅でした。
また旅行に行きたい、落ち着けるところでした。