広島県竹原市忠海町大久野島の資料館、大久野島毒ガス資料館を歩いてきました。
前回の休暇村大久野島に一泊後、近くの「大久野島毒ガス資料館」に行き、第二次世界大戦中この島で毒ガス兵器を製造していた軍需工場「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」について学んできました。
入館料は大人150円で、大きな資料館ではありませんが館内には防毒マスクや男女作業服、パネル写真、工員手帳等約600点の資料が収蔵又は展示されています。
島一つを使った大規模な工場だったわりに資料が少ないのは、敗戦後に軍の命令によって証拠隠滅が行われたこと、また、旧従業員が責任追及を恐れて多くの資料を焼却してしまったためだという。
館内は写真撮影禁止なので外観のみです。
1929(昭和4)年の設立から1945(昭和20)年の終戦近くまで、毒ガス製造工場としてこの大久野島にあった「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」。
その間における各種の毒ガス製造過程や戦後の処理作業で多くの人が亡くなったことから、このような歴史を二度と繰り返さないよう元従業員や遺族から資料を集め、大久野島毒ガス資料館は開館されたという。
大久野島毒ガス資料館隣には、毒ガス工場時代に使用された陶磁器製毒ガス製造器具が展示されていました。
毒ガスは化学薬品を反応させて、複雑な科学操作を経て製造していくことから、製造設備の主要な部分は薬品に反応せず、熱に強い陶磁器が用いられていました。
奥の方の陶磁器は随分複雑な形をしているように見えますが、このような複雑な形の陶磁器は日本中の陶工の手によって造られていたのでしょうか。
大久野島毒ガス資料館から南へ50mほど行ったところには、慰霊碑「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」が建立されています。
大久野島で毒ガス製造にかかわり、それが原因で亡くなった死没者の冥福を祈り、1985(昭和60)年に建立された慰霊碑です。
東京第二陸軍造兵廠忠海製造所の従業員の多くは、島中を汚染していた毒ガスにより、働いていたときはもとより、仕事を辞めた後もせき・たん・呼吸困難を伴う難治の慢性気管支炎にかかり、また、イペリットが発がん物質であったため肺がんなどになってその多くが亡くなったという。
慰霊碑の近くには、島に平和学習で訪れた学生たちが製作したであろう千羽鶴が飾られていました。
戦争の長期化によって人手が足りなくなってくると、島では毒ガスの運搬のために、毒ガス製造について何も知らされていない学徒も動員されていたという。
しかし動員学徒や勤労奉仕、女子挺身隊として島で働いていた人々は、正規の従業員でなかったことから戦後、毒ガス障害を発症してもそれが毒ガスによるものとは認定されず、救済が遅れることとなってしまいました。
慰霊碑のすぐ近くには大久野島神社があります。
大久野島神社は、もともと現在の休暇村近くにあった神社を1929(昭和4)年の毒ガス工場開所の際、従業員たちが社殿を修復し「大久野島神社」としてこの場所に移転してきた神社です。
境内では様々な行事(毎月8日の大詔奉戴日や四大節(元旦・紀元節・天長節・明治節)や式(入学式・卒業式))が行われました。
大久野島神社の境内には、毒ガス工場開設から1937(昭和12)年までの間に、毒ガス製造の際の事故で亡くなった3名の名を刻んだ殉職碑が建立されています。
建立は日中戦争が始まった1937年。
日中戦争の勃発から毒ガス工場での毒ガス製造に拍車がかかり、生産量が急上昇するとともに、中国大陸での毒ガス使用が本格化しています。
こちらは大久野島神社の拝殿。
しかし立ち入り禁止になっており、管理はされていないのか屋根はボロボロ、中は荒れるがままになっていました。
かつては毒ガス工場で働いた人々で賑わったという大久野島神社ですが、今は荒涼とした状態になっており、ただ、アナウサギだけがちょろちょろとして癒しオーラを放っていました。
かつて大久野島で毒ガスを製造していた人のインタビューを見たことがありますが、どんな気持ちで作っていましたかと問われて、「英雄気取りだった」と答えていたことがとても印象的に残っています。
当時、お国のため、天皇のため、ただ戦争に勝つことだけを信じて、非人道的であろうが危険であろうが、懸命に毒ガスを作り、敵に対して使用することは褒め讃えられることでした。
次回は、大久野島でその毒ガスを製造していた「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」の遺構を探して歩きます。
(訪問月2023年12月)
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