広島県竹原市忠海大久野島の軍事遺跡、芸予要塞大久野島堡塁跡を歩いてきました。
前回の「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」発電所跡からの続きです。
発電所跡前にあるトンネルを抜けると、「芸予要塞時代の桟橋」との案内板がある桟橋に出ました。
昭和初期に毒ガス工場が置かれる以前、大久野島には22門の大砲を備える芸予要塞大久野島堡塁が置かれており、要塞が1924(大正13)年に廃止されるまでのこの時代を大久野島の「芸予要塞時代」と表現されています。
この、石で造られた固定の桟橋は芸予要塞時代のもので、毒ガス工場時代になっても当初は人の上陸、物の陸揚げに使われていたという。
こちらは前回も紹介した、発電所前のトンネル側端にある陸軍軍用地境界標石です。
前回も書きましたがその側面には「明治三…」と読める文字が刻まれています。
芸予要塞大久野島堡塁が1902(明治35)年設置なので、記載されているのはおそらく明治三五であり、トンネルは分かりませんが軍用地境界標石は芸予要塞時代のものと言えるでしょう。
芸予要塞時代、芸予要塞大久野島堡塁には三つの砲台及び二つの照明所がありました。
砲台は北から、「北部砲台」「中部砲台」「南部砲台」が並び、また、島の北端と南端には、瀬戸内海に侵入してくる敵艦を照らし出す照明所「北部照明所」「南部照明所」がありました。
写真は南端の大久野島灯台近くにある南部照明所跡。
今回はこの南部照明所跡から、南部砲台跡、中部砲台跡、北部砲台跡と、大久野島を縦断するルートを歩きます。
大久野島第一桟橋近くから小高い丘を登ったところにある南部砲台跡。
南部砲台跡は、山の中にあるためか、「長浦毒ガス貯蔵庫跡」や「発電所跡」といった毒ガス工場時代の軍事遺跡と違い、周辺に観光客がおらず寂しいところでした。
しかしそこは大久野島、人はいなくてもアナウサギはどこからともなく集まってきて歓迎してくれます。
もっとも餌をあげてもてなすのはこちらの仕事ですが。
この南部砲台は、24センチ加農(カノン)砲4門と9(12?)センチ速射加農砲4門が配置された砲台であったといい、写真の砲台座は、9センチ速射加農砲4門が置かれていた砲台座でした。
24センチ加農砲4門が置かれていた砲台跡は、毒ガス工場時代に破壊されてしまったのだとか。
そのため南部砲台跡は、この後見学する中部砲台跡、北部砲台跡に比べて規模の小さい砲台跡になっています。
南部砲台跡からさらに山を登っていき、芸予要塞大久野島堡塁の要であった中部砲台跡へ向かいました。
中部砲台跡への道のりは徐々に坂がきつくなってきて、ちょっとした登山みたいな様相になります。
しかしこんな山の上の方の、ほとんど観光客がいない場所にもかかわらず、ちょっと歩くとアナウサギの編隊が現れて餌をねだられるのでなかなか前に進めません。
島の最高峰・標高100mのウッドデッキの展望台、大久野島山頂展望台に到着しました。
こんな山頂であってもアナウサギが出没します。
愛らしいウサギの世界にも縄張り争いがあるというから、あまり人が来ず餌を貰える機会が少ない山頂部を縄張りとしているのは、大久野島のウサギ界でもあまり影響力の強くないウサギグループなのかもしれませんね。
中部砲台跡は、大久野島山頂展望台のすぐ北側、展望台と日本一高い送電鉄塔(中国電力大三島支線)との間にあります。
写真は、中部砲台跡の入り口付近にある赤レンガで構築された七連の遮蔽部で、芸予要塞時代は兵舎として使われていたものであったという。
レンガはロシア産の赤レンガが使用されているといい、また、毒ガス工場時代は毒ガス製品や原料置き場に使われていたそうです。
地下兵舎は特に立ち入り禁止ではなく、入ることもできます。
定期的に掃除されているのか山頂にあるためか、土砂の流入などはなく内部見学は容易でした。
芸予要塞大久野島堡塁を管理していたのは、大久野島対岸の忠海にあった「芸予重砲兵大隊」であり、そこから派遣された砲兵がここで休んでいたのでしょうか。
兵舎の奥には隣の兵舎と繋がる通路があり、外に出なくても隣の部屋に移動できるようになっていました。
敵の砲撃によって出入り口が潰されても、逃げられるようとの造りですかね。
また一部、壁面の煉瓦が取り外されている箇所があり、通気性の配慮がなされている感がありました。
地下兵舎跡から更に奥へ行ったところには、大砲を設置した砲台座の跡が残されています。
写真の丸く緑色になっているところが大砲の台座跡です。
中部砲台には28センチ榴弾砲が6門配備されていたというから、ここには当時巨大な榴弾砲が置かれていたということになります。
さきほど見学した南部砲台跡に比べてみると、砲台座の周囲を囲む土塁が高いことが分かります。
その理由は、ここに置かれていたのが榴弾砲であったからだと推測できます。
直線に近い弾道で弾丸を発射する加農砲に対し、山型の弾道となる榴弾砲は防御用の土塁を高くすることができました。
砲台座跡を見学していると、連れてきていた娘が、砲台座のすぐ近くに地下道が設けられていることに気づきました。
ここも入っていいみたいなので入ってみます。
太陽の光が当たらない場所にあるため、灯りがなければ中は真っ暗です。
通路は先で曲がっており、その先にはかまぼこ型の地下室がありました。
ここは大砲の弾薬を置いた砲側庫だと思われます。
砲側庫とは砲台の横にあって弾丸・火薬を格納する場所で、大砲使用の際はここから弾薬を補充する手はずだったのでしょう。
砲側弾薬庫の上部には穴が空いていました。
これは通気孔のようです。
弾薬が湿気で使えなくならないよう通気性の確保と、もし火薬に引火したときのために爆風を上に逃がすための措置かと思われます。
中部砲台跡から北部砲台跡へは、山頂から北へ下っていきます。
こちらは舗装路ではなく、階段の山道です。
私が歩いたルートとは逆の、北部砲台→中部砲台→南部砲台というルートでも歩けますが、南部から行ったほうが足の負担は少ないように思いました。
階段を降り切ると、目の前が北部砲台跡になっています。
北部砲台は西側地区と東側地区に分かれており、この西側には24センチ加農砲4門、東側に12センチ速射加農砲4門が配備されていました。
砲台のすぐ横に中部砲台跡と同じような地下兵舎もくっついていますが、こちらは立ち入り禁止になっています。
北部砲台で24センチ加農砲が置かれていたという砲台座跡。
直線的な弾道で射撃する加農砲が配備されていたためか、防御・遮蔽用の土塁がほとんどありませんね。
なお、砲台座跡の上に残っているのは、昭和の毒ガス工場時代に置かれた毒ガスタンクの台座です。
こちらは同じ北部砲台でも、12センチ速射加農砲4門が配備されていたという東側地区の北部砲台です。
他の砲台跡と違い、大久野島島内一周道路沿いにあるため、もっとも見学しやすい砲台跡と思われます。
砲台座の横にある砲側庫の入り口は、当時貴重だったと思われるコンクリートでアーチ状に固められていました。
砲側庫は弾薬の大きさを考慮してのことでしょうか、28センチ榴弾砲の弾薬が入っていた中部砲台の砲側庫と違って小さくて丸っこい造りになっていました。
写真は同じように天井に空いている通気孔を見て、明治・大正時代の砲台の砲側庫について学ぶ子供たち。
大久野島旅行は、たくさんのアナウサギとたわむれ子供たちの情操教育になるとともに、明治・大正期の砲台と昭和期の毒ガス工場について学べたいい旅行となりました。
軍事遺跡や廃墟探訪目的であっても、ウサギがたくさんいることから家族旅行として行きやすい島であり、趣味と家庭を両立できる旅行先として良い場所かと思います。
(訪問月2023年12月)
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