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あなたはもう一人のわたしです。

東京在住の男性T様が「鬱病になって体が動かなくなり、家賃も滞納をして連帯保証人である父に借金を肩代わりしてもらっている」と言った。鬱症状に見舞われて、生きる気力を見つけることができない時、自分はいない方がいい、自分は生まれなかった方がよかったのだという思考に支配される。現実の全てが「お前には力がない」と言ってくるように思えて、見えない棘があちらこちらから自分に向かって飛んできて、生きることが恐しくなる。私にも、そういう体験があるからわかる。追い込まれた時、人は助けを求めることができない。助けを求めて迷惑をかけるくらいなら、自分が消えてなくなればいいのだという方向に舵を取ってしまう。

この世で一番悲しいことは、自分を肯定できないことだ。自分がいることで周囲の人、特に大切な人に迷惑をかけているという実感は辛い。そんな時に、人は、何を求めるのだろうか。私が求めたものは言葉だ。自分には価値がない、自分には生きる値打ちがないと思いながらも、私は強く言葉を求めた。インターネットの中に自分と似た境遇の人を探したり、どうしようもない自分を鼓舞してくれる言葉を探したり、大袈裟な言葉で言えば救いを求めた。自分のことを諦めているようで、諦め切ることのできない自分が、投げ出し切ることのできない自分が、藁にもすがる思いで求めたものは言葉だった。

私を救い出した言葉は三つあった。同じ言葉でも、見る時期によって響き方は大きく変わる。一つは「この体験が、いつの日か役に立つ日が来る」という言葉だった。月並みで、陳腐で、どこにでもあるような言葉だが、強く響いた。私は、私の悲しみに、私の淋しさに、私の苦しみに捕まっていた。この言葉は、内向きになっていた自分の思考を、外側に開かせた。自分のことばかり考えていた自分を、自分みたいな人がいるかもしれない世界の方向に向かわせた。自分を信じることができない代わりに、一つの賭けとして、この言葉を信じることにした。そうでもしなければ、明日にでも命を絶ってしまいかねないくらいに、私は追い込まれていた。

信じると言うことは、多分、それだけで力があるのだと思う。周囲の助けを借りながら、徐々に気力と体力を回復させた私は、二つ目の言葉に出会った。それは「いまあるものを犠牲にしなければ、次に進むことはできない」という言葉だった。何かを握りしめた状態のままでは、新しい何かを掴むことはできない。私の心は、前に進むことを恐れていた。また、前と同じ鬱病の状態になることを恐れた。今回はどうにか乗り越えることができたが、再び同じ状況になったとしたら、乗り越えて行ける自信がない。安心安全な場所にとどまろうとする自分を、ネガティブな理由から前に進むことを躊躇していた自分を押してくれたのは、この言葉だった。

三つ目は「好きなように生きなよ。感じる心がもったいないじゃないか」という言葉だった。この言葉は、新潟にある弥彦の森を歩いていた時に、自然から言われたように感じた言葉だ。鬱病になって一番苦しかったことは、感じる心が失われたことだった。かつて心を動かしていた自然や本や音楽を、愛することができなくなったことだった。弥彦の森を歩いていた時、死んだと思っていた自分の心が、僅かだが、動いた。この胎動は「好きなように生きなよ。感じる心がもったいないじゃないか」と言った。この時、私は、命を賭けてでもこの胎動を守り抜かなければならないと思った。それが、私の生きる意味だと思った。自分と他人の間に垣根はないのだとしたら、他者にすることは自分にすることになり、自分にすることは他者にすることになる。自分を愛することは自然を愛することになり、自然を愛することは自分を愛することになる。あなたはもう一人のわたしです。家を飛び出し、空を見ると思う。私は、一人で生きているのではなく、世界で生きているのだ。

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おおまかな予定

4月26日(金)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!

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