年次 事績

 

天保8(1837)年

9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。

 

弘化4(1847)年

9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。

 

嘉永3(1850)年

1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。

 

嘉永6(1853)年

6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。

6月22日 将軍・家慶薨去。

徳川家定、第13代将軍に就任。

 

安政5(1858)年

この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。

4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。

慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。

7月16日 将軍・家定薨去。

安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。

 

万延元(1860)年

3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)

文久2(1862)年

7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。

7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。

慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。

 

文久3(1863)年

4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。

5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。

7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。

8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。

元治元(1864)年

1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。

慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。

慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。

(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。

この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる) 。

7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。

7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。

8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。

 

慶応元(1865)年

5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。

8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。

(翌慶応2(1866)年1月か2月頃、記念写真を全員で撮る?) 。

 

慶応2(1866)年

1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。

6月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 。

6月7日 第2次長州征伐開始。

慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島曻説)。

6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。

6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。

(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。

12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。

岩倉が便所の箱番を買収しておいた。

 

慶応3(1867)年

1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。

幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。

横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。

幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。

将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。

3月頃大室寅之祐(当時寅助)が『萩』から京都へ上洛。

6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。

6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助を半年余教導。

6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。

6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。

7月 使番、地蔵菩薩・鬼子母神の尊像を預かる。

この仏像は京都睦仁の遺体であろう。

同日、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』) 。

(7月8日、幼帝・睦仁親王(京都明治天皇)、手に軽傷を負い、伊良子光順らの侍医が膏薬を貼る。

これが毒入りで京都明治天皇は毒殺される)。

10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。

将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。

坂本竜馬・中岡慎太郎、西郷等に暗殺される。

王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。

その人数は500万人と言われる。

10月下旬、 寅吉が芸者連れて田布施の麻郷に帰ってくる。(寅吉を寅之祐と改名)

通史の王政復古の大号令とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会議も同様)

 

慶応4(1868)年

明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により(もちろん幕軍の方も錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪失し惨敗。

1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として御所に向かい入れられる。

(それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 。

「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)。

『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。

睦仁親王(京都明治天皇)は既に暗殺され、大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 

4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。

(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮(『木戸日記』)

(慶応4(1868)年)

 

大政元年(1868) 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、

諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。

 

慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。 

8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデターを計画したが失敗。

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