さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて

政局を混乱させていた北朝系(足利出口直の祖 義満の後裔)の孝明天皇が、

「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、

慶応2年(1866年)12月25日、洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。

 

 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。

 

やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。

(便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。

当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいた訳だ。)

 

 こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。

ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、

 

>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。

 >寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。

 >睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。

 >寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。

 >睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。

 

性格だけは父の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉はついに邪魔者として片づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。

 

 遺体は母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。

 官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。

 

当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。

藩政府も「林宇一伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。

実際、英国艦一隻が常時 馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。

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急死した民間研究者のメモを一部紹介します。

彼は思想的には右のようです、ご心配なく。

 

* 孝明天皇毒殺説が定説

南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、

「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死

 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。

恐らく凶器は・・。

斜め下から上に向かって突き上げられた格好。

その四○歳位の貴人を「お上」と断言。

従って槍による刺殺説。

 

* 陸仁暗殺の伝承 

大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部隊)、指示者は伊藤(三ケ月不明の時期あり)。

木戸忍者

岩倉、三条、中山忠能、西郷大久保も同意。

 

* 暗殺の時期 

大室寅之祐上京は、慶応三年三月。

六月二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。

明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇東本願寺に幸す。

木戸(桂小五郎)天顔に」。  

『防長回天史』。

鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。

 

* 大室について  

田布施町麻郷が生家。

田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町麻郷で永眠)は次のように語った。

「祖父は明治天皇によく似ていた。

わしの家は南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在していた。

祖父の兄寅之祐は、後京都に行って明治天皇になった」。

 私自身はあまり関心がありませんが、議論の材料として紹介します。

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大室家の人々の篤くべき証言

大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。

一人は麻郷奥の前田家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)で当年87才、故あってずっと大室家で暮らしてきた方である。

この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれるのだが、その中には何とも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解説する。

 

実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐で(戸籍では寅吉)あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在した時、三條実美らはこの寅之祐を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。

そのため二才年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居することになった。

この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤俊輔が寅之祐を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌三年 四月、寅之祐が「玉」として上洛したとさ、庄吉は一四才であった。  

これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらをきり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命はなかったであろう。

だが実際には一四才であったから「少年だから命は助けよう」という事になって実家に帰ることを許されたのである。

 

一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐天皇が女性に化けて、芸者風に装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷に帰ってきた。

その中に睦仁の皇后になった筈の一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりであったという。

この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、寅之祐の行く所へは何処までもついていった。

しかし彼女の子宮には欠陥があったのか、性力旺盛な明治天皇とは子が出来なかった。

そのため異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。

天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多くは二才までの間に死亡している。

 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れて、病と偽って実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。

この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。

 

一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々しく行列を組んで田布施にやって来た。

愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登る道案内をさせた。

 

◆ 大室庄吉の子供たち 長男 儀作  (明治19年11月23日生)

長女 モト(明治4年 1月 8日生)

次女 タカ (明治 8年11月24日生)

三女 ツネ(明治11年11月 1日生)

四女 ヨネ(明治14年10月24日生)

五女 ツユ(明治17年 6月28日生)

次男 音吉(明治22年 9月26日生)

 

一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か) が大室家にやってきた。

この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。

今上陛下(昭和天皇裕仁)の子とされている明仁親王(一九三三年 生)は、実は陛下のお子ではない

明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べたところ、天皇裕仁の子では無いという事が判明した。

おそらく崇仁親王(三笠宮)のお子であろう。

もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。

だから、「陛下はご自分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。

その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ-と見ていた宮様は、突然「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。  

近祐翁が「どうしてか」と聞くと、

明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くて困っているのだ。

この児(貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。

私が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。

実はこのようなこともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」

と平身低頭した。  

なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、宮様が慾しがったのも無理はない。

また明治天皇(大室寅之祐)の弟大室庄吉の玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。

筋の通った話である。

そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。

みんなでいろいろ話し合った末に、

「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳にはいかん」 

という結論になって、この話を断わることにした。  

だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出があったのである。  

近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。

それも単なる戦死ではなくて、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。

 

明治天皇 = 大室寅之祐説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが

この本の殆どが何かからの引用なんです。

鹿島氏もここ迄集めたと感心します。

鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、

引用部分に限ればでっち上げではない様です。

自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。

 

鹿島本の引用要約

・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  

毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」  

刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  

 

・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎  → 三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)  

→ 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」  

 

・明治天皇の変身ぶりについての謎  → 中山忠能日記  → 蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)  

 

・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)  → 長島銀蔵/「皇統正史」

 

・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?  → 原敬/「原敬日記」

 

個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。

 

1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎

2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎大本弾圧の謎ゆめわまうちゆぬ

3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎

4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??)

5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎

(226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)

※ 高倉健主演映画『動乱』が参考になる

 

その他情報

俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。

透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。

どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・

 

◆長州大室家系譜?

Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。

 

A. 私には価値がよく分からない。

本物かどうかも分からない。

そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。!て

ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。

他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。

系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」死去年(1616年)からみたいです。

ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意かどうか削除されています。

一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と書かれている様です。

昔の字体だから、よく分からないです。

こう言った史料は何処で見て貰えば良いの? 

(初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)

 

やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。

ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、

南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。

(○○はここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)

 

この事?ですか???(「鹿島昇」の本より)

 

この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の

曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。

船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・

 

系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。

書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。

兎に角、読み辛いのです。

しかし、「長 大室虎之祐」の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ)とあります。

こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが読めません。

 

先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。

それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。

それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。

その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。

この事は先程聞いて初めて知りました。

 

私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。

お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。

叔父からの話でも「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」と言った程度の話しか聞いておりません。

資料についても色々と考えてみますね。

それと横枠に朱字「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」とやたら長く文章が書いてあります。

(●は読めないだけで削除文字ではありません)

 

追加(年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。

後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。

つまり寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。

書きたいのは山々なんですが、私には読めません。

 

系譜の最後に、

「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。

素人の自分には読めません。

大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。

正直見てみないとわかりませんよ。

滲んでいますので。

ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。

他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。

後、この後も大室家系図は続いています。

此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。

一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。

1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。

大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。

義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。

南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様である。

当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、

紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。

南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。

(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)

 

尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。

水戸藩の「玉」は有栖川宮。

長州藩の「玉」は山階宮。

島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。

紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。

南朝では浅利氏。

徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝

高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。

(昔、爺さんに聞いた事有る)

それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も有った。

西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が麻郷には今も残っている。

 

>>法号の記載のあったお寺は西円寺なの?

それとも違う寺かなあ?(先生に質問)

現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。

本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。

始めは末子、季子、後に基子。

興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。

位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。

位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 

但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。

大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、

明治維新後、奇兵隊の残党として下関宰相に投獄されていた事が判明。

(『萩東照宮文書』)

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調査結果

寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐  近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄。

近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。

以上 田布施町戸籍課

 

(天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)

光格天皇の息子孝明天皇 

慶子が流産した明治天皇1 

豆腐屋の息子替え玉明治天皇2

大室寅之祐の明治天皇3 

大隈重信の息子大正天皇 、

昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 

高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )

三笠宮寛仁  桂宮 は三笠宮崇仁の息子。

北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞)

(大室は南朝)

以上 田布施町戸籍課

 

情報を整理すると

 高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。

そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。

 

橋本の家系図

 大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。

此処からが、始まり始まり。

既に卯太郎には本妻真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。

明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。

それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり) 

竜伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。

龍伍の長男が橋本龍太郎

 

話を整理してみる(ややこしいので)

1、明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。

 

2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父明治天皇、母松下豊子。

(だから山本静山尼は高松宮に似てる)

静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっているがこれはウソで宮と同じ年。

尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門跡。

しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで宮中で「やすこ」という名前で生活していたのである。

だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在をずっと以前から知っていた。

5歳で離ればなれになった妹の事なんて殆ど記憶に無いから。

つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。

79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)

 

3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。

(三笠宮の父は東久邇宮との一致により)テイメイ皇后と東久邇宮の間の子が三笠宮崇仁。

で双子の妹の晴子さんも父母同様。

今現在も京都に在住。

三笠宮晴子さんは別名、糸子とよばれていた。

(京都で)

 

4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反薩長の)。

原敬暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭和天皇が摂政として即位。

この頃から(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。

高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。

自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人のことが書かれる訳が無いから。

同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、

昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮と大正天皇は殆ど出てこない。

三笠宮がキゲンが悪くなって怒ったのはこの事でようは血統が違うから。

大正天皇も明治天皇の子ではない

子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明治天皇が殆どあっていない。

自分の父(孝明天皇?)を殺した岩倉が風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家にわざわざやってきた程なのに。

 

>>明治10年頃の宮中の勢力分布が未詳のため大正天皇の実の父に関しては保留。

中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派と岩倉派が政治をにぶんしていたそうだ。

大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉郎は宮廷を追われてしまった。

そう、堀川とは岩倉の義理の妹、堀川紀子の「堀川」か???

だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。

 

>>だけど千種(千草)が二人い たとはすぐには信じられないのであるが。

このあたりが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、

辞官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町な訳です。

そこで88歳まで生きた。

千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこない訳です。

だから岩倉と堀川御所に追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。

三笠宮晴子は今も生きていて御所で、いとこと呼ばれていた。

山本尼の方はやすこと呼ばれた。

 

一部紹介します

2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版)

{このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と

「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。

内容は衝撃的で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐明治天皇になったと言うもので、

2000年8月の雅子懐妊の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子

皇太子さまの間の子としてこっそり養子にしようとして失敗した・・・

等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有り衝撃的でした。

一度目を通して見て下さい。

 

>> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから一度余所に置いといて、2000年8月の雅子ご懐妊騒動は何だよ。

TBSの報道番組(ザ スクープ)で産婦人科医が出て来て、

「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。

(公式な宮内庁発表)と言う事は、有り得ない。

雅子は妊娠しておられ無い!!」

と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!!

一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を

雅子、皇太子の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。

この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!!

当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。

もう一つは、???

小渕が橋本と共犯で、雅子ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? 

もしこれが事実なら、大変な事だぞ!!

橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。

 

>>大体、2000年8月の御懐妊騒動って何だ?

 

>>そりゃそうだろう。

雅子もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。

小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子は部屋に引き籠もり成され、

皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)

 

◆ 何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?

 熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と2つある。

此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。

 

政府自民党の支持基盤は3つあって

1、郵便局、2、靖国、3、医者なんだけど、

3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。

(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 

2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、

歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。

(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、

突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。

だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。

明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないからとも言える。

 

さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。

先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。

で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、

1.曽根綾子 

2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子の兄、(弟?) 

3.美智子皇后 

4.橋本龍太郎 

5.橋本久美子だが、

今上陛下はまだ14年しか経っていないので権力はそれ程無い。

広飲み屋にも権力はそれ程持ってない。

議員歴39年の橋竜こそバリバリ権力持っていて、常に雅子の御懐妊騒動を引き起こした主犯こいつ

 

一度目は皇太子さまが結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。

(橋本龍太郎の2女厚子の子)を養子にしようとして失敗。

この時はマスコミに公にはならなかった。

それより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。

(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)

 

二度目は2000年8月に雅子が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)

この時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。

雅子が公の場に出てこなかった。

 

三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。

これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。

これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、

南朝大室広飲み屋(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)の

たねを某女に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のたねを使い某女に人工受精

で、広飲み屋の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む

だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく

しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。

北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。

 

イギリスのマスコミに今上の使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。

一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠してこちらが先行した。

12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは、北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。

12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘愛子とした。

広飲み屋は最後、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。

最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。

つまり後ろ向きな発言に変化。

佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝広飲み屋支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。

小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。

そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、女帝改正には皆が消極的であると言う。

2~3年後か?に最終決着が付く筈だ。