没後30年を経て、21世紀に20世紀最大のアウトサイダー(非アカデミズム)・アート画家として、またトランスジェンダー芸術家として世界的評価が定まった1892年4月12日・シカゴ生まれのヘンリー・ダーガー(1892-1973)について、その概略は第1回でご紹介しました。没後50年に近い現在、その絵画が1点につき7,500万円~1億5,000万円の市場価格で取引されているアマチュア童話画家ダーガーについては、洋書で多くの画集、研究書が刊行されていますが、日本語版文献でこれまで刊行されたものは、
◎「美術手帖 特集ヘンリー・ダーガー」(研究と小画集・美術出版社、2007年5月号、2007年4月17日刊)
◎小出由紀子編著『ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる』(研究と小画集・平凡社、2013年12月刊)
--があり、また2002年11月~2003年4月に東京・外苑前のワタリウム美術館にて日本初の特集展覧会「ヘンリー・ダーガー展」、2007年には東京・品川の原美術館にて「ヘンリー ダーガー~少女たちの戦いの物語・夢の楽園」展(「美術手帖」の特集号はこの時に連動して組まれました)、2011年4月には東京・原宿のラフォーレ・ミュージアム原宿にて「ヘンリー・ダーガー展―アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く『非現実の王国で』」が開催された際に、それぞれ美術展カタログが刊行されています。
またダーガーの生涯と作品の作品を描いたドキュメンタリー映画には、ジェシカ・ユー監督の映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎 (In the Realms of the Unreal)』(小画集つき日本盤DVD, 2004年発売)があり、1973年に逝去したダーガーの生前の姿を知る人たちへの取材による証言とともに、ダーガーの絵画のCG処理によるアニメーション化を観ることができます。
◎『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』予告編 :
残念なのは現在上記の日本語版ダーガー文献がすべて絶版・廃盤になっていることで、定価の数倍以上の価格でしか手に入らないことです。筆者も今年7月~8月に二度に渡るゲリラ豪雨・台風による床上浸水被災に遭い、蔵書やDVDの大半もまだ避難時に段ボール箱に納められたまま開梱しきれていないので、この「ヘンリー・ダーガーものがたり」も記憶と国内外のサイト上の文献を照らし合わせながら書いています。サイト上の文献ですぐには調べきれず、後から気づいた記憶違いがあったら、随時連載の最新回で訂正していくつもりです。今回も第1回の内容の訂正をなるべく織りこんでまとめるつもりです。洋書のダーガー画集や画集つき研究書、ダーガーのライフワークとなった大長編童話絵本『非現実の王国で (In the Realms of the Unreal)』の註釈つき抜粋版は次々と新版が刊行され、長くロングセラーを続けており、容易に通販サイトで手に入りますが、5,000円~2万円と非常に高価で、日本語版文献のプレミア価格と変わりません。ダーガーの童話絵画は多くは畳一畳以上から横幅3メートル、最大のものでは9メートルもの横長に描かれており、デジタルスキャナーや写真版で複写するのも非常に経費がかかります。画集も極力ダーガー作品の特徴を活かすため大判の変形版画集にせざるを得ないので紙質も高価で厚めの高級アート紙を使用するハードカヴァー画集になり、どうしてもコストの高い画集になるのは避けられないのです。
ダーガーは50歳の父と30歳の母の初子として生まれ、3歳の時母を産褥で亡くし(妹はすぐに里子に出されました)、高齢の父が傷病から教会病院施設に入ったために一人息子のダーガーも8歳からカトリック教会の孤児院で育ち、11歳で知的遅滞・精神薄弱を診断されてのちは障害者養護施設に保護されていました。また15歳で入所施設にいたまま父の死を知り、孤立無援となって教会の住みこみ掃除夫・雑役夫として働き始めたダーガーは、18歳から30代半ばまで15年以上をかけて大長編童話『非現実の王国で (In the Realms of the Unreal)』、正式題名は『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語 (The Story of the Vivian Girls, in What is Known as the Realms of the Unreal, of the Glandeco-Angelinnian War Storm, Caused by the Child Slave Rebellion)』の草稿を書き上げました。さらに40歳以降は場末のアパート住まいの通いのカトリック教会病院掃除夫となって、教会への勤務と毎日必ず仕事前の早朝祈祷会と日曜の礼拝に出席する以外は自室にこもり、晩年までの40年間をかけて『非現実の王国で』の1万5,000ページもの清書タイプ原稿と、同作品を元にした挿し絵の絵巻物水彩画を描き続け、1939年からは引き続き「ヴィヴィアン・ガールズ」を主人公とした続編『シカゴにおけるさらなる冒険 (Crazy House: Further Adventures in Chicago)』や自伝、日記を執筆しています。続編も8,500頁もの未完の大長編童話で、原稿は手書きのまま残されていました。ダーガーは教会の勤務、礼拝出席以外は人づきあいもせず、知的障害者として孤立した生涯を、誰にも見せずにひたすらライフワークとした、「大人が子供を奴隷とする非現実王国の、奴隷解放のために悪い大人と闘う少女十字軍ヴィヴィアン・ガールズたち」の童話と絵画創作にのみ打ちこみました。清書タイプ原稿1万5,000ページといえば、150ページで日本語訳すればほぼ原稿用紙400枚、300ページ前後に相当しますから、300ページの長編童話100冊分もの大長編になります(3万ページ!)。タイプ原稿の清書にいたらず肉筆原稿のまま残された続編も、タイプ原稿清書過程で加筆修正される予定だったとすればほぼ正編と同等の長さになったはずで、正編と続編を合わせると300ページの長編童話200冊分(6万ページ!)です。その上自伝や日記まで残されています。「世界一長い」とされるあまりの長大さのために今なお『非現実の王国で』全編の刊行はなされておらず、ダーガーの研究が進んだ2001年にはアメリカ民族芸術美術館に「ヘンリー・ダーガー研究センター」が開設されて、全遺稿が保管・管理されています。
ダーガーは父の教育で幼児の頃は早く読み書きを覚え、すでに新聞も読めたので、小学校には6歳にして3年生のクラスに飛び級入学しています。4歳になる前に産褥で亡くした母の記憶はありませんでした。8歳で傷病の父と別れ、カトリックの洗礼を受けて教会孤児院に入所し、孤児院から小学校に通うようになっても成績は優秀だったと言われます。ただその頃から現在で言われるADHD(注意欠陥・多動性障害)と推定される症候が現れ、11歳の時に医学的検査の診断結果でダーガーは、やはりカトリック教会の精神薄弱児童専門養護施設に移ることになりました。当時ADHD(ダーガーの時代には解明されていなかったので、あくまで病跡学的推定ですが)は知的遅滞・精神薄弱と診断されたので、ダーガーは1,200人もの重度の知的障害児と暮らすことになりましたが、ダーガーにはむしろ落ちついて暮らせる環境で、ただし気候の変化を怖れて施設行事の農作業だけは非常に嫌がったと言われます。またこの知的障害児養護施設時代からダーガーにはバイセクシュアル的傾向が見られるようになったとされます。ダーガーは記憶のない母との死別や妹との別離を心の傷としていましたが、8歳まで男手ひとつで育ててくれた父が離れていても心の支えでした。ダーガーの父は不自由な脚を押して誕生日やクリスマスには息子を訪ねてきてくれました。その父の逝去を15歳の時に養護施設で知らされ、ショックを受けたダーガーは自暴自棄になり養護施設を脱走して農園の仕事に就きましたが、屋外の仕事が苦手なダーガーはすぐに後悔して、徒歩で100キロ先(ほぼ新宿~箱根間)もの養護施設に戻りました。
その後ダーガーは名付け親を頼り、その世話でカトリックの聖ジョセフ病院に住みこみで働き始めます。精神薄弱者とされていたダーガーに与えられた仕事は掃除夫と雑役夫(皿洗い、包帯巻きなどすべての雑務)で、報酬は教会の最低賃金でした。以降ほぼ60年間におよぶダーガーの貧しく孤独な生活の始まりでした。30歳の1922年には聖ジョセフ病院を辞めてグラント病院に移り、病院宿舎を出てアパート住まいを始め、40歳の1932年には同じ通りの別の20平米の独身者用アパートに引っ越しました。ダーガーの残り40年の人生はこのアパートで送られました。ダーガーは小学校以来教育を受ける機会がなかったので、ゴミ箱から拾い集めた雑誌やカタログの記事をトレースして自作童話につける絵巻物を描き始めました。聖ジョセフ病院の図書室で愛読していた『不思議の国のアリス』と『オズの魔法使い』を乏しい小遣いから購入して生涯の愛読書とし、自作童話の教科書としていました。またダーガーは『ハイジ』やオリヴァー・ディケンズの下町少年小説、南北戦争前のベストセラーで根強い人気のあった『アンクル・トムの小屋』も愛読し、22歳の時のアメリカ映画史上最初の南北戦争スペクタクル映画の大作でサイレント時代の映画史上最大のヒットを記録した1915年の3時間半の大作映画『国民の創生』も観ていたので、熱心な信者だったダーガーのカトリック信仰に基づいた異世界ファンタジー(『オズの魔法使い』)、少女愛(『不思議の国のアリス』『ハイジ』)、下層労働者社会(ディケンズの下町少年小説)、奴隷解放運動(『アンクル・トムの小屋』『国民の創生』)の混交が、異世界ファンタジーとしての設定に「子供を奴隷とする悪の大人が支配する社会」「それに闘いを挑むヴィヴィアン姉妹とその仲間たちの両性具有の少女十字軍」という構想の土台となり、現実には社会に蔑まれ、唯一自分を蔑まないのは子供たちだけというダーガーに『非現実の王国で』の着想を与えたものと考えられます。
生涯童貞だったと考えられるダーガーの青年時代にはダーガーの見ることのできるメディア媒体には女性の裸体はタブーであり、養護施設時代に男児・女児の混浴はあってもバイセクシュアルであるダーガーには男女の裸体の区別は明確に認識されていなかったと思われ、ダーガーの絵画の女児たちの奴隷状態の裸体、また水浴画の多くには幼い男児のペニスが描かれており、またペニスのない女児も混ざっています。むしろ小児のペニスは天使=キューピッドの印として描かれていると解釈できます。ダーガーは33歳から何度も教会に養子を申請しては貧困を理由に却下され、児童愛的傾向があったのは確かなようですが、それを空想で充足させようとしてヴィヴィアン・ガールズたちの活躍する『非現実の王国で』とその絵巻物絵画を描いていたと断言することはできません。ダーガーに児童愛があったとしてもそれは性愛欲求に基づくものではなく、それだけを意欲の源に60年近い創作を続けることはできなかったでしょう。養子を得るのを諦めたダーガーは犬を飼う望みを抱きますが、タイプ用紙や縮小拡大トレース機材、画材などの創作のための出費を続けると犬を飼う餌代も足りないと断念したのが自伝や日記に記されています。
ダーガーは73歳の1965年、掃除夫の仕事を強制的に辞職させられ、以降は童話の推敲・清書・続編と絵巻物の創作とともに自伝の執筆も始めました。すでに30年来住んでいたアパートからは最小限の外出しかしなくなっていましたが、この頃からアパートの大家を任されていたネイサン&キヨコ・ラーナー夫妻が高齢のダーガーの生活状態を心配し、親身に面倒をみてくれるようになります。たびたびアパートの住民からゴミ箱漁りをする変な老人を追いだしてくれと苦情が来た時も、夫妻はダーガー老人をかばいました。ネイサン・ラーナーは1913年生まれで、シカゴのバウハウス派写真家として芸術界にデビューし、工業デザイナーになった人物でした。第二次世界大戦中は海軍に勤務し、照明や軍備のカモフラージュに才能を発揮し、戦後は家具や日用品、玩具のデザインに携わり、シカゴのイリノイ工科大学でデザイン教師も務めていました。ネイサンはその名の通りユダヤ系白人で、夫人のキヨコは日系人と、人種的偏見や社会的差別意識を持たない芸術家の夫婦でした。ラーナー夫妻は、ダーガー老人が部屋に入ることを許した唯一の隣人でした。またネイサン・ラーナーは1997年・84歳の逝去までのちに発見されたダーガーの全遺稿を守りぬき、余命をダーガー作品の美術界への紹介にキヨコ夫人とともに捧げた人物となりました。
ダーガーの退居後、部屋の清掃に入った大家のラーナー夫妻が見つけたのは、ダーガーが40年間拾い集めてきたゴミとガラクタの山でした。聖書や祈祷書、キリスト像やマリア像、宗教画やロザリオ、十字架、壊れたおもちゃ、テープで張り合わせたいくつもの眼鏡、左右不揃いのボロ靴、旧式蓄音機にレコードの山、紐で束ねた新聞や雑誌の束、床には消化薬の空ビンが転がっていました。トラック2台分のゴミを処分したあと、養老院のダーガーにいつか届けるため貴重品として取りのけておいた遺留品(ラーナー夫妻は美術品を見分ける見識と、ダーガーが大切にしていたものに配慮する親切心がありました)のうち、ネイサン・ラーナーはダーガーの旅行鞄から奇妙な原稿を発見します。それは、花模様の表紙に金色の文字で『非現実の王国で』とタイトルがついた、原稿15冊(全てタイプライターで清書され、7冊は製本済み、8冊は未製本)でした。さらに物語を図解する絵を綴じた巨大画集が3冊。数百枚の絵には3メートルを超える長いものもあり、粗悪な紙の表と裏の両面に描かれていました。それが余命半年のダーガー生前に初めて他人の目に触れた(しかしラーナー夫妻がダーガー生前に届けることが間に合わなかった)、ヘンリー・ダーガー60年をかけた秘密のライフワーク、『指輪物語』や『デューン~砂の惑星』『ドン・ファンの教え』、アイン・ランドやハインラインどころではない恐るべき規模の幻視的空想力の、あまりに早すぎた『少女革命ウテナ』だったのです。
(以下次回・不定期連載)
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