「総代で卒業の被災者」その注目がつらい 茶番に苦しんだ子どもたち |
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| 原発を取材して13年。福島から見える日本の問題を伝えます |
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3月末の卒業式が近づくにつれ、筑波大学4年だった斎藤真緒さん(23)は気が重くなった。
もともと式典には参加せず、後日、卒業証書だけ受け取るつもりでいた。
しかし、同月の上旬、大学の社会学類で成績が上位の「総代」になったと連絡があった。卒業生を代表し、謝辞を述べなければならなくなった。
学生生活ではいい思い出が浮かばない。指導教員の鈴木彩加准教授から過去の謝辞を「見本」としてもらっていたが、自分なりに正直な気持ちをつづってみた。
「つらいことばかりでした……」。鈴木准教授に見せると「謝辞っぽくないから書き直してください」と返された。
謝辞ができるまで往復3回。「結局、あいさつの最初は鈴木先生が考えてくれた文章で、最後のほうの家族に対する感謝の気持ちだけ、わたしが考えた文だった」
卒業式に出たくない理由には、友だちの少なさもあった。
単位をとるのに必要な最小限の講義しか出ていない。卒業式で写真を撮って喜び合う光景が頭に浮かばない。
「あの子、総代なのに友だちもいない『ぼっち』なの?とか思われるのが嫌だった」
仕方ないので、両親やきょうだいに助けを求めた。式の日の朝、父の寿輝さん(53)が福島県大熊町から来てくれた。
斎藤さんも大熊町に生まれた。小学校4年の春、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が起きた。自宅の周辺地域はいまも避難指示が続き、入るには国の許可証が必要だ。
「被災してから、自己肯定感がなくなり、だめ人間なんだと思うようになった」と話す。
鈴木准教授の目には「彼女はずっと闘っていて、ずっと怒っている」と映る。社会や行政が負うべき責任を、背負わされているようにも思える。
震災後、斎藤さんには何があったのか。
止まらない涙
斎藤さんは福島県いわき市にある福島工業高等専門学校を卒業し、2021年春に大学3年生として筑波大に編入した。
翌春、1年間休学した。その間、水俣病や四日市ぜんそくの被害者や、沖縄で戦争経験を持つ「語り部」たちに会いにいった。原発事故や津波以外の災害を学ぶためだった。
すると――。「社会への怒りを抱えた人の話を聞くうちに、塞ぎ込むようになった」。自分がどう生きていけばいいか、分からなくなったという。
卒業後を見すえ、休学中に企業の就職試験を受けた。学生時代に何に力を入れたか、面接試験で定番の「ガクチカ」を聞かれた。
「被災地をまわりながら、語り部の活動も……」。話しているうちに、涙が止まらなくなった。
面接担当者に「あなた、働けるの?」と心配された。就職には向いていないとあきらめ、大学院に進もうと考えた。
休学が終わり、卒業研究に取り組む。テーマは「『子どもたち』の東日本大震災」。原発事故のあった当時、自分と同じ子どもだった世代から話を聞いて研究した。
鈴木准教授によると、被災した当事者の立場で研究すると、経験者でないと分からない視点が見つかる。一方、自己完結型の閉じた研究になりやすいという難点がある。
「斎藤さんは卒論のテーマに悩んだときもあったが、ほかのテーマを選ぼうとしても被災者の研究に戻ってきてしまう。だったらこのテーマでやってみたらと助言した」
子どもたちの「像」
学業の成績は秀でていた。卒論の締め切りは1月だが、2カ月前にはほぼ仕上がっていた。
論文の中心は、原発事故を経験した福島の子どもたちの「語り」についてだ。子どもが発する言葉が大人に受け止められず、「浮遊状態」にあったのではないかという疑問で始まる。
被災した子どもたちが書いた文集を4作品、分析した。大半の子どもが文章の最後に、被災経験をかてに生きていこうとする内容で締めくくっていた。
斎藤さんには、読み手の気持ちを暗くしたくないという「大人の視線」が常に存在しているように読めた。
原発事故が起きた当時小学4年~高校2年だった5人に会ったり、オンラインで話を聞いたりした。「前向きに生きる」「負けない」という言葉はほぼなかった。震災を「乗り越える」というより、「折り合い」を見つけながら生きてきたように思えた。
「子どもたちのため」「社会のため」にと、大人が子どもの語りを誘導することもある、と指摘する。それは、報道機関にも当てはまる。斎藤さんは卒論で、自分の経験談をこう記した。
《筆者が地元の成人式に参加した際、友人が某報道機関の取材を受けた。取材者が「成人して、したいことは?」と質問すると、友人は「免許をとって車を買いたい」と即答した。
しかし、取材者は「いや、そういうのではなくて」と再回答を求めた。筆者はその光景に衝撃を受けた。
震災をテーマにする限り、視聴者が理解しやすい「子どもたちの像」が必要なのかもしれない。後日、成人式の報道を確認したが、やはり支援してくれた方への感謝や、復興に貢献したいと夢を語る姿がほとんどだった》(一部、加筆・修正)
子どもの側も、報道機関の発信に協力したり、発信を見聞きしたりしながら、「像」をつくっていった。像とは「悲劇」を乗り越え「前向き」に生きる姿だ。
「車という場違いなワードは排除され、像に適さない子どもたちの存在は不可視化されていく」と斎藤さんは言う。
悲劇のはじまり
わたしが初めて斎藤さんに会ったのは、休学を始めたばかりの22年5月だった。斎藤さんは大熊町で開かれた福島の未来を語るシンポジウムに登壇していた。
福島の除染で生じた汚染土の放射能濃度を下げて再利用する環境省の事業に、批判的な発言をしていた。東京の新宿御苑や埼玉県所沢市で同省が実証試験をしようとしたところ、住民から猛反対された事業だ。
斎藤さんに理由を尋ねると、批判している理由は放射能の問題ではなく、地元同意の不確かさだった。
7年前にさかのぼる。高専の3年生だった斎藤さんは、国際協力機構(JICA)のエッセーコンテストに作文を応募し、最優秀の理事長賞に選ばれた。内容は、1カ月留学したネパールでのボランティア活動。大熊町で被災した経験と、15年に大地震に見舞われたネパールとの違いをまとめた。
受賞をきっかけに取材や講演依頼が相次いだ。高専の5年になったある日、先生に呼ばれた。除染土の再利用を進める大熊町の催しに参加してほしいとの依頼だった。
「大熊町の出身として、町の人が再利用に合意するようにがんばってほしい」。除染土の再利用は福島県内でも疑問の声が上がっていた。
イベントは町内の復興住宅の花壇に、放射性物質をできるだけ取り除いた除染土を用い、花を植える催しだった。同じく大熊町出身の下級生と一緒に参加した。「復興住宅の人たちと信頼関係を築くため」と先生に頼まれ、山口百恵の「コスモス」や中島みゆきの「ファイト!」を歌う時間も設けられた。
「結局、地元が合意するという結論があって、それに自分たちが利用されていた。気持ち悪かった」。斎藤さんは「茶番」に気付いた。それ以来、除染土の再利用にまつわる催しは、出演依頼があっても断っている。
この春、大学院の1年生になった。世の中を悲観的にみる性格は変わらない。振り返ると、「エッセーコンテストで優勝したときから悲劇が始まった」。
いま、筑波大の総代で卒業した被災者として注目されることを避けたいと願う。「悲劇の再来だけは勘弁してほしい」。むしろ自分が被災者からいつ「卒業」できるかを考えている。
卒論で探りきれなかった「被災者の『折り合い』」とは何か、しずかに研究していくつもりだ。
筆者のおすすめ記事
原発事故が起きたときに子どもだった世代についての記事を紹介します。1本目は「故郷の選択」を尋ねた茨城大学の学生による調査。2本目は福島大の専門家へのインタビュー。最後に、今回のコラムに出てくる、除染土の再利用の是非について、わたしなりにかみ砕いて書いた記事です。 |
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