渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

中世までの三原の海岸線

2024年04月23日 | open



中世までの三原の海岸線を見て
みる。

これは三原市の教育施設に掲示
されていた中世までの海岸線の
図。


この海岸線を基に広島県立民俗
歴史博物館に展示してあった遺
跡地図に海岸線を引く。


すると、ほぼ「旧石器時代」
「弥生時代」「古墳時代」の
遺跡の位置とぴたりと符合する。
つまり、縄文時代を除くこれら
の遺跡は、海沿いに面して何ら
かの人の活動の痕跡があるとい
うことだ。その理由は?
生活用水としての河川の淡水資
源と海路との関係性があったこ
とだろう。
縄文時代は縄文海進があったの
で、この海岸線よりももっと内
陸部に遺跡がみられる。


これを基に現代地図に大まかに
海岸線をざっくりと引くと以下
になる。



つまり、三原は戦国時代末期ま
で海だった。

さて、ではなぜ戦国時代に急激
に沼田川(ぬたがわ)の土砂が
堆積してデルタ地帯→肥沃な穀
倉地帯と化したのだろうか。

縄文海進は自然現象だが、戦国
末期に河川に土砂が堆積してして

いった理由は、人為的な何らか
の上流部での掘削によるもので
はないか。

河口部における埋め立ては、江
戸期に入ってから盛んに行なわ
れた。
しかし、これは河口部周辺であ
る(現在の市街地)。
もう少し数キロ西の現在の田園
地区が海から陸地に変化したの
は何に起因するのか、私はそこ
に着目したい。

余談だが、縄文海進といえば、
関東のモデル図がよく出てくる。

どなたも小学校のときに習った
だろう。


ネットで見つけたシュミレーシ
ョンのモデル図がある。

これが、海面0m、つまり現在の姿。


縄文海進の平均値10mでのシュ
ミレーションではこうなる。



これが、最大の14m海面上昇だ
とこうなってしまう。


房総半島は島(笑

シュミレーションは →こちら
結構面白い。

ちなみに、富士山のふもとの
沼津市はこのようになるらしい。
(現在)


(縄文時代)


ここでもう一度広島県三原市
中世の海岸線の図を出す。


これは縄文海進ではなくその
後海面が下降した時代の海岸
線を斜線で示した。
縄文海進について引用したの
は、「三原=大昔から陸地と
してそこにあった」という前
提に立っている刀剣研究者が
ほとんどなので、「昔は海だ
った」ということをイメージ
化して空間で把握してもらい
たいためだ。
瀬戸内海が生まれたのは今か
ら7,500年前の縄文時代とさ
れている。
この図は、そうした縄文時代
のことではなく、海面下降が
安定しての縄文時代以降の戦
国時代末期までの海岸線を描
いている。縄文海進が終了し
ても、現在の三原地区は海の
中だったのである。

ということで、鎌倉時代末期
から南北朝にかけて存在した
とされている「古三原」の
刀鍛冶はどこにいたの?とい
うのが私の命題なのだ。
今の戦国末期の城がある三原
ではないことは確実なのだが、
いたとしたら、現三原市糸崎
の古代名「長井の浦」の海沿
いか、あるいはもっと内陸部
のどこかでしかない。
はたまた、全然ここらあたり
ではなく現尾道市や福山市の
どこかだったりするだろう。
「三原」という地名(陸がな
いのだから地名はなし)が存
在しなかった時代にいた刀鍛
冶を称して「古三原」と呼称
するのは、名称としても概念
としても絶対におかしいよう
に思える。その頃の三原は海
だ。

これが長井の浦=現糸崎(井戸
碕からの地名)。古代におい
ては、西に向かう海路の給水
地だった。
現在の三原城あたりは中世末期
まではこのような景色だった筈
だ。(撮影私)






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