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海の出会いと、陸の出会い。

普通、人と出会う時は陸だ。だが、私は新潟の海沿いで育ったので、初対面を海の中で果たすことがあった。私が海で泳いでいる時に、友達と、友達の友達が来る。全員が服を脱ぎ、男女問わず同じ海の中で泳いでいると、一気に仲良くなる。普段、その人が何をしているかなんて関係ない。社会的な肩書きが全部取り払われ、どうでもよくなり、なんでもよくなり、子供と子供が出会った時のように一発で仲良くなる。だが、陸に上がった途端に関係性が変わる。普段何してるのとか、普段何を考えてるのとか、言語が介入をしてくる。海の中ではあれだけ一体になっていたのに、どんどん、分断が進む。

分かるは「分ける」と言うが、本来、相手を理解するために使われるはずの言葉が交わされるほどに、断絶は深まり、相手との距離が生まれる。海の中では、ただ、一緒に泳いでいるだけでよかった。だが、陸の上では「ただ、一緒にいるだけ」では気まずくなり、言わなくていいことを言ったり、やらなくていいことをやる。言葉は空回りをして、気持ちは上滑りをして、結局、言いたいことの何も言えなくなる。本当は、言いたいことなんて何もなかった。ただ、一緒にいられることがうれしいのだということを、言葉ではなく態度や存在で示したかった。

海の中にいる私は、陸のコミュニケーションが取れない。陸の人々は、時折、不思議なことを言う。昔は良かった。夏には蛍が飛び、川には魚が泳ぎ、誰もが自然を愛して、誰もがお互いを思いやっていた。だが、今の日本にはそれがない。だから、昔の日本に戻るべきだ。日本人の誇りを取り戻すべきだ。そんな言い回しをよく耳にするが、私には意味がよくわからない。「昔はよかった」とか「昔はあった」とか、全部、嘘に聞こえる。全部、愚痴に聞こえる。表面的にはもっともらしく聞こえるのだが、私の心が「騙されるな」と警笛を鳴らす。今はないけれど昔はあったものなど、ない。昔はよかった。昔に戻ろう。これは、危険だ。私の心は、今も昔も永遠にずっとあるものを求めている。

人生がゲームだとしたら、一面をクリアしたら二面に行き、二面をクリアしたら三面に行く。ゲームをクリアするのは死ぬ時で、だから、死ぬ時までは全クリをしたとは言えないと思う。だから、私は、自分は答えを知っていると言う人を見ると「この人は止まっている」と思う。一面をクリアしただけで、全クリをした気になっているように見える。わかったつもりになっている人を見ると、この人は止まっていると思う。進んでいる人は、答えを持っている人ではなく、問いを持っている人だと思う。知らないと言うことを、知っている人のことだと思う。真の意味で、いいも悪いもないと言うことを、なんでもありだということを、すべては等価だということを、知っている人のことだと思う。

生きる一択。死ぬことはない。それが命だと思う。生命は「生きたい」とか「生きたがっている」などと言った類のものではなく、生きる一択のものであり、死ぬことも、滅びることもない。命は、永遠に生き続けている。死ぬことがなければ、ゲームが終わることもない。未知の海の中を、ただ、泳ぎ続けている。生きていることが一つの夢だとしたら、目覚めた時、私たちは何処にいるのだろうか。自由とは、恐れがないことだと聞いた。愛も同じことだろう。愛には恐れがない。だから、死ぬこともない。海の中では、ただ、一緒に泳いでいるだけでよかった。生きたいとか、生きたがっているとか、ない。生きる一択。生き続けている。生命に、死ぬとかない。生きている。生き続けている。

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おおまかな予定

4月21日(日)東京都新宿区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!

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