面白いだけで突破する。
東京在住の男性O様が「好きなことをやって生きたいけれど、生活のためにはやりたくないことをやらなければならない」と言った。この手の愚痴は五億回くらい聞いた。結婚しているからとか、親が心配するからとか、子供がいるからとか、もう、いい。人間関係のキモはいかに諦めてもらうかである。長所が愛されているうちはまだまだ。短所が愛されたら本物。お前は既に好きなことをして生きているじゃないか。子育てをしたいなら「子育てをしたいです」と言え。それを「子育てをしなくちゃいけない」とか、誰かのせいにするのはダサい。それを聞いた子供は「頼んでねーし!」と叫ぶだろう。
やりたいことをやりはじめると「みんながお前みたいにやりたいことだけやったら、日本はどうなると思っているんだ」的な説教を受ける。そんな奴には「世界で一番幸せな国になるんだよ」と言えばいい。やりたくないことをやらなければ生きていけない国など、滅びればいい。嫌なことをやらなければ経済は回らないと思い込まされるが、誰も正解はわからない。もしかしたら、全員がやりたいことだけやった方が、国も社会も潤い、不機嫌な人間は消え、自然は蘇り、消費は増え、不要な生産は減り、いい感じに回るかもしれない。誰も正解はわからないのに「ダメに決まっている」と決めつけることは、視野狭窄以外の何ものでもなく、怠惰だ。
O様には贔屓にしている政党があり、私にも応援するよう勧めてきたが、応援する訳がない。環境が悪いとか政治が悪いとか連呼する人は、そう言う自分が一番ダサいことに気づかない。反対!反対!と唱えながら、誰かがこんな悪いことをしましたよと、鬼の首を取ったみたいに騒ぐ連中は全員ダサい。そんなもので世の中は変わらない。お前らがやっていることは、突然家に押しかけて宗教をゴリ押しする連中と同じだ。やり方が下手くそ過ぎる。センスがない。お前らに足りないものはポエジーだ。踊れない革命は要らない。面白そうならやるし、面白くなさそうならやらない。それが人間の基本だ。
面白くも美しくもかっこよくもないものに、人間の心は動かない。義務で縛りつけることはできても、歓喜と共に踊ることはできない。停滞感や閉塞感を覚える時に、足りないものは正しさではない。面白さだ。美しさだ。かっこよさだ。面白さだけを追求していると美しさが欲しくなり、美しさだけを追求しているとかっこよさが欲しくなり、かっこよさだけを追求していると面白さが欲しくなる。これを延々と繰り返すのが海賊の新陳代謝であり、正しさが入り込む余地はない。正しさなど、時代によって変わる。キリスト教系の学校に通っていた私は、長髪を叱られた際に「キリストだって長髪だろ」と挑発をしたために、教師からぶん殴られた。
破滅型の人間は存在そのものがエンターテインメントになる。正しいからではなく、面白いから「もっと生きろ」と救済の手が差し伸べられる。正しさを基準に生きると、道を踏み外した途端に仲間だった人がいなくなる。面白さを基準に生きると、ヘマをしても「それでこそお前だ」と仲間は残る。どちらが本当の仲間かは、言うまでもない。私が死ぬ時は、私の人生が面白くなくなった時だ。迷った時は、面白くなる道を選ぶ。たとえ、それによって死ぬことになったとしても「ああ楽しかった」と言って死ぬことができる。これから東京に行くのだが金がない。金はないが大量に収穫した鬼クルミ(殻付き)がある。戦国武将はクルミを手のひらで転がしながら脳を活性化させて作戦を練ったと言われている。誰か、私の鬼クルミと何かを交換して欲しい。家の中で悶々とするより、俺に会って鬼クルミを獲得して掌で転がしながら考えた方が、明るく前向きな結論が出ると思う。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!