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地下二階の秘密

地下二階の秘密 - インドの大運動会/ドスベロの小説 - pixiv
地下二階の秘密 - インドの大運動会/ドスベロの小説 - pixiv
48,341文字
地下二階の秘密
地下二階の秘密
足を怪我したフロイドが、クルーウェル先生の別荘に一ヶ月引き取られます。
その別荘の地下にはある秘密が隠されていて…?みたいな話です。
最後まで読むと何があったのかわかる話です。
ハッピーエンドです。

ホラーなので残酷な描写があります。
直接的な表現はありませんが、具合が悪くなる場合があるのでご注意ください。
嘔吐表現あり
捏造強め
なんでも許せる人向け。
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2020年11月12日 15:37


【PM3:00 1日目】



「……」

鼻の下が固まっている感覚がした。
親指で擦ってみると、カサブタのザラ付いた感触と濡れた感じがする。見れば血が付いていて、鼻血を出していたことが分かった。

「…ン"」

フロイドは眩しいながらにやっと目を覚ます。暗い室内に見覚えは無い。
鼻から強く息を吸って、ボーッとした頭で周囲を見回す。

何処だろ、ここ。
いつの間に寝ていたんだろ。
寝具にも見覚えはない。見たところ室内はホテルというわけでもなく、知らぬ屋敷の客室という感じだった。広いベッドは白く清潔で、しかし枕だけが彼の鼻血で汚れている。

「…?」

寝返りを打とうとした瞬間。左足に違和感を覚えた。深い麻痺感があって、布団の感触が遠く感じる。彼はやっと起き上がり、自分の足を触った。すると左足は冷え過ぎてかじかんでいるような…血が通わなくて痺れているような、そんな感覚がするのである。
つねっても感覚が無くて、変だった。

見知らぬ部屋。
感覚のない足。
失っている昨夜の記憶。
鼻血。
現状の異様さに目が覚めた彼はベッドの上に座り、カリカリと頭を掻いた。履きっぱなしだったらしいスニーカーを脱ぎ、胡座をかく。
膝から下は他人の足みたいに重くて、上手く言うことを聞かなかった。そのまま暫くボーッとしてから、ゆっくりとベッドから下りる。

「っお、っぶね」

バランスを崩して危うく転倒しかけた。壁に手をついて事なきを得るが、立ってから自分の足の深刻さに気が付く。
直立しようとすると力が全く入らず、不自然に痙攣するばかりなのであった。右足は無事だが、左足が随分まずい。ベッドに座ってズボンをまくれば、脹脛に縫い目があった。
見覚えのない手術の跡がある。
フロイドは慌てて自分のスマホとマジカルペンを探した。探したけれど何処にもなくて、唐突に胸の奥が冷たくなる。
これは一体どういうことだ。
昨夜一体、何があった。

「入るぞ」
「っ、」

ノックの音が聞こえた。
聞き覚えのある声がして、ドアが開く。
フロイドはズボンをまくった格好のまま口を開けてその方向を見つめた。
光がさし、そこに立つのは、デイヴィス・クルーウェルである。フロイドはその途端とろけるような安堵を感じてため息をついた。

「イシダイせんせぇ…」
「やっと起きたか。お前、2日寝通しだったぞ」
「え。マジで」

見知らぬ場所で見る知り合いの顔に安堵し切った彼は、思うより従順にクルーウェルの姿を視線で追いかけた。
彼はカツカツ暗い室内を歩き、赤いカーテンを開ける。外は明るいが生憎の雨である。
灰色の光が室内にさした。それが眩しくて目を背け、強いまばたきを繰り返す。

「ねぇ先生足。足見た?オレの」
「は?」
「見て」

フロイドは顔をしかめて自分の足を指差す。縫われた跡を見せれば、クルーウェルは不思議そうな顔をした。

「ああ。ウン」
「動かないんだけど」
「…お前、どうしてそうなったのか覚えてないのか?」
「え。覚え…?てない」
「…そうか。無理もない」

クルーウェルは途端に哀れむ顔をして、フロイドの頭に手を乗せた。そのままサラサラと撫でられれば、びっくりするのはフロイドの方である。自分は何か哀れまれるような状況なのだろうか。
まさかこの足、もう動かないとでも言うのか。

「え。え、何。怖いんだけど」
「分かった。説明する。…お前鼻血」
「い"っ」
「ほら、動くな」

僅かにパニックになれば、クルーウェルは努めて冷静にティッシュで彼の鼻血を拭った。フロイドは顔を歪めたが、大人しく拭かれるままにした。異様な状況下で混乱した頭は目の前の大人に頼ろうとする。

「食事にしよう。安心しろ、足は治癒する。動かなくなるわけじゃないから安心しろ」
「…ここ何処?」
「オレの別荘だ。それについても説明する。ほらこれ、お前の杖だ」
「…わかった」
「Good boy. 歯を磨いてこい」

両頬を片手で掴まれ、ぶにっと唇が突き出した。彼の子供扱いはいつも唐突である。しかも反応する前には手を離されているので、フロイドはいつもなんの反応もできなかった。
これは他の生徒も同様である。多分、人が油断しているタイミングを突くのが上手いんだろう。

フロイドは松葉杖をついて、ガツン、ガツン、と巨大を揺らして歩いた。洗面所の場所を教えられて向かう。口内の粘ついた唾液を先に吐き出し、新品の歯ブラシを包装から出して歯を磨いた。

「覚えていないのか」と言われたが、本当に全く覚えていない。ラウンジの仕事終わりに風呂に入ったところまでは覚えてる。
そこから購買に行こうとして…。
どうしたんだっけ。
それに、この病院服みたいなのはなんなのだ。

「べっ」

歯茎から血が出て、歯磨き粉が混じった白い唾液は僅かに赤かった。
顔を水で洗い、松葉杖を掴んでガツンガツンとリビングへ歩いていく。

「熱測れ」
「?うん」

椅子に座れば、体温計を渡される。
熱は34.6度。フロイドの平熱は32.6度。なので少し熱が出ている。人魚は体温が低いのであった。

「熱あるか?」
「あった」
「いくつだ」
「んとね、34.6。結構出てんね」
「じゃあ食べたら薬飲んで寝ろ」

クルーウェルはキッチンのシンクを物凄く神経質に拭きながら言った。テーブルには食事が並べられていた。彼が作ったのかどうかは分からないが、彩りは鮮やかである。
熱を自覚すれば、確かにボーッとするような感じがあった。フロイドは大きな窓から見える庭の芝生と、遠くの湖を見つめてゆっくりまばたきをする。
雨はゆるやかであった。

「センセー」
「ん?」
「なに?オレ事故ったの?」
「事故と言えば事故だな。お前、左足は痛むか?」
「全然。感覚無いけど」
「なら良い。…お前な、喧嘩に巻き込まれたんだよ。魔法で作った電ノコの歯が足に突っ込んだ」
「ハァッ?」
「つまり魔力の塊が左足に食い刺さったんだ。お前の友人が救急車を呼んで、できるだけ抜いたが…お前の魔力も同時に抜くことになった。だから動かないんだよ」

フロイドは下唇を引き伸ばして固まった。
魔法で作成された物体というのは、つまり魔力を形にしたものである。それが体に刺さったとあれば、他人の魔力が体の中に入るということ。
深く刺されば刺さるほど致命傷になる。今回は足だったからなんとかなったけど、一歩間違えれば死にかけていた。
しかも魔力を抜く治療は胃洗浄の何倍も辛く、想像を絶する痛みである。フロイドの記憶が飛んでいるのも無理はない。

「ッそ(嘘)でしょ…」
「無論問題を起こした駄犬は退学処分になった。お前の足は1ヶ月程度で完治する」
「………」
「体調が悪いのもそのせいだ。養生しろ。災難だったな」
「だからオレ隔離されてんのぉ?」
「そうだ」
「最悪…」

魔力を抜いたということは、今彼は魔法を使えない。それに他人の魔力にも敏感になるので、学園にもいられない。だからフロイドは入院後、こうしてクルーウェルの別荘に引き取られたというわけだ。
なんだってオレがこんな目に。
ムカつくのに頭がボーッとして言葉にならなかった。
フロイドは額を抑えてテーブルに肘をつき、暫し無言で様々な感情を消化する。

「ほら」
「いらね…」
「いいから着ろ」
「………」

肩にカーディガンをかけられ、黙って着る。多分これはクルーウェルのものなのだろう。彼の匂いがした。

「大人しいな。暴れるかと思ったんだが」
「そんな気力ねーし…」
「何にせよいいことだ。そのままお利口にしてろ。ほら、薬」
「食後?」
「食前二錠」

フロイドは黙って貰った薬を袋をから出し、大人しく飲んでもそもそご飯を食べ始めた。
カーディガンは暖かく、寒かったことに気がつく。嫌な気分だ。
頭も何となく痛いし、目が渇いている。
風呂に入っていないから体が気持ち悪い。
1ヶ月松葉杖で生活するなんて最悪だ。

「オレは昼間仕事でいない。その間の飯は自分で作れ。夜はなんとかしてやる」
「……」
「お前がすることは大人しくお利口にしていることだ。とにかく汚すな。散らかすな。漁るな。寝ろ。二階はオレの部屋があるから上がるな。あとは好きにして構わん」
「…オレの荷物はぁ?」
「後で届けてやる。あとは…そうだな。リハビリがてら外に出ても構わんが、遠くには出るな。鍵はテーブルに置いておく。死んでも無くすなよ」

スープをずりずり飲みながら、細かく指示をする彼の顔をぼんやりと見つめた。
入院みたいなものだ。この男の家にいるというのは落ち着かないが、トレインよりはなんとかマシ。
クルーウェルも多分世話を押し付けられたのだろう。学園長あたりから。
つまり、2人はどちらも被害者というわけだ。

「お前のマジカルペンは学園で保管している。完治したら返してやるから安心しろ」
「えっ…1ヶ月魔法使えねーの?」
「仕方ないだろ」
「誰?オレに怪我さしたやつ」
「…ジョージ・マルコだ」
「ハァ?ふざけんなよあの全体主義!」
「口の悪い…」
「…シめていい?良いよね?」
「はしゃぐな。大人しくしろ」
「だからローズは嫌いなんだよ、野蛮人ばっかじゃん」
「教師の前で人種差別をするな。オレだってローズ人だぞ」
「あは。どうりで!」
「バカ犬」

クルーウェルは荒れるフロイドの後頭部を押さえつけた。彼は顔を真っ赤にして、自分の思い通りにいかないことへの不満を全体で表現する。クルーウェルはそれに対して怒っちゃいない。むしろ思ったより大人しいなとすら思う。
もっと暴れると思っていたのに、威勢がない。具合が悪いんだろう。
可哀想なことだ。

「…オエッ」
「ほら、はしゃぐから」

胸の奥から吐き気がせぐりあげて、フロイドは口元を覆った。黙れば外から雨の音が聞こえる。
ザーッ、と、水滴が飛沫を上げて跳ねる音。
海の中とは違う水の音。
額に手を当てられる。クルーウェルの手は冷たかった。

「熱が上がってきたな」
「気持ち悪い」
「そうか。部屋に帰って、寝てしまえ」
「…センセェ仕事は」
「もうそろそろ行く。18時には戻る」
「アッソ」
「ほら。お前の携帯」

部屋に松葉杖と共に戻され、ベッドに寝転がる。
あんなに寝た後で寝れるわけがないと思ったのに、フロイドは結局携帯を触る気力もなく枕に沈んでしまった。目を閉じてジッとしていれば、クルーウェルの足音が聞こえ、玄関を出る音が聞こえる。車の発進音が聞こえ、嗚呼行ったなと思えば少し気が楽になった。
だからと言って起き上がる気力もない。目の奥が痛むし、脳みそが熱で膨張している感じがするのだ。

フロイドはゆっくり丸くなり、自分の左足が気になって触り続けた。足は他人の足を縫い付けたみたいに感覚が遠くて、触っても触っても変な感じがする。
ため息を吐き、寝返りを打つこともなく。髪の毛が枕と耳の間に挟まって鬱陶しいのに、そのまま彼は眠ってしまった。





【AM6:00 2日目】


「おはよぉ」
「なんだ、速いな」
「だってずっと寝てんだもん」

フロイドは風呂上り、ガツン、ガツン、と松葉杖を床に打ち付けて歩き、リビングのソファに座った。
三日間汗をかいて寝通しだったので、風呂に入ればさすがに生まれ変わった気分になる。濡れた髪はさっぱりしており、多少の頭痛はするものの気分が良い。

「センセーもう仕事行くの?」
「いや、あと1時間ある。朝食は?」
「いるぅ。なんか作って」
「機嫌が良いな」
「うん」

クルーウェルはコートを着ておらず、ワイシャツとスラックスだけだった。テーブルの前で腕時計をつけており、僅かに微笑んでいる。
フロイドの調子が戻ったことに安堵しているのだろう。

「ねえ、此処どこなの?」
「学園の近くだ。この辺りは民家が少ないからな、静かで気に入ってる」
「建てたの?」
「中古で買った」
「フーン。なんかホラー映画に出てきそうだよね。人里離れてるし」
「滅多なことを言うな…」
「気にしてんのお?」
「昨日カルメンホラーショーを観たばかりなんだ」
「こんなとこで観んな!」

フロイドはガバッと口を開けて笑い、ソファの背もたれを叩いた。彼は意外と普通にクルーウェルと話せていることに機嫌を良くする。
学校と同じテンションで来られちゃ面倒だし、気が滅入るから。
「エサだ」と言われ、テーブルに食事をおかれた。
片足で移動する。1ヶ月を経つ頃には右足がムキムキになっているだろう。最悪だ。
体温計で熱を測れば、33.2度。少し下がっている。薬を飲んでパンをかじった。

「イシダイせんせぇさぁ、なんで別荘買ったの?」
「…今の家に良い思い出がなくてな。休日はほとんどこっちに引っ込んでいるんだ。それに広い研究室も欲しかった」
「そう言えばバツ1だっけ」
「バツはギリギリついてない。婚約破棄だ」
「泣いても良いんだよ」
「黙れ」

クルーウェルの持つナイフが肉を裂く。
赤い断面が見える。髪をまだセットしていない彼は、適当にオールバックにしたままだった。
フロイドは携帯を片手に珈琲を飲み、冷えピタを剥がしてゴミ箱に捨てる。

「ねえ、1ヶ月暇なんだけどぉ。オレの部屋からスイッチ持ってきて」
「安心しろ。退屈はさせない。課題ならいくらでも出してやる。単位はそれで免除だ」
「誰か助けて!」
「誰も来ないさ」

煙草に火を付ける。
煙が僅かにフロイドの顔にかかった。

「1日5枚提出で勘弁してやる。わからないところがあれば聞け。オレがつきっきりで見てやる。嬉しいな?飛び跳ねて喜べ。鉄板の上みたいに」
「オレ股とか舐めよっか?」
「どんだけ嫌なんだよ」

クルーウェルは煙草の煙を勢いよく吐いて大笑いした。不意打ちを食らったのだろう。フロイドも自分で言っておきながら引き笑いをしてジャムを塗った。
反響する笑い声は、夏みたいな音がした。
クルーウェルはキッチンに戻り、コーヒーのお代わりを入れる。そこでまた神経質にシンクを磨いた。
潔癖なんだろう。

「やだぁーっ。課題やりたくない。てかオレ被害者じゃん。免除してよ。具合悪ィの!」
「手と頭は無事だろう。熱が下がるまではよしてやるから」
「…課題何?薬学?」
「ああ。テスト範囲だ」
「テスト満点取れてりゃいーじゃん…」
「内申点」
「オレの内申点なんてもうどうせマイナス被ってるでしょ」
「自覚があったのか」
「自分のことは自分が一番わかるの」
「いいから、オレの家に居る限りはオレの言うことを聞け。他人を家に入れるだけでゾッとすると言うのに…」
「他人じゃねーよもう家族だろ」
「お前は順応力が高過ぎるんだ」

フロイドは左足の縫い目を触りながらつまらなそうな顔をした。先の生活に暗雲が差したからだろう。教師に引き取られると言うのはこういうことだ。どうせなら実家で養生させてくれればいいのにと思ったけど、この足では泳げない。
海にも帰れない。
だから、クルーウェルに白羽の矢がたったのだろう。
…辺鄙な場所だ。暇潰しもない。
外に出たって仕方が無いし。この足じゃ歩くにも疲れる。松葉杖には慣れてないし。

「つまんねーの…」

せめて学校にいられたら良かったのに。
家にいたってつまらない。こんなところにいるから病気になるような気がする。

「せんせぇさぁ、」
「悪いが時間だ。もう出る」
「……あっそ」
「18時に帰ってくるから、お利口にしてろよ」

彼は髪をセットし、コートを着て出て行った。
窓から彼の車が遠ざかっていくのが見える。
フロイドは濁った咳を一つ二つして、頭痛薬を飲んだ。
携帯には着信とメッセージが随分と溜まっている。内容は大体、「無事?」「生きてる?」「お前今どこ?」「レイバンのサングラスが今日だけ2499マドル!」だった。
ちなみにレイバンのサングラスについて送ってきたのはスパムではない。友人だ。
フロイドは笑いながらそれに対して返信を打つ。
友人達に返信を返したり、タイムラインを確認していれば友人から電話がかかってきた。
ソファに寝転がり、長電話をする。どうせ動けなくて暇だから。
肌寒いので勝手にクルーウェルのワイシャツをTシャツの上から着る。カーディガンを着て暫く話した。

『フロイド?今どこ?』
「え、分かんない。待って地図アプリ見んね」
『うん』
「見てもわかんねぇ」
『どこだよ』
「なんかねぇ、イシダイ先生の別荘。山ン中?っぽい」
『愛人呼ぶ場所じゃん』
「ね。近くに湖あんの」
『じゃあ多分人殺して沈めてんじゃん』
「分かる」

笑いながら通話をしていれば、電話越しにチャイムの音が聞こえる。もうそろそろ授業が始まるようだ。惜しいけれど仕方なく電話を切って、やることもないので仮眠を取り、映画でも観ることにした。
居心地の良いソファに横向きに寝そべり、ボサボサの青髪をかきあげて携帯をいじる。
そしてクルーウェルが言っていたカルメンホラーショーを観た。昔一度見たきりで内容はほとんど忘れている。
確かに名作扱いされてるけど、そんなに怖かったっけかなと。フロイドは唇をいじりながら映画を観て、焼けるような後悔をした。

内容は1983年、輝石の国。
とある別荘地へキャンプに行ったきり行方不明になった5人組。警察が現場に踏み込んだ頃には、彼らはすでに死んでいた。
死因を調査したがどれも不審な死を遂げており、直接的な原因は掴めなかった。
手かがりは、5人のうち1人が残していた不可解なテープのみ。
そんな5人になにがあったのかを探るべくやって来た心霊捜査官の話である。
ベタ中のベタ、王道中の王道。
けれど名作扱いされるだけあって面白い。

地下から聞こえる謎の声。
屋敷に隠された秘密。回収されるテープの伏線。満を辞して出るゴースト。
フロイドは見終わる頃にはスッカリソファで小さくなり、目を細めて動けなくなった。
正直なめていた。彼はホラー映画好きでしょっちゅう観るけれど、やっぱりカルメンホラーショーは別格である。
しかも置かれている状況が状況だ。湖の近くの別荘。周辺に人はおらず、圏外…ではないのが救い。
映画と自分の状況が酷似しているフロイドは怖くなって、意味もなくソファから起き上がって背後を確認したりした。
観るんじゃなかった。
怖過ぎる。
1人で見るもんじゃねぇし、こんな状況で見るもんじゃねえ。

「……。追いホラーしよ…」

しかし彼はたくましい。せっかく怖いならもうドン底まで落ちてしまえと、アプリで別のホラー映画を観た。新作のものから旧作まで、冷蔵庫の中の軽食をつまみながらゴロゴロ観た。
そしてキッチリ体が冷え切り、もうちょっとも動けないくらい怖くなる。

そうしていればいつの間にか日が落ちており、屋敷の中は暗い。電気も付けずにいたのだから当然だ。足が悪いとなにをするにも面倒くさいのだ。

SNSのタイムラインを見て気持ちを誤魔化す。
友人達はいつもと変わらない。怖くてもうダメで、ジェイドに電話をかけた。しかし出ない。
他の友人に電話をかける。つながらない。
忙しいのか部活中なのか。

「ッ!」

突然、キッチンから巨大な音がした。
フロイドは心臓に冷たい針を刺されたのかと思うほど驚き、巨大な目を暗闇の中でパチっと開いた。開いたまま固まった。
シンクに何かが落ちたような、そんな音がしたのだ。
キッチンはちょうど背もたれで見えなくなっている。起き上がって確認しなければならない。

「…ぃやっべぇ〜…」

口の中で呟き、恐る恐る体を起こした。
しかし何があるわけでもない。
ゴーストがいるわけでもない。
流石に気になって、松葉杖を持った。
ガツン、ガツン、と杖をつき、キッチンへ行けば。なんのことはない。立てかけていたまな板が滑って落ちただけだった。

しかしタイミングが良過ぎるというものだ。お誂え向き過ぎるし、何か嫌な前兆としか思えない。自分の想像力が豊かなせいだと蓋をしたいところだが、因果関係が全くないとは思えないのである。
フロイドはやっと電気を付けて、時計を見て…ガツン、ガツン、とヨロヨロ玄関に向かった。暗闇から逃げるように屋敷を出て、階段をゆっくり下る。
屋敷の中にいるのが怖かったから、外に出ようと思ったのだ。

「あ。犬いる!」

と、そこでやっと彼に笑顔がさした。
家の前に大きな犬がいたのだ。フロイドはしゃがんでチッチッと人差し指を曲げる。
女の口紅みたいな、赤い毛並みの犬だった。

「噛まない?噛む?…あは。噛まなぁい」

犬はゆっくりと歩いてきて、フロイドの耳の辺りをペラッと舐めてくれた。優しい感触と体温に喜色ばんで、長い毛をワシワシ掴むように撫でる。犬は非常に大人しく・聡明であり、細長い顔を前に向けて彼の隣にドッシリ座った。

「ご主人サマ遅いね」

夕暮れの外は霧が降っている。
あたりは暗く、庭を照らす灯りが霧の中で白く反射していた。しけった外は寒い。
フロイドは犬の背に右手を乗せて、ジーっと外を見つめていた。薬のおかげで頭はだいぶ冴えている。
回復したら湖の辺りを歩こうと思った。
一週間も経てば、足は少しマシになるだろう。
引きずってなら歩けるはずだ。

「ワウゥ、オウ、ボフ(お前離し飼いされてんの?」
「………」
「マジ?無視?」

動物言語で話しかけてみたけれど、犬は全く話さない。チラッとこっちを見るがそれだけである。老犬はしかし馬鹿にしている雰囲気でもない。ただ外を真剣に見つめているのみだ。

「…あ」

車のライトが見えた。
静かな走行音が聞こえ、それは屋敷の近くに止まる。フロイドは座ったまま車を黙って眺めた。犬は真っ直ぐ車へ走って行き、運転席を足で引っ掻く。
そうすると煙草を咥えたクルーウェルが、ゆっくりと車から降りてきた。
霧で彼の輪郭はぼやけていたが、モノクロの毛皮が風に揺れているのが見える。

「遅ぇ!」

フロイドはクルーウェルの姿に思い切り声をぶつけた。クルーウェルは黙って屋敷の前まで歩いてきて、眉をチョイと上げる。

「リーチ」
「18時に帰るっつったじゃん」
「言ったが…。まさか待ってたのか。ここで」

クルーウェルは目の下に小さなシワを作って笑った。掻き毟るように頭を撫でられ、ギュッと顔をしかめる。

「忠犬じゃないか」
「カルメンホラーショー観た」
「アッハッハッ。観るなそんなもの。だから待ってたのか」
「だって家ン中で1人なんだもん」

クルーウェルのシャツを着た彼は、1人が怖くて待っていたくせに、痺れる程かっこよかった。頭身の高い体は霧の中でよく映える。目の下にシワを寄せる仕草は大人びていて、ヤケに色っぽかった。
フロイドは「熱が悪化する」と言ってコートをかけられた。コートは重く、特徴的な香水の香りがする。

「この犬名前何?」
「ジン」
「メス?」
「オス。お前の荷物持ってきたぞ」

ジンと呼ばれた犬は彼らの後ろをついて歩く。フロイドは松葉杖を抱え、手すりを駆使して階段を上った。
クルーウェルは案外それを待ってくれる。

「熱は?」
「下がった」
「食事にしよう。酒を作ってくれ」
「え〜…気分じゃなぁい」
「わかった。ならそういう気分にしてやる」
「オレ他校にカノジョいて付き合って2年目なんだけど海に戻ったら結婚するつもりで子供は3人作ろうかなって話が出ててさっきも電話してたし最近お揃いの指輪買って次はピアス揃えようかなって思ってて」
「必死かよ。ジョークに決まってるだろうが」
「あぶね…」
「恋人がいるのか」
「いない」

家の中はホッとするほど暖かかった。湿気で指先が湿っていて、わずかにかじかんでいる。
外はまだ寒い。そろそろ春が来るというのに。

「何が食いたい」
「回鍋肉」
「風邪っぴきが…?」

犬が遊べと手を舐める。フロイドは鼻面を掴むように撫でて、ソファに転がった。

「じゃ作り終わったらLINEして」
「泣かすぞBad boy」

彼は腹に乗ってきた犬の背中に手を乗せて、安堵して目を閉じる。
今日は陰気な昼だった。
マ、明日はきっと晴れるだろう。



【PM1:00 8日目】


松葉杖の生活に慣れてきた。
ここでの生活にも違和感はあまり感じなくなり、フロイドはやっぱりリビングでダラダラしながらゲームをしている。

朝に起きればリハビリがてら犬のジンと周辺を歩き、息が上がれば家に戻る。気が向いたら昼食を作って食べ、映画を見るかネットショッピングをするか寝るかの自堕落な生活をした。
夜になればクルーウェルと食事をし、部屋に戻って友人と長電話をする。
退屈になれば一生懸命フウフウ言いながら二階に上がってクルーウェルの部屋に入り、「ヒマ」と言ってベッドを陣取る。課題を出されて大喧嘩する。
そんな日々の繰り返しであった。

フロイドは人に気を遣わない。だというのに人に不快感を与えない男だった。彼に勝手に冷蔵庫を開けられようと、布団で勝手に寝られようと、仕方のないやつだなとは思えど大した怒りは湧いてこない。

だから2人の生活は存外上手くいっていた。
クルーウェルとの同居は互いに干渉し過ぎない方が上手くいくのだが、ここはフロイドの独特なコミュニケーションの取り方+自然な狭過ぎるパーソナルスペースが勝っているようである。
なのでフロイドはよくよく意味もなくクルーウェルの部屋に入り、仕事をしているクルーウェルの横顔と出された課題を至近距離で撮影して『情操教育の敗北』という文言をつけてマジカメのストーリーにアップしたり、勝手に彼の服を着たり仕事をしているデスクの上に大の字になったりしていた。
暇なのである。暇で仕方がないのだ。
そんなことをしても許されるのは、結局彼が可愛いやつだからだった。

「あ?」

いつも通りソファでゴロゴロしていると。
犬が突然起き上がり、玄関に走っていった。まさかと思って窓の外を見れば、彼の車がいつの間にか停められている。
階段を上ってくる姿。玄関が開く音。
フロイドはゲーム画面をポーズにして、ソファに戻る。

「おかえり〜」
「ああ」
「なに?今日早くね?」
「一旦帰ってきたんだ。少ししたら戻る」
「ふーん」

所要があったようで、クルーウェルは鞄の中に書類を入れながら言った。帰ってきた彼からは外の匂いがする。
少しすれば落ち着いて、彼はタバコに火をつけ、キッチンの近くの丸椅子に座った。彼のいつもの位置だ。

「あのさ、イシダイせんせぇ」
「ン?」
「先謝っとく。ごめん」
「なんだ…嫌な予感がする」
「コレ」
「は?」
「壊した」

フロイドは壊れたティーカップを持って見せた。
珈琲を作ろうとした際、肘にぶつかって落としてしまったのだ。これはよくクルーウェルが使用していたもので、高そうな食器だった。
フロイドはあちゃーっと思ってなおそうとしたが、魔法が使えないのでどうしようもなかった。
取っ手だけ綺麗に取れてしまったのだ。

「持つとこ取れた。ティファールにしちゃった」
「フッ」
「怒る?」
「良い。特に思い入れもないしザッパ物だ。捨てておけ」
「ふーん」
「素直に言えたことは評価してやる」

フロイドは鼻をすすって立ち上がり、ガツンガツンと松葉杖を打ち付けて冷蔵庫へ行く。アイスを取り出し、ソファに戻った。

「薬は飲んだか?」
「飲んだ」
「熱は」
「もう無い」
「にしては鼻声だな。何か買ってきてやる」
「うん」

彼は話すことに飽きたらしく、黙ってピアスをいじりながらネット通販を始める。クルーウェルは犬を撫でてやりながら軽食をとり、フロイドの丸い後頭部を眺めた。
なにだかデカイ息子ができた気分である。マ、もし本当に自分の息子ならこんな風には育たないだろうが。

空調の風によって、寝癖で跳ねた青緑の髪がそよぐ。暫くそれを見ていれば、突然彼が振り返った。

「センセー」
「なんだ」
「この家の地下さ。人いる?」
「えっ?」

突然フロイドはそう言った。
その言い方は静かで、迫力があった。クルーウェルはなんだかドキッとして彼を見つめる。

「人?」
「犬でも良いけど。なんかしら居るでしょ」
「やめろよ…何もいない。なんだ。まさか何か見たとか言わないだろうな」
「マジ?なんもいない?」
「犬はジンだけだ。この家にいるのはお前とオレだけだぞ」
「え〜…。絶対気のせいじゃ無いと思ったんだけど…」

フロイドは苦い顔をして頭をかいた。クルーウェルも渋い顔をして、煙草の煙を深く吸う。

「勘弁してくれよ。オレはお前がいなくなってもここに住むんだぞ」
「いや別に怖がらせるつもりないけどさぁ…。なんか気配したんだよねぇ。オレ昼一人じゃん?でもなんか、絶対オレ一人じゃねぇんだよ」
「それが怖がらせるつもりなんだろうが…」
「センセー怖がり?」
「月並みに」
「いや、お化けとかじゃなくてさ。なんか生き物っていうか…。じゃあアレかなあ」
「なんだよ」
「ほらホームレスとかってさ、気付かれないように人の家に住み着くっていうじゃん。古い家とかデカイ家は結構よくあるんだって。屋根裏とか、地下とか勝手に住むらしいよ」
「………」
「人がいない時に冷蔵庫の中のもん掠め取ったりするって。やけに家鳴りが多い家だと思えばホームレスだったってケース聞くでしょ。それかもね。家に住み着いてたヤツに殺されて埋められた話知らねえ?家の主人が交代したんだってさ」
「………」
「…あは。なあに!怖いの?怖いのデイヴ〜?」
「よせ。気色が悪い!」
「可愛いね〜っ。ちゅ」
「グッ」

フロイドはカラになったアイスを持ってそばに寄り、クルーウェルの頭を撫で回した。彼の髪はワックスで硬い感触がする。
極め付けにこめかみにキスをすれば青筋が立って、フロイドはアハアハ笑いつつゴミを捨てた。
クルーウェルはやっぱり彼を自分の息子のようには思えないと思った。自分には思いつきもしないスキンシップをするからだ。

「お前の話は妙にリアルで最悪だな」
「可能性の話じゃん」
「その可能性があたらずも遠からずだ。心当たりがあるんだよ…」
「え。なに?」
「ホームレスではないがな」

フロイドはキュッと細い眉を寄せて身を乗り出した。少しきな臭い話になってきたからだ。
ワクワクする反面、ちょっと怖い。

「この家は中古で買ったと言ったろ」
「ウン」
「もともと、此処は地下二階まであったんだ」
「もともと?」
「ああ。が、今は地下一階までしかない。買った頃にはもう、二階は埋められていた」
「え」
「コンクリートでガチガチだ。何故埋められたのかは知らん。そのせいで安くなっていたから買ったんだ」
「……いや…」
「うん」
「ダメじゃん」
「そうだな」
「怖過ぎじゃん」
「今まで特に何もなかったけどな。人魚は気配に敏感だから…何かに気付いたのかもしれん」

フロイドは前のめりになっていた体を後ろにそらし、顔を引きつらせた。
最悪だ。なんて物件買いやがる。
ていうか、そんな場所に昼間一人でいたのか、オレは。
それではあの気配はなんだというのだ。
埋められた地下二階の怪異だとでも。

「それがオレの心当たりだ。気になるなら見てくると良い。では、オレは仕事に戻る」
「え?連れて行けよ」
「ダメに決まってるだろう。大人しく寝ていろ」
「いやむりむりむりむり」
「なんだ、お前も劣らず怖がりじゃないか。それに1人じゃない。1人と1匹だ。なぁジン」

犬は呼ばれてこちらを見るが、見るだけでなんの言葉も介さなかった。
フロイドは汗ばんで額を覆う。
確かに、犬がいるだけマシか…。

「では、18時に戻る」





【PM3:00 10日目】


フロイドは自分で作ったポテトのパイを食べていた。するとジンがソファに登ってきて、その鋭い顔でフロイドをジッと見詰めた。ジンの鼻面はほぼ頬に触れている。
そんな圧倒的な圧をかけ、「寄越せ」と全身で表現しているのだ。
フロイドは犬を飼ったことがない。友人にも犬を飼っているヤツは居ないし、そもそも海に犬はいない。だから彼はずっと無視をして食べていたが。

「うぜぇ…」

が、結局負けた。無言の圧に耐えきれなかったのである。パイを手に出して差し出せば、ジンはひとのみでそれを食べた。そしてフロイドをジッと強く見つめ、続きを催促する。

「も〜…じゃああげるこれ…」

皿ごと床に置く。ジンは足元でゆっくりそれを食べ始めた。撫でても反応はない。

「ワウぉ、わふ(お前さっきエサ食ったじゃん」
「………」
「無視かよ。お前マジで喋んないね」

足を広げてジッと犬を見ていれば…フロイドは突然フッと目の色を変えて地下がある方向を見つめた。

やはり何かいる。
気配を感じるのだ。
彼の感覚で言えば、「水の揺らぎ」を感じるのである。水中、遠くで魚が揺れ動いたような、僅かな水流の蠢き。これを感じる。
つまり空気の揺れだ。
気のせいな気がしない。絶対に何かいる。

フロイドは無視をしようと思ったが、やはりどうしても気になって松葉杖を持った。
立ち上がり、ドアを開ける。

「…ジン。ついてきて」

でもやっぱり怖いので、彼を連れて行くことにした。今自分は魔法が使えない。しかも足が不自由なのだ。もしナイフを持った男でもいれば、押さえ込むのはなかなか難しい。
犬は黙って後をついてきてくれた。しょっちゅう一緒に散歩へ行くので、多少は心を許してくれているのだ。
懐いているのかは分からないが。

ガツン、ガツン、と床を打って地下の階段の前に立つ。ジンは盲導犬みたいにぴったり寄り添ってくれた。
手すりを強く持ち、階段を下る。あの話を聞いてから地下は見ないようにしていたし、近寄りもしなかった。が、やはりどうしても気になるのである。
降り立てば廊下があり、部屋が二つある。
どちらもドアは開いていた。
見てみれば書斎と、ピアノのある部屋。なんて事のない落ち着く空気だった。

「…せんせぇピアノ弾くの?」
「……」
「オレねぇ、報道ステーションなら弾けるよ」
「……」
「猫ふんじゃったすら弾けないけどね」

グランドピアノを前に、フロイドの心は僅かに落ち着いた。陰鬱な地下を想像していたので、意外にも明るい雰囲気であることに安堵したのだ。

「弾く?」
「……」
「興味なさそ」

ジンはフロイドの顔すら見なかった。黙ってそばに寄り添うだけである。
仕方がないので部屋を後にして。廊下の突き当たりにある階段を見つめた。
多分、アレが地下二階に続く階段。
埋められたという場所。

「行くかぁ…」

松葉杖は脇が痛む。体重を乗せているので、長時間これで動きたくはない。が、フロイドは気になるともうどうしようもなくて、その暗く長い階段を下ってみた。
手すりがないので、仕方なく座って一段一段下ってみる。

「っうわ」

しかし。
階段は途中でおしまいだった。コンクリートが打ち付けられ、灰色の壁で覆われているのだ。
行き止まりの階段は嫌に不気味だった。
埋められているとは聞いたが、こんなに露骨な塞ぎ方をするのか。

「…怖過ぎんだけど」

明らかな隠蔽を感じる。
それか、埋めた者のヒステリーとパニックを感じる。
きっとこの先も階段が続いていたのだろう。
普通こういうのって、塞ぐなら階段ごと塞ぐものじゃないのか。
てっきり階段の終わり頃に埋められているのかと思えば、途中でブツ切りになっている。よほど焦って埋めたのか、途中で辞めざるをえなかったのか。

「……キーッ」

フロイドはコンクリートに口をくっ付けて、声を出してみた。人魚だけが出す独特な音である。
それによりどこまで振動するのかを調べたが、やはり地下二階は全てコンクリートで埋められているようだった。
コンクリートの先に、空洞はない。
もしこれが隠蔽でないのであれば、地下二階には余程の〝何か〟があったに違いない。
何かが登ってくるのか。それとも何かを見たのか。
分からないが…この工事はあまりに不可思議だ。

クルーウェルは「何故埋められたのか分からない」と言っていた。それはつまり、殺人事件などはきっと起こっていないんだろう。
それにしたってこんな家、よく買ったもんだ。確かに居心地は良い。広いし綺麗だし、気配に気付くまでフロイドは快適な生活を送っていた。
不気味な空気というものは何も感じなかったのだ。
…それは、この地下二階を埋めたからだろうか。

「………」

フロイドは階段を上り、振り返って写真を撮った。そしてSNSに「怖すぎ。」と一言打ってアップする。
友人から「お前今どこにいんの」とリプライが来たが、無視をしてポケットにスマホを突っ込んだ。
階段をゆっくり上がる。しかし、犬はついてこず、黙ってコンクリートを見つめていた。

「ジン、行こ」
「……」
「なに?なんかあんの?なに見てんの?」
「……」
「いや怖い怖い怖い。犬が虚空を見つめることほど怖ぇことねぇから」
「……」
「ジン。ジーンー。カム!」

クルーウェルと同じようなコマンドを言えば、コンクリートを見つめていたジンはすぐに反応して彼のそばにやってきた。
フロイドは安堵して座る。

「Good boy.」

赤い毛並みを撫でればジンはやっと尻尾を振った。
言うことを聞かせる為には、主人と同じ言葉を使った方が良いようだ。と、一つ覚える。

気配の正体は分からなかった。
が、この家が〝何か〟を抱えていることは分かった。
つまり最悪だ。
先程まで感じていた気配はもう感じない。
意図して消しているのか、それとも消えたのか。

やはり、ここにはもう1人いる。
フロイドは犬を撫でながら剣呑な目つきで周囲を見た。
…今も自分は「何か」に見られているのだろうか。
コンクリートの向こうから。





「ねえ、地下。あんな埋められ方してると思わなかったんだけど」
「なんだ、行ったのか?」
「行ったよ気になったから」

フロイドはクルーウェルにジントニックを作ってやりながら文句を垂れた。
そうしてコーラを飲み、椅子に座る。
クルーウェルはフロイド用の菓子やらジュースやらを買い込んでくれたので、これに関しては有難い。
彼は風呂上がりで、前髪を髪ゴムで縛ってクルーウェルの寝巻きを勝手に着ていた。自分のを着れば良いのに。多分着心地が良くて気に入ったのだろう。

「あの階段か。オレは内見で見たきりだ。不気味だからな」
「よく買ったよねぇ。絶対なんかあるでしょ」
「その分破格だったんだよ。調べたんだが、特に事件があったわけでもないらしい。ただな、前に住んでいた夫婦が…」
「なに?」
「頭がおかしかったらしい。常に何かに怯えていたんだと」
「………」
「それできっと地下も埋めたんだろうさ。ネジが飛んだやつの道理は分からん」
「それ、やっぱ地下になんかあったからおかしくなったんじゃないの?」
「分からん。やめろ、言及するな。オレはあそこには関わらないことにしたんだよ」
「気になんないんだ」
「諦めた」

フロイドはこういうことがあると、原因を解明しない限り気になって仕方がない性分だが…。クルーウェルは実にさっぱりしたものだった。でなきゃこんな物件は買わないだろう。
怖がったり不思議がるようなタチなら、まず内見の時点で大騒ぎするはずだ。

「それよりお前。課題はやったのか」
「やってないしやろうとも思わない。オレはそうやって生きてきたから。今までも。そしてこれからも」
「よし座れ大バカ」
「やだーっ」
「吠えるな」
「やだやだやだぁっ。気分じゃねーっ。この単元興味ねーっ」
「お座り!」
「いいのこんなことして。オレヤクザに知り合いいるんだけどぉっ?」
「三下みたいな脅し方をするな。なんだ、知り合いがいるのか」
「1人も知らねぇ」
「だろうな。素直で結構」
「おおおおおおお」
「暴れるな。母国語を忘れるまで殴るぞ」

フロイドは椅子にガッチリ座らされ、腕を押さえつけられた。魔法をかけられているので動けない。マジカルペンさえあれば抵抗できるのだが、単純な腕力では難しい。

「さて楽しいお勉強の時間だ。つまりオレにとっては残業だ。1秒とて時間を無駄に使わせるな。無駄だと感じたら空気入れのプラグを脳に刺して八倍に膨れ上げさせてやるからな」
「そんなことしてみろよ。お前全部の信頼失うからね」
「いいだろ別に。オレを信用している奴なんてこの世に1人もいないのだし…」
「え?なにがあったの?話してごらん?」
「いいからペンを取れ。摘出するぞ」
「どこを?」
「角膜」
「イシダイカウンセリング受けなよ」
「様か動物園を付けろ」
「イシダイ動物園カウンセリング受けなよ」
「お前はカウンセリング如きでオレの病気が治ると思うのか?」
「自覚あんのがヤバイ」

頭を押さえ付けられる。機嫌が悪ければ弾き返すが、今フロイドは機嫌がわりと良かった。ゆえに無抵抗であり、仕方なくペンを持つ。

「では始める。課題が全て終わるまで寝れないと思え」
「ジン!」
「呼ぶな。オレの犬だ」

ジンは助けちゃくれなかったが、フロイドのそばには寄ってくれた。それだけで幾ばくか心がマシになる。
犬ってスゲェな、とフロイドは思った。
自分が飼うとなると話は別だけど。





【AM9:00 16日目】


「よっ」

フロイドは湖の近くの開けた場所で、ボールを投げた。しかしジンはボールの行先を見るだけでちっとも動かない。
むしろ「コイツは何をしているのだ」と言う顔でフロイドを見るばかりだった。

「マジ?お前感情ねーの?」
「……」
「犬ってボール遊び好きなんじゃないの?あれ?猫だっけ」
「……」
「陸の動物詳しくないんだって」

ジンはフロイドの手をザラッと舐め、自分の鼻を舐めて沈黙した。仕方がないので芝生に座って撫でてやる。撫でられるのは嬉しいようだ。

人の居ないここで、2人は友達だった。
ジンは喋らないけど、クルーウェルよりもフロイドにくっついて来てくれる。ベッドに潜ってくるから共に眠り、舐めてくるから共に起き、こうして湖付近の大木まで遊びに行く。
随分懐いたようだ。
犬の扱いに慣れていないフロイドの手つきを気に入ったのか、人間と同じように話しかけてくれる彼を気に入ったのか。
フロイドは随分彼に話しかける。
ジンは喋らない。けれど代わりに手や足を舐めるのだ。

「お前走れていいね。オレも走りたあい」
「……」
「なに?スグ治るよ。別に一生もんじゃねーし」
「……」
「治ったらさあ、一緒にこの辺グルッと走ろうぜ。運動不足で死にそう。湖で泳いでもいいし…。泳げる?」

芝生に寝転び、肘をついて頭の横を支える。開いた右手で撫でる。
巨大な犬と寝そべるフロイドは美しかった。
髪の毛は相変わらずボサボサだけれど、それが半分目にかかり、高い鼻が目立っている。鋭角な骨格が影を濃くし、人並外れたスタイルはどんな格好をしても華やかなのだ。
金色の片目はうっすらラメが入っているように見えた。よく見れば、模様が入っているかもしれない。

「あー、バスケしてえ。踊りて〜」
「……」
「ね、お前楽し?こんな場所でさあ」
「……」
「てか、見てるから歩いて来なよ。オレと居ても暇でしょ。動けないしぃ」
「……」
「はあ…」

仕方ない。
フロイドが動かなければこの犬は動かないのだ。彼は大木に手を付いて、ゆっくりと立ち上がった。

「?ッだっ、お」

しかし。動くはずの右足に上手く力が入らなかった。フロイドは思い切り尻餅をつき、尾骶骨を柔らかい地面に打ち付ける。

「いっっ、てぇ〜」

歯の隙間からスーッと息を吸い、尻をさする。
右足は全くと言っていいほど健康だったのに。何故急に力が入らなくなったのだろう。
フロイドは右足をさすり、叩いた。
感覚はある。別に麻痺しちゃいない。
当たり前だ。右足まで麻痺してたまるか。
しばらくして恐る恐る立ち上がる。すると今度は大丈夫だった。
けれど、やっぱり力が上手く入らない。
なんだかちょっと嫌な予感がした。

あのコンクリートのそばに寄ってから、だんだん体の調子が悪くなっている気がする。左足の麻痺はちっともよくならないし。
ほんとに一ヶ月で治るんだろうかとすら思った。
もうとっとと治して学校に戻りたいのに。
彼はいつもの倍の時間をかけ、慎重に家に戻る。ガツン、ガツン、と巨体を揺らし。

「ジンごめん。今日散歩終わりね」
「……」
「散歩好きじゃないの?」
「……」
「犬わかんね〜」

ジンはなにも言わない。
フロイドはソファに座り、足をさすって少し暗い顔つきをした。なんだかちょっと不安になってきたのだ。
本当にきちんと治るかなぁと。
後遺症とか残らないんだろうか。
イシダイ先生はアア言ってたけど、もしかしたら治らないかもしれない。オレが暴れないために、オレが自分で悟るまで黙ってるつもりなのかもしれない。
そしたらオレ、海に帰れるんだろうか。
陸でずっと車椅子生活になるんじゃあるまいか。…

「やめろよ」

落ち込めば頬を舐められる。
フロイドはため息を吐いて顔を背けた。
そんなわけない。治るに決まってる。
もし治らなかったらジョージ・マルコの下半身を潰してやる。

「やめろ」

足を舐められ、眉を寄せた。左足を舐められても一切の感覚がなかった。

「治るよ」

グロッキーになってるんだと思う。ずっと引きこもってるから。別に本気で不安なわけじゃない。静かな家に、長い間こもっていると気が滅入る。気にしていないふりをしていたが、やっぱり自分はちょっと寂しがりなんだろう。

「治るってば」

静かなリビングに声が反響した。
それがなんだか、随分と耐えられなかった。





【PM1:00 18日目】


気晴らしにピアノを弾いていた。
楽譜を難しい顔付きで見詰め、ちょっとずつ音を出す。音楽は得意だし好きだ。好きだけど、ピアノは割と専門外。
弾ける曲は何曲かあるけど、完璧には弾けないものばかりだ。
彼は歪な音を出しながら、ちょっとずつピアノを弾く。
犬は彼の足元でぼんやりとそれを書いていた。
意外に寛いでいるので、音楽が好きなんだろう。

「ん?あ…あ、こっちか」

楽譜を追い、えっちらおっちら音を出す。
そうして少しまともに弾けるようになった頃。
フロイドは突然飽きて、携帯をセットして結局パイレーツオブカリビアンを弾き始めた。たまにミスをするが、勢いだけで派手に弾く。
気が済むまで弾き、弾き終わってハーッと充実したため息をついた。
携帯で録画した動画を、SNSに「手しか無事じゃねえ❗️」の文言と一緒にアップする。
友達から「オナニーができれば大丈夫!」とリプライが来て、ヘラヘラ笑った。リプライを返そうとメッセージ欄をタップする。
と、その時だった。

「ッ」

フロイドは動きを止め、弾かれたように振り返った。
後ろから不可解な風を感じたのである。
それはやはり人間には到底気付けないほど小さな・微細な糸風であり、気付いたって気にしないような風だった。

けれどフロイドはその美しい顔を押し固め、ジッと後ろを見つめた。
視線の先にはクローゼットがある。
大きなアンティーク調のクローゼットはピッタリと戸が閉まっており、なんの変哲もなかった。けれどフロイドには初めてこの空間にクローゼットがあったことに気がついたように、いつまでもそれを見つめている。

「……」

あそこから風を感じた。
戸の隙間から、何か。
気配じみた何かを。
フロイドはクローゼットの方向を見たまま松葉杖を手繰り寄せ、ゆっくりと立ち上がった。
そしてすぐには動かず、探るようにクローゼットの隙間を注視する。

臓器がジリジリと冷たくなっていく感覚がした。嫌な感じがする。
絶対に今、起こり得るはずがない場所から風が起こった。
クローゼットの中に何かいる。
気のせいじゃない。

「誰かいんの」

鋭い声を出す。
返答は無論無い。クローゼットの隙間から見ているのか知れないが、探り合いが続いた。
フロイドは黙って松葉杖を握りしめ、ガツン、ガツン、とクローゼットの前に立った。
怖い。内心怖いが、今の彼は気の弱い女が見れば腰を抜かしてしまうほど大迫力であった。
美少年の、それも巨大な体を持つ男の沈黙と威圧は並大抵のものではなかった。

「オイ」

右足でクローゼットを蹴る。
ガオンと木が軋む音が響いた。ジンが立つ。

「…あ"?」

フロイドは高い鼻にシワを寄せた。普通今のように揺らせば、中の者は多少なりともバランスを保とうとして動くはずだ。それだというのに今度は気配を感じない。
消えたのか。
それとも、最初から何もいなかったとでもいうのか。生きている人間じゃないからなのか。…

開けてみないと分からない。
彼はゆっくりとクローゼットに手を伸ばす。途中で手の甲に力が入り、スジが浮き立った。
不自然に左手の筋肉が緊張しているのがわかる。
もしこの中に人がいれば、思い切り首を掴んで絞めて捻る。もしゴーストがいたら、全部漏らして失神して一ヶ月目覚めない。
これで決まりだ。

「スーッ…」

音を立てて息を吸い込み、フロイドは思い切りクローゼットを開けた。剥がすように開けたから、衝撃で戸が跳ね返って体にぶつかる。
彼は暗闇に目を向ける。

が、クローゼットの中には何もなかった。
ただクルーウェルのコートが隙間なく吊るされているだけ。下も上も、人が入れる隙間などない。
敷き詰められた服の匂いが充満している。
拍子抜けかと思われた。

「……ッ」

しかしフロイドは、これを見た瞬間顔中にゾーッと鳥肌を立てた。
言い表せぬ恐怖を感じ、ドンッ、と心臓が跳ねる。
彼は今、このなんの変哲もないと思われるクローゼットの中に、ある仮説を立てたのだ。

そして多分、この仮説は正しい。
きっと予感は当たっている。

部屋を見回し、誰も見ていないことを確認する。
それが済めば、だくだく汗をかき…真剣な顔付きで向き直った。

「いや、まさか…」

フロイドは震える手でハンガーを掴み、隙間なくかけられたコートを何着か持って中から出した。
心臓がバクバク言いすぎて、指が微かに震えていた。先ほどとはケタ違いの緊張感だ。
彼は片足立ちの状態で両手をクローゼットに突っ込み、カーテンを開けるみたいにコートをザッとかき分けた。
そしてできた隙間に顔を突っ込んで。

「〜ッ」

フロイドがそこで見たのは、地下に続く階段だった。
クローゼットの奥にあったのは壁ではない。
隠し通路である。
しかもきっと、…いや間違い無く、これはあのコンクリートで埋められた〝階段の続き〟だ。
この階段は地下二階に続いている。

つまり、表向きはコンクリートで埋めておいて、そのコンクリートの先の空間はそっくりそのままクローゼットの中に転移させてあると言うわけだ。
魔法で作られた隠し部屋。
複雑だが、よくある手法だ。
暗い階段の先に廊下がある。
電気がついていないから、その先に何があるのかは分からない。
フロイドは足を震わせ、ゆっくりクローゼットの前に座り込んだ。

──アイツ、嘘をついた。

この隠し部屋はどう考えてもクルーウェルが作ったものだ。最初からコンクリートで埋められていたと言ったが、あれは嘘だ。
アイツが地下二階をコンクリートで埋めたのだ。そしてその先の空間をクローゼットの中に隠した。
クルーウェルがこの魔法を解除すれば、地下二階には誰も行けなくなる。
明らかな隠蔽であり、どう考えても何かを隠している筈だ。

何故?
一体なんのために嘘をついた。
何故地下二階をこんな場所に隠している。
一体、この部屋をなにに使っている?

フロイドは浅く息を吐きながらフローリングの床を見た。
すると、クローゼットの前の床は、分かりにくいがよく見ると〝何かを引きずった跡〟が付いていた。
ちょうど靴が叩きつけられ、カカトで床を蹴ったり暴れたような感じの跡。
…人間をクローゼットの中に引きずり込んだ跡のような…。

「………」

地下には、仄かな人の気配を感じる。
きっと誰かいる。
多分、引きずり込まれた誰かが地下にいる。
けれど気配は薄すぎて、とても人間1人がいるような空気ではなかった。死にかけているのか。
それとも、地下二階は随分深く、遠くに居るのか。

床についている跡を見る限り、連れ込まれたのは1人ではない。2人も3人もいるはずだ。
それに魔法の反応的に随分古くからある。
つまり古くからこの隠し部屋は存在する。
焦って人を殺し、隠蔽するために急ごしらえで作ったものではない。
計画的にここを作り、定期的に人間を入れている感じだ。
何のためかは分からないけど。
いや、…多分殺すためだ。
だって微かに、血の匂いと死臭がする。

「……」

待てよ。
……こうくると、オレの足って、本当に事故で動かなくなったのだろうか。
この麻痺は本当に事故で起こったものなのだろうか。
だってちっとも良くならない。
それどころか、右足もうまく動かなくなってきた。

事故った時の記憶も、病院の記憶もないのもおかしい。ショックで失ったものと思い込んでいたが、不自然だ。あの鼻血は、抵抗して興奮して出たんじゃないか。それとも殴られたのじゃないか。そう考えると、食前にいつも飲んでたあの薬ってなんなんだ。
オレは最初から騙されてここにいるんじゃないか。

彼には、一ヶ月で治ると言われた。
その一ヶ月後って一体。
オレも一ヶ月後に、この地下に行くってことか?

地下二階から、僅かな風が吹いている。
それに乗って悲鳴が聞こえた気がした。

…もしこれが全部自分の勘違いだとして。
これが単なる実験室で、人なんて殺していないとしても。ここまで徹底的に隠すことがまずおかしいし、信頼などできない。
多分、いや絶対勘違いじゃないし。
やましいことがあるからこんなに徹底的に隠しているのだ。
悪いことをしていないヤツは、こんな風に地下を隠したりなんかしない。

──だめだ。
この隠し通路に気付いたことを勘付かれちゃいけない。
フロイドは慌てて何事もなかったように、きっちり正確にコートを戻した。そしてクローゼットの戸を閉め、立ち上がる。
ピアノの椅子に座り、松葉杖に肘を引っ掛け、片手で顔を覆った。

「………」

地下に何があるのかは今見ちゃいけない。
人がいるんなら助けた方がいいんだろうが、無計画に動けば勘付かれるだろう。
あの男は鋭い。下手な真似をすれば絶対にバレる。
なら、少し日を置いてからこのクローゼットの先を見るべきだ。
そして〝最悪の事態〟が確認できたら、また数日大人しくして、キチンと時期を見てから…足が動くうちにこの屋敷を抜け出した方がいい。

離れた場所で警察に電話…いや、ダメだ。
だって彼はスマホを預かっていた。その間に細工をされていれば、フロイドのスマホの中身は筒抜けだ。友人にも、警察にも言えない。
この足で警察に行くしかない。

オレは今魔法が使えないのだ。
慎重にやらねばならない。
…まさかだ。
まさか、こんなことになるとは。
あの男、こんな爆弾を隠していたとは。

「…ジン」
「……」
「オレがクローゼット開けたこと、絶対誰にも言わないでね」

ジンは何も言わない。
ただフロイドに寄り添って、感覚がない方の足を舐めるばかりだった。





【AM7:00 19日目】


「おはよぉ」
「速いな」
「昨日寝てたもん」
「出てこないと思えば…。ほら、課題やったか?よこせ」
「やってないし、やろうとも思わない。オレは他の生き方を知らないから」
「お座り!」
「うぜぇーッ」

フロイドはビチビチ暴れて腕を掻い潜り、「カャーッ」と不可解な音を喉から出した。人魚の威嚇音である。
クルーウェルはため息を吐き、「帰ったら覚えていろよ」と手早く諦めた。
朝は弱いんだろう。

「ほら、薬飲んでメシ食え」
「…。薬やだ」
「は?」
「苦いし」
「子供か、お前は」
「おくすりのめたね買ってきてよ」
「今まで飲んでたじゃないか」
「だってさあ。…足治んないもん。ねえ、オレほんとに足治んの?最近右も言うこと聞かねえし」
「見せてみろ」

大人しく足を伸ばす。クルーウェルは床に膝をつき、彼の足を撫でた。革手袋が滑る感覚は以前しない。

「大丈夫だ。あの薬な、インフルエンザの予防接種と同じようなものなんだよ。アレは一度風邪を引くだろう。それと同じで、悪化してから治る」
「ほんと?」
「嘘なんてついてどうする。見た感じも問題ない。ちゃんと飲め」
「…わかったあ」

フロイドはポケットに突っ込んだ左手で拳を握り、震えるほど力を込めながら、「じゃあ飲む」と素直な声を出した。
クルーウェルは満足そうに頷き、煙草に火をつける。外は雨が降っていた。
朝だと言うのに室内は僅かに暗い。
灰色の光が差し込み、2人の薄い影が床に落ちている。

「ねー、リンゴジャム買ってきて」
「は?」
「バター飽きた。あ。あとアイスもうない」
「わかったわかった…。お前はずっとそれだな」
「レーズンバターサンドキチガイに言われたくねえし」
「何か言ったか?」
「せんせぇ大好き♡」

フロイドはニコッとかわゆく笑う。
クルーウェルは黙って煙草の灰を灰皿に落とした。191センチの男に言われてもゾッとするんだろう。事実その通りだ。
小エビちゃんが言えば色っぽいんだろうが。

「じゃあ、もう行く」
「早くね?」
「朝イチで職員会議があるんだ。お前、課題やれよ」
「他に言うことねーのかよ…」
「課題やらなかったら抱く」
「ケツの準備しとく」
「やれよ!」

どんだけやりたくないんだよ、とクルーウェルは顔にしわを寄せて笑った。フロイドも口の中のパンを隅っこに寄せて笑う。

「18時に戻る」
「ン」

コートを羽織って、ジンを撫で、彼は家を出て行った。
玄関が閉まる音。
階段を下る足音。
バンと車のドアが閉まる、銃声のような音。
エンジン音、発進音、走行音。
訪れる静寂。
窓を叩く雨の音。
ジンの息遣い。

「……」

3分経つ。
完全に屋敷から人の気配が消える。
フロイドはその間、一切の身動ぎをしなかった。

「…畜生」

俯いて、引き絞るように言う。
パンのカスが落ちた白い皿を見て、牛乳が半端に残ったグラスを見て、フロイドはずっとしまっていた左手をポケットから出した。

「畜生!」

その左手で、テーブルの上のものを全て弾き落とした。手の甲は握り締めすぎて血が滲んでいた。
足がみっともなく震えている。
両手は力を込めすぎて白くなっている。

食器は割れて、液体はぶちまけられた。
フロイドはそのまま松葉杖を持ち、ガツン、ガツン、とキッチンへ向かって、シンクを両手で掴む。喉に指を突っ込んで、胃の中のものを全部出した。
無論薬を出すためである。

「、っえ"、ご」

吐くのが下手で、なかなか内容物は出なかった。やっと吐き切る頃にはやつれるほど疲れて、反射的な涙がジクジク湧き上がって溢れる。

「…ちくしょう」

欺かなければならない。
地下の存在に気がついたことを悟られてはいけない。
アイツが嘘をついたように、自分も嘘をつかなければ。
怪しまれないように。
あの地下室に連れ込まれないように。
オレは今足が不自由で、魔法が使えない。
いつも通りにはいかないんだ。

利き手の左手が信じられないくらい震えていた。フロイドはそれが治るのを待って、10分たち。ようやくヨロヨロと立ち上がる。
そして神経質にシンクを洗って磨いた。

「、」

ズボンの裾を、犬が噛んで引っ張った。フロイドは疲れ切った目を下に向け、まだ微かに震える手でジンを撫でた。

「なあに、ジン」
「……」
「…大丈夫だよ。もしアイツが捕まったら、お前のこと引き取ったげる」
「……」
「犬の飼い方なんて知らねえけど。どうせオレ海帰れないかもしれないし。足動かねーから」
「……」
「オレ兄弟いてさあ。ジェイドっつーんだけど。ソイツは走れるし泳げるから。ソイツに遊んで貰って」
「……」
「学校で飼うのは…マァ、アザラシちゃんがアリなら、お前もアリだよ」
「……」
「ジン」
「……」

頬をジンの赤い毛並みにつける。
暖かくて、お日様の匂いがした。
速い心臓の音と息遣い。
震える息を吐き、フロイドはやっと立ち上がった。

シンクを磨く。
彼は水滴が一つもなくなっても、いつまでもいつまでも神経質に磨き続けた。





夜。
ジェイドに電話したけれど、彼は出なかった。代わりに「仕事中です」と返信がくる。
アズールも同様で、フロイドは結局仲の良い友人に電話をかけた。
友人もちょうど暇だったらしく、2人は取り止めのない話をする。笑い声は大きくて、フロイドの声はクルーウェルの寝室にまで響いていた。

『で?足は?』
「だから手しか無事じゃねーってぇ」
『じゃあお前オリンピックどうすんの?』
「出てねえわ」
『マァでも最終的に抜ければ良くない?AV届けてやろうか?』
「あの、アレして。ナース百連発にして。いや!つーかさーあ、イシダイ部屋に急に入ってくるからAV観れないんだよ」
『じゃあクルーウェルと抜き合いっこしろお前』
「ダハハハハ」

フロイドはバァンと壁を蹴って笑った。
引き笑いをして、ゴロンと横になる。無意識に左脚の手術跡を触りながら天井を見つめた。
すると、二階の扉が開く音がした。階段を下りる音がして、フロイドは突然黙り込んで体を起こす。

『もしもし?』
「あ、うん。ごめんごめん」
『なに?どした?』
「いや…」

クルーウェルがこちらに向かってくる。
ガツ、ゴツ、と重い革靴の音が響く。
フロイドは気にしないフリをして、通話を続けながら、枕の下に忍ばせていたハンマーを握る。これは物置小屋からくすねてきたものだ。

「Bad boy. いつまで騒いでいる」

バン、とドアが開いた。フロイドは心臓を跳ねさせたが、顔つきは全く変えずに振り返る。

「はい来た。イシダイ来たわ」
『テンション学校のまんまで草』
「二階まで声が響いてるぞ、このバカ犬。大声を出すなら外か地下でやれ」
「やだあ、地下怖いもん。いいじゃんちょっとくらい」
「オレはお前と違って明日早いんだ。地下のピアノがある部屋なら防音だから好きなだけ騒げ。そこ以外で喚くな。吠えるな。騒ぐな」
「え〜…」
『もしもし?切る?』
「うん。ごめん」

フロイドは電話を切って寝返りを打った。
あの部屋防音なんだ、と思う。

「ねぇ先生」
「なんだ」
「せんせぇさあ、ピアノ弾くの?」
「いや、弾かない」
「なんであんの?」
「前に住んでいた夫婦が置いて行ったものだ」
「ふーん」

嘘だ。
あのピアノは新品だった。
クルーウェルが購入したもので間違いない。
あの部屋が防音なのは、引き摺り込むときに悲鳴を外に漏らさないためだ。そしてピアノがあるのは、あの部屋だけ防音であることの言い訳に使うため。
フロイドは眠そうにまばたきをして、ベッドに転がったままクルーウェルを見上げて黙る。

「わかった」
「──今夜は聞き分けがいいな?」
「別にぃ。もう寝る」
「なんだ、良い子に戻ったじゃないか」
「……」
「そのままお利口にしてろ。ずっと」
「……」
「ずっとだ」

クルーウェルは満足そうに頷いて、フロイドの部屋を出て行った。
階段を登る音。
二階のドアが閉まる音。
足音、しばらくして静かになる屋敷。
ジンの息遣い。
フロイドは寝返りを打ち、布団を肩までかぶった。
彼は眠らない。
眠らずにずっと窓の外を見ていた。
空が青くなっても、明るくなっても、ずっとその丸い目で外を見つめていたのだった。





【AM5:00 24日目】


フロイドは左足に感覚が戻っていることに気がついた。麻痺は依然として残っているし、上手くは動かない。けれど触れば感触はなんとなく分かるし、ジンに舐められれば僅かにくすぐったいような感覚がした。
力も入る。松葉杖を使わなくても、足を引きずりながらならなんとか歩けるようになった。

薬を飲まなくなってから、たった5日だ。
右足の不自由は完全になくなり、左足はきっとこのまま薬を断てば治るだろう。
やはり事故ではなかった。
あの薬は治す目的のものではなかった。

フロイドはあれから何度も自分の勘違いではないかと考えるようになった。
クルーウェルはただ自分の研究室に入られたくないだけで、あんな嘘をついたのかもしれない。床についていたあとも、単に機材を引き摺り込んだ跡かも。
血の匂いはそれに酷似する何かで、気配は飼っている犬のものかもしれない。
そう思ったのに、地下の殺人を裏付けるような事柄が次々判明するのだから…どうしようもない。
辻褄が合いすぎているのだ。

彼はゆっくり左脚をさすり、目を閉じる。
悟られてはいけない。
薬を飲んでいないことも。逃げようとしていることも。
今日の昼に、地下に行こうとしていることも。

やっと行く踏ん切りがついたのだ。
覚悟が決まった。このまま自分がどうなるかは知れないが、やるだけやるしかない。
…地下には何もないかもしれない。
フロイドの想像力が豊かだっただけの話で、全て勘違いかもしれない。
数時間後には安堵で笑っているかもしれない。
もしこれが自分の壮大な勘違いならば、クルーウェルが学校から帰ってきた瞬間抱き付いて洗いざらい話そうと思った。
そして怒られて、課題をやらされて、初日と同じ気分で笑いたいと思うのだ。

ジェイドにもアズールにも電話をして、大笑いして、安堵でちょっと泣きたいと思う。勘違いさせやがってと暴れたいと思う。
呑んだこともない酒でも呑んで、めちゃくちゃになって、足を伸ばして眠りたいと思うのだ。

フロイドはいつも通り7時に起きたフリをして、ジンと共にリビングへ向かう。
クルーウェルが作った食事を食べ、目の前で薬を飲み、暫しの談笑。
怪しまれないようによく笑い、信頼した顔つきをする。しかしあんまりくっ付いても勘づかれるので、適切な距離を取って話した。
これは物凄く神経を使う。こめかみの奥が痛くなる感じがするのである。

「じゃあ、仕事に行ってくる」
「ン」
「散歩頼んだぞ」
「分かった」
「…ああ、リーチ弟」
「なあに」
「足の調子はどうだ?」
「悪い!」

吐き捨てるように言う。
クルーウェルはニコリとも笑わなかった。

「具体的には?」
「触って」
「時間がない」
「見たまんまだよ。良くなんない」
「そうか。…あまり酷いようなら注射を打ってやる」
「え。なにそれ」
「薬だ。良くなるさ」
「やだあ」
「聞き分けろ。じゃ、行ってくる」

彼は家を出た。
フロイドはいつも通り彼が完全に家を離れ、学校にたどり着いたと確信するまで動かない。そしてやっと立ち上がり、ゴツ、ゴツ、と足を引きずりながらシンクに立ち。

「え"ぉっ」

我慢していた吐き気を全部出す。
吐くのは上手くなった。無駄に体力を使わなくなった。その代償に吐きダコができかけていたから、フロイドはジンの散歩中、左手の甲を思い切り木の幹にぶつけた。
すりむいて、タコは全く目立たなくなった。
彼は至極冷静で、賢い少年なのだ。

シンクを神経質に磨き、靴箱を漁った。そして彼はクルーウェルの革靴を履いて地下一階へ歩く。左腕に松葉杖を抱え、ポケットにハンマーとスマホを入れて。

ピアノがある部屋に入り、ドアを閉める。
心臓はドクドク鳴っているが、覚悟が決まっているためか大したものでもない。

今から地下の秘密を見に行く。
そして、今後の行動を決める。

「ジン」
「……」
「ここで待っててね」
「……」
「誰か来たら教えて」
「……」

頭を撫でて、フロイドはクローゼットをゆっくりと開けた。魔法は解除されておらず、コートの隙間から僅かな風を感じる。
何度も深呼吸をした。
地下二階からは、既に生き物の気配を感じない。

コートを掻き分け、ゆっくり中に入る。

「ッ、」

するとジンがフロイドのズボンの裾を噛んで引っ張った。心臓が爆発したかと思うほど驚いたフロイドは、すんでのところで悲鳴を堪える。

「なに」
「……」

ジンは悲しげにフロイドを見上げ、グイグイとクローゼットから出るように引っ張った。
尻尾は丸くなっている。

「大丈夫だよ。すぐ帰ってくるし」
「……」
「ステイ」
「……」
「ありがとね」

撫でれば大人しくなる。フロイドも僅かに悲しげに笑い、クローゼットの中に入る。
ジンは、目の前でゆっくりと閉じていくクローゼットのドアを見つめた。
戸は閉じられ、フロイドは地下の暗闇に入って行ってしまった。

ジンはウロウロ部屋を歩き、不安げに彼の帰還を待った。
それ以外に何もできなかった。



「……」

地下二階は暗く、黒い風が吹いていた。
長い廊下があって、突き当たりに鉄の扉がある。フロイドはガツン、ガツン、と松葉杖でゆっくり扉へ近づいた。その間で何度も後ろを振り返り、階段を確認する。
人の気配はしない。
誰も来ていない。
遠くで薄く感じる気配はジンのものだ。
大丈夫。
アイツは今仕事中だし、オレは怪しまれてない。

クルーウェルの靴を履いてきたのは、靴跡で後からバレないためだ。スニーカーだと確実にバレてしまう。
履いたことがバレても、フロイドは散々彼の服を勝手に着ていたから大丈夫だろう。今更なんとも思わないはずだ。女じゃないんだから、人の靴なんてじろじろ見ないだろうし。

鉄の扉の前に辿り着く。
袖を引っ張り、手を服で覆ってドアノブを掴む。
鍵がかかっていると思ったけれど、ドアは呆気なく重い音をたてて開いた。
鉄が軋む音は、クジラの鳴き声みたいだった。

部屋の中は僅かに明るい。
オレンジ色のランプが付いていて、暖かかった。

「っぐ、」

血の匂いがする。
まだ新鮮だ。死臭ではない。
フロイドはゆっくりと部屋の中に入り、ドアを閉めた。
中は落ち着いた空気で、ホテルの一室のようである。てっきり恐ろしい拷問部屋でもあるのかと思ったが、そうではない。
しかしこの血の香りは拭い切れるものではなかった。きっと奥に何かある。
松葉杖を抱え、ゴツ、ガツ、と足を引きずって歩いた。冷や汗が肩甲骨の間に流れているけれど、何故か心臓は冷静だった。
自分が思っていたより落ち着いていることに安堵する。手汗が酷いけど、今はまだ大丈夫。

奥にはもう一つ扉があった。
木の扉は赤く塗られている。
多分ここだ。ここから匂いがする。
魚は血の匂いにひどく敏感なのだ。
フロイドはゆっくりドアノブを掴んだ。
覚悟を決めて深呼吸。
そうして薄くドアを開け、室内に顔を入れた。

「…ぁ、」

さて、中の様子を見たフロイドの顔から、血の気がひいた。

疑念は確信に変わった。
〝壮大な妄想〟は正しかった。
違うと言い聞かせた夢は本物だった。
あの男は、シリアルキラーだった。

「…ジョージ」

震える喉で言う。
部屋の中心に無機質な寝台があった。そこに男が縛り付けられているのだが、その男はとうに息絶えている。
それはフロイドを害して退学になったと言われたジョージ・マルコだった。
見れば、酷い…酷い殺され方をしたのがわかる。
明らかに遊ばれながら殺されたのだと分かった。
寝台を囲うように置かれた道具で…。……。

部屋の隅には黒いゴミ袋がいくつも置かれていた。そこからわずかに、腐った肉の匂いがする。
部屋は凍えるほど寒く、冷蔵庫の中のようである。立ち上る息が白い。
これで匂いを抑えているのだ。あとは魔法で、匂いをほとんど消している。

「……」

壁に写真が貼られていた。
見知らぬ男や女、少年、少女の写真だ。
ジョージ・マルコの写真もある。
生前の姿の写真と、死後の写真が神経質にキッチリと並べて貼られているのだった。
その最後にフロイド・リーチの写真が貼られている。学生証の写真を拡大したものだ。
その隣は空白であり、なんの写真も貼られていない。
きっと殺した後、死体の写真を隣に貼るのだろう。

間違いない。
アイツはオレを、この地下室で殺す気だ。

「ッキュ」

部屋の中。
突然携帯の通知音が響いた。
心臓にナイフを突き刺されたのかと思うほど、驚いた内臓が跳ね上がり、反射的に涙が出そうになった。
振り返れば、ソファの上に携帯が置かれている。

見覚えのあるスマートフォン。
フロイドは赤い扉を閉め、ゆっくりとソファに近づいて携帯を覗き込んだ。

「あ。…」

そこにあったのは、ジェイド・リーチの携帯。
随分と通知が溜まっている。震える手で携帯を掴み、SNSを覗けば、彼はフロイドにのみ返信していることがわかった。

『すいませんフロイド。今仕事中です。また今度電話します』

と。
他の人間には誰にも返信していない。
フロイドは腰を抜かして座り込んだ。
あの男。
ずっとジェイドのフリをしてオレとやりとりをしていた。オレがもしこの地下に気がついたら、真っ先にジェイドに連絡すると思ったからだろう。

ということは、今ジェイドは何処にいる?
…もしかして。
近々オレを地下に引き摺り込んだ後、同じようにまたジェイドの足を麻痺させて、この屋敷に招き入れるんだろうか。
そして一ヶ月かけてオレを殺した後、ジェイドをこの地下に引き摺り込む。
そういうことなのだろうか。

今ジェイドは拐われて、足を麻痺させられている途中なのかも。
麻痺が完成したらこの屋敷に連れてくるのかもしれない。そこでオレにしたのと同じ説明をして、一ヶ月飼うんだ。
オレはその間、この赤い扉の向こう側で、クルーウェルに…。


フロイドは動けなかった。
ジッとスマホを見詰めて、ずっと汗をかいていた。
麻痺したはずの左足でさえ、震えているのがわかった。





【PM7:00 上記同様、24日目】


「戻った」
「お帰り〜。今日遅くね?」
「駄犬の世話が長引いた。夕食は?」
「食べてない。なんか作って」
「何が食いたい」
「キーマカレー」

クルーウェルは適当に頷いて、ソファに寝そべるフロイドにコートを投げ付けた。
フロイドは「ぶっ」と小さな声を上げたが、不機嫌そうな顔をするだけだった。

「課題は?」
「やったあ。褒めて」
「オッ。なんだ。偉いじゃないか」
「でしょ」

フロイドはゆっくり起き上がって、クルーウェルのコートを着て携帯をいじった。

「ふ。お前、コート似合うな」
「マジ?じゃあネクタイ頂戴。あとベスト。イシダイせんせぇごっこするから」
「汚すなよ」

シャツは黒を着ている。フロイドは赤のネクタイをしめ、ベストを身に付けた。その上からコートを羽織って自撮りをする。
クルーウェルはその様子を少し笑いながら見て、珈琲を淹れた。
薬を出し、いつも通り小皿に乗せてテーブルに置く。終われば、シンクを神経質に磨く。

「気に入ったか?」
「わりと。あ、指示棒も頂戴」
「ほら」

フロイドは〝イシダイせんせぇごっこ〟を気に入ったようである。微笑ましい姿だった。
クルーウェルは気まぐれにフロイドのスマホを取り上げ、「撮ってやる」と言って動画を回す。

「えー。一緒に映ってよ」
「いいから。アップするんだろ?」
「うん。イシダイせんせぇっぽいポーズわかんないけど。こう?」
「オレがそんな格好するか。授業中を思い出せ」
「あ、成る程」

フロイドは親指を立てて握った左手を、右手の掌に打ち付けて笑った。
そのまま動かず、「表情は?」と言う。

「好きにしろ。どうせ似てない」
「え〜」

意味もなく、左手をもう一度右手に打ち付ける。その後彼はやっとクルーウェルらしきポーズをとり、動画は終わった。

「ありがと。アップする」
「ああ」
「カレー作って」
「はいはい…」

フロイドはソファに座り、ネクタイをときながら動画をマジカメにアップした。
祈るような気持ちで自分の投稿を見つめていると、ジワジワと「いいね」が付く。
コメントには「似てねえ」だとか、「似合うじゃん」だとかが付いて回る。
フロイドはドキドキしながらそれを見詰めていた。落ち着きなく唇を触り、後ろにいるクルーウェルを気にしながら待つ。

「!」

すると。
しばらく経つと、普段「いいね」をしない奴からも「いいね」が来た。レオナ・キングスカラーやヴィル・シェーンハイトからも「いいね」が来る。
イデア・シュラウドからも来たのを見て、フロイドはゆっくりと息を吐いて目を閉じた。

伝わった。
みんなきっとわかってくれた。

この動画は、フロイドがただ単純にイシダイ先生ごっこをしたくてアップしたわけじゃない。
外にSOSサインを出したくて投稿したのだ。
動画内でフロイドは何度も不自然に見えない程度に、親指を立てた拳を掌に打ち付けている。

これはハンドサインで、「助けて」という意味。
フロイドは何度も何度も「助けて」とサインした。ニコニコ笑って、表向きは分からないように。
今自分は誰にも下手に連絡を取れない。
こっそりメッセージを送ることもできないし、今はまだ逃げ出すこともできない。
だからクルーウェルに勘付かれないよう、勘のいい少年たちにはわかるようにサインを出した。
普段「いいね」を付けない彼らが反応を示してくれたということは、きっとフロイドのハンドサインに異様なものを感じたからだろう。そして「サインに気が付いたよ」というメッセージの代わりに「いいね」を押してくれたのだ。

彼らに伝わったなら、きっと近いうちに助けが来るだろう。勘付かれないように細心の注意を払ってくれるはずだ。
もし自分が地下に引き摺り込まれても、一ヶ月間は生きている。その間に助けが来るかもしれない。

「リーチ弟」
「んあ?」
「ほら、できたぞ」
「は?カレーじゃねえじゃん。なにそれ」
「キッシュ。文句があるなら食うな」
「………」
「不貞腐れるなよ。ほら、薬飲め」
「……ん」

フロイドはブスくれた顔をして、彼の向かい側に座った。
そして小皿の上の薬を飲もうとして…胃が、縮み上がるような恐怖を感じた。
クルーウェルは薬を飲むのをジッと見詰めて確認していた。それは良い。良いけれど。
テーブルの下。クルーウェルは右足をガクガクと、忙しなく動かして貧乏揺すりをしていた。
何の気無しに見詰めている顔をしながら、ずっと貧乏揺すりをしている。
…「早く飲め」と、思っているのだろう。さっさと飲めと。それが無意識に体に出ている。
薬を飲み終われば、ピタッとそれは止んだ。

「Good boy」

彼は華やかに笑った。
魅力的で綺麗な笑顔だった。
フロイドも応えるようにちょっと笑った。
反射的な吐き気を堪えた、虚しい笑顔だった。

「…ん?お前、左手どうした?」
「?ああ、ぶつけたの。散歩中転んだ」
「貸してみろ。消毒してやる」
「やだあ!いてぇもん」
「いいから」

クルーウェルは隣に座り、優しく左手を処置してくれた。シワにならないように絆創膏を貼る姿は、学校でいつも見る面倒見の良い彼である。
いつもの彼だ。
いつも通り優しい。
そんな彼からふわっと、あの地下室の匂いがした。

「…ッ、う」
「!仔犬」
「え"っ、お」
「どうした」

フロイドはその優しい手つきに限界を感じて、テーブルの上に食べたものを吐き出した。
そして真っ青になり、意識が遠のく。
グルッと瞳が裏返った。

「どうした。大丈夫か。おい、…」

呼びかける声を聞きながら、フロイドは失神した。頭からテーブルに落ちてピクリとも動かない。

ジンは少し離れたところで、それをジッと見詰めていた。





【AM7:00 25日目】


「仔犬」
「!」

フロイドは自分のベッドで目が覚めた。
こちらを覗き込む、クルーウェルの顔がある。

「起きたか。おはよう」
「……せんせぇ?」
「昨夜のこと、覚えてるか?」
「……え。なんだっけぇ…」
「盛大に吐いたんだよ。全く、オレの服に思い切り吐きやがって」
「マジ?…」
「吐き気は?」
「ない」
「具合は」
「喉痛い」
「ほら。飲め」

水をもらって、飲む。
クルーウェルは心配そうに彼の熱を測った。

「熱はないな」
「……」
「オレはもう仕事に行く。食べれそうなら朝飯は食えよ」
「うん」
「良い子だ。じゃあな。何かあったら連絡しろ」
「ン」

彼は部屋を出ていく。玄関を出て、階段を下りる。車に乗り込む。少ししてから発進する。
フロイドは彼がいなくなったことを確認して、ゆっくりとベッドに寝転がった。
心臓が鳴りすぎて手が震えている。
酷い寝汗だ。

「………」

起きた時。一瞬、自分はあの地下二階のベッドの上にいるのかと錯覚した。
失神した瞬間に連れ込まれ、ベッドに寝かされて拘束され、目が覚めるまでジッと待たれていたのかと思った。
…大丈夫だ。
まだ大丈夫。
アイツはまだオレを殺さない。
ギリギリまで正体を明かさない。
ああいうタイプはきっと完璧主義だから、計画通りきっちりやらないと気が済まない筈だ。
だから一ヶ月のリミットがある。

「…ウーッ」

フロイドはかぶっていた布団を丸め、それに噛みついた。できるだけ口の中に布を詰め込んでうつ伏せになる。

「うーっ、あ"ああーッ」

大声で叫び、シーツを掻き毟る。
声は口に布を入れているため響かない。もしクルーウェルが外にいたとしても聞こえないだろう。
フロイドはずっとそうやって叫んでいた。
限界だった。欺くのも、笑うのも。
平気そうな顔をして脈を押さえ込むのも。

逃げるべきだ。
でも、昨日の今日で逃げ出したらきっと勘付かれる。
せめて今夜と明日はいつも通りに生活するべきだ。
何も知らない顔ですり寄るべきだ。
アイツだってバレていないか神経質になっている筈。油断させなければならない。
安堵させて、もう大丈夫だと思う頃に逃げ出さなければ。

逃げるのはもう少し先だ。
30日にしよう。
その日に散歩に行ったフリをして…どうにかして逃げて、助けを呼ぼう。
でも、アイツのことだ。
きっと証拠は何一つ残さない。
…いや。
毎日飲んでいるこの薬が証拠になる筈だ。
これを警察に渡せばいい。

「はーっ…はーっ…」

吸って吐く。
吐いて吸う。
繰り返して、なんとか落ち着きを取り戻す。
きっと上手くいく。
大丈夫だ。
今回だって生き延びてみせるさ。…

「ジ、ジン」

フロイドは充血した目を向けて、犬を呼んだ。
尻尾を振ってやってきて、フロイドの顔を舐める。

「お前さ」
「……」
「喋んないんじゃなくて、喋れないんでしょ」
「……」
「アイツにさあ、余計なこと言わないように口止めされてんだよね」
「……」
「喉、切られた?」

喉に触れる。毛が邪魔で、感触だけではわからなかった。フロイドはゆっくりと彼を抱きしめる。

「ありがとね」

ボール遊びにも関心を示さず、ずっとフロイドのそばに居続けたのは、きっと守ってくれていたからなのだろう。
フロイドが次の犠牲者であると分かっていたからだ。だから隣に居てくれた。
何をするにも一緒についてきてくれていた。

「Good boy.」

ジンは黙って顔を舐める。
励ましてくれている。
本当に彼が居てくれて良かったと、お日様の匂いがする赤い毛並みに顔を埋めた。



【AM7:00 30日目】

以下、決行の日。


「おはよ〜」
「はいおはよう」

ガツ、ガツ、と松葉杖をついて、椅子に座る。
朝食はすでにできていた。
湯気立つスープとパン。
モノクロの空。
すでに準備を終えているクルーウェル。
フロイドは食事に手をつけようとして、ピタ、と動きを止めた。何故って、いつも必ずあるはずの、小皿に二錠乗せられた薬が無いからだ。
テーブルには小皿しかない。
不思議に思って顔を上げれば、クルーウェルは珈琲をゆっくり傾けてニコニコ微笑んでいる。

「せんせぇ、薬は?」
「ああ。忘れてた」
「頂戴」
「今出す」

彼は鞄から、薬が詰まった瓶を取り出した。
蓋を開ける。そして、瓶を小皿へ傾けた。

「うおっ」

フロイドは思わず小さな悲鳴をあげた。
クルーウェルが瓶をそのままひっくり返したからだ。
小皿にはザラザラと大量の薬が落下し、許容量を超えて溢れ、床やテーブルに散らばった。
その唐突な仕草にフロイドはのけぞって驚き、背もたれに背中を押しつける。

カラン、と最後の一錠が落ちた。
薬はスープの中や、パンの上にも転がっている。無論フロイドの服にも。

「な。なにす」
「仔犬」
「あ"?」
「お前。薬飲んでないだろ」
「──…。へ?」
「飲んでないんだろ?」

汗を、かいた。
頭皮が冷たくなり、指先の感覚が遠くなっていく。クルーウェルはフロイドの顔をジッと見詰めて、ニコリともせずに瓶を置いた。

「知ってるぞ」
「………」
「吐いたら分かるからな」
「…、」
「手を出せ」
「……」

フロイドは震える手を、前に出した。
クルーウェルは小皿に盛り上がった薬を雑につかんで、手の上に山と乗せる。

「飲め」

動けなかった。
ジッと手の上の錠剤を見詰めて、動けない。

「飲めよ兄弟」

フロイドは震え、助けを求めるようにクルーウェルを見るが、彼は顔を全く動かさない。貧乏揺すりをして、ただ見詰めている。
洞穴が喋ってるみたいだ。

フロイドはどうしようもなく、薬を口に含んで飲んだ。口の端から溢しながら水を飲み、やがて、死人の顔で俯いた。
他人の皮膚をかぶったみたいに、顔が分厚くなっていく感覚がする。毛穴が開く。
脳味噌に氷を当てられたみたいだ。

「良い子だ」

クルーウェルは立ち上がり、ポン、と肩に手を乗せた。
フロイドはビクッと電気を流されたみたいに体を跳ねさせるだけだった。

「行ってくる。お利口にして待ってろよ」

彼は鞄を持って、屋敷を出て行った。…






「ッ、ア」

着信音で目が覚めた。
首筋にクッと力が入り、目を開ける。
動悸が酷い。息切れをしている。
うなされていたのだろう。
フロイドは汗まみれになって、ゆっくり体を起こして胸を抑える。
震える手で携帯を見れば、朝の六時。着信は友人からだった。

「…ハロー?」
『あ。フロイド。おはよ』
「…なに?」
『お前そろそろ帰ってくんだろ?ラウンジのシフト出せよ』
「あ…うん。わかった」
『そんだけ』
「うん」

電話を切る。
彼はフーッと深く息を吐き、顔を擦った。
夢だった。
酷い夢だ。
神経がすり減ってるのか、なんなのか…。
多分、今日逃げるから。
だからこんな夢を見たのだろう。

彼は起きることにして、ベッドの下に転がったスニーカーを履く。歯を磨いてリビングに行き、クルーウェルの後ろ姿を見た。
緊張で喉が乾く。耳鳴りがして、黙って彼を見詰めていた。

「ん、起きたか」
「──おはよ」
「なんだ、また寒い格好をして。ほら、これ着ろ」
「うぇ、」
「すぐ風邪引くんだから、お前は」

ガウンを着せられ、フロイドは真っ白な顔で彼を見た。縋るような瞳は、フロイドが普段絶対にしない顔付きだった。

「…なんだ?具合が悪いのか」
「………」
「熱測れ」
「…頭痛い」

椅子に座り、体温計を脇に挟む。
もちろん平熱で、熱なんかなかった。それを告げるとクルーウェルは頷いて…頭痛薬を彼に渡した。普通の薬だ。市販薬だ。
フロイドは何度もクルーウェルと自分の掌を見て、目を閉じて飲む。発作的な吐き気を感じたが、ギリギリ堪えられるものだった。

「口開けろ」
「…ア」
「喉は腫れてないな。寝過ぎじゃないか?」
「わかんない」
「頭痛以外に症状は?」
「ない。…ひっでぇ夢見ただけ」
「ほお。どんな夢だ」
「…イシダイせんせぇに怒られる夢」
「ッは。まさかそれで気落ちしてるのか」
「…う〜ん…?ウン」
「かわいいヤツめ!」

パン、と頭を軽い力で叩かれた。フロイドは「いてぇ!」と鼻にシワを寄せ、やがて脱力する。
目が覚めてきた。動悸が少しおさまった。
彼はグッタリして背もたれに背を押しつけ、ボサボサの髪をかき上げる。
そしてわずかに微笑み、クルーウェルへ手を伸ばした。

「え"〜い」
「おいやめろ!じゃれるな」

乳首をつねる。クルーウェルは元気になった彼の頭を押さえつけ、手を振り払った。

「だって怖かったんだもん。センセー怒るとおっかないじゃん」
「オレはお前のヒステリーの方が恐ろしいがな」
「あは。そりゃそうだよ。オレ昔族のアタマだったもん」
「なんの族だよ」
「ひょうきん族」
「ブハッ」
「祖父の代から」
「だ。大事ないなら良い…。じゃあ、オレはもう行くから」
「え。早くね?」
「学園長に呼ばれてるんだ。何の用だかは知らんが」
「ふーん。行ってらっしゃあい」
「ああ。お利口にしてろよ」
「え"〜い」
「やめろ。喘ぐぞ!」
「二度としない」
「よろしい」

コートを着て、クルーウェルは屋敷を出て行った。車が発進する。
フロイドは安堵でハハ、としつこく笑い、ずるずると椅子に深く座り込んだ。

…やっぱりどうにも、あの人がサイコキラーには見えない。そんなことをするような人には見えないのだ。
今だってフロイドの体調を心配して、いつも通り笑って、…。
いや。
得てして加害者の家族や、シリアルキラーの関係者はこう語る。
「そんなことをするような人には見えなかった」と。魅力的で、優しくて、人気者だったと言うのだ。「あんな人がどうして」と語る。
「信じられない」と言う。
その後に彼の過去を掘り返して、「親から充分な愛情を受けていなかった」だとか、「幼少期の頃から自分の思い通りにいかないとヒステリーを起こす傾向があった」だとかの文言を記事にまとめられる。
極め付けは事件の残忍性がサイトにまとめられ、ワンダーランドを震撼させた殺人鬼として二つ名が付けられる。
クルーウェルはハンサムだから、話題性も十分だ。ファンも付くだろう。

そして最後に、〝二度とこんな悪夢は起こらないように〟という名目で映画化されるんだろう。
客はポップコーン片手にこの殺戮ショーを観る。
オレの心境を着色して作られた脚本を演じた俳優が挨拶をする。そういうことだ。

「………」

それか、クルーウェルは死ぬまで捕まらず、この事件は誰にも知られぬまま幕を閉じるかだ。
その場合オレはどういう扱いを受けるんだろ。
行方不明?
普段の素行の悪さから家出だと思われる?

ツイステッドワンダーランド内で、年間の行方不明者はおよそ10万人だ。
オレはそのうちの1人にされる。
ジョージ・マルコもそうだ。
不幸な人の中に組み込まれて終わり。
ゴミと一緒だ。ゴミより人間の方が多いんだから。

「…うお」

随分長い間、そうして考え事をしていたらしい。彼はドアを叩く音でやっと正気に戻り、顔を上げた。
そこで自分が信じられないくらい背中を丸めていたことに気がつく。

「…え、誰?」

ドアを叩く音は淀みない。
「ハロー」と声が聞こえて、フロイドはやっと立ち上がった。松葉杖を突いて玄関に行く。ジンは玄関の周りでうろうろして、フロイドを見上げた。

「誰?」

ドアに向かって言う。
すると、そこから聞こえたのは聞き慣れた低い声。

「私だ。モーゼズ・トレインだ。話を聞きにきた」

と。
どうやら、まさか。
助けがきたのかもしれなかった。







トレインはフロイドの向かい側に座り、珈琲に手を付けずにいた。
フロイドは久々に会ったクルーウェル以外の人間を見て…安堵はせず、ただジッと右手の親指で左手の親指の爪を弾いた。
どうして良いかわからないのだ。

「どうかね。足の具合は」
「…別にぃ。見たまんまだけど」
「回復は?」
「さぁね」

フロイドはトレインが嫌いだし、苦手だ。
こういう几帳面で、軍旗のようで、アイロンがけされたような男が一番扱いに困る。何をしにきたのかもわからないし、何を目的にきたのか分からない。

「そう警戒するな。今日私がここに来たのは、キミを助けるためだ」
「…、?」
「生徒から、SNSに投稿したキミの動画を見せられた。クルーウェル先生には内密にと言われて」
「……」
「あのハンドサインは、SOSだろう。あまりにさり気なくて最初は気がつかなかったが、何度も観るうちに分かった。そうだな?」
「……」
「まだ確信は持てない。だが、学園長に話は通した。クルーウェル先生は今学園に繋ぎ止めてある。ここは今彼の監視下ではない」
「…うん」
「安心したまえ。何かあるなら、今言いなさい」

フロイドは虚な目でトレインを見た。
しかし、トレインを信用して良いのかは分からない。このシリアルキラーとの生活で、フロイドはすっかり疑心暗鬼になっているのだ。
何も信じられず、何を頼りにすれば良いのか分からない。
もしかしたらこの男もクルーウェルと繋がっているかもしれないし。
今彼はフロイドが地下の秘密を知っているかどうかを確認し、犯行を計画通り行うか否かを決めるのかもしれない。
だからフロイドは何も言えなかった。
何も言えない代わりに、訳もわからない涙が込み上げた。

「、」

彼は顔も歪めず、真っ白な顔でドロッと涙を流す。この家に来て、初めて流した涙だ。
鼻もすすらずただ溢れるのをそのままにする。目にゴミが入ったみたいに。
袖で涙を拭い、ジッと黙ってテーブルの隅を見ていた。
トレインはそれを見て、痛ましい顔をする。

「痩せたな。クマがひどい」
「……」
「大丈夫だ。私はあの男と組んだりなんてしていない。もしも何かあったなら、説明してくれ」
「!…」
「もう一度言う。私はキミを助けに来た。言いにくいと言うのなら、他の先生を呼ぼう」

フロイドはやっと顔を上げた。
充血した目を彼に向け、やがて顔を逸らす。
トレインは何をどこまで掴んでいるのだろう。もしかしたら、フロイドがクルーウェルに性的暴行を加えられているかもしれないと思っているのかも。虐待を受けているとか。
…本当のことを、言って良いのだろうか。
本当に大丈夫なんだろうか。

「助けさせてくれ。キミの協力が必要だ」

フロイドは目を固く閉じて、長い息を吐いた。
クルーウェルの罪を話すのは、まるで自分の罪を話すが如くである。
怖い。怖いが、ここで黙って殺されるわけにはいかない。
目の前の男を信用するべきかもしれない。
これで助かるかもしれない。
だから、フロイドは咳払いをして、喉が焼けるほど堪え続けた激情を…静かに話した。

「──ジョージ・マルコが殺された」
「!…」
「時期にオレも殺される」

フロイドの声は落ち着いていた。
抑揚がなく、低い。
それ故に痛ましくて真剣だった。
彼は額を抑え、肘をついて俯いた。

「毎日気付かれないように、足が麻痺する薬を飲まされてる」
「……」
「アイツはオレが何も気がついてないと思ってる。でも多分、そのうちバレるか、そのうち殺される」
「……」
「地下に…地下のクローゼットに、部屋があんの。そこで、アイツ、人を殺してる」
「……」
「次はオレが殺される」
「……」
「た」
「……」
「…たすけて。先生」

初めて声が震えた。フロイドは椅子の上に体育座りをして、掠れた咳を一つする。
それから何も言わずに黙り込んだ。

外では雨が降っている。
雨水が飛沫を上げて窓を打っている。
麻痺した足が震えた。
椅子が床に擦れる音がして、靴音が近づいてきた。
トレインはフロイドを抱きしめ、背中をさすってくれた…。

「よく分かった」
「……」
「1人で、よく頑張ったな」
「う、」

声が染みる。
喉から悲鳴が上がりそうだった。
叫んで暴れたいような、泣いて怒鳴りつけたいような、今まで堪えていた全てが沸き起こりそうだった。

「本当に、よく耐えた」

フロイドは、震える左腕をトレインの背中に回した。
良かった。
言ってよかった!
これで終わる。この悪夢の一ヶ月は、もう終わるんだ。
アイツは逮捕される。
オレはこのまま保護される。
終わったんだ。全部。
この瞬間。…

「なのにだ。惜しかったな?」
「──へっ?」

左手に、注射針を刺される感触。
薬剤が注射される冷たい感覚。
フロイドは目を向いて、トレインを見た。
けれど。
そこにいるのはトレインではなかった。

トレインに姿を変えたクルーウェルである。

彼は面白そうに歯を見せてブルブル笑い、クルーウェルの姿に戻った。

「Boo. 驚いたか?」
「あ。…ゥアアァッ」
「どうだ。傑作だろ!」

フロイドは椅子から転がり落ち、床に手をついてクルーウェルを見上げた。すると自分の左手に力が全く入らないことに気がつく。
左足と同じ麻痺だ。
利き足と利き腕が、たった今封じられた。
あの注射のせいだろう。
クルーウェルは倒れた椅子を元に戻し、座ってフロイドを見下ろした。
嬉しそうにガタガタ震えて笑いながら、注射器をテーブルに置く。

「ハニー、お前は本当に賢いな。危うく騙されかけたよ。役者じゃないか…」
「あ、う、ううあ、」
「肝も据わってる。普通取り乱して尻尾を出すと言うのに、最後まで出さなかったな。全く、なんてヤツだ」
「は、あ、」
「マ、今回はオレの勝ちだ!いや、こんなに冷や冷やしたのは初めて女を抱いた時ぶりだよ。お前を選んでよかった。楽しかった…」
「ギャァアッ」

右肩を踏まれ、押さえつけられ、注射を打たれる。
両腕が麻痺して動かせなくなった。
唯一自由な右足をそのままに、クルーウェルは立ち上がった。

「惚れたよフロイド・リーチ。ここまで頭の良い男は初めてだ」

クッ、と首を曲げて、彼は笑った。
フロイドは顎が震え、体が不自然に痙攣し、頭の中が真っ赤に染まる。
胸の内側が恐怖に震え、呼吸がうまくできない。吐き出す息と一緒に高い声が出て、見開き過ぎた目のフチが痛かった。
殺される。
殺される。
騙された。
とうとう、ボロを出してしまった…。

「よっと。こら、暴れるな」

ジンはその様子を、部屋の隅で哀しげに見つめていた。フロイドは魔法で出した車椅子に乗せられ、拘束されて運ばれる。
クルーウェルは口笛を吹いて上機嫌だった。
とうとう化けの皮が剥がれた。
とうとうこの日が来てしまった。
さっさと逃げればよかったのに。
慎重に事を進めすぎて、時期を見誤った。

「キューッ。キュイ」

恐怖のあまり、喉から出たのは仲間に助けを求める人魚の声だった。これはしかし、水の中でなければ意味がない。
陸の上では単なる雑音でしかない悲鳴だ。
全力で暴れたいのに、体がちっとも動かない。
もうダメだ。
おしまいだ。
オレは今日で殺される。
口の端からよだれが出て、シャツに滴った。

なんでだと叫びたかった。
なんでオレなんだと言いたい。
オレに恨みでもあるのかと問いたい。
しかし言葉が出てこない。

「やっぱりお前、普段心を許していない男が来ると途端に弱いな。他の先生か生徒か迷ったんだが、トレイン先生で正解だ。お前みたいなやつは仲の良い人間程警戒するからな。賢い奴はみんなそうだ」
「キュウゥッ、キュ」
「ハンドサインも全く気が付かなかったぞ。クラスの仔犬が真剣な顔で何度も見直しているからやっと分かった。憎い真似をする。危うく連中にバレかけた」

あのクローゼットが開く。
彼はコートを全て出し、魔法でフロイドの車椅子を宙に浮かせた。
フロイドは大声で叫んで暴れたが、それも虚しく車椅子は階段の上を滑って下り、優しく床に着地した。
後ろでクローゼットが閉まる音がする。
カツン、カツン、と階段を下る音。
背後で足音が止まる音。
車椅子を押され、ゆっくりと彼は進む。

「さて…お前はどれくらいもつかな」
「、ひ、」
「ジョージ・マルコは長持ちしなかったんだ。一ヶ月ももたなかった。アイツはもっと頑張れる奴だと思ったんだが」
「ひゅぐ」
「マルコな。泣いてたよ。これから同じ事をされるお前が可哀想だって」
「……、」
「自分の心配より他人の心配をする男だった。友人でもないのに。泣けるだろ」
「な。なんで、なんでこんなことす、すんだよ。このイかれやろオッ」
「マイブーム」
「は、」
「車にハマるとか、薬学に没頭するとか、その辺と同じだよ。理由なんてない。インドアだから不健康だけどな。おうち時間ってやつ」
「……お、お前」
「ん?」
「ほ、本気で」
「本気さ。独身は暇なんだ。家に誰かいて欲しいんだよ」

ダメだ。
コイツ、本気で頭がおかしい。
情に訴えかけても無駄だ。
罪悪感なんて一つも感じてない。
だって、コイツからは焦りや興奮も感じない。
何度も何度も殺人を繰り返しているからだろう。

車椅子は淀みなく進み、あの赤い扉が開く。
中にジョージ・マルコはいなかった。
カラのベッドが一つあって、それだけである。
磨かれた道具はそのままだった。

「待ってろ。シーツかえてやるから」

クルーウェルは扉から出て、真新しいシーツを持ってベッドにセットした。神経質にシワを伸ばし、ピンと張らせて満足そうに眺める。

「右足にも注射を打つぞ。ちょっと痛いけど頑張れよ。男の子だからな」

注射を打たれた。
これでフロイドはもう四肢を動かせなくなる。
車椅子からベッドに移され、新しく拘束された。ベルトはピクリとも動けないように手首へ食い込む。
フロイドは歯を食いしばって背中をのけぞらせ、喉の奥から唸り声を上げた。

「…最初だから…何が良いかな。2人の思い出に残るようなのが良いか。初めてって肝心だし…」
「ウーッ。ウウアッ」
「悩むなあ。マァ、こういうのって悩むのも楽しいというが」
「殺してやる。殺してやる!」
「なんだよ、感じ悪いな」

クルーウェルはベッドの周りをウロウロして、これから彼へ何を使うか考えていた。
……に触れたり、………を持ったりと、ショッピングをしているみたいに緩慢な動作である。
彼はしばらく迷ってから、……を持ち、フロイドの顔にそれを近づけた。

「じゃあ、始めよう。長生きしろよ」

スイッチが入る。
轟音が鳴る。地下の黒い風がフワッと彼の顔にかかった。
フロイドは彼の持つ……から顔を背け、人生で出したことのない大絶叫をする。

「──おっと、その前にだ。危ない危ない」

突然彼は電源を落とした。
轟音が止む。回転していた刃が勢いを無くし、テーブルに置かれた。

「質問があるんだよ」
「、」
「何故、お前がこんな目に合うか分かるか?」

フロイドはパニックに陥って、そんな言葉は聞こえていなかった。吐き気が迫り上がって、吐瀉物が吹き上がりそうだ。
頭に血が上って、どうにかなりそうなのだ。

「フロイド」

顔を掴まれ、目を合わせられる。
彼はフロイドの乱れた髪を指先で整えてやりながら、頬を優しく撫でた。

「答えろ。何故こんな目に合うと思う」
「…う、…」
「首を動かすだけで良い」

首を振る。
歯がガチガチ鳴って、体が痙攣していた。

「そうか。分からないか…」
「……」
「じゃあ大ヒントを出そう。今日は何月何日だ?」

回らない頭で考える。
今日?今日は何月?
そんな事を言われたって。
もう少しで春が来る。ここに来た日は確か…。
あれから一ヶ月だから…。

「……し、」
「ん?」
「し、4月、1日?」

フロイドは小さな声で言った。
その途端クルーウェルは口を大きく開け、のけぞって大笑いする。


「大正解だ。今日はエイプリルフール。ドッキリ大成功!!」


「──へっ?」


間抜けな声を出した、その瞬間。
テッテレー。
と、部屋に爆音が流れた。
その途端赤い扉が開き、笑顔のスタッフや、カメラを持った男たち、そしてジェイド、ジョージ・マルコ、アズール、学園長、友人達、ヴィルが雪崩れ込むように入ってきた。

フロイドは口を開けたまま完全に停止し、大笑いする彼らを見つめて呆ける。

「はい先生これ」
「ああ」

クルーウェルはフダを渡され、ヒョイッとそれをフロイドに見せた。
フダには「ドッキリ大成功」と書かれている。

「フロイド・リーチ、クランクアップだ。一ヶ月間よく頑張った!」

ワーッ、と少年達は手を叩く。
カメラがフロイドの顔に近付き、場に小さな花火が上がった。
花束が置かれ、拘束が解かれる。
クルーウェルが彼の腕や足を撫でると、〝魔法みたいに〟麻痺がなくなった。

「クルーウェル先生、クランクアップです。お疲れ様でした」
「ああお疲れ。いやあ大変だった」

クルーウェルは花束をもらって笑った。
フロイドはそんな彼の頬を、音よりも光よりも速い速度で、思い切り殴ったのであった。



【PM6:00 最終日、完了。】





フロイドはマジカルペンもないのに、信じられないくらい強かった。
スタッフの数人を意識不明にし、魔法で押さえつけられても筋力だけでそれを打ち破って学園長の顎を拳で打ち抜き、ジェイドの腹を蹴り、ベッドを真っ二つに割った。
押さえ付ける係で呼ばれていたレオナ率いるサバナクロー陣営が七人がかりで押さえつけ、ようやく彼は止まった。

救急車を呼んでスタッフを運び出し、フロイドをなだめること二時間。
人間の言葉と落ち着きを取り戻した彼は、リビングに運ばれてやっと笑顔を取り戻したのであった。

「騙されたあ…」

フロイドは安堵の涙を、ヘラヘラ笑いながらちょっとずつ流し、クルーウェルの膝の上に無理矢理座って花束を握り締めた。

これは【NRCのエイプリルフール】である。

NRCはエイプリルフールのたび、こうしたとてつもなく大掛かりな・金のかかった・恐ろしいドッキリを仕掛けるのが恒例だ。
そしてその記録をバレないようにカメラに収め、2時間に編集して学園の映画館で流すのだ。
このトンデモなく大掛かりなドッキリ映画は当然毎年凄まじいヒットを記録しており、今年もそれがやってきたというわけである。

恒例のこの行事は、無論フロイドも知っていた。
けれどまさか自分が仕掛けられるとは思わなかった。今年は誰かなあ〜楽しみだなあ、なんて思っていたら、自分が犠牲者になったのだ。

だがこのドッキリ、実は最初にネタバラシをされている。
フロイドはドッキリの前に学園長に呼び出され、今回のエイプリルフールのターゲットはあなたに決まりましたと告げられていた。
そして「ドッキリの内容は非人道的であり、トラウマを植え付けられるかもしれませんが、それでも良いですか」と言われる。その際に内容が全て書かれた脚本まで読まされるのだ。

フロイドは面白がって同意書にサインした。
その後、同意書に従って彼は忘却薬を飲み、読まされた脚本をすっかり忘れ、この屋敷に運ばれてきたというわけだ。
因みに脚本を書いたのは、イデア・シュラウドである。

最初から全て仕組まれていた、芝居の一ヶ月だ。
もちろん友人達も皆仕掛け人だった。
メインの仕掛け人に選ばれたクルーウェルはプロの俳優からみっちり演技指導を受け、台本に従って散々役作りをした。彼がミスをすればこの大掛かりな芝居は全て破綻する。
フロイド・リーチは賢く、鋭い。
少しの綻びが致命傷になりかねる。
だからこそクルーウェルは手を抜かなかった。
周囲の友人達も絶対に手を抜かず、ボロを出す男は1人もいなかった。

これは全て、安心安全な極悪非道のドッキリであったというわけである。
十悪五逆巣食うヴィランズの学校らしい、最悪で最高のエイプリルフール。

全てが明らかになり、安堵し切ったフロイドはジンを撫で、片手で自分より震えているチワワを抱っこし、クルーウェルの上から離れなかった。
タフな男だ。
普通こんな事をされたら芝居だと分かってもクルーウェルを怖がるだろうに、逆に彼へ甘えている。そういう男だから、今回の脚本が通ったのだ。

「今頃この辺にエンドロールが流れてるから」

クルーウェルは右側の空間を指差して言った。彼の発音は曖昧である。奥歯を折られたのだから当然だ。
フロイドは「黙れ死ね」と言いながら、顔だけで笑っておでこを擦る。

「クルーウェル先生、ご感想は?」

アバラを折られかけた学園長がマイクを渡す。クルーウェルは笑いながら、「オレの方が怖かった」と首を振った。

「だってコイツ、地下二階を見た後も普通にオレに話しかけるから。本当に怖かった。逆にオレが殺されるのかと思った」
「私も思いました。監視カメラ見てて本当に怖かったです」
「いや、話しながらたまにコイツ信じられないくらい怖い顔をするんだよ。カメラに映ってたか?何回死を覚悟したか分からん」
「反撃しないってぇ。足も動かねえし魔法もねえし…」

フロイドは暖かなリビングで、カメラに囲まれながらドス、とクルーウェルの胸に頭を乗せた。グッと彼が呻く。
フロイドは重くて細いので、尾骶骨がさっきから腹筋に食い込んでいるのだ。

「マジ最悪。ほんとにこの学校嫌い…」
「はははは」
「オレまじ、オレ巨大スクリーンで漏らすとこまで映されるとこだったじゃん」
「リーチ、この後映画用のポスター撮影だからな」
「寝かせろ!」

スパァンとフロイドはジンを撫でていた手でクルーウェルの顎をスッ叩いた。
そうして立ち上がり、隣で笑っていた死体役のジョージ・マルコの胸ぐらを掴んで。

「うおっ」

思い切り唇にキスをした。
ジウッと吸い付くようなキスである。
本気で彼が死んだと思ったから。
ワーッとジェイドが顔を真っ赤にして笑い、周囲がどよめいた。
フロイドは満足したようで彼から離れ、最後に一つマルコをビンタした。

「許してやる」

鼻にシワを寄せて吐き捨て、ジンと共に彼は自分の部屋に戻る。疲れたから寝るんだろう。
フロイドを失ったリビングに静寂が流れた。
誰も動かず、興奮を燃やしたまま黙り込む。

「か、かっこいい…」

アズールが口元に拳を当てて言う。
それには、周囲も同意見なようであった。





さて、フロイドには巨額のギャラが振り込まれた。
映画用のポスターも撮り終わる。
ポスターは満場一致で、フロイドが笑顔を浮かべながら「助けて」のサインをしている仄暗い写真だった。

作られた映画もスタッフや仕掛け人、本人とで確認し、素晴らしい出来に喜んだ。
ジェイドはフロイドがいつ「こんなもん見せ物にされてたまるか」と暴れるか冷や冷やしたが、フロイドはあっさりしたものである。
寧ろ「おもしれってなったから良い」とジンに顔を舐められながら言っていた。

映画が上映された日は、流石に凄まじいものである。全ての少年達が映画館に駆け込み、先行上映に大盛り上がりした。(ちなみにリドルは八回観たらしい)。

なんせ、
「あの」デイヴィス・クルーウェルが仕掛け人で、「あの」フロイド・リーチがターゲットで、「あの」イデア・シュラウドが監督・脚本を担ったのだ。

少年達はキラキラした顔で映画を観て、クルーウェルの恐ろしさに震え、追い詰められるフロイドに共感して慄き、ジンに心を救われた。
クライマックスでは皆ドッキリである事を忘れて画面に食い入り、種明かしで手を叩いて大喜びした。

映画の最後。
それはリビングでのインタビュー後、フロイドがジョージ・マルコにキスをして頬を叩き。

『許してやる』

と。そう言って鼻にシワを寄せた彼の顔がドアップで写り。
その途端画面が真っ暗になり。
爆音のクラシックと共にエンドロールが流れ、幕が下されるというものだった。

少年達はこの最後のフロイドがあんまりかっこよくて、美しくて、ギャーギャー叫んで被っている帽子を投げた。

フロイドは最初から最後までかっこよかった。
なんせ立っているだけで画面映えするし、陰鬱な表情も、無理やり笑う顔も痺れるほどカッコいいのである。
それにクルーウェルの秘密に気がついた後も気丈に振る舞い、笑いまで取るのだから凄まじい。
彼の精神力と美しさに、後輩はもちろん先輩や友人達も同じように熱狂し、モストロラウンジは花束であふれた。

クルーウェルの演技力にも称賛が沸き起こったが、フロイドに比べて花束の数は少ない。
なんせ、めっちゃ怖かったからだ。
演技と分かっていても、あまりにも自然なあの姿が恐ろしかった。故に彼は遠巻きに拍手をされたけれど、「一番の勲章だ」と笑っていた。

一般公開は後日。
次のハロウィン・ナイトでは、フロイドのファンが押し寄せることになるだろう。
しかしフロイドの態度は何も変わらない。一つ変わったのは、彼がジンを引き取ったこと。

この子はクルーウェルの犬だったが、ドッキリ期間中に彼に随分懐いてしまった。
どんなに「イシダイセンセーのとこ帰りなよ」と言っても離れないので、仕方なく飼うことにしたのだ。

だから、2人は学校に帰っても友達のままだった。
ジンは非常に大人しく、賢い犬であるため、モストロでも可愛がられている。厨房には入らないし、邪魔をせずジッとフロイドの後を追いかけて歩くだけ。
もともと吠えない犬らしく、ごくたまに「わふ」と言うがそれくらいだった。

モストロに来た少年達はジンを可愛がり、「仕方ねえなあ」なんて言いながら自分で頼んだ食事を彼に渡す。ジンはねだってもいないのにいつもご飯をもらい、いつも満腹で満足そうだった。
足が動くようになったフロイドと散歩もできるようになったし、一緒にパルクールもする。授業にも結局ついてくる。
まるで弟ができたようだった。


「フロイド、仕事遅れますよ」
「オレ今日休み〜」
「おや。何か予定が?」
「うん、ちょっとね」

ジェイドは「人気者」になったフロイドに声を掛けたが、彼はなんだか忙しそうだった。
エイプリルフールの映画の関係だろうか、とジェイドは首を傾げ、取り敢えず「はあ、頑張ってください」と間の抜けた声を出した。


さて、フロイドは書類を持って学園長室に向かう。そして揃ったスタッフといつものメンツ、学園長を見てヒラッと手を上げた。

「おせーよ」
「いーじゃん来たんだから」
「はい、やっと主役が来ましたね。じゃあ始めますよ」

学園長がパンパン、と手を叩く。
少年たちや大人達は会議室に移動し、長いテーブルに座った。
フロイドは一番偉い席にあぐらを掻いて座り、前髪を顔を洗うときに使うバンドで上げて書類をめくっていた。

「では、えー、来年のエイプリルフール会議を始めます。いやあ楽しみですねえ。私これ大好きなんです」

学園長は両手を広げて笑った。
少年達はしかしその笑顔に取り合わず、至極真剣な顔をしてペンを回している。
ワクワクしている大人より、こういうのは生徒の方が真剣なのだ。大人びているというかなんというか。

「さて、来年のターゲットと仕掛け人ですが。リーチくん、選んできましたか?」
「もう決まってる〜」
「オッ。では発表してください」
「いやデイヴィス・クルーウェルに決まってんだろ」

フロイドは半笑いで言った。少年達は嬉しそうに笑う。
実は、エイプリルフールのターゲットに選ばれた人間は、次の犠牲者を選ぶ特権を持っている。仕掛け人も選べるので、かなり好き勝手できるのだ。

「オレジョージは許すってゆったけどイシダイは絶対許さないから」
「あははは」
「間違いねえ」

マジメ腐った顔をしていたスタッフも笑った。イデア・シュラウドもタブレット越しに笑い、場が一気に盛り上がる。
学園長も喜んでいた。

「では、仕掛け人は?」
「えへ。小エビちゃん」
「オーッ」
「楽しみ!」
「小エビちゃんって誰?」
「監督生だよタコ」
「他にも考えてるけどお、メインは小エビちゃんかな」

会議は踊らずに進む。
フロイドはネタバラシをされてからずっと彼への報復を考えていたのだ。あの野郎、絶対に「アッ」と言わせてやると。
別に怒っちゃいないし、とっくに和解したが…それとこれとは話が別である。

「脚本はあ、オレとホタルイカ先輩でやるから。できたらまた会議ね。はい終了〜」
『また拙者でござるか…』
「こらこら、待ちなさい。具体的な話し合いがまだですよ」
「えー。脚本できてねーんだから具体的も何もねーじゃん。飽きたから帰るぅ」
「待ってフロイド。映画のタイトルは?」

書類をまとめて立ち上がったフロイドは友人を振り返り、パッとかわゆく笑った。

「リベンジ。」

そう言って、スクリーンに映されたクルーウェルの写真へ投げキッスをするのだった。

山が動くのは、来年の4月。
ウツボの尾を踏んでしまったクルーウェルの悪夢が始まるのは、もう少し先の未来であった。









「地下二階の秘密」


監督/脚本 イデア・シュラウド
脚本協力 レオナ・キングスカラー
主演 デイヴィス・クルーウェル
ターゲット フロイド・リーチ
死体役 ジョージ・マルコ

メイク ヴィル・シェーンハイト
美術 アルタイル・ゼヴァン
美術応援 シャネル・エドガール
音楽 ハッピー・バギー
取材協力 カリム・アルアジーム/ディア・クロウリー
撮影 ウェンスト・カーター
撮影助手 エース・トラッポラ
トレーラー アンドレ・リリー

製作 ナイトレイブンカレッジ
















地下二階の秘密
足を怪我したフロイドが、クルーウェル先生の別荘に一ヶ月引き取られます。
その別荘の地下にはある秘密が隠されていて…?みたいな話です。
最後まで読むと何があったのかわかる話です。
ハッピーエンドです。

ホラーなので残酷な描写があります。
直接的な表現はありませんが、具合が悪くなる場合があるのでご注意ください。
嘔吐表現あり
捏造強め
なんでも許せる人向け。
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29,71129,769290,695
2020年11月12日 15:37
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