左馬刻のシマのキャバクラは基本治安が良い。とは言っても所詮は夜の店なのだから女が男に酒を飲ませ、その結果酔った男たちによる小競り合いが起こることも少なくない。それでも嬢になりたいという人間があとを絶たないのは、金が稼げるという理由のほかにも、その諍いに女性が巻き込まれたことがないというのが大きいだろう。ボーイの教育もしっかり行われ、何かが起きたときには彼らがそれらの対処を行なうシステムが成り立っている。
現に今もこうやって左馬刻の横に座っているだけの銃兎にも気を配り、常に新しい酒を提供している。それでも女をつけることはしないのは左馬刻への配慮だろう。もっとも、良く出来たボーイだと思うべきか左馬刻の調教の賜物かは、考えないようにする。
そんなことを考えながら、銃兎は注文したボルドーを口に含んだ。シャトー・マルゴー。芳醇で複雑な香りとタンニンの絶妙なバランスは、ワイン好きにはたまらないものがある。磨き抜かれたワイングラスを揺らすと真紅な液体に映った、満足した自分の瞳も共に揺れた。ふうと一つ、ため息をもらした銃兎の座るソファに影が落ちる。
「おにーさん、次は何をご注文?」
かけられた声に答えて目を上げると、そこには赤茶に染めた髪を盛り上げた女が立っていた。左馬刻の顔を間近で見慣れた銃兎からすれば決して良い顔とは言えないが、一般的な社会では男を引っ掛けられそうではある。
「……いえ、もうそろそろ」
「そんなこと言って~、全然女の子来なくて困ってたんでしょ?」
何でもお見通し、と言わんばかりの嬢の顔を見る気にはなれなかった。なぜならこの女は、銃兎が発した『もうそろそろ』という言葉の真意を一切理解していないのだから。
「遠慮しなくていいって! もしかしてこーゆーとこ初めて? 顔見してよおにーさんっ」
顔を背ける銃兎に対抗した嬢は銃兎の顔を覗き込む。そして銃兎の瞳を見た途端、驚いたように自分の目をまんまるにさせた。
「えっ……ってか、入間⁉ まじで⁉」
「はっ…………?」
自分を苗字で呼ぶのは職場の男ども以外に思い浮かばない。ポーカーフェイスを貫きながらも、銃兎の脳内は今までに出会った人間の顔をリストアップし始めていた。
どこかの事件で出会ったか、いやそれなら敬称をつけるのが普通だろうから違うだろう。呼び捨てを許されたほどの人間ならすぐに思い出せるだろうに、全く記憶がない。
「ほら! 高校一緒だったでしょ⁉ 大宮だよ!」
おおみや、オオミヤ、大宮。脳内変換を何度か繰り返すが、変わらず自分の記憶は全くない。きっと同じクラスになったぐらいの仲なのだろう。クラスメイトの名前なんていちいち覚えてはいないし、単にこちらの記憶に残っていないだけだ。
銃兎がそう考えているうちに、その女は無遠慮にも隣に座ってきた。視線をさっと走らせたところ、辺りに左馬刻の気配は無い。少しならいいかと、銃兎は割り切って表向きの笑顔を貼り付ける。
「……すみません。どうにも、記憶が無くて」
「えー? じゃあアイツは? あんたに告白してきた吉川って奴」
「ああ…………」
告白されたことはなんとなく覚えているが、そんな名前だったか? なんとなく曖昧に頷くと、大宮はケタケタと笑い声を上げた。
「あはは! アイツさ、アタシたちにけしかけられてアンタに告白したんだよ。『入間くんが好き』だなんて言うからさぁ、お膳立てしてやったのにアンタ断ってさぁ」
そう言われて、なんとなく思い出した。高校二年生。高校に通うのもギリギリの状況でどうせ大学には行けないのだから、高校卒業と同時に警察官を志望していた。試験に合格さえすれば、警察学校に通っていても給与は出る。それまでなんとかバイトで食いつないでいたので、当時の自分には色恋に走る余裕は無かったのだ。だから断った。
「おかげで慰めるのちょー大変だったんだよねぇ。あは、懐かし~」
きゃはは、と笑った大宮はボーイを呼ぼうとする。ああ、面倒なことになりそうだなと感じた銃兎が諌めようとした時だった。
「おい、ちょっとイイか」
低く押し殺した声が銃兎の耳に響く。揃って顔を上げると、左馬刻が微妙な顔をして立っていた。いや、銃兎には分かる。これは不機嫌な表情を抑えようとしている顔だ。
「左馬刻~!」
ぴょんと立ち上がった大宮は左馬刻の腕に自らの腕を絡めようとする。しかし、左馬刻はその腕をやんわりと断るように押しやった。
「ちょっと席外してくれねえか、こいつは俺のツレなんでな」
あくまでも柔らかく話すのは左馬刻だからだ。こいつは女には優しい。それは母親への尊敬なのか、妹への贖罪なのか銃兎は知らない。
「え? 入間左馬刻と知り合い?」
頓狂な声をあげた大宮は左馬刻と銃兎を交互に見る。
「まあ……そうですね」
「おい、マジでそろそろ」
少し苛ついた声の左馬刻に何かしらを感じたのか大宮はふうんーじゃあね、とあっさりと離れていった。
「……左馬刻」
「なにくっつかれてるんだよ」
ぼすっと隣に座った左馬刻は銃兎の腰を抱き寄せる。銃兎はその腕に寄り添いながら左馬刻の頬を撫でた。
「高校の同級生だって」
「だからって座らせてんじゃねえよ」
「向こうが勝手に座ってきたんだって」
左馬刻の指がさわさわと背骨を撫でる。まるで情事の時のような艶めかしい動きに、腰が砕けそうになった。銃兎がそっと撫でた手に擦り寄るように、左馬刻もそっと目を閉じる。
「情報は」
「イキの良いのがかかったぜ、ウチ寄ってけや」
ニンマリと笑った左馬刻がすっと気配を薄めて立ち上がる。銃兎もその後を追うように立ち上がった。
■ □
「ん……」
情報を渡したそのすぐ後。細い身体を押し倒して、上半身を重ね合わせる。首筋に顔を埋めると僅かに女の香水の匂いがした。
「……クソが、女の匂いつけてきやがって」
「しょうがないだろ、女が集まる場所に行ってきたんだから」
自分のことは棚にあげて悪態をつく左馬刻が可愛くて、銃兎はそっと手を伸ばした。髪のふわふわとした触り心地に目を細める。
「お前は俺様の匂いだけ撒き散らしてれば良いんだよ」
「何だそりゃ。マーキングってか」
フンと鼻を鳴らした左馬刻は銃兎の首筋に歯を当て、甘噛する。スーツで隠れるギリギリにつけられた噛み痕は、二・三日もすればきっと消えてしまうだろう。だから、それよりももっと忘れられないようなもの、もっと左馬刻を求めてくれるようなものを与えるのだ。そうすれば銃兎がほかの奴に靡いていくことも無いし、ほかの者に盗られることもない。
「……ん」
銃兎が左馬刻の胸板を撫でた。まだ服も脱いでいないうちから、銃兎が生肌に触れるのは珍しい。さわさわと鎖骨を擦り、お伺いでも立てるように左馬刻を見上げる。欲を含んだ瞳に、知らず左馬刻の目が弧を描いた。
「痕、つけたいのか」
耳元で囁くように言えば、こくんと頷いてくる。素直な銃兎はレアだ。もともと貞操観念が高い銃兎は、滅多に自分から何かを強請ってくることはない。
「どこに?」
「…………ここ」
そう言って銃兎が撫でたのは左肩の関節。そこには左馬刻が昔、父親につけられた火傷の痕があった。
「……いーぜ、つけてくれよ」
笑った左馬刻が左肩を露出させる。そこを撫でながら銃兎は頬を寄せた。愛おしそうに何度も火傷の痕を撫でる銃兎に、左馬刻はやっぱりコイツ狂ってるよな、と思う。普通は身体にある傷なんて撫でないだろうに、銃兎はそういう節がある。汚いものが好きなわけでもないのに、左馬刻の身体にある汚れた跡はまるで宝物に触れるように扱うのだ。
傷痕を堪能したらしい銃兎はちろちろと舌でそこを舐め出した。猫が水でもなめるような動きがくすぐったくてくつくつと笑うと、銃兎に少し睨まれた。
「……なんだよ」
「いや? かーわいいなあと思ってよ」
いよいよ本格的に睨まれて、左馬刻は宥めるように銃兎の頬を撫でる。
「ほら、つけてくれよ、じゅーと」
「……ん…………」
気を取り直して、銃兎は左馬刻の肌に唇を寄せた。皮膚を吸うと、鬱血した部分が赤黒く染まる。自分が左馬刻につけた傷に満足して、銃兎は小さく笑った。消えたらまたつけてやればいい。何度も、何度でも。自分がここにいた記憶を忘れさせないために。
「ん、イイコ」
低い声で囁かれ頭を撫でられて、腹の奥が疼いた。銃兎が身に纏う雰囲気が変わったのに、左馬刻も気がついたのだろう。銃兎が見上げた紅い瞳は、情欲に呑まれた雄のそれだった。