「おはよう、ジャミル!」 ドアを開けた瞬間、白い毛の何かが抱きついてきた。いや何か、ではない。れっきとした人間、それも自分の主人である。不本意だが。 「カリム、どうし」 「なあジャミル、俺のこと好き?」 言うことを聞かないのは相変わらず。だが、ジャミルはカリムの発した言葉に耳を疑った。こいつ今、何つった? 「何言ってるんだお前、俺はお前の従者だろ」 「でも俺はジャミルのことが好きなの! ねえジャミルは俺のこと」 「待てって‼」 ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるカリムから必死に身を離し、カリムの眼を見つめようとする。しかし何かをする間もなく、カリムの方が目をそらした。 「お前、どうしたんだよ」 「どうしたも何もない。俺はジャミルが好きだ。ずっと前から、昔っから」 ──そうだよ、お前は俺のことが大好きだった。それは俺が一番知っている。でも、あれは、もう。 「俺、全部覚えてないけどわかるよ。ジャミル、俺に服従の呪いかけたんだろ?」 「ッ……‼」 ジャミルは思わず唇を噛み締めた。何故だ。俺が十年以上守り続けてきた秘密を、何故今になって暴かれるんだ。よりにもよって、一番知られたくなかった人間に。 「なあ、ジャミル……俺のこと、嫌いか?」 ──小動物みたいな瞳で見つめんな! お前はラッコか! あのウツボじゃないが! 現実逃避も兼ねて心の中でひとしきりツッコんだジャミルは、改めてカリムに向き合う。彼の紅い瞳はたしかに、自分がその色に染めたはずだった。実際、今も真紅のそれは、身体の一部として彼の顔に嵌められている。視線が交わることはないが。 「なあカリム。俺の眼を見てくれ」 「嫌だ。またかけるんだろ?」 ジャミルがカリムに、ここまではっきりと拒絶を示されたのは初めてだった。なんだかんだ、今ままでのカリムはジャミルのことを否定することはなかったのだ。それこそ呪いをかける前から。 どうしてこうなってしまったのだろう。少なくとも昨日までのカリムは普通で──ごく一般的な人間から見ればだが──ジャミルもいつも通り、カリムの従者として過ごしてきたのだ。それが、急に魔法が解けてしまった。何か悪いものでも食したのか、解除魔法をかけられたのかもわからないが。 「…………ジャミル?」 「……ああ?」 カリムが心配そうな顔をして覗き込んで来るが、正直鬱陶しい。誰のせいで悩んでいると思ってるんだ。 「………………ジャミルは、俺と付き合いたくないかもしれない。だから一日でいいから、俺と付き合って。それで、明日からはまた魔法かけていいから」 だからの使い方が間違ってるとか、一人で話を進めるなだとか言いたいことは山ほどあるのに、ジャミルの口から出たのは掠れた声だけだった。 「……それで、良いのか」 「うんっ‼」 今日初めての笑顔を浮かべるカリムを見ながら、ジャミルは今日一日の予定が音を立てて崩れていくのを感じた。
幸いにして、今日は日曜日である。所謂『お家デート』というものあたりをして過ごしておけば、人に見られることもない、とジャミルは思っていた。しかし、それでカリムが満足するはずもない。 「なあなあジャミル! 俺ジャミルのお弁当食べたい!」 「はあ? いつも昼は作ってやってるだろうが」 ジャミルがそう返すと、何故かカリムは悲しそうな顔をする。 「……なんだよ」 「……俺達、恋人なんだろ? だったらおねだりくらい聞いてくれよ」 お前それワガママとおねだりを履き違えてないか? とも思ったが、それを言うほどジャミルは辛く当たることができない。昨日まで嫌々ながらとはいえ、従者として使えてきた身だ。いきなり恋人を演じろという方が難しい。 「……弁当ったってどこに行くんだよ。この辺に食べるところなんて無いぞ」 「オアシスまで行こーぜ! あそこだったら二人っきりだろ?」 どうやら本気で作ってもらうつもりのようだ。諦めたようにため息をついたジャミルは、しぶしぶキッチンに向かった。しかしカリムがその後を追いかけてくる。無視して料理を始めようとすると、ジャミルの腰にカリムが抱きついてきた。 「なあなあ、俺サンドウィッチがいい!」 「分かったから離れろ! 怪我したら危ないだろうが!」 ジャミルは一喝して料理を続ける。カリムが寂しそうな顔をしたが関係ない。これに関しては俺は悪くない、と自分に言い聞かせて調理を進めた。 耳を切り取った食パンにレタス、ハム、トマトなどを雑多に挟む。それだけでは物足りないのでソースで味付けしたそぼろ、どこぞの黒い獣が好物のツナ缶とキュウリのマヨネーズ和え、カッティングチーズなどを別の箱に詰めた。味に飽きたらサンドウィッチの上に乗せて食べれば良いし、余ったら夜ご飯の材料にもなる。 ひと段落ついたら次は朝食だ。焼いたトーストの上に残ったレタスと薄切りトマト、さらにターンオーバーを乗せてオリーブオイルをかけた簡易的なもの。ココナッツミルクは温めておき、自分用のブラックコーヒーはコーヒーメーカーに任せる。 「うわあうまそう!」 目を輝かせたカリムは、ジャミルの差し出したマグカップを受け取る。くんくんとココナッツミルクの匂いを嗅ぐのは、幼い頃からのカリムの癖だ。昔毒を盛られかけた時にいつもと違う匂いがしたことから、俺が確認するように言い聞かせたのだ。ほら、こんなにもカリムは俺に従順なのに。 もちろんジャミルはキッチンで立ち食いだ。味見も兼ねているというのもあり、カリムも気にしていなかったのでそこだけがいつも通りだった。 飯が終わったら次は着替え。これも俺が全部やってやってるのだから、いつも通りだ。それにしても、もう十七年も生きているのだから、いい加減にターバンの巻き方ぐらいは覚えてほしい。 「なあジャミルー……」 「……あ、なんだ」 無心で手を動かしていたジャミルは、カリムの声に手を止める。 「……俺だからいいけどさ、そんなにそっけなくしたらフラレるぞ?」 暫くして、ケチをつけられたのだと理解する。着替えさせる動作の一つ一つは確かに、恋人にする手つきとは圧倒的に違う。それを改めて自覚した瞬間、ジャミルは自分の中から衝動が沸き起こるのを感じた。負けず嫌いはこういう時には、役に立つのかもしれない。 というか、こいつは今までの俺の動作を全てそっけないと思っていたのか。曲がりなりにも従者であったのに、それすらも失格なのではないか。 「ジャーミール?」 手が止まったままのジャミルを訝しんだのか、カリムが顔を覗き込む。 「大丈夫か……?」 「っ……ああ…………」 心配するカリムの顔がなんだか面白くて、ジャミルは思わず笑ってしまう。そうだ、今日の俺はカリムの恋人。一日限りの遊戯に付き合ってやれば良いだけの話。そう割り切ったジャミルは不敵に微笑んだ。
■ □
宝物庫から魔法の絨毯を取り出す。普段はゾウに乗って行くことが多いが、休日は彼らにも休みをやる必要があるだろう。
「よっし! 行くぞ〜!」
テンション高く乗り込むカリムのあとに、ジャミルも続く。来ると思っていなかったのか、カリムが振り向いて驚いたような顔をした。
「一緒に乗らないのか?」
「……のっ、乗る!」
ぱっと顔を輝かせたカリムだったが、すぐにしゅんと顔を落とした。
「でも、荷物…………」
そんなカリムを置き去りにして、ジャミルは荷物を積み込んでいく。結局余った部分は人がやっと一人、座れるぐらいだ。ジャミルはそこに座ると、カリムに向かって両腕を広げてみせる。
「ほら、来いよ」
顎で膝を指せば、カリムは一瞬固まって、それから顔を真っ赤にした。
「んんんんんジャミル〜‼」
ガバッと抱きついて来たカリムを、ジャミルはなんとか受け止める。コイツ、手加減せずに全体重乗せて来やがった。ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるカリムを抱き返していると、焦れたのだろうか、魔法の絨毯はひとりでに宙に浮かんで移動を始めた。
魔法の絨毯さえ使えば、オアシスまではほんのひとっ飛びだ。落ちないようにとカリムを支えながら、ジャミルは眼下に広がる光景を見つめた。
砂漠が一面に広がる平坦な土地は、自分たちが幼い頃を過ごしたそれに似ている。あの頃と違うのは、今日限りの二人の関係性だけ。それなのに、こんなにも違って見えるものなのだろうか。眩しくてウザいとさえ思えた太陽も、今日ばかりは優しいように感じる。それだけこの甘い雰囲気に中てられているのだろうか。
膝に座り込んだカリムが、ジャミルの肩元に縋りつくように腕を絡ませる。首筋に頬擦りしてくるのがいかにも愛玩動物のようで、ジャミルは自分の頬が緩むのを感じた。
いつもなら長く感じるオアシスまでの距離も、魔法の絨毯であればひとっ飛びだった。歩こうものなら一時間は優に超えるだろう。カリムは途中で寝落ちでしまったようで、首筋に寝息が当たった。
カリムはかなり幼い頃からジャミルを気に入っていた。どこに行くにもジャミルを連れ、事あるごとにジャミルを呼んだ。両親はそれを見ていつも『お前はカリム様に迷惑をかけるなよ』とか『カリム様はジャミルにも優しくしてくれて、素晴らしいわね』と言い聞かした。両親がいくら自分の力を認めていると知っていても腹は立つ。冗談じゃない。素晴らしいのは自分のコントロール力だと、何度も大声で言いたかった。これが無ければカリムが勝利するなどありえない。学校は常に予習をしながら自身の力を一人で確認して、みんなの前ではわざと失敗したりカリムができるまで自分から動かなかったりした。誰も自分の力なんて知りやしない。それは秘密でありながら、孤独だった。
エレメンタリースクールを卒業してしばらくした時、いつものようにカリムはジャミルと行動を共にしていた。その頃のカリムはジャミルからすれば、少しおかしかった。ジャミルに対する執着は主人と従者のそれをとっくに超えていたし、カリムの両親も訝しげに二人の事を見ていたと思う。それでもジャミルに拒否権なんてものは無かったから、カリムの言うことに追随して生活していた。そんなある日、カリムのご両親に呼ばれ、言われた言葉に絶望したのだ。
『君はカリムに何をしたんだ? もしもカリムが誰とも結婚しないと言い出せば、君をこれからもここに置いておくことはできない』
どうにもならないことだ。カリムが俺を好きでいる限り、カリムは誰とも結婚するとは言わないだろう。それでも居場所が無くなるのは自分のメンツに関わるから、どうにかしなければならない。
しばらくした日、カリムに告白された。好きだ、と言われてもジャミルからすれば仕方なくつるんでいる人間だ。この環境でなければ絶対に絡まないような相手に好意を寄せられても困る。更にその両親から息子を拐かしたなどと思われているのに、その気持ちを受け取れるわけがない。長い沈黙のあと、カリムの眼を見て、ジャミルはまだ友達でいたい、とただ否定をした。すると、本当に何が起こったのかわからないが、すうっとカリムの瞳が赤く染まりカリムは従順に頷いたのだ。
それからカリムは一度も、ジャミルを好きだとは言わなくなった。ジャミルを連れ歩くことは変わらなかったが、カリムの両親からのお咎めも無かったことになった。ジャミルはその後すぐにユニーク魔法を完成させたが、そのことはカリムがユニーク魔法を使えるようになるまでは、その事を話さなかった。
そんな事を思い出していると、オアシスが眼下に見えた。魔法の絨毯を下ろして、熟睡しているカリムの肩をそっと揺らした。