ガシャン、と音がして目の前が白んだ。銃兎さん! と名前を呼ばれて声のした方向に目を向けようとしたが、目の前の景色は変わらない。 「…………大丈夫、ですよ」 「どこがですか! とにかく、ここ座ってください!」 やがて見えた部下の顔に笑ってみせるが、彼は怒ったような顔で銃兎を近くの椅子に座らせた。慌てたように、やや乱暴に掴まれた腕に思わず鳥肌が立つ。 「入間、どうした」 「……いえ、少し目眩がしただけですので」 上から降ってきた課長の声に、なんとか返事をする。突然浴びせられたGlareに対応できなかったのだと分かるのに、少し時間がかかった。 年末も近づき、ヨコハマ署組織犯罪対策部は繁忙期を極めている。老若男女問わず浮足立つこの時期は、組織犯罪の格好の隠れ蓑だからだ。おまけに中王区から、違法マイクの摘発について難癖をつけられ──入間銃兎が在籍しながら摘発率が悪いのはどういうことだ、というのは警視総監からのお言葉である──上層部は下を焚きつけるのに躍起になっている。当然銃兎のいる部署に矛先は向き、課長は先程まで呼び出され部長からコンコンと説教じみた話し合いをさせられていたのだ。そして苛立っていた課長が無意識に出していたDomのGlareに、銃兎が中てられてしまったのである。 「最近仕事詰めてましたし、お疲れなんじゃないですか? 帰って休んだほうが良いんじゃ」 「大丈夫ですから。貴方は自分の仕事をなさい」 部下の言葉を遮って立ち上がる。そして、決して気取られぬように、銃兎は颯爽と部屋を出ていった。
──入間銃兎はSubである。
Dom性、Sub性といったものは人間が持つ嗜好性の一つだ。対象物を世話したがったり信頼されたがったりといった嗜好を持つのがDomで、支配されたがったり褒められたがったりするのがSubである。対象物となるのも人であったりペットなどの動物であったり、様々だ。
そういった性には強度があり、強いものはお互いに引かれ合い信頼関係を築く。そうして出会った二人はやがて Claim という契りを交わし、信頼を預けあったパートナーとなるのだ。パートナー同士の精神的な繋がりは深く、永遠の恋人となることも多い。
その一方で、全くこういった嗜好を持たない者や逆に対象物によって嗜好が変化する者もいる。彼らはそれぞれNeutral・Switchと呼ばれ、DomとSubのようにClaimを結ぶことはできない。しかしプレイをすることが不可能ではないため、DomやSubの代わりを務めることは黙認されていた。
銃兎はこの警察という世界では珍しいであろう、Sub性を持った人間なのである。
「よお、邪魔してんぜ」
部屋のドアを開けて見えた真っ白な姿に、銃兎の身体は震えた。絶対的なDomの存在に、Subの心は締め付けられる。
あの後、銃兎は必死に堕ちかけた心を騙しながら仕事を終えた。課長と部下に半ば無理矢理に帰宅を促され、殆ど意識の無いまま自宅まで戻ってきたのだ。Subdropした心は左馬刻のDomとしての威厳に悲鳴をあげていた。
「あ……さま…………」
「おい……‼ 大丈夫かよ?」
姿を見た瞬間その場に座り込む銃兎を支えようと、左馬刻は慌てて手を伸ばす。しかし、座り込んだ銃兎の姿勢に思わず手が止まった。膝を外側に曲げ尻を地面に付けた、いわゆる『おすわり』の姿勢だ。SubがDomに従属するときの基本的なポーズ。銃兎がSubだとは知らなかったが、褒めてやりたいとDomの心は叫んでいた。
「銃兎、いい子」
そう言って頭をそっと撫でてやると、銃兎の強張りが解けるのが分かった。控えめに頭を擦り寄せてくるのが可愛らしく、左馬刻の中の庇護欲が顔を出す。
「さま……」
「銃兎、こっちおいで」
そう言ってリビングの方に歩き出すと、四つん這いになった銃兎が後ろをついてくる。ソファに左馬刻が座ると、銃兎はその脚の間に身体を滑り込ませた。
「よくできたな、いい子だ」
「あ……」
優しく撫でられてにうっとりと目を閉じた銃兎の靴をそっと脱がせると、左馬刻は立ち上がる。急に手が離された銃兎は悲しそうに左馬刻を見上げた。
「靴置いてくるからな。待ってろ」
「やぁ……!」
そう言い残して動こうとする左馬刻の足元に、銃兎が抱きつこうとする。命令を破ろうとしたのだ。思わずGlareを出した左馬刻に、銃兎はビクリと身体を震わせた。
「……すぐ戻ってくるから、待てるな?」
「う…………」
辛そうにしながらも手を離して座り直す銃兎に心のなかで安堵して、靴を持って玄関に向かう。揃えた靴を玄関において、ついでにドアにも鍵をかける。それから急ぎ足で戻ってくると、銃兎は切なげに左馬刻の方を見つめていた。
「ちゃんと言うこと聞けたな。偉いぞ、銃兎」
銃兎の身体を抱き上げて膝の上に乗せてやると、自ら抱きついて来た。暫くそのまま撫でてやっていると安心したのか、すうと脱力して眠りに入ったのが分かる。普段は見られない甘える仕草に、左馬刻は自らのDom性が満たされるのを感じた。
目が覚めると、銃兎は左馬刻の腕の中で抱きしめられていた。驚いて腕を押しのけようとすると、うーん、と左馬刻が声をあげる。
Subdropしたまま家に帰ったら、そこに左馬刻がいて……それからの記憶が無い。しかし、Subdrop後の空虚感は感じられず、寧ろ満たされた気分なのは確かだ。おそらく左馬刻がプレイの相手をしてくれたのだろう。
「……じゅうとぉ、お前Sub性だったんだな」
寝起き特有の間延びした声が銃兎の耳をくすぐる。
「……ああ、After careしてくれたのは正直助かった。すまなかったな」
「別に、あんなの手間でも何でもねえよ」
そう言って優しく頭を撫でてくる左馬刻に対して、銃兎の心は晴れやかとは行かなかった。
「…………なあ、銃兎……」
「パートナーにはならねえよ」
左馬刻が言いそうな言葉を、先回りして否定する。彼は優しいから、Subである自分に気を遣ってくれているだけだ。甘えてはいけない。
不機嫌そうに黙った左馬刻は暫く考え込んでいたようだったが、やがて口を開いた。
「……分かった。でも何かあったときのCareは俺様がやる。それは約束しろ」
「…………わかったよ」
銃兎が渋々頷くと、満足したように左馬刻はまた銃兎の頭を撫でた。
「銃兎、Safe wordは?」
「…………Crew」
いい子だ。そう言って左馬刻は、銃兎の頭をそっと撫でた。
初めて左馬刻にCareをされてから、数回目のSubdropだった。左馬刻に出会う前まではSub性であることすら感じないぐらいにはdropしなかったのに、彼と行動するようになってからSub性を感じることが増えた気がする。それが、左馬刻との相性が良いことを示唆していると銃兎は気がついていたが、左馬刻にそれを打ち明ける気にはなれなかった。
左馬刻のCareはいつも簡単な命令を出してそれに従えたら褒めるというもので、こいつは信頼を得たいタイプのDomなんだろうな、と察しがついた。それに対して自分は左馬刻に完全な信頼を渡せていないから、きっと彼は満たされきっていないだろう。どうして自分とのプレイをやめようとしないのか、銃兎の疑念は増すばかりだった。
「銃兎、おすわり」
左馬刻の命令が耳に響く。しかし、いつもと違う感覚に銃兎の身体は動かなかった。自分の身体なのに、コントロールが利かない。動けない。
「銃兎? 大丈夫か?」
左馬刻が心配そうに声をかける。どうしよう。左馬刻の言うことは聞かなくちゃいけないのに。ああ、左馬刻が目の前まで来て何か言ってる。でもわからないんだ。だんだん目の前がぼやけて、真っ暗になっていく。
「銃兎‼」
突然、強い声に引き戻された。いつの間にか閉じていた目を開くと、焦った顔の左馬刻が顔を覗き込んでいる。
「…………さまとき」
「そうだ、俺だ。分かるか?」
こっくりと頷くと、心底安心したように左馬刻は銃兎の身体を抱きしめた。立っていたはずなのに、今は床に座った左馬刻の膝の上で抱きかかえられている。
「…………あ……俺…………」
慌てて退こうとするとしなくていい、とばかりに首を振られた。恐る恐る左馬刻に身体を凭れさせると、抱きしめる力が一層強くなる。
「……嫌だったらSafe word使え」
銃兎のこと、壊しちまったかと思った。沈痛な声で左馬刻が言った。そんなに、俺のことを大事に思ってくれていたのか。そう感じて、銃兎はそっと左馬刻の背中に腕を回す。
「…………嫌、ってわけじゃなくて。……その、なんだか身体が動かなくて」
素直に状況を説明すると、左馬刻は真剣な顔で銃兎の話を聞いていた。
「急に、なんで左馬刻が俺のAfter Careなんてやってるんだろう、って思ったら訳わかんなくなって、それで」
「…………そっか」
ぽんぽん、と頭を軽く叩かれる。褒められているのだろうか。そう思うと、Subdropした心がゆっくりと上がってくる。
「……銃兎、こっち見て」
柔らかく発せられた命令に、無意識に左馬刻の顔を見上げた。左馬刻は優しく微笑んでいる。
「俺様はSubの信頼が欲しいんじゃねえよ。銃兎、お前だからだ。銃兎からの、信頼が欲しいの。分かる?」
一言一言区切って、左馬刻は銃兎に本心を伝える。後頭部をゆっくりと撫でる手が、信じてくれと言わんばかりに優しく動く。
「…………チームだから?」
やがて銃兎から放たれた問いに、左馬刻は思わずため息をつく。
「分かってねえなぁ、じゅーと。お前が好きだからだろ。言わせんなよ鈍感」
思っても見なかった突然の告白に、銃兎の顔が真っ赤に染まる。思わず顔を伏せてしまった銃兎を、左馬刻はそっと抱きしめた。
「…………で? 返事くれね─の?」
優しく歌うような声の左馬刻に銃兎は唇を噛んでいたが、やがて決心したように左馬刻の耳元で、三文字の言葉をもらす。それを聞いた左馬刻は、満足そうに一層、銃兎を抱きしめたのだった。