default

pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

この作品「君あり故に我あり」は「ヒプノシスマイク」「神宮寺寂雷」のタグがつけられた作品です。
君あり故に我あり/立葉 葵灯の小説

君あり故に我あり

15,247文字30分

先生,お誕生日おめでとうございます

神宮寺寂雷という人間についての捏造と考察を詰め込みました。
※コミカライズの内容などを含みます
※他人のキャラ解釈を理解できない方は閲覧非推奨です

------------------------

以下あとがき
 ここまで読んでいただきありがとうございます.この本は2020年頃から考えていた『神宮寺寂雷は神を目指す人間である』という寂雷に対しての自己解釈に基づいた,『神宮寺寂雷』という人間を形成する要素についてのストーリーを捏造・妄想したものです.
 解釈を練り直しては推敲していたら,いつの間にか2ndD.R.B.が終わっていました.その中で色々考えたのですが,今まで生きてきた中で様々な世界を見て,人の良い面も悪い面も知ってしまった寂雷は純真であるが故に神を目指そうと決心したのかなぁ,だなんて思ってしまうんですよね,やっぱり.『神』『天才』と言葉で言うのは簡単だけれども,そこに至るまでに辿った道のり・努力などは本人しか知り得ないわけで……だからこそ人は軽率にそういった名詞を他人に押し付けてしまうのでしょうか.それがその人を追い詰めるだなんて考えないし,寧ろ褒め言葉だと信じて疑わない人が大半でしょう.
 自分は以前から『神宮寺寂雷は人間です神じゃない』をモットーに神宮寺寂雷を推してきたのですが,1stD.R.B.以降散々彼を神たらしめた我々新士宿女が今になって神宮寺寂雷人間宣言をする,というのがあまりにも我々のエゴであるなと思っています.
 自分の解釈では神宮寺寂雷という人間はかなり子供のような純真さを持っておりまして,それ故他人の内面に無意識で介入しようとしすぎてしまうのではないかと(しかしこの解釈ももれなくエゴなわけですが……).
 左馬刻はきっとそんな寂雷も「先生のことだしな」と一定の理解は示すけれども,自分の人生には決して踏み入られたくない闇があるからそこは遮断する.一郎は年長者として純粋に尊敬しているし,彼自身ある意味で大人だからこそ寂雷の考え方を,他人の意見と割り切って考えられる.そして乱数も最初はそんな寂雷に興味を持つけど,自分にその純真さが向いてくると徐々に恐怖を感じ始めてしまう,みたいなことがあったんじゃないかなあ……今まで自分の感情を殺して従ってきた乱数にとって,自分の内面に立ち入られる事はすなわち自分の『心』を否定することに等しいと,彼自身がそう考えていそう.それが寂雷の『作られた存在』発言に対して大きく反抗する原因のひとつだったのではないかと思います.
 自分の解釈では,寂雷の『作られた存在』という言葉には『人間でないもの』という意味よりも『人が創り出した信仰する存在』つまり中王区も含まれているのではと考えています.当時の情勢において中王区は(女性が)信じるもので,勿論男性も表立って反抗することは許されていなかった.つまり中王区は寂雷にとって『(人間が創り出した)信仰すべきもの』であり,そこと繋がっている乱数も同じ『作られた存在』だったのではないかと……
きっと寂雷は人間も含めて『作られた存在』になり得ることを意識しているし,自分をそう形容してきた人々に信頼を完全には預ける事ができなかったと思うんですよね.そんな中で寂雷が,再び人間を信じられるようになったのは一二三と独歩のおかげなんだろうな,と考えると麻天狼はやっぱりお互いに支え合っているんだろうと感じます.

  • 2
  • 3
  • 246
1
white
vertical







『神宮寺ってすげーよな、勝てる気がしねえ』
『勉強も運動もトップだもんな、天才ってやつだろ。神だよ神、張り合うだけ無駄だって』




『神宮寺くん、イケメンで性格も良くて勉強も運動も完璧でホント神 って感じだよね 拝みたくなるってゆーかぁ』 『ほんとになんか私達には釣り合わないって感じ……神宮寺くんと付き合おうなんて烏滸がましいにも程があるよ、彼は一人でも充分に完成されてるんだから』






『神宮寺くんは正に完璧だよ、神といって申し分ない。正に我々のためにあるようなものだ』
『衛生兵として戦地に来たばかりなのに常に最適解を選べる人間なんていない、まさに天才と呼べるだろうよ』





『彼には素質がある。あの短期間で確実に急所を取れるようになったのは天性の何かがあるのでしょうね。逃したくはない逸材ですよ』
『もはや我々に神が憑いたも同然だ。きっと天が味方してくださったのだろう。我々が起こしていることが正しく善であるのだと認めているのだ』











『神宮寺先生は天才なんでしょ ママがそう言ってた すごい人なんだね』 『僕も先生みたいなお医者さんになりたいんだ でも、お父さんが先生は天才で僕は普通だから無理だって……』












──人が求めていたのは『神宮寺寂雷』ではなく『神宮寺寂雷という名の神』だった。そのことに気がついたとき、私は神を演じる事を選んだのだ。








■ □


「……獄 おーい」  寂雷は獄の顔の前でぱたぱたと手を振る。気だるげに顔を上げた彼は、寂雷の顔を見て眉を顰めた。 「…………ンだよ」 「ぼーっとしてるから。ほら、次家庭科だから移動しなきゃ」  ああ、そうか。そう小さく呟いて獄は立ち上がる。ふらりと揺れたその身体を、寂雷が慌てて支えた。 「…………獄」 「大丈夫だ」  何か言おうとする寂雷を遮って、獄が無理に立ち上がる。教科書と筆箱を持って教室を出ていく彼を、寂雷は慌てて追いかけた。 「……やっぱり保健室行った方がいいんじゃない」 「大丈夫だっつってんだろ」  ぶっきらぼうに言う獄の顔を、隣に並んで歩く寂雷が覗き込む。 「それなら、いいけど……」  依然として心配そうな顔の寂雷に苛立った獄は、ぎゅうと寂雷の頬をつまんでやった。以前よりも面長になった顔には、つまめるほどの余分な肉すら無いのだが。 「ひあいっへいたいって!」 「俺の心配するぐらいなら自分の心配しろや。また痩せやがって」  ぷうと無い頬を膨らませた寂雷が不満げに言い返す。 「そんな細くないよ、こないだの身体測定でも体重増えてたし」 「その分身長も伸びてんだろうが、朝礼のたびに貧血で倒れんのを保健室まで引きずってくのは俺だぞ」  うーん、そこそこ食べてるんだけどなあ、と見当違いなことを言う寂雷に思わずため息がもれた。知り合ってもう二年を超えるが、こいつはいつも天然なのか計算なのかわからない事を言う。しかし本人は自覚が無いらしいからやはり天然なのだろう。それが人を怒らせるときも多い気がするが。 「とにかく俺は大丈夫だ」 「うん、いつもの獄に戻った気がする」  気がする、と心の内を覗かれたような言い回しにどきりとした。そんな獄の心境は知らないとばかりに、寂雷はにこにこと笑っている。 「獄。私は君のやりたいこと、何でも手伝うから」 「お、おう……」  首をかしげながらも頷く獄に寂雷は一瞬驚いたような顔をして、そして嬉しそうに微笑んだ。 「…………ところでお前、自分の勉強道具は」 「え……⁉ わ、獄に必死で忘れてた 先に行ってて」  両手に何も持っていないことに気がついたらしい寂雷は、踵を返してバタバタと廊下を駆けていく。あっという間に見えなくなる背中を獄がぼうっと見送っていると、授業開始のチャイムが鳴り響いた。


「あのっ 神宮寺くん、ですか」  校門を出たところで声をかけられた寂雷は振り返る。つられて獄も一緒に振り返ると、そこには近隣にある女子校の制服を着た女子が立っていた。昨今の情報の伝達速度というものは恐ろしいもので、自分についての何かしらがニュースになれば学校名から全て分かってしまうのだ。寂雷自身は全く気にしていないが、友人の誰かが見かければそれは本人にも伝わってくる。今回は夏休みの課題で書いた作文が最優秀賞として紹介されたらしい。 「何でしょう」 「あのっ、これ」  突如差し出された封筒を見て、隣に立っていた獄がげんなりとした表情をする。どう見てもラブレターのたぐいだろう。しかし、問題は渡す相手だ。 「……これはなんだい」  本当に分かっていないのだろう。笑顔でそう返す寂雷を見て、獄は本気で手紙を渡してきた女子に同情した。 「あっあの……その……」  赤面している女子が可哀想に思えてきたので、獄は助け舟を出してやることにした。 「とにかく受け取ってやれよ。自分で確認しろ」 「え ああ……うん。分からないけど、有難う」  笑って受け取ってもらえて、ようやくその女子は復活したらしい。それじゃあ と言い残して走っていってしまった。 「…………何だったんだろう」 「いやお前、どう見てもラブレターだろ」  ラブレター と首を傾げる寂雷に大きなため息が出た。コイツの無自覚さについてはもう嫌というほど知っていたが、まさかここまでとは。 「いいか、お前はもう少し周りから向けられる好意に興味を持て。じゃないといつか大変なことになるぞ」  獄としては、他人からの好意に疎い寂雷が何か変なことに巻き込まれないようにと忠告したつもりだった。友人が他人に知れず利用されるのは、獄とて本意では無い。 「好意って……私はあの人のことを何も知らないんだよ」 「お前が知ってなくても向こうは知ってるんだよ。少なくともここら辺じゃお前の名前を知らねえやつなんかいねえだろ、散々地方紙やテレビに取り上げられてるんだぞ」  でも……と不満げに小さな口を尖らせる寂雷に、獄は何度目かのため息をついた。 「とにかく、ちゃんとそれ読んで返事してやれよ」 「そりゃあ読むけどさ……」  首を傾げて手紙を読み始めた寂雷はやがて、顔を曇らせた。 「……ねえ獄、てんさい、ってなんだと思う」 「天才 なんだ俺の天って字に才能って書くやつか」 「そう……この人はどうやら私のことを天才と思っているようなんだ。だけど……僕はそうは思わない」  困ったように眉を顰める寂雷を、獄は呆れた顔で見つめるばかりだった。





 高校生にもなると、世間の常識と自分の人生とを無意識にすり合わせるようになる。スーパーマンなどといった抽象的な夢は許されなくなり、自分の身の丈に合った職業を探すようになるのだ。そんな中でも、寂雷は決して見劣りすることのない夢を抱えていたのだと思う。そして、それはまた獄も同じだった。 「それじゃあ志望校も変更無しと。何かほかに不安とかある」 「いえ、特には」 「そう、じゃあこれで終わりね、お疲れ様」  形式ばかりが残った面談を終えて、獄が立ち上がろうとしたその時だった。教室を出ていこうとする獄に、担任教師の言葉が突き刺さったのだ。 「あ、そうそう。推薦の方は神宮寺くんが断ったから枠自体は残ってるから、そっちも考えといてね」  ガツンと頭が割れたような痛みを感じた。暗に安全策を取れと示唆されたようなものだ。寂雷を引き合いに出してアイツとお前は違うのだと、言い含められている気がした。  怒りに震える身体を必死に堪えて、無言で教室を出る。すると、丁度廊下を歩いていた寂雷と目が合った。 「あ、獄。面談だったの」 「…………ああ……お前は なんか用でもあるのか」  八つ当たりしたくなる気分を抑えてなんとか返事を返すと、寂雷は僅かに顔を綻ばせた。 「ボランティア活動の届け出を出しに来たんだ。ほら、前に話しただろう 中学生の時、職業体験で行った病院で少しだけど手伝いをさせてもらえそうって」 「ああ……なんかそんなこと言ってたな」  うん、と無邪気な顔で頷く寂雷を曖昧に肯定したが、忘れるわけがなかった。向こうから申し入れがあったようで、獄もどうかと頼んではみたが断られたのだそうだ。一緒に行きたかったなと寂雷は残念がっていたが、獄は腹立たしいやら情けないやらで何も言うことができなかった。 「そういえば面談で推薦のこと、聞かれたかい」 「ああ、お前断ったんだってな」 「うん……やっぱり試験で受かりたいし。ここまで学んできたことを無下にはしたくないからね」  寂雷らしい、真面目な回答だった。学校側からの推薦の申し入れを断るだなんて常人には理解できないかもしれないが、こいつはそういう奴なのだ。 「…………それにきっと、獄の方が向いているんだ。医師になりたいという気持ちで言えば、私は獄には及ばないだろう。だから、相応しくないと思った。それに先生も強くは勧めてこなかったし」  推薦なんて大学へ行くための手段の一つでしかないのに、そんなことにさえコイツは一々理屈で考えようとする。それでも寂雷の言葉は、教師から言われるよりもずっと獄の心の中にすっと響いてきた。 「……担任アイツ、俺には推薦で行けよって。馬鹿にされてんだぜ」
「べ、別に獄が推薦を取らなくてもいいんだよ。僕は、獄よりも推薦されるべきではない人間だ。だから」
「いやそんな考え過ぎんなよ。お前なら一般でも余裕だから先生もそこまで言わなかっただけだろ。俺が気にかけられてる時点でヤバいってことで」
 どうして俺がお前の機嫌を取っているんだ、と怒りたくなる気持ちを抑えて獄は寂雷をフォローする。学力を遠回しに否定されて落ち込んでいるのは自分なのに、どうして自分よりも充分な学力を有している友人を励まさなくてはならないのか。
「……ありがとう、獄は優しいね。私はいつも君に甘えてばかりだ…………」
「お前が考えすぎなだけだろ。オラ資料提出して来い」
 うん、と曖昧に頷いた寂雷は担任室へ入っていく。その後ろ姿を見送りながら、獄は寂雷に八つ当たりをしてしまった自分に舌打ちをした。





「……神宮寺くん、君さえ良ければ衛生兵に志願してくれないだろうか」  学長からの申し出に寂雷は唇を噛み締めた。第三次世界大戦が始まって一年が経っていた。戦地の情報はニュースは勿論、大学からも日常的に入ってくる。マスコミの情報が全て信頼できるとは思っていないが、苦境に立っていることは間違いないだろう。 「……理由を聞かせていただけますか」  パッと顔を上げた学長にああこれは、と心の中で首を振る。きっと、表向きの綺麗事を並べられるのだ。目の前の若干二十歳の青年は、それで納得するとでも思っているのだろうか。 「神宮寺くん、君はとても優秀だ。二年目にしてこれだけの成績を取れるのは医者の卵として申し分ないと私は考えている。そして今の君に必要なのは……そう、実践だよ」  納得できないわけではない。戦地では医者不足が特に慢性化している。おそらく国から、学生を使わせろと迫られているのだ。彼は彼で政府から見れば駒の一つに過ぎない。戦争はこうも簡単に人間の存在意義を変えてしまう。 「…………わかりました。ただし、条件があります」 「な、なんだね⁉」  苦悶の表情で承諾した寂雷とは対象的に如何にも喜ばしいといった顔で、学長が身を乗り出した。 「私以外の学生には、このようなことは言わないでください。意志を持って志願してこその志願兵です。志願者が偽りだとわかってしまうと被害が及ぶのは、ここで学んでいる数多の学生です。その火種に友人たちを巻き込まないで頂きたいのです。その条件を飲んでいただけるのであれば、私は志願兵に喜んで参加いたします」 「もちろんだとも 我が校としても君が参加してくれれば安泰だと思っているから個人的に話をさせてもらったんだ、君以外の学生に声なんてかけないよ」  小躍りしそうな学長を横目に失礼しました、と学長室を出る。その途端にふう、とため息がもれた。決して考えなかった訳では無い。いかに情報が回ってきていても、実態がどのようなものかは実際に見に行かなければ分からない。友人と戦禍について話し合うことはあったが、そのどれもが想像の域を出るものはなかった。  なぜ戦争は終わらないのか。なぜ人々の平和が脅かされる必要があるのか。分からない。人の死に立ち会ったことの無い人間が医療に携わり、遺された人間に何をすることができるのだろうか。  ぼんやりと考え込みながら歩いていると、いつの間にか外に出てきていた。授業変更などが掲げられた掲示板に無意識に目をやる。さんさんと輝く太陽に照らされた『衛生兵募集』の文字に、自嘲的な笑みがもれた。


 ああ、私はやはり大馬鹿者だったのかもしれない。幼なじみを戦火から守ることができたことだけで、知らず知らず有頂天になっていたのだから。
 きゅ、と死体を始末した後の袋を縛り、寂雷はため息をついた。戦地で衛生兵として働いていた時は見えなかった戦争の真の姿を見て、失意のどん底に落とされたのは記憶に新しい。
 衛生兵としての任務が終わった後、寂雷は現地の上司に連れられて戦争の後始末を行っていた。後始末と言えば聞こえは悪くないかもしれないが、この混沌とした情勢の中でやる後始末など限られている。
 衛生兵の頃は銃を携帯させられていたものの、本質的な業務は負傷した兵士の応急処置だ。様々な原因で怪我を負い、野戦病院に戻ることができない兵士の寿命を少しだけでも伸ばす作業をただ黙々と行う日々。そんな場所で銃を扱ったのはただの一度だけだ。あれは敵国の兵士が衛生兵のテントに踏み込んできたときのこと。負傷し動けない兵士をかばいながら確実に急所を狙い、相手の兵士を殲滅させなくていはならなかった。たった一丁の銃だけでは足りるわけもなく、寂雷を含めてその場にいた全員がそれなりの手傷を負った。二度とこんなことは起こすまいと、寂雷は人体の構造を自主的に研究するようになったのだ。
 その技術が今は、こんな、裏の仕事に使われているのである。確かに政府に反駁しているテロリスト集団は、日々様々な事件を起こし続けている。そのやり方は残虐かつ非道なもので、とても許されることではない。だからと言って、今我々がしていることこそが正義なのだろうか。最近の寂雷はそればかり考えていた。
「終わったかね」
「……ええ」
 上司の声に掠れた声で答える。精神的に追い詰められるような作業が続いて、すっかり気が滅入っていた。
「だいぶこの辺りも平和になってきた。そろそろ潮時だろう。フライトの準備はしてあるから、荷物をまとめておいてくれ」
「分かりました」
 半ば無気力な声で返事をして、寂雷はよろよろと立ち上がった。
 平和とはなんだろうか。実際の戦争の片鱗をこの目で見ても、よく理解できなかった。戦争が、争いがなければ平和なのだろうか。その定義であれば、これまで寂雷が生きてきた学生時代は確かに平和だっただろう。しかしながら、日々人が望まれない死に巻き込まれ、それを知り悲しむ人がいる世界は平和と考えられるのだろうか。例えば、今日相対した彼にもきっと彼の死を悲しむ人々がいたはずだ。もちろん彼のやったことを肯定する訳では無いが、しかしそれだけで自分が彼の生死を決めるというのはあまりにも安直な動機ではないかと考えてしまう。この行動を選択した彼にも理由があるはずで、それも知らずに自己満足な正義感で裁いている自分こそが罪悪なのではないか、と。

正義とは何か。平和とは何か。
私はこれから、自らの身を捧げた贖罪の中で、その答えの欠片を見つけなければならないのだろう。




「本当にそれは、君がやりたいことなのかい」  穏やかな声で尋ねられた問いに、獄はひくりと眉をひそめた。 「……それは、どういう意味だ」 「そのままの意味だよ。獄が法学を勉強したいって言うのは本当に君の意志なのか、ただお兄さんの仇を取りたいのか。私には分からないから……」  困ったように目を伏せた寂雷は、ちらりと上目遣いに獄を見やる。 「だったら、何だって言うんだ」  思っていたよりも低い声が出た。寂雷は驚いたように肩を跳ね上げる。中学校からの付き合いで初めて目にした寂雷の動揺に、獄は知れず高揚感を覚えた。初めて彼より優位に立ったように感じたのだ。 「俺は兄貴が死んだ原因を明らかにしてそいつらに制裁を加えたい、それは言っただろう」 「そう、だけど。でも」 「だったら」  ひと呼吸置いて、寂雷の顔を睨みつける。 「それは俺の問題だ。他人に詮索されるもんじゃねえ。例え寂雷、お前みたいな奴でもだ」  ぐっと押し黙った寂雷は俯いていた。そして暫くして顔を持ち上げた寂雷は、いつもの・・・・微笑みを浮かべていた。帰国してからの寂雷は疲れもあるのかもしれないが、以前のように笑わなくなったなった気がする。それだけに、以前見られたような微笑みは不安感をいだかせた。
「そうだね。獄の気持ちを知りたいのは私のエゴだ。すまない」
「…………わかりゃいいんだよ」
 存外するりと引き下がった寂雷に、獄は曖昧に返事を返す。それでも、隣で唇を噛みしめている歯には必死に見ないふりをした────


 寂雷のアパートを飛び出した直後、走馬灯のように記憶が蘇った。扉を閉める直前に目の端に入ってしまった彼の表情に、先日交わした軽い言い争いの記憶を呼び起こされる。あの時の動揺した顔を、今日再び見ることになるとは思わなかった。しかし、そのことに対する優越感なんて今はもう無い。今はひたすらに、何も話してくれない寂雷に失望していた。
 何となくは分かっている。寂雷が自分の事を話さないのは、それが獄の為だと思い込んでいるからだ。彼が大戦後、帰国せずに一年間何をしていたのかは知らないし分からない。しかし、その期間はきっと寂雷にとってまさしく『闇の時代』だったのだろうという想像はつく。伊達に何年も彼の顔を見続けて来たわけではないのだ。表情で会話できるのではというくらいにはお互いの考えていることがわかる、とは思う。
 何となく帰る気になれず、道路脇のガードレールにもたれかかった。ひょっとしたら、追いかけて来てくれるのではないかと期待していたのかもしれない。どうせ追いかけてきたら拒絶するだろうに、だ。
「俺の『闇』に踏み込んで来たんだからお前の『闇』に入れてくれても良かったじゃねえか……」
 溜息をついて、獄は煙草を取り出した。寂雷の前では決して吸わないと決めていたものだ。きっと煙草は身体に悪い、と説教が始まるし何より、この匂いは寂雷の身体につけてはいけないような気がしていた。
──クソが
 寂雷に、自分は相談するに見合わない存在なのだと言い捨てられたような気分だった。兄の件で世の中の理不尽さなんて、知り尽くしたくらいには知っているつもりだったがそうでも無いようだ。何事をも分かち合えると思い込んでいた独りよがりは、どうやら一方通行でしかなかったらしい。
 重い心とは裏返しにカチン、と軽々しい音がして火が灯った。この香りも味も、寂雷に協力を仰いでからはすっかり頭から抜けていたものだ。それくらいに彼との再会は獄の心を浮つかせていたし、寂雷もそうだっただろうと信じたかった。それなのに。
 戦時中、日本にいる獄たちにも戦地の現状は伝えられ、衛生兵となった学生たちの状況も噂ではあるが幾つかは聞こえてきた。寂雷は現地医師にも引けを取らぬほどに働き詰めていたらしい。彼が『命を救う』ことに他人ひとの何倍も執念を燃やしていたことは寂雷を知る者の殆どが知っているが、その理由については獄ですら知らなかった。いや、知ろうとしなかったのだ。話してくれるだろうとたかをくくっていたのかもしれないし、拒否されることを怖がっていたのかもしれない。いずれにせよ、今の状況となっては同じことだ。
 吐き出した紫煙が夜空に昇っていくのをぼんやりと眺める。獄は、きっともう寂雷に会うことはないのだろうな、と曖昧な確信を持っていた。


■ □


深夜とも言える時間にやっと勤務を終えた寂雷は、ようやく自宅へ足を向けた。ここ数日、様々な学会や懇親会に呼ばれていたため通常の業務が遅れていたのだ。 「只今戻りましたよ」  きっと衢はもう寝ているだろうと、小さな声で挨拶をしてから寝室に向かう。つい先日から一人で寝るようになった衢を起こさないようにと、廊下を静かに通って自室に行こうとしたその時だった。 「……せんせい」  カチャ、と小さな音がして控えめにドアが開く。振り返ると衢がリビングのドアを開けて立っていた。 「まだ寝ていなかったのですか」 「うん……先生待っていたんですけど、寝ちゃいました……」  未だ眠そうな衢が目を擦る。その手をそっと外しながら、寂雷は柔らかく微笑んだ。 「そうなんですね。でも明日は学校でしょう もう寝たほうが」 「明日、土曜日だし……それに、おかえりなさい、っていつも言えない…………」  寂しそうに呟く衢にハッとした。自分から面倒を見ると言いながらも、いつも忙しさにかまけて我慢させてしまっていたのだと。普段ならとっくに寝てしまっているだろう時間に、必死に起きていようとした彼に心ない言葉をかけてしまった。 「…………すみません、私酷いことを言いましたね……」 「ふふ……先生も、明日土曜日ってことも忘れるぐらい忙しかったんですよね」  衢はいとけない顔で笑って、立ち上がる。 「じゃあ、おやすみなさい。先生もちゃんと休んでくださいね」 「ああ……あ、衢くん」  就寝の挨拶を残して自室に戻る衢の背中に寂雷は声をかけた。 「明日は私も休みなんだ。良ければ何処か、出かけないかい」  周りから休みを取れとの圧力に根負けして、久々に有給申請を出していたのが明日だと思い出したのだ。せっかくの二人揃っての休みに、何も計画しないというのはあまりにも寂しいだろう。そんな心持ちから出た寂雷の提案に、衢はパッと顔を輝かせた。 「行きたいです」  花がほころぶように笑った衢は眼をキラキラさせている。 「それじゃあ、行きたいところがあるのかい」 「僕、一度でいいから釣りをやってみたいんです。先生の話を聞いて、僕も行きたいなあって……」  そういえば、以前休みの話をしたときに、釣りが趣味だと言った気がする。この子はそんなふとした話でも覚えて、いや、興味を持って聴いてくれていたらしい。 「それじゃあ、道具をレンタルできるところに行こうか。慣れてきたら衢くんのを買おうね」 そう言うとまたもや嬉しそうにやったー と喜んでいる。まるで子どもの様だな、だなんて思ってからいやいや、と心の中で首を振った。  彼はまだ子供だ。普段、全く手がかからずおとなしいために勘違いしていた。愛情をきちんとかけて育ててやらねば、亡くなってしまった彼の親に顔向けができないではないか。これではなんのために彼を引き取ったのか分からない。 「そうと決まれば朝は早いですからね。もう寝たほうが良いですよ」 「はい おやすみなさーい」  スキップでもしそうな足取りで自室に入っていく衢を見て、疲れが癒えていくのを感じた。病院で子どもたちが遊んでいる声を聴くと元気をもらえる。その類だとは思うが、その何倍もの元気を彼からはもらっている。 ──たとえ自己満足と言われても、君のことを見捨てはしないから



「寂雷さん、コーヒー入れましたよ」 「……ああ、ありがとうございます」  戦地での医療従事というのは常に気が抜けない。いつ死の瀬戸際にいる人間が消えてしまってもおかしくないし、この建物そのものが狙撃される恐れもある。 「それにしても、寂雷さんは凄いですね あんなにいた怪我した人たちを一気に治しちゃうなんて」 「……私は私にできることをやるだけですから…………それにしても、まさかついて行くなんて言うとは思っていませんでしたよ」  微笑んでそう言う寂雷に、衢もはにかんだように笑った。 「寂雷さんのお役に立ちたくて勉強したんですから……」  僅かに目を丸めた寂雷を見て、衢はぎゅっと手を握る。 「寂雷さんは僕の育ての親です。でも、それと同時に師匠でもあるんです。寂雷さんのおかげで僕も、少しは生きることの意味が分かった気がします。だから、せめてお返しがしたくて……」  えへへ、と照れたように笑う衢に、寂雷は微笑んだ。 「……そうですね。ご両親も喜んでくださっていると良いのですが」 「喜んでますよ 寂雷さんの元で働けているなんて、両親が聞いたら信じられないって言うと思います。天才医師と呼ばれる貴方に僕が付いているなんて言ったら……」  力説する衢がなんだか可笑しくて、寂雷はふふ、と笑った。 「…………寂雷さんは、この世界。どう思いますか」 「どう、とは」  唐突な話題の転換に寂雷は内心おや、と思う。しかしそれを表に出さず首を傾げた寂雷に、衢は少し顔を曇らせた。 「……第三次世界大戦は終わりました。それなのに、未だにこうして紛争が終わりを見せることはありません。争いは人を疲弊させるだけです。それなのに戦争が無くならないのには、何か意味があるのではないでしょうか」 「政界の人間が何か画策していると」  そういうのじゃないですけど、と衢は困ったように笑った。 「……確かに、嘗てあった第二次世界大戦の後、とある国は自国で武器を作り、他国に輸出することで経済を再興させました。その結果、別の国では紛争が終わることはありませんでした」  寂雷は哀しそうに呟いた。 「戦いは経済を建て直す一つの策である。そう考えるのは愚かであるとともに、合理的なものでもあります。犠牲になるものに目を向けなければ最適解であるものは、この世の中に星の数ほどもある。しかし、それを理性と知能で自覚しなければならないのが人間であると、私は思います」 「……はい」  衢は神妙な面持ちで寂雷の言葉に耳を傾ける。それでも、一度湧いた疑念はそう簡単には拭えないのだろう。一瞬悔しそうな顔をした彼は、しかし次の瞬間にはいつもの顔に戻っていた。 「すみません、急に変な話をしてしまって 貴重な休憩時間を使ってまでお付き合いありがとうございました」  ニコリと笑った衢は、別の用事を思い出したように外に出ていく。その後ろ姿を寂雷はやるせない思いで眺めていた。


■ □


「センセ、もう良いってよ」 「だめだよ。ちゃんと手当しないと傷になってしまうからね」  綺麗な顔が台無しになるだろう そう言って笑う寂雷に、左馬刻は眉をひそめた。左馬刻たちが生きている世界は、綺麗なものよりも力のあるものの方が有利にはたらく。綺麗なものは結局搾取されるだけだ。そんなことよりも力を持った方がよっぽど、今の環境には役に立つ。 「飴村くんが言っていたよ。左馬刻くんの顔は女の子に人気が出る顔だって」 「……そんなこと知らねえ」  ふふ、と不満げに治療を受けている左馬刻に笑いかける。 「左馬刻くんは肌が白いからちゃんと手入れしてあげないと、日差し強い日とか痛くなったりしない」 「あー……たまに」  なぜか疑問形で答える左馬刻に、寂雷はくすくすと笑った。 「飴村くんもお人形さんみたいだなあって思うときがあるんだけど、左馬刻くんの顔も造り物みたいだよねえ。ラップしてるときの顔とか、すごく良いなあって思うよ」 「……なんだそりゃ。俺はままごと人形ってかよ」  そんなことはないけど、と寂雷は困ったような顔をして微笑む。左馬刻も寂雷に悪気が無いことが分かっているので強くは言わないが、少し気分を害した顔だ。 「ごめんね、そんなつもりは無かったんだけど。ただ、君が怪我をするのはどうしてかなあ、と思って」  嘗て軍医として戦地に赴いていた寂雷は国のために戦い、負傷して帰ってくる軍人を何人も見てきた。彼らはいつだって国を守るために戦い、怪我を戦い抜いた証として誇りにすら思っていた。左馬刻にも守りたいものがあるのは寂雷だって知っている。それでも、彼が怪我をして来るのは何か違う思惑があるのではないかと考えてしまうのだ。  しかし一方で、左馬刻にとってそれは愚問だった。自分たちが生きている世界は、中王区が謳うような暴力の無い場所ではない。文字通り、力のある者が勝ち上がる世界だ。  暴力を振るわれていた無力な子供は、暴力以外の解決手段を知らない。大切な人をも、暴力を用いることでしか守れない。しかし、それは生まれ持った環境が育てただけではない。自分で選び取った道でありそれに後悔もしていないのだから、同情などお門違いも甚だしい。 「どんな人生を生きようと左馬刻くんの自由だとは思うけど……自分を傷つけてまで」 「センセェ」  珍しく会話を遮った左馬刻を不審に思い、寂雷は目を上げる。寂雷を真っ直ぐに見つめる赤い瞳は、威嚇するような鋭さを宿していた。 「先生のその好奇心ってのはとやかく言わねえ。ただ、俺には俺の世界があって先生にも先生の世界がある。そこに干渉してくンのはお節介ってモンじゃねえの」  じっと黙っている寂雷はぱちぱちと目を瞬かせている。その隙に、と左馬刻はすっと顔を離した。 「あ、手当がまだ……」 「もー十分だ。あとは自分でできる」  そう言い残して部屋を出ていった左馬刻の言葉は、寂雷の頭の中でぐるぐると回っていた。



「寂雷はさ、なんでお医者さんになろうって思ったの」  いつものように飴を口に入れながら乱数が尋ねる。道端で吹っかけられたバトルに圧勝し、その場を去ろうとした乱数を寂雷が引き止めたのだ。手当が必要だ、などと言って鞄から絆創膏などを取り出す寂雷に、乱数はふと胸中に涌いた疑問をぶつけた。 「…………なんで、でしょうね。幼心には医者が理想の大人のように感じていたのかもしれません」 「そりゃあ小さい頃はそうかもだけどさ、高校生とかは流石に違うでしょ。こう言っちゃなんだけどワルイ医者もいるし」  うげ、と乱数は傷口を見て顔を顰めた。吹っ飛んだときに元あった傷が開いたのか、思ったよりも酷い状況だった。病院に連れて行かずに処置する、というのは無理があるのではないだろうかとすら思える程だ。 「……人の心というものは複雑です。何故人は生きようとするのか。何故生きることが正解とされるのか。この一生のうち何度も、我々は生きることの意義を見つけられてもいないのに生きなくてはならない時間が生じます。その時の気の迷い、一時的な生きがいの発見…………私にとっての『医者』という職業はそんなものなのかもしれません」  テキパキと処置を施していく寂雷の手に迷いは無い。先程の大傷も包帯が巻かれ、もう大丈夫だと思えるくらいの応急処置は完了していた。 「…………よくわかんないけど、そーいうもんなの」 「そういうもの、かもしれないという話ですよ」 「ふ〜ん、よく分かんないや」  考えることを放棄したらしい乱数は興味が無くなったように言った。 「ねえねえそんなことよりさ、戦ったらボクお腹空いちゃった 何か食べに行こーよー」  処置がおわったであろう頃を見計らって、乱数は白衣の裾をぐいぐいと引っ張る。 「何かって……何をです」 「ん〜行ったら分かるって 僕についてきてよ」  良いところを思いついたのか、ニンマリと乱数は笑った。

 寂雷はまだ知る由もない。この後連れて行かれるドーナツ食べ放題が自身のドーナツ嫌いに繋がることを────


■□

「先生は誰にでもお優しいから、神様みたいだって思われてしまうんですよね」  ひくり、とパソコンに伸ばした指が動いた。目の前に座る男──観音坂独歩は柔らかな、しかしどこか哀しそうな笑顔を浮かべている。 「私は……神様ではないのだけれどね」 「それはそうですけど……って、あ、俺はなんてことを…… そんな、先生の前で……」  最初にポツリともれた言葉は、独歩の独り言のつもりだったらしい。答えを返してしまった寂雷に独歩は慌てふためいていつものように自責し始めた。それを、これまたいつもの如く慰めながら、寂雷は今しがた言われた言葉を脳内で反芻する。  神のようだと言われたことはそれなりにあった。手術の技量を評価されたとき。余命の近い患者さんを慰めたとき。様々な場面で『神』という一文字で彼らは『神宮寺寂雷』を形容する。寂雷としては、多少なりとも自らの贖いになっていればという、半ば義務感のような気持ちでこの仕事を続けているのだが。 「……では、独歩くんは私のことをどう思っているんですか」 こんなことを聞くのは狡いだろう、と分かっている。それでも自分を神様と言わない彼に、どう思っているのか聞いてみたくなった。半分は好奇心、そしてもう半分は、自身すら理解していない己の存在価値の定義づけだ。 「……僕は、先生を普通の人間だと思います。そりゃ、最初はなんでこんな俺に優しくしてくれるんだって思ってましたけど…………でも、みんなにそうやってしてるのとか、先生の色々を見てからこれが先生の通常なんだな、って思ったらそれ以外はそんなに……はは、俺なんかがこんな先生のこと語っても説得力ないですよね」  頭を掻きながら照れたように笑う独歩の顔は、寂雷の目には救いを差し伸べる人のように映った。 ──ああ、そうだったのか。  人々は常に何かしらの救いを求めている。その救いを施した者を手軽に形容できる単語として『神様』という言葉が存在しているのだろう。  言葉の持つ力は重い。ヒプノシスマイクを使うようになってから、その意識はより一層増した。しかしながら、マイクを使用すれば目に見えて分かる重みであっても、普段の言葉がそれと同じものであることは殆どの人が気がついていない。それが人を縛るとも知らず、人々は平易な言葉で人の人格を固定する。 「……ありがとう」  決して本人には告げられない重い思いを抱えて、私たちは戦いの舞台に登る。



「センセー こっちッスよー‼」  ぱたぱたと手を振る一二三に、寂雷も手を挙げて応える。久々に有給の取得に成功した独歩と、三人で予定を合わせて釣りに行くのだ。ちなみに寂雷が有給を申請すると、周りの看護師たちからはやっと先生が休んでくださる、と安堵の顔を向けられる。 「独歩くんも一二三くんも、元気そうで良かったです」 「今朝ソッコーでお店出て寝たんで、睡眠もバッチリっす」 「俺は今日のことが楽しみで眠れませんでしたけど……」  ハハハ、と苦笑いする独歩に寂雷もそうですね、と微笑む。  今日の釣りスポットは独歩が営業先の医師から聞いた、釣れない日がないと地元では有名な場所である。少し遠出ではあったがせっかく三人が揃うのだからと、独歩が提案してきたのだ。 「それにしてもセンセーも知らないところだなんて物知りだなーその人」 「ああ、なんでもその先生の地元がここらしくて、寂雷先生にもぜひって言われたんだよ」 「それはありがたい話ですね。今度お礼を言っておかなければ」  わいわいと話しながら釣りの準備をして、釣り糸を垂らす。ディビジョンバトルが終了して人々の熱も冷め始めたのか、はたまた興味がないだけかは分からないが、釣り人がこちらに反応してくる気配はない。  ディビジョンバトルの記憶は未だに鮮明に残っている。人々がこちらを見る視線に込められた思いが、感情が、ピリピリとした空気に乗って体内に突き刺さった気分だった。それは相手──つまり飴村くんや左馬刻くん──も同じだったかもしれないが、それぞれが受ける感覚も全く別物だっただろうと容易に想像がつく。 「センセー 引いてるよー センセー」  一二三に言われて慌てて視線を戻せば、目の前の釣り糸がどんどん海に飲み込まれていくところだった。 「……っ」  慌ててリールを巻くも間に合わず、釣り針には餌を取られた跡が残るばかりだった。 「……こんなことではお礼も言えませんね」 「センセーどったの めっちゃ考え事してたけど」 「おい一二三 気軽に聞くもんじゃないだろそんな事」  いつものように起こる、少し性格のズレた二人のやり取りについ笑いがもれる。 「大丈夫ですよ、二人とも。言っている間にほら、独歩くんのも揺れてますから」 「おっ 独歩ガーンバー」 「耳元で騒ぐなって、お、来てるんじゃないかこれ」  ハイテンションで釣りに勤しむ二人の仲間の姿を見て、寂雷は心が晴れていくのを感じた。  ──きっと、二人となら、どこまでも戦っていける。そう、たとえ神宮寺寂雷が、つくられた存在になったとしても──

シリーズ
#10は投稿されていません

コメント

コメントはまだありません
センシティブな内容が含まれている可能性のある作品は一覧に表示されません
人気のイラストタグ
人気の小説タグ