敵はいない。全員味方だ。
隣の家のおばあちゃんが「筍取って来たんだけどいる?」と声をかけてくれた。筍は大好きだと答えたら「料理できる?」と聞かれた。私は末っ子なので、正々堂々「できません」と言ったら、おばあちゃんは一回筍を持ち帰って、翌日、下処理を終えた筍を持って来た。その代わりではないけれど、私の庭の花を「挿し木にもらってもいい?」と持ち帰り、私の家の畑を自由に使ってもらっている。何かをしてもらえることも嬉しいし、何かを差し出せることも嬉しい。私たちは、与える喜びを与え合っている。
何かをした方が有意義な一日になるのだろうなと思いながら、日中はひたすら玄関に置いた椅子に座って日光浴をしている。私は真っ黒に焼けているが、海に行った訳でも屋外で労働をしている訳でもない。全部、家の前の日光浴で焼けた。真夏を感じさせる太陽の下、海パン一丁になって日向ぼっこをしていると「他には何も要らねえ」という多幸感に包まれる。最近は夜八時には眠くなって、朝三時には目が覚める。目覚ましなんて十年以上使っていない。じじいみたいな生活をしているが、思えば、生まれた時から余生みたいなものだった。余生とは、ボーナスタイムのことである。やらなければならないことはない。やりたいことがあるだけだ。
日の出前に空が見せるグラデーションの美しさには、毎日度肝を抜かれる。自然は飽きない。飽きないって凄い。仕事や人間関係にすぐ飽きてしまう私には、自然の存在は本当に助かる。毎日「最高だなあ」と思っているし、実際に声に出して「最高だなあ」と口にしている。一番最初に私が目覚め、次に鳥が目覚め、蜂が目覚め、蝶が目覚め、とかげが目覚め、庭は一気に賑やかになる。家の前を猫が通り、次にタヌキが通り、リスが通り、サルが通る。白と青と紫と赤の花に、草の緑、そこに黄色い蜂やエメラルドグリーンの蝶が蜜を吸いに来る。冗談抜きに「天国じゃないか」と思う。鳥箱に置いた麻の実を、遠くからスズメやウグイスが狙っている。いつの日か、スズメやウグイスが私の肩に止まる日を夢見て、鳥箱の位置を変えている。
読書と書き物とギターを弾いている間に一日が終わる。好きな映画を何回も見る。一生の間に見られる映画の数には限りがある。量を見るより好きなものを何回も見ようと思い、血肉になるまで何度も見る。パルプフィクションや時計じかけのオレンジが好きだが、一番好きなのはニューシネマパラダイスかもしれない。素晴らしい映画や素晴らしい音楽は人生を肯定する。自分の人生にも価値があるのだと思わせてくれる。人間の目から見たら、役に立つ人間と役に立たない人間がいる。だが、自然から見れば、存在している限り相互に関係し合っている。役割を終えたものたちは、秋に木の葉が落ちるように、自然界からそっと姿を消す。生きているということは、まだ役割があるということだ。
花屋のT様が手作りをしたスタンプには、ラテン語で「運命が許す間、嬉々として生きよ」と書かれてある。生きている時間を思う存分に謳歌すれば、死ぬことさえ怖く無くなるのではないか。死ぬという経験さえ、好奇心をもって迎えることができるのではないか。敵はいない。全員味方だ。朝日が昇る。実際に動いているのは地球の方で、太陽は移動をしない。百億年も昔から、ずっとそこに在り続ける。私が生まれる前からそこに在り、私が死んだ後もそこに在り続ける。運命が許す間、嬉々として生きよ。まだ、誰にも汚されていない一日がはじまる。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!