渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

1996 GP250 Rd.7 MINE 本間利彦

2024年04月20日 | open

1996 GP250 Rd.7 MINE
「やっと勝てましたぁ!! ...」
2年間の開発ライダーを経て
全日本に復帰した本間利彦が
3年5ヶ月ぶりの優勝


市販車のTZ250でスズキRGV
ガンマ、ホンダNSRのワーク
スマシンを抑えての優勝。
日本一速かった本間利彦の
3年5ヵ月ぶりの優勝。
だが、優勝から
遠ざかって
いた開発担当の
時期に得た
物は多大なるも
のがあった
だろう。
優勝するのが目的ではない

仕事をしていた時期が長か
ったので、当然「レース」は
できない。ワークスライダー
としてたまにレースにはエン
トリーして
走ってはいても。
バトルでは
なくデータを取る
目的がある
から本チャンの時
に「レース」はしていない。


このレース、本間選手はフォー
ムと乗り方を変えている。
理由はリヤトラクションの
扱いと関連しているだろう。
処理の仕方は1986年の世界
チャンピオンのカルロス・ラ
バード
に似ている。
トラクションを適正に得なが
らもタイヤを温存する職人技
走法を駆使している。

1993年。本来は本間選手が
ヤマハからWGPに行く筈だ
った。だが、鈴鹿での重大事
故によりWGPフル参戦は断念。
本間選手のマシンとスタッフ
全員が丸々原田哲也選手の為
に運用された。
結果、原田選手は世界チャン
ピオンとなった。
本当ならば、本間選手が世界
チャンピオンになっていただ
ろう。
一発の速さでは本間選手は
WGPでポールポジションを
取ったりしていた程の速さ
だった。

ただ速い人は世界の中で幾人
かいる。
だが、マシン作りをできる
運転手はそうそういない。
本間利彦はその稀有な一人だ。
世界に何人もいない。

1996 GP125 GP250 Rd.7 MINE





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