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太陽を食べようと空で息継ぎをした - ゆうの小説 - pixiv
太陽を食べようと空で息継ぎをした - ゆうの小説 - pixiv
54,116文字
太陽を食べようと空で息継ぎをした
レオナ・キングスカラーの半生について。
002
2024年4月19日 08:30


<注意事項>
・レオナ・キングスカラーの幼少期の捏造
・オリキャラがたくさん出てくる
・ファレナ王やレオナの父などの性格捏造
・なんでも許せる人向け


絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。
それがもっとも素晴らしい偉業である。
                       —— エマーソン ——




─────────────────────────



「レオナさんが起きない?」


 やれやれ、とフライパンを置いてため息をつく。あと少しで仕上げだというのに、隣で鍋をかき混ぜていたジャミルくんまでうわ、という顔をした。たぶん同情してくれてるんだろう。
 食堂のキッチンに現れた寮生は困ったように頭を掻いていて、何やら言いにくそうにしている。
 

「いやいや朝飯と昼飯は?」
「それが——」


 うっそお、と情けない声が出た。


「さすがに寝すぎなんじゃねえかって、起こしににいったんですけどね、やっぱ俺らじゃ無理ですって」
「いやいや、そうは言ってもさあ。さすがに朝からずっと寝っぱなしってこと? いくらなんでもやばいでしょ」
「普通、腹減って目が覚めたりするよな」
「レオナさんならなおさらね。いったいどうしたんだか」


 オレは朝、いつもレオナさんを起こしにいく。眠そうにしているのを引きずるようにして叩き起こして、朝練がある時はマジフト場に連れていって、ないときはそのまま校舎まで向かっている。オレはあんたのママじゃないんスけど、と文句を言ったこともあったけど、似たようなもんだろと返されてしまった。いや、普通にそこは恥じるべきだと思う。

 でも今日はちょっと違った。普段であれば授業があるけれど、学園長と先生たちが何やら重要な会議があるとかで特別に休みだったのだ。

 そんなこともあって、せっかくの休みならってんでオレは朝からバイトを入れたり色々準備したりと大忙しで、わざわざレオナさんの世話をする暇すらなくて。とりあず自力で起きてくださいと約束をして、作り置きの朝食と昼食のありかを書いたメモを置いた。最悪一限目はサボるとしても、さすがに昼には起きるだろうと踏んだ。普通腹減ったり喉乾いたりするもんでしょ。

 それが、まさかのまだ目覚めないとは。
 いやいや、もう夕方なんだけど。


「揺すっても叩いても起きない?」
「いや、ラギーさんじゃあるまいし、俺らは揺すったり叩いたりはさすがに——」
「レオナさん、最悪布団から引きずり出さないと起きないことあるんで」


 そう言うとまた、ジャミルくんがうわ、という顔をした。というか今度は口に出てた。まあそりゃそうだよなあと思う。本当にレオナさんは寝汚いという言葉がよく似合う。


「お前も大変だな」
「まあね。でも困ったな。これ、あとちょっとで仕上げなんだけど」
 

 ちら、と時計を見る。もうすぐ日が落ちる。もうほとんど料理は終わったけれど、他にも準備だってあるし、どうしたもんかと唸っていると。


「ラギー、こっちでやっとくから、起こしてきたらいい」
「え、ほんと?」
「さすがに寝すぎだろ。早めに起こしといたほうがいい。機嫌が悪くても困る」
 

 それはもっともだ。
 肩をすくめるジャミルくんに、両手を合わせる。


「たすかるー! そしたら最後にこのスパイス加えて軽く煮立てといて欲しいッス!」
「わかった。多分あと少しでトレイ先輩も仕上げをしに来るはずだから」
「ああ、量多すぎてこっちの冷蔵庫にも入れてんだっけ」
「まさかこんな大ごとになるとはな」
「まあいいでしょ。みんな降って湧いた休みだし、先生たちいないし」


 エプロンを外して、扉の前で困っている寮生の元へかけていく。「じゃ、あとよろしくッス!」と片手を上げた。ジャミルくんは呆れたように笑った。


 足取り軽く、オレは寮長室へと向かう。寮生にはあとはこっちでやるから、と告げるとなんだか少しだけホッとした顔をしていた。まあ、わからないでもない。オレだってはじめてレオナさんを起こしに行った時、正直怖かったし。起こせっつったから起こしたのに機嫌最悪で、感謝どころか唸って威嚇されて危うく爪で引っ掻かれそうになったのだ。

 いつも通りの寮長室の前で、オレは元気よく名前を呼んだ。


「レオナさーん!」


 とんとん、とノックをして。
 扉を開けると。


「レオナさん?」


 柔らかな午後、橙色に変わりつつある日差しを受けて、レオナさんは。

 ベッドの上で、静かに眠っていた。

 ちら、とローテーブルに視線を投げると、そこには作り置きのメモがそのまま残っている。あの様子だと、おそらく朝も昼も食べてないのだろう。


「うっそ、マジで寝っぱなし? やば」


 近づいて、肩を揺すってみる。


「レオナさーん、さすがに寝すぎッスよ!」


 レオナさんは小さく呼吸をするだけで、微動だにしない。オレはため息をついて、今度は腕を引いた。


「レオナさん! ったくもー。それで夜眠れないとか言ったって自業自得ッスよ!」


 いつもであればうなり声の一つも上げそうなのに。レオナさんはまるで置物みたいにお行儀よく、静かに眠っている。
 珍しいな、と思った。


「レオナさん」


 頰に触れる。
 褐色の肌は、やけに冷たくて。


「レオナさん——?」



 オレはなんだか、妙な胸騒ぎがした。




序章◇晴れめく眠り



 ふっと目が覚めると、視界の奥で青空が揺れていた。薄く伸びた雲が静かに流れていて、ぼんやりと太陽を隠している。雲の周りは淡く輝いていて、ちょうど日差しを遮っているようだった。
 レオナは静かにあくびをこぼして、ゆるりと体を起こす。

 レオナは普段、植物園で眠ることが多い。しかしその日は妙に天気が良くて、抜けるような青空と木々を揺らす風が心地よい気がして、購買部の裏手の大きな木にもたれかかるようにして体を横たえたのだった。

 思わぬほか長い時間眠っていたらしい。体がぎしぎしと軋んでいて、ぐっと伸びをする。尻尾を揺らしながら体起こすと、立て続けにあくびが溢れた。

 どこからともなく鳥のさえずりが聞こえて、風が吹いて木漏れ日が降り注ぐ。穏やかな午後、レオナの心はやけに凪いでいる。


「ラギー?」


 いつもであれば口うるさく起こしにくる後輩は、今頃授業だろうか。そういえば今はなんの授業だったろうか。なんだか妙に意識がぼんやりしていて、レオナは再び横たわった。

 ゆるゆると流れていく雲を見ていると、再び眠気が襲ってくるような気がした。くわ、とあくびをして、さてもう一眠りしようか、とした時。

 不意に——眩しさが襲った。
 目を開ける。
 
 ふう、とどこからともなく息を吐く気配がして。
 太陽にかぶさっていた雲が、視界の先で一瞬にして胡散した。
 
 何かの気配にぴく、と耳が揺れると。


「——誰だ?」


 次の瞬間。

 太陽を背負って、長いローブに身を隠してフードを目深にかぶった男が、きらきらと魔法を散らして、唐突にそこに現れた。

 反射的に体を起こす。見たことのない男、嗅いだことのない匂い。
 この学園の者ではないだろう。であれば王宮からきたのか、果たして。
 レオナは数秒であらゆる可能性を考えながら、神経を研ぎ澄ませる。


「レオナ・キングスカラー」


 男はやけに重厚感のある、艶やかで低い声でレオナの名を告げた。


「——誰だ? 兄貴の使いか。俺は行かねえと答えたはずだが」


 空気がひりつく。レオナは男から目をそらさず、いつでも飛びかかれるように身を屈めた。汗が伝う。暑くはないのに、妙なプレッシャーがかかる。


「くだらないパーティの誘いなんかじゃあないさ」


 男はふ、と笑う。まっすぐに指を伸ばして、そしてレオナをす、と指した。


「約束の確認をしにきただけだ」

「約束? なんの話だ」


 レオナは反射的に身を縮こませた。本能が叫んでいる。この男は——レオナに太刀打ちできるような存在ではない。何者なのか、そもそもこの世の者なのか——。


「忘れたか。まあ——無理もないな」


 男はくつくつと喉の奥で笑って、そしてくるりと指先を回すと。途端、きらきらとした黄金色の魔法が散る。


「っ——」


 かわす間も無く、輝きはしゅるしゅるとレオナの周囲を踊りはじめる。 
 身動きが取れない。


「思い出せ」


 男は低い声で唸ると。



「お前は——二十歳の誕生日が来たその日、永遠の眠りにつくのだ」


「は——?」


 きらきらと踊っていた光の粒が輝いて。
 そしてそれらは一気にぎゅうと収束する。拳ほどの小さな光の球になると、それは一瞬にして、レオナの額に吸い込まれた


「っ——」


 頭が熱くなって、目を見開く。


 やがてレオナの脳裏に——いつの間にか忘れていた記憶が、濁流のように押し寄せてきた。



 ◇◇◇



「レオナさん、オレ明日朝起こせないんで」


 それからどうやって寮に戻ったのか、レオナはあまり記憶がない。なんだかすべてが夢だったような気がして、頭の中がぼんやりしている。
 
 部屋に戻ると、ラギーは洗濯物を畳んでいたところだった。


「ああ?」
「ほら、明日特別休みになったでしょ。学園長たちが会議で」
「あァ」


 気の無い返事をして、レオナはどさりとベッドに体を投げる。ひどく体がだるい。頭の奥がじんじんと熱くて、心臓が普段よりも少しだけ早く脈打っている。浅い呼吸をした。息を吸うと、ベッドの匂いはなんだか安心できる気がした。


「ああもう、脱いだ服はちゃんと洗濯カゴに入れといてくださいよ」
「はいはい」


 ラギーはため息をつく。レオナはなんだか動く気が起きなくて、ただ呼吸を繰り返すばかりだ。


「そんなわけで、明日休みだからモストロ・ラウンジも朝から開けるらしくて。朝からバイトいくんで」
「——そうか」


 ラギーは楽しげに「稼ぐッスよ!」と鼻歌を歌っている。


「朝飯と昼飯は適当に作っとくんで、食べたら流し台に戻すぐらいはやっといてくださいよ」
「あァ」
「本当にわかってます? あ、寮生たちもなんか色々用事入れてるみたいなんで、一応言っときますけど明日は部活もなしッス! だからって、ずっと寝てないでくださいよ」
「——わかってる」


 気の無い返事をして、尻尾を揺らした。
 ラギーは「それじゃ、オレはこれで。今日の夜食は冷蔵庫に入れとくんで」と言って部屋を出ていった。

 体を半ば引きずるようにして、枕に頰をつけた。

 ウッドブラインドの向こう、真っ赤な太陽がジリジリと焦げ付いている。部屋は少しずつ夕暮れに染まりつつあって、途端に胸の奥がぎゅっとした。


 わけもなく眩しげにそれを見つめて。

 レオナはそして静かに、長い息を吐いた。



 明日。
 レオナ・キングスカラーは、二十歳の誕生日を迎える。







─────────────────────────

1章◇傷跡


 夕焼けの草原に待望の第二子が生まれたのは、今から約二十年ほど前のこと。

 王家が第二子を必要とするのには理由が二つある。一つ目、第一子に万が一のことがあった時の代替品として。二つ目、他国との政治に利用するための存在として。これらは暗黙の了解として代々受け継がれてきたもはや伝統に等しく、王の正妻となった女性は第一子には男子を産むことを求められるが、第二子は男女どちらでもよかった。男子であれば代替品として育て、女子であれば他国へ嫁に送り出すための存在として育てる。言葉だけであれば愛情がないように聞こえるが、決してそんなことはない。そもそもこれらは慣習であり、それ以外の選択肢が存在していなかった。〝そういうもの〟だったのだ。

 王家という血筋を守るため、ひいては国を、国民を守るために必要な産み分けであった。尊重されるのは個としての存在ではなく、国という共同体の中の一部として機能することだ。王家とはシステムであり、王は部品だ。第二子の運命が決められているように、第一子は必ず王になることが約束されている。しかしこれは言うなれば人生を選択する権限が与えられないことと同義であるし、第一子からすれば第二子は王になるプレッシャーはなく、多少能力がなかったとしても王宮で楽に暮らせることができるのだ。つまるところ、第一子も第二子も互いのポジションをうらやましいと思うようにできていた。そしてこれは王家いう機能そのものを動かす歯車でもある。第一子は国のヒーローとして、第二子はヒールとして。光があれば影があるように、それらは表裏一体に王家という機能を形作っていた。第二子がいなければ第一子は輝くことができず、第一子がいなければ第二子は王という絶対的なポジションを得ることはできない。どちらがいなくても成り立たないこの関係性は、国を存続させるために必要なのだと——歴代の王たちは、本能で理解していたのだろう。

 しかしここで重要なのは、母の愛情である。

 第一子だろうが第二子だろうが、母親というのは子供を慈しむようにできている。本能がそうさせるのだ。彼女たちが子を平等に愛することで、それによって彼らは己が国という共同体の機能の一部であるという本質から、ほんの少し目をつむることができた。第一子は王になる運命を受け入れ勉学に励み、プレッシャーに打ち勝って常に前を向き続ける心の強さを手に入れる。第二子は自分が利用されるための存在であることを受け入れつつも影の存在として生き、国中から信頼される第一子から一番に信用されるのは自分であるという甘美な自負を持って生きる道を進む。これはある意味で健全な成長であり、これまでどの母親も大概は同じように接するように努力をしてきた——のだろう。しかしもちろん例外はあった。明るく前向きな第一子ばかりを可愛がる母親もいれば、仄暗い運命に後ろ向きになる弱さを持った第二子ばかりを可愛がる母親もいた。そうして少しずつ歪んでいった王家の歴史において、当然うまく第一子と第二子が機能しないこともあった。それこそが闇に葬られた歴史であり、今から数百年前、それこそ神のいたずらによって獣と人間の異種交配が起き、獣人という存在が生まれるはるか過去、彼らがまだ獣の存在であった頃から定期的に起こり得た事象である。

 しかし近代化に伴い、精神的な充足も魔力強化において重要であるとあらゆる研究が進んできた頃、王家は乳母の存在を大事にし始めた。乳母というのは公務に忙しい妃の代わりに母親として子供を育てる存在であり、あるときは妾と等しく、またあるときは高齢な老婆が行うこともあった。しかし彼女たちもまたあくまで母親の代替品である。重要視されることはなく、歴史の表舞台にも立つことがない。さらには悲しいことに、叱ると褒めるを兼務する乳母よりも、子供達は褒めることしかしない本当の母親を神聖視する傾向にあった。成長とともに乳母の存在は家庭教師へと代わり、幼い記憶のほんの一瞬の甘い夢へと成り果てる。乳母とはそうあるべきものだった。
 
 夕焼けの草原も例外ではなかった。しかし時の王は当時には珍しく、先進的に改革を進めようとする考えの持ち主だった。そこで彼は、乳母という存在について真面目に、実に真面目に思案を重ねた。そもそもライオンという生き物は本来ハーレムを築くものだ。本能的に縄張りを強化するため、王家には当然のように数多くの妾がいた。彼女たちは一様にプライドが高く乳母を務めるものはいなかったし、もし希望されたとて、常に正妻の座を狙っている者に正妻は大事な我が子を預けることはしない。そういうものだった。

 しかし時の王は——時代は変わったと宣言して、妾を設けなかったのである。これは事件であった。彼女たちにかける経費が無駄であるという王はあまりにも時代を先行しすぎて、批判も浴びたらしい。しかしいずれにせよ王の周囲にいる女は正妻一人。そして彼は——息子たちの身を、とにかく案じた。夕焼けの草原はそうでなくとも獣時代の本能のせいか、近代化が遅れている。いまだにスラムがあるのだ。これではいつまでたっても先進国には程遠い。現に王家とはいえ熱砂の国の富豪には及ばない財源しかない。経費削減、そして近代化こそが必要なことであると宣言した王は、息子たちに帝王学だけではなく、生きる力を身に付けさせることを求めた。王が雇用した乳母は二人。第一子にも第二子にも、それぞれに代わりの母親を設けたのである。王は彼女たちを実に平等に、あくまで職員として扱った。女として閨に呼ぶことも決してせず、家族として同じ食事をして、母として息子たちに接することを求めた。

 キングスカラー家には母親が三人いたのだ。

 病弱だが朗らかで優しい母。
 明るく活発で好奇心旺盛な第一子の乳母。
 勤勉で大人しいが物静かな第二子の乳母。
 
 そしてこれは——キングスカラー家に起きた悲劇の歴史の舞台を形作る、機能の一つである。


  ◇◇◇


 弟がどんな子供であったか、語るのはなかなかに難しい。それは弟が私にとってとても難しい性格をしていたからとか、立場が違うからだとか、要因はたくさんあるけれど。ただもっとも大きいのは、とにかく〝共に育った〟記憶があまりに薄いというところに帰着する。

 生まれた時から、私たち兄弟は違った。私は第一王子で、弟は第二王子。生まれたその瞬間から、私たちには役割が決まっていた。私は国を先導する王として。弟は私を助ける補佐官、あるいは私の代替品として。実に残酷なことではあるが、この世に産声を上げた瞬間より、その未来は確定されていた。

 私は愛された記憶があまりない。そんなことを言えば弟に嫌な顔をされそうだが、事実そうなのだ。朝から晩まで、私は王族としての訓練を受けた。通常の学業に加えて、帝王学を叩き込まれ、食事のマナーを躾けられ、威厳のある表情の作り方を学び、そしてスポーツで体力をつける必要があった。私は理想的な王でなければならず、毛並みはいつも美しくあらねばならなかったし、いつでも大人たちが喜ぶような言葉かけをしなくてはならなかった。

 反抗する暇などなかった。弟は私を「昼寝してたって王になれる」と揶揄する。しかしそれは確かに事実であるが、「昼寝していても王になれてしまう」のである。同じようだが大きく違う。これは実に恐ろしい。何があっても、私は自動的に王になれてしまうのだ。しかし一方で、いざ王になって国を守ることができなければ、真っ先に糾弾されるのは私の方なのである。

 だから私は弟が羨ましかった。王になる責任もなく、好きなことを学び、その上——彼は強大な魔力の持ち主だった。私にはないものを弟はたくさん持っていて、そして弟は自由だった。

 私と弟にはそれぞれ別の乳母がついて、幼い頃はほとんどその乳母に育てられた。もしかすると乳母が一人で二人の子供を見る場合もあるのだろうが、私たちの場合はバラバラだった。

 だから余計に互いに何をしているのか、伝聞でしか知らない。こうして語ってはみるものの、きっと弟には私の知らぬ苦労があったのだろうし、弟だって私の苦労を知らない。兄と弟は生まれた瞬間から引き剥がされ、周りの大人たちによって〝第一王子〟〝第二王子〟という記号を与えられて生きていかざるを得なかった。

 性格というのはそう簡単に記号化されるべきものではない、と今となってはそう思う。しかし大人たちによって〝第一王子〟という記号が求められてしまえば、私はそう育たつしかないのだ。それが正解なのだから、わざわざ不正解を選ぶのは間違っていることだろう。私はそう信じたし、私の乳母もそう私に教えた。

 私の乳母は、多分とてもまっすぐで素直な雌だった。私を第一王子として完璧に育て上げるというプレッシャーの中で、それでも明るく楽しげに振る舞う様は気持ちが良かったし、勉強がうまくできずに落ち込む私を叱責してまでも私に〝第一王子たる自覚〟を説いた。彼女にそこまでする義理があったのかは果たして謎だが、それでも私は彼女に懐いた。しかしそれは、実母の影響もある。

 本物の——私を産んだ母は、とても病弱であった。朗らかで優しく、近代的だか厳格な父を静かに支える良妻であったと聞く。しかし母には一つ大きな問題があった。

 母は精神的に問題を抱えていた。そして母は——女児が欲しかったのだ。

 第一子である私が雄であるとわかり、母は世継ぎを産まねばならぬというプレッシャーから解放された。そこで母は第二子として女児を熱望していたという。しかし生まれたのは——レオナである。雄であったと聞いた時の彼女の落胆は凄まじく、しばらく伏せってしまった。そしてその塞ぎようは母のただでさえ弱い肉体を蝕み——ついに三人目を産むことができぬと診断された。

 いざレオナが生まれた時、私はとても嬉しかったのを覚えている。しかしベッドに横たわっている母の顔は青白く、天井を見上げたまま息子を見ようともしなかった。

 そしてそのことがきっかけで、ついに母の精神は乖離してしまったらしい。悲しいことに、レオナは母によく似ていた。宝石のような美しい緑の瞳に、黒に近い豊かな焦げ茶色の髪。私は父に似ていたから、見た目においても随分と正反対な兄弟であったろうと思う。 

 母は成長していくレオナを見るたびに悲しげだった。女の子であれば良かった、それなら私は愛することができたのに——。母の精神はどんどん不安定になり、かなり早い段階でレオナは母から離され、乳母に育てられることとなる。

 もしここで。母が弟をとことん可愛がっていれば、あるいは王宮の雑音などは弟の精神を蝕まなかったかもしれない。しかし王妃に拒絶された弟はやがて、ある事件をきっかけにそのことが王宮内に露呈し、〝忌避すべき者〟として、まるで腫れ物に触るように扱われていくこととなる。これから続いていく弟への嫌がらせや迫害は、おそらくこれが発端であったろうと思う。王宮全体が弟を排除してもいいのだ、という雰囲気になったこと自体が、母の大きな罪だ。唯一の救いは——弟は、実の母に嫌われていたことを知らないということである。それからしばらくして母は病に臥せり、結局私たち兄弟とあまり関わりがないままに死んだ。

 弟を育てた乳母は、勤勉でおとなしい雌だったらしい。本を読むことが好きで、よく弟は読み聞かせをしてもらっていた。私はそれが羨ましかった。弟はとても頭が良く、読み聞かせをしてもらった本は次々と覚えた。いったいなぜ、と思った。弟ほど頭が良ければ、私はこんなに学業に苦しむことなどなかったのに、と。憤った。幼かったのだ。

 多分私は、弟が憎らしかった。

 自由に好きなことができて、強制的に王になることはない弟が。だから私は、ほとんど関わりがない弟に、事あるごとにちょっかいをかけにいった。言い訳をすると、兄ぶりたかったのかもしれない。


「レオナ! マジフトごっこをしよう」


 レオナは、確かに人並みより運動神経がいい。ただガタイがいいとか、力が強いとかいうのではなく、どちらかというしなやかな体つきをしていて、そして身軽だった。あらゆるスポーツを私たちはやってきたが、その中で、レオナも私もマジフトが大好きだった。まだほとんど魔法も扱えず、箒にも小さな子供用のものに乗るくらいの私たちだったが、それでもマジフト大会の映像などは好んで見た。いつか選手になりたいとよく語ったものである。


「僕はマジフトの選手になりたい!」


 ある時そう言った私を、レオナはとても不思議そうな顔で見た。「兄さんは王様になるんでしょ」と、彼は純粋な目で私にそう言った。幼い弟の真っ直ぐな言葉だ、憤るのはよくない。しかし私は——とてもショックを受けた。

 そう、私は。マジフトの選手にはなれない。

 もちろん学校の部活でプレイするなどは可能だろう。しかし私の未来は公務を行う王である。そのことは確定事項で、そして揺るぎない未来だった。

 弟が楽しげにマジフトの映像を見ながら、子供ながらに戦略などを分析して楽しげにしているのを、私はいつの日か恨めしげに見るようになった。弟からの「マジフトごっこ」の誘いも、私は時折断るようにもなった。そう言われるたびに、あの時の言葉を同時に思い出すのだ。私はどれだけマジフトの選手に憧れようが、マジフトの戦略を練ろうが、プロの選手にはなれない。

 弟と違って。

 そのことは幼い私を随分と苦しめた。弟は私を傷つけるつもりで言ったわけではないだろう。頭ではわかっていても、どうすることもできない事実はひたすらに私の心蝕んでいた。

 そんな折。私はその日、一人で王宮の広場にて箒の練習をしていた。来年にはエレメンタリースクールに入ることが決まっていて、そこでも私は夕焼けの草原の第一王子として振舞わねばならなかった。誰よりも完璧に箒に乗れる必要があって、それで私は一人で練習していたのだ。

 そこには先客がいた。


「——なんだ、兄さんもきたの」


 弟は——なんだか楽しそうに、地面に置いた箒に乗っている。しかし普通の乗り方ではない。両足を柄の部分に乗せて、これではまるで箒の上にただ乗っているだけだ。


「この前見た選手がやってたんだ。このまま飛び上がって味方の箒に飛び移ったり、それにこれだと、普通よりもずっとスピードが速くなる」
「練習、してるのか」
「さっき少しだけ浮いたんだ。だからもう少しでできるようになるはずだ」


 弟の顔は真剣だった。純粋に、箒に乗ることを、マジフトの選手の真似をすることを楽しんでいるようにも見えた。

 途端、私は焼けるような嫉妬に燃えた。私はただ、美しくうまく箒を操ることを求められている。誰もがお手本にしたくなるような、教科書通りの飛び方を。私だって本当は、かっこいいマジフト選手のような変わった飛び方だってしてみたかったし、誰かのためではなくて自分のために何かをしてみたかった。


「——そんなの、僕にだってできるさ」


 そして私は気づけば、そんなことを言っていて。


「本当に?」


 弟は私を、どこかきらきらとした目で見ていて。

 不意に、どうしようもなく悔しくなった。もちろん私はそんなことをやってみたこともなかった。箒の練習中にそんなことを試せば、きっと私は怒られていただろうから。


「やって見せてやる」


 そして私は、箒を地面に置いて、その柄に両足を乗せた。ぐらりと体が揺れる。細い箒の柄は丸みを帯びて滑りやすく、立つだけでもバランスを取るのが難しい。私は不安になった。果たしてできるのだろうか。


「兄さん」


 目の前の弟は、少しだけ不安そうに私を見ている。

 弟は少し浮いたと言っていた。弟にできて、私にできないことなどない。だって弟は第二王子で、私は第一王子なのだから——そんな、なんの根拠もない理由で。

 私は静かに、魔力を足元に込めた。
 
 ふわりと、箒が浮かび上がる。私はぐらぐらと不安定な箒の上で、必死に足を踏ん張って耐えていた。けれど私は必死になりながらも、きちんと浮いたことに安堵していた。

 ほんの少しだけ浮いたまま、弟を見下ろす。


「——でき、た! みろレオナ! 僕はできるんだ!」


 私はそして、ふわふわと浮いたまま、少しだけ体を倒して、飛んで見せる。弟は少し口を開けて、そして「兄さん、すごいよ」と笑った。私は調子に乗った。


「そうだろ! 僕はすごいんだ!」


 少しだけスピードを上げる。とっくに限界だとわかっていた。足元はぐらぐらとして、箒のコントロールだってできなくなってきている。しかし私は失敗するわけにはいかなかった。

 だって私は——第一王子なのだ。


「兄さん! 危ない!」


 しかし。そう簡単にもいかないもので。

 弟の声が聞こえたと同時に、私の体はぐらりと傾いて、そして——。


「兄さん!」


 気づけば、体はふわりと飛んでいて。

 次の瞬間、激しく体を地面に打ち付けていた。体がカッと熱くなって、頭の奥に光が散ったような気がした。駆け寄ってくるレオナの顔は心配そうだったけれど、私は——レオナに軽蔑されやしないかと、そればかりを心配していた。


「兄さん、人を呼んでくる」
「いい、大丈夫だ」
「でも怪我してる!」


 よろよろと体を起こす。私は膝を強く打って、そこからはどくどくと真っ赤な血が流れていた。途端、恐怖に襲われる。痛みと混乱の中で、私は思い出したのだ。乳母に——体を大事にするようにと、強く言われていたことを。そこで私が考えたことは、怒られてしまう、第一王子らしからぬことをしたことを、咎められてしまうと、そればかりで。


「レオナ、これはな、ッ——」


 私はそして、心配そうにしているレオナの肩を掴んで、痛みに耐えながら——ひとつ、呪詛を吐いた。


「これは、王子の証なんだ!」
「王子の、証——?」


 レオナは不思議そうな顔をしている。


「いいか、勇敢な王子は、こうしてできないことにも挑戦して、それで怪我をする。怪我をすることは誇りなんだ。僕は勇敢だから、この傷はその証明だ!」


 私は痛みで冷や汗をかきながら、傷口をレオナに見せた。真っ赤な血と泥で濡れた膝を見て、レオナは泣きそうになっている。


「レオナにはできないだろ! お前は第二王子だ、第一王子の僕にはお前は叶わない!」
「っ——」
 

 次から次へと溢れてくる言葉は、明確にレオナを傷つけようとしていた。これまで私たちは、互いのことをよく知ろうとしなかった。別々に育って、ある程度の距離を保ちながら互いに役割を演じていた。

 それなのに。


「お前は一生! 王にはなれない!」
「ッ——兄さん、」


 レオナはどこか——悲しげな顔をしていた。


「悔しかったらお前も勇気を示せ!」
「勇気、を?」
 私は掴んだままのレオナの肩を揺らした。


「僕にも負けないような、傷をつけてみせろ!」


「ッ——」
「そうしたら、お前が王になれるかもしれないぞ」


 私はたぶん、とても意地悪な顔をしていたと思う。レオナはそして弾けたように立ち上がって、駆け出していった。どこか決意したような、冷えた目をしていたのを今でも良く覚えている。

 どうしてそんなことを言ったのか、今でも私にはわからない。ただ弟に勝ちたくて、箒に乗って、それでも転んでしまったことが恥ずかしかった。弟の目の前で怪我を負ったことも恥ずかしくて、痛くて、きっと私だけが怒られるだろうことも悔しかった。

 だから私はたぶん、弟を道ずれにしたかったのだ。一緒に怪我をして、そして怒られればいいと思った。こんなに痛いのだから、弟だって痛くなればいいと思った。第一王子の私ばかりが苦しい思いをしているのは不公平だ。自由にしている弟だって、枷をはめられればいいと思った。

 それから多分、弟が呼んできたであろう臣下が現れて、そして私は大げさに痛がった。大げさにしたところで怒られる事実は変わらないけれど、そうすれば少しでも同情してもらえると思ったのだ。まったくもってずる賢い。

 臣下に連れられて救護室へ運ばれて、そして医者の手当てを受けた。医者は私に対して説教をする立場ではないから、私は磔にされるのを待つ死刑囚のような気持ちで、ただ黙って手当てされていた。その様子があんまりしおらしかったのだろう、医者は「痛かったですね」と優しい言葉をかけてくれた。

 その時だった。


「レオナ様——!」


 悲鳴に似た声がして。


「ッ——」


 顔中を血だらけにしたレオナが、駆け込んできた。


「兄さん! 僕はやったよ!」


 私は、ただ唖然と口を開けることしかできずに。弟は私が診察していたベッドに駆け寄って、血濡れの顔で笑いながら、私の手を取った。

 後ろからバタバタと臣下たちが大慌てで駆け込んでくるのを横目に、私はどくどくと心臓だけが激しく脈打っているのを感じている。医者は唇を引き結んで、「止血の準備を!」と叫んでその場を立ち去った。

 場が騒然となっているのに、レオナは痛みなどまったく感じていないように笑って、そして得意げな顔をした。


「兄さんに言われた通りに傷をつけた! これは勇敢な王子の証なんでしょう? これで僕も王様になれるかな!」


 私は——言葉を失っていた。

 そっと震える手を伸ばして、レオナの頰を撫でる。恐怖で何も言えない。左瞼に走る大きな切り傷をつけたレオナは、母に似た、緑の美しい目を妖しく輝かせている。


「僕は勇気を見せつけた! 僕だって、僕だって王様になれるんだ!」


 それは魂の叫びだった。私は唇を震わせた。知らなかったのだ。レオナがそこまで、王になりたいと思っていたことを。知らなかったのだ。私が第二王子であるレオナを羨ましがっていたように、レオナもまた、第一王子である私を羨ましがっていたということを。

 何も言えずにいる私に、レオナは「自分でナイフを持ってやった」「鏡を見ながらやったけどうまくできたと思う」と次々に語る。

 私の手がどんどん赤く染まってきた頃、大慌てで看護師たちが駆け込んで、そしてレオナを連れて出て行った。レオナは最後まで得意げに目を輝かせて、そして私だけを——見ていた。
 
 私は恐怖した。弟は頭が良く、運動神経もいい。そして私よりもずっと勇気があったのだ。それでもレオナは、絶対に王にはなることができない。しかしきっとレオナも、大人になったら気づくだろう。自分の方がきっと王にふさわしい、と。

 怪我の手当てが終わったあと、私は問い詰められた。なぜ怪我をしたのか、そしてなぜ——レオナも、怪我をしたのか。私はそしてこう答えた。


「レオナにそそのかされて、危ない箒の乗り方をしました。でもレオナは僕の怪我を見て、僕ならもっとすごい傷をつけることができるといいました」


 大人たちの間でどんな会話があったのか、私には詳しくはわからない。けれどそれから、乳母は私に「王子だから怪我を負うな」とは言わなくなった。レオナは左目に走った傷を見るたび「これは勇敢の証だ」と言うようになった。それからはむしろ怪我をした私たち王子に呼応するように、近衛兵たちがこぞって「怪我は我々の勇敢の証です」と主張するようになった。私の愚かしい膝の傷跡は、それから勇敢の証の傷であるとされ、讃えられることになった。

 なんと馬鹿げた話だろう。

 しかしあわせて、私が話した嘘のせいで——弟は、兄をそそのかして怪我を負わせた恐ろしい子供だと噂されるようになった。その噂は瞬く間に王宮内に広がった。ただでさえ弟は頭が良く、あの年で古代呪文語の解読をはじめ、そしてスポーツもよくできた。あまりにも出来がいい第二王子の存在は、王宮としても排除の対象だったのだろう。彼らは私を守る代わりに、弟を手放すことを選んだ。

 それから私の中である感情の変化が起きた。あれだけいやだった王になるための道は、私にとって唯一の生きる意味だと気づいたのだ。もしも伝統が覆されて、私ではなく私よりも能力があるレオナの方が王にふさわしいとされたら——私の存在意義はなくなってしまう。私にはそれがひどく恐ろしかった。噂については私の中で罪悪感があったので、それ以上私自身が触れることはなかった。けれどたった一つの噂をきっかけに、瞬く間に広がっていった王宮の人々のレオナへの嫌悪の感情が、私にはさらに恐ろしかった。

 人生は——不公平なのだ。

 そして私は、罪悪感を払拭するように、あれから精力的に学ぼうとした。卑屈になるよりも、きちんと自分の方が王にふさわしい、第一王子として申し分ないと思われている方がまだましだ。幸いにも私のことを認めてくれる人々に囲まれていたから、私は努力を続けることができた。学業も、スポーツも、帝王学も。身なりは美しく整え、会話術を学び、組織をまとめ上げるリーダーシップを学んだ。そうしているといつの間にか——私は王にふさわしいと呼ばれるほどの者に成長することができた。

 あの日、あの傷を負った日。
 私たちの運命は大きく変わってしまった。

 レオナは、弟は。いつの日からか私を避けるようになった。第一王子然として振る舞う私を、厭うのも無理はない。レオナが良い成績を出せば「国を転覆しようとしているのではないか」と噂され、レオナがスポーツの大会で優勝すれば「怪しい古代呪文語でズルをしたに違いない」と噂された。子供相手にみっともないと今なら言えるが、多分彼らもまた——レオナを、恐れたのだ。第二王子であるにも関わらず、才能に溢れた子供を。


 弟はやがて少しずつ卑屈になって、そしてあの日の事件を引き起こすこととなる。


 私にとって弟は、それでも血が繋がった唯一の肉親だ。父が死んで私が王になって、それから私はレオナの存在がいかに大事か痛感している。私たちはいわば、第一王子、第二王子という記号化された教育の犠牲者であるのだ。私は同じ思いを息子のチェカにさせたくはない。そしてあわよくば、レオナを救いたいとも思う。これは傲慢だろうか。

 しかし私は夕焼けの草原の王である。王とは国民を救うためにあるのだ。だから私はチェカにこう教える。おじさんを、大事にしないとダメだよ、と。

 しかしレオナは今年も帰ってきてはくれない。せっかくの誕生日なのだから、祝いたいと思うのはおかしいことだろうか。私が贈ったプレゼントは、きちんと開けてくれているのだろうか。チェカの手紙は読んだだろうか。

「おじたんに会いたい」と泣くチェカをなだめる妻を横目に、私は手紙を認める。今年は断られたが、どうか来年は帰ってきてほしい。家族一緒にお前の誕生日を祝おうではないか、と。


 私はきっと一生気付かない。
 傷跡は、永遠に消えるものではないのだと。







─────────────────────────

2章◇呪詛



 夕焼けの草原では、乳母の選抜試験が行われた。これまで家柄と美貌で選ばれてきた妾と異なり、当時の王はとにかく〝子供を育てるに最適であるか〟を基準に選んだ。魔力量、学歴、対人コミュニケーション能力、知識、勤勉さ、明るさ——忙しい公務の中で王は時間を作っては候補者と面接を繰り返し、我が子への教育のため、ひいてはこの国の未来のために選別を行っていく。

 王宮入りできてそれなりの賃金が保証され、かつ未来の王のお世話ができるというのはこの国の女性達にとっては大変名誉ある仕事であった。しかし長い間美貌を磨き立ち居振る舞いの美しさを磨き、社交場で問題がないほどの知識と見識を備えた彼女達はことごとくこの試験に落ちた。彼女達は人生のパートナーとしては完璧であったが、こと野心が強すぎたのだ。王は子供の母親として、子供をどれほど愛することができるか、母性の有無をもっとも大事にしたのである。

 当然、そんな完璧な獣人などいるはずもない。現に王の妻である王妃も完璧ではあったが、病弱であり精神的に不安定であるという要素があった。王の側近はそして耳打ちをした。完璧を追い求めるあまり、ファレナ王子はあとわずかで生まれてしまう。生まれる前に乳母の選抜はおえておかなければならない、と。

 そこで王が最終的に選抜したのは、明るく活発で、好奇心旺盛な雌であった。彼女は大家族の長女で、家柄こそ下級貴族レベルであったが、とにかく面倒見が良かった。若い頃に随分と苦労をしたらしいが、それでもそのことを鼻にかけるでもなくあっけらかんとしていて、気持ちの良い娘だった。

 やがてファレナが生まれ、彼女はたいそう喜んだ。病気がちの王妃を気遣い、王の公務を気遣いながら彼女は乳母としてかなり理想的な子育てをした。王は完璧な娘を選ぶことができたことをたいそう喜んだ。確かに彼女はほとんど問題がなかった。

 ただ唯一あるとすると——猪突猛進で、自分の目的のためには周りが見えなくなってしまうということである。ファレナ王子の食事を準備していて自分が食事をするのを忘れてしまう、だとか。エレメンタリースクールの展示会で、周囲の子供達の気持ちを考えもせず、大きな声でファレナ王子が描いた絵の素晴らしさを語るだとか。ファレナ王子にとってはほとんど支障がない分、このことはあまり表には出てこなかった。そもそも彼女には全く悪気がないのだから、小さな違和感を覚えはしても、皆彼女が大好きだった。

 そしてしばらくして、王には第二子が生まれることがわかった。再び始まった乳母選抜は、前回と比べてそこまで大掛かりにはならなかった。王自身にも選抜のコツが掴めてきたというのもあるが、そもそも第二子である。第二子は第一子とは異なる。いくら平等に育てたいと親が思っていても王族においてそれは簡単なことではなく、王になる可能性が著しく低い第二子への乳母選抜は、当然第一子の時よりも厳しくはならなかった。

 王もまた、己の選抜眼に妙な自信を持ってしまってもいた。それほどまでに第一子の乳母が彼にとっては完璧だったからである。彼は大半を書類の審査で落とし、書類上問題なさそうな数名の雌と面接をした。受け答えの聡明さ、そして彼がもっとも重視したのはやはり、野心のなさであった。

 第一子と異なり、第二子はこと後回しにされやすい。当然第一子の乳母よりも第二子の乳母の方があらゆる順序は後回しになる。そんな時でもグッと飲み込むことができる、大人しく従順な雌を選ぶ必要があった。

 そこで選ばれた彼女もまた、完璧にほど近い雌であった。第一子の乳母とは正反対な性格で、勤勉で大人しいが物静かな彼女は、従順に命令に従った。彼女の唯一の欠点は——醜女であった、ということだけである。

 乳母は日陰者である。その名前が歴史書に残ることはなく、パーティに大々的に参加することもない。ただ静かに壁の隅にじっとして、王子たちを見守るだけだ。そのため彼女の欠点は大きな問題になるはずはなかった。現に王としては美貌や家柄だけが全てであるという社会を払拭したいという、世間へのアピールの意味もあったのだろう。第一子の乳母は家柄が下級貴族で、第二子の乳母は上流貴族ではあったが美貌は持ち得ていなかった。バランスとしては完璧だったし、事実だけ並べると大した問題ではないように思えた。だが第二子が初めて社交場にデビューした、とある美術館建造の記念式典の場で——王は初めて、小さな後悔をしたのだ。

 自分に似た豊かで明るい橙色の髪と、好奇心旺盛な瞳をキラキラさせる第一王子ファレナ。そしてその横にじっと佇んで優しく見守っている乳母も同じくして、壁の花ではあったが凛と美しかった。彼女はファレナと心底パーティを楽しんでいるような顔をして、くすくすと囁きあっている。

 その隣。妻によく似た黒にほど近い焦げ茶の髪と、怪しくきらめく緑の瞳をうっすらと細めて、表情を消している第二王子レオナ。そしてその横で、同じように——じっと壁に張り付いている乳母は、淡く微笑んでいた。そう、彼女は第一子の乳母と同じ式典服を身につけ、同じような宝飾品で飾ってはいたものの。悲しいほどに、美しくはなかった。

 その二人を見て、そして無意識に比べていると気づいた時の王の絶望は凄まじかった。無意識化に行われる差別というのは、王ほどの人格者であれば表に出ることはない。しかしこの世とはそんな者たちばかりではないのだ。きっと彼女は、第一子と第二子が比べられるのと同じように——第一子の乳母と、比べられてきたに違いない。そこで初めて王は、静かな違和感を覚えた。ファレナと楽しげにしている第一子の乳母とは異なり——第二子の乳母は、レオナではなく、うっすらと王に向けて笑みを投げていた。

 彼女自身がそのことを気にしているのか、王は知るすべもなかった。彼女はそれでもレオナのことをきちんと育て上げていたし、事実レオナは誰よりも賢く育っていたのだ。これを大きな問題と捉える方がどうかしている。

 しかし王が抱いたこの時のほんの小さな違和感が、やがて大きな事件を引き起こすことになる。


  ◇◇◇


 今となっては懐かしいあの輝かしい日々を、私は時折想起している。果たして私のしたことが間違っていたのか正しかったのか、今となってはもうわからない。ただ今更、あれは私のせいではないと語るほど私は馬鹿な女ではないし、時折流れてくる噂話の一つを耳にしては、なんとも言えず腹の底に火が灯るような、そんな気がして嬉しくなるのだ。

 私にとって王宮とは、そこまで遠い存在ではなかった。上流貴族の長女として生まれた私は、王宮で行われる数ある式典にも必ず呼ばれていたし、私の結婚だって政治的に利用されるものだと理解していた。そう、私はとても賢い娘だった。だから父に利用されることもいとわなかったし、上流貴族の長女として申し分なく育ったと自負している。

 けれど物心ついた頃に行われたパーティで、私の中で大きくその認識が変わった。私は着飾った娘たちと共に広間で談笑をしていて、そしてふと、視線を外した時。そこは大きな鏡張りの広間になっていて、着飾った同じような上流階級の娘や息子たちが交流している。鏡を見た私は——驚愕した。そこにいたのは見慣れた自分の姿だったけれど、すぐそばで話をしていた友人たちは皆、私とは違っていたのだ。

 豊かで艶やかな髪、毛並みの整った耳、優雅な長い尻尾に、曲線になっている腰、そして長い手足と、きめ細やかな肌。大きな瞳に通った鼻筋、そして唇は薔薇のように赤かった。

 それは物心ついた私にとっては衝撃的なことだった。美しいドレスや宝飾品、毛並みを整えたり、肌を美しく保ったりといったことは上流階級であればそこまで大きな違いはなく、問題はそこではなかった。ただただ、生物としての造形が、私は劣っていた。大きくはった肩、寸胴で手足は短く、厚ぼったい瞳に低い鼻、唇も薄い。耳の形は左右で微妙に違っていたし、尻尾も短かった。

 なんだか途端に恥ずかしくなった。これまで友人に対して劣等感を抱いたことは一度もなかったのに、突然こちらを見ている数多の視線が、皆私を馬鹿にしているような気がした。

 それは自我の芽生えであったのだと、今なら冷静にそう思う。私はそして自分を恥じた。美しい友人たちであれば、政治利用できるほどに素晴らしい同じような階級の者と結婚するだろう。しかし私はあの瞬間、自分にはそんな価値はないと——今考えると非常に馬鹿馬鹿しいことなのだけれど——そう信じ込んでしまった。

 幸いにも両親は私をいたく可愛がってくれて、己の造形の醜さに悩む私に涙をこぼして否定した。親からすれば子供は皆可愛いものかもしれないけれど、私にとってそれはただの慰めでしかなく、余計に卑屈な気分にさせた。二度とパーティに行きたくないという私に、両親はほとほと困ったに違いない。上流階級の貴族たちは皆、それ相応の教育を受けた人格者である。美醜などによって付き合う友人を決めるような人は私の友人にも当然いなかった。いなかったろうと思う。そう信じたい。

 けれどその時の私はとにかく自分のことが嫌いになっていた。買ってもらったドレスも宝飾品も、可愛らしい人形も何もかもが私には似合わないような気がした。精神的に勝手に自分を追い詰めていたのだ。

 健全な成長をすることができれば、あるいは私はそこから少しずつ自分を認めることができ、学校に通って社会性を学び、自分の人生を考えることができたろう。しかしそうはいかなかった。幼い頃、上流階級の長女としての役割を全うすることだけを自分の人生だと定めた私は、それができぬと決めつけると、同じだけの地位を確立せねばと思うようになったのだ。

 すなわち、美醜の関係のない分野で勝負しようとしたのである。私はとにかく、〝醜い〟という理由で排除されることを嫌った。恐怖した。だからこそ、美醜の関係のない居場所を求めた。もともと勤勉だった私は狂ったように本を読み漁り、次々と新しいものを学び、魔法の習得を積極的に行った。その代わり、ダンスやファッションのレッスンはことごとく嫌った。どうせ醜い私が踊ったところで、着飾ったところで、それは何にもならない。美しい花はそのままでも美しいし、美しい花瓶に飾ればさらに美しさが際立つが、雑草は雑草にしかなれない——私は愚かにもそう信じた。

 両親は随分悩んだろうけれど、それでも私は勉強だけは真面目にやっていたから咎めることもできず、そして私は歪んだまま成長した。男女の別なく、結婚という道もなく、ただひたすらに研鑽を重ね、そしてある時——虚しくなった。

 上流階級の長女が、いくら己の技術を磨こうが、学ぼうが、それが何になるというのだろう。結婚できなければ存在意義がないとされる上流貴族の長女に生まれ、それに抗ってあらゆる技術を身につけた私が、それでも雌である事実は変わらない以上、選べる人生には限りがある。

 悲しくて、虚しくて、どうしようもなくて。そんな折、私はふと幼い頃に読んだ伝説を思い出していた。

 それはこの国に伝わる、百獣の王の物語。彼はこの国の創立に携わる王家の第二王子として生まれた。しかし類いまれなる知略で国をまとめ上げ、さらには嫌われ者であったというハイエナも共に暮らすことができる世界を作り上げたという。だからこの国には様々な種族がいるのだ。もっとも、第一王子の直系に政治が取って代わられた今、ハイエナはゴミ溜めのスラムでしか生きることができなくなってしまったのだけれど。

 私はそして、彼の生き方に感銘を受けた。王位継承権の序列が低くとも、卑屈にならずに生きて、知略を磨いた彼に感情移入し、そして上流階級の長女でありながらその役割が全うできそうにない自分と重ね合わせた。心酔していたといっても過言ではない。私は彼の生き方を模倣するかのように、それからますます勤勉に、己の能力を磨き続けた。いつの間にか学校は首席で卒業した。ライオンの友人は作らなかったし、恋人も作らなかった。その代わりに、私は他の種族の友人を作った。中でもハイエナとは仲良くしようとした。一部で〝醜女だからゴミ溜め育ちの薄汚いハイエナとはお似合いだわ〟なんて揶揄されていることも知っていたけれど、私のこの崇高な思想はちゃらちゃらとダンスやファッション、恋に明け暮れている馬鹿な女たちには理解できようもないわ、と思っていた。

 そんな矢先のこと。

 王宮で求人が出ている、と父から手紙が来た。私のことをどこまでも心配する父は、きっと私の将来を案じたのだろう。それは——私にとってはこれ以上ないほどに魅力的な求人だった。

 第二王子の、乳母。求められるのは教育者として、母として必要な人格であるということ。知識が豊富で、頭のいい獣人こそが必要であると。妾ではなく純粋な教育者としての求人、それも私が心酔していた伝説の百獣の王と同じ、第二王子。私は喜び勇んで書類を提出した。そして——同じことが第一王子の時にもあったのだと知った。

 それから私は様々な父のツテを使って、第一王子の面接の際、落ちた獣人たちのことを分析した。どうやら国王は母性があり、賢く、そして野心のない女性を探しているらしいということがあった。

 野心。雌としての野心は、確かに乳母には必要のないことだ。私はその時周囲の女たちを心から軽蔑していた。彼女たちはより良い結婚を求め、肌に粉を塗りたくり、高い宝飾品を身につけて、やれお茶会だやれパーティだやれダンスだとそれにばかり明け暮れている。雌としての頂点は、彼女たちにとってはより良い結婚だったのだ。

 夕焼けの草原では、女性が他国に比べて強い。私のように勤勉な者は男性と変わらずに働いていたし、腕力に覚えのある女性は近衛兵として活躍する。しかしそれは中流貴族までの話だ。上流階級に関して言えば、まだまだ王族同様、雌は結婚して立派な男児を育てよと、そうした教育を受けざるを得なかった。だからこそ、国王はこの求人において身分も関係ないとしたのだろう。上流階級の女性たちのほとんどは、自らが政治の道具となるべく自分を磨くことしかしてきていないのだから。

 私はそして、面接で演じきった。立派な母になれる素養と、そして己の中に確かに芽生えかけている野心を隠して。第二王子の乳母になることで、私はようやく、ようやく自分自身を認めてあげることができるような気がしていた。

 合格通知が来た時、私は一人で泣いた。

 幼い頃、鏡を見て己が醜いと気づいた時の悲しみは、確かに浄化されたような気がした。と同時に、私は——恋をしてしまった。


 面接をした、国王の熱いまなざしに。


 彼は私を、選んでくれた。醜い私を、私の内面で選んでくれたのだ。数多の美しい女たちではなく、私を、自分の息子を預けるにふさわしい女であると、彼が認めた。

 国王は妾を作らぬと宣言している。しかし彼の奥方である王妃は病弱で、もう余命わずかというではないか。であれば、私が後妻に収まることもできるかもしれない。美しくなくとも、聡明な国王にふさわしいのは、もっとも知略に富んだ私であるべきだと、私は信じた。


 それから、私の人生は変わっていく。


「初めまして、王子様」 


 ベビーベッドで静かに眠る姿は、随分と愛らしかった。大声で泣きわめくこともなく、静かに私の指を握る様はあまりにも可愛くて、そしてきらきらと輝く瞳は好奇心に染まっていた。

 目を見てわかった。この子は、聡明な子だと。レオナ王弟殿下は、不思議な魅力を持つ子供だった。成長するといっそう、第一王子のファレナ王子とは違うというのがわかった。自我が強く自分が第一王子であることを受け入れることができていないファレナと異なり、レオナ王子は周囲に己の感情を吐露することをしなかった。どこか落ち着いていて、物事を遠巻きに見ているような印象を受けた。幼いながらも彼はすでに、妙に大人びて見えたのだ。

 私は夢を見た。彼はきっとかの伝説の百獣の王の生まれ変わりである、と。だから彼は第二王子にしておくのはもったいないのだ。彼にだって、王になることができる素質はある。

 私はそして、大して懐かないレオナ王子のために私自身の知識をすべて明け渡し、そして彼の学びたいがままに、あらゆることを学ばせた。

 幸いにも第一王子よりは監視が少なく、私は彼に禁じられた呪文や古代呪文についても子供の頃から教え、そしてお前は特別であると教えた。王妃にそっくりなその見た目だけは大嫌いだったけれど、私の教えたものをどんどん吸収する彼は確かに普通の子供とは違ったし、成績を伸ばしていく様が楽しくもあった。

 いつの日か、私の中に芽生えた野心は燃え上がっていく。 

 レオナ王弟殿下が賢さを露呈していけばいくほど、国王は私を褒めた。私のおかげであると、私の教育によってレオナはこんなに良い成績を残すことができると。私の中の自尊心はどんどん育ち、そして私は伝説の百獣の王を復活させ、そして王の後妻になることを目標に、ひたすらにレオナを教育し続けた。

 
 今思うと、これは呪いだった。


 あるとき。マジフトの新しい技を研究したいという彼に、私は許可を出した。最近はマジフトの戦略の立て方にも興味があるらしく、延々と映像を見ながら考え込んでいる。近いうちにチェスを与えてみたらいいかもしれない、などと考えて送り出すと——しばらくして、彼は慌てた様子で部屋に駆け込んできた。


「サリーナ! 兄さんが、兄さんが!」


 レオナの話を聞くと、どうやら馬鹿な第一王子が調子に乗って怪我をしたらしかった。すぐに助けに行くように臣下に言いつけたものの、どうもレオナの様子がおかしい。


「レオナ、どうしたの?」


 どこか青ざめたように、幼いレオナは私を見た。


「サリーナ。僕——王様になれないって言われた」


 どくん、と。私の腹の奥にある何かが、脈打つ。
 それはきっと、怒りだ。
 私が自分自身に感じていた、そして彼が兄に対して感じていた——腹の奥が燃えていくような、怒り。


「でも、勇気を示せば——兄さんよりもすごい傷をつければ、僕も王様になれるって、そう言われたんだ!」


 その時の私の感情を、なんと表現すべきだろうか。ファレナへの怒り、そして幼いながらも王になりたいという野心を抱えた、第二王子のいじらしい願い。ファレナめ、余計なことを言いやがったな、という気持ちもあったけれど、それ以上に——私にはこれがとんでもない好機だと、気づいた。


「レオナ、いらっしゃい」


 私はそして、小型の果物ナイフを渡す。


「すごい傷のつけ方を教えてあげるわ。これはおまじないよ」


 レオナは「教えて!」と叫んだ。

 ああ、この幼子は——傷ついているのだ。兄に、己の未来を勝手に決められて。そしてすがっている。どんな可能性にも。自分が王になれる道を、探し続けているのだ。


「ファレナ王子が傷を負った膝なんて、服を着たしまえば隠れてしまうものだわ。いいこと? 勇敢さを示すのであれば、絶対に隠れない場所につけるのが一番いいの」


 そして私は、鏡の前にレオナを連れて行く。

 ああ、私なんかと違って、彼はどこまでも完璧で美しい——王妃と同じ顔だ。顔だけは、顔だけは憎しみの対象だった。けれど私はその感情を飲み込んで、そっと両肩に手を置く。鏡に向かって指を伸ばして、す、と。レオナの左目に当たる場所に、指を走らせる。


「百獣の王とお揃いの——左目につけなさい」


 レオナは小さく息を飲んで。
 震える指先で、私からナイフを受け取る。
 不安げに息を飲む彼に、私はどこまでも優しく——微笑んでみせた。


「大丈夫よ。あなたならできる」

 
 レオナは小さく頷くと。
 そして思い切り、ナイフを己の左目に走らせた。


「あ、ああ、く、っ——サリーナ、痛い、痛いよッ」


 カラン、とナイフが落ちて、レオナの傷口からじわじわと真っ赤な血が漏れ出す。私はそっと彼を抱きしめて、そして甘く囁いた。


「——救護室へ行きましょう。大丈夫よ。偉いわ。これであなたもきっと王様になれる」


 鏡越しの醜い顔をした私から、艶やかな声がした。


「僕も——王様に?」
「ええそうよ。かの百獣の王と同じようにね」


 レオナは、痛みにわずかに顔を歪ませて、そして笑った。


「兄さんに、兄さんに見せなくちゃ」


 そして彼は、駆け出していく。
 私は——笑いが止まらなかった。


「ザマアミロ王妃! これであの子は私のものだ!」


 美しい顔に傷をつけてやった。そして彼の姿はいっそう、百獣の王に近づいた。
 こんなに嬉しいことがあるだろうか!
 一拍おいて私は救護室へ駆け出す。顔中を血塗れにしているレオナを見て、果たしてファレナはどんな反応をするだろう。 


「兄さん! 僕はやったよ!」

「兄さんに言われた通りに傷をつけた! これは勇敢の証なんでしょう? これで僕も王様になれるかな!」

「僕は勇気を見せつけた! 僕だって、僕だって王様になれるんだ!」


 叫んでいる幼子のいじらしさに、私はぞくぞくと快感にも似た感情がせり上がってくるのを自覚する。彼の中には、確実に王になりたいという感情が育っていた。周りに自分の感情を伝えることをあまりよしとせず、勤勉にあらゆることを挑戦していたレオナの評価は、彼を知らない者からすると〝第二王子としての役割を理解している〟とでも評されるのだろうか。全くもって馬鹿げている! 彼は虎視眈々と、己の爪を研ぎ続けているのだ。研ぎ方は私が教えた。けれどあれが彼の本質だ。やはり彼は百獣の王の生まれ変わりなんだ。

 しかし、それからは私にとって予想外の展開となる。 

 それから。
 
 どこからともなく噂が流れた。ファレナに怪我を負わせたのはレオナである、と。噂は瞬く間に王宮内に広まった。こんなはずではなかったのに、賢いレオナを賢いままと評価することはかえって悪だとされるようになった。あまりにも出来がいい第二王子の存在は、王宮として、排除の対象となってしまったのだ。
 
 それからしばらくして、王妃は病の末に死んだ。ファレナは泣いたけれど、レオナはなんだか不思議そうな顔をしていた。事実、彼らはほとんど王妃との関わりがなかった。白い棺に収められた彼女の美しい顔を見て、私は勝利を確信していた。

 それを契機として、一つの事実もまた流布した。
 
 あの——私の憎んだ王妃が、レオナを厭うていたというのである。彼女は女児が欲しかったらしい。そして王妃は精神を病み、ほとんど子供達にも合わないようになったのだというのだ。

 その噂が流布されてからは、あっという間だった。王妃すら忌避したのだ、それはきっと王妃様がレオナの恐ろしい能力を知っていたからだと。彼は第二王子であるというのに、どういうわけかとても賢い、それはきっといつか国を転覆する気だからだとか、とんでもなく馬鹿みたいな噂までが出回るようになった。

 この世は——不公平だ。

 レオナが雌だったら王妃に愛されたというのだろうか。レオナが第一王子であったなら、その賢さは存分に讃えられていたのだろうか。私にはわからない。けれど私にとって彼は誇り高き第二王子であり、そして百獣の王の生まれ変わりである。

 こんなことで、折れられては困る。

 私は怒った。こんな噂ごときに負けるようではだめだ。己の牙を研ぎ、爪を磨き、そしていつの日か全てを頭からかじりとるくらいの能力を示さなければ。彼にはその才能がある。生まれた時から、彼は完璧なのだから。

 レオナは別に私に懐いてはいなかったし、レオナが実際にどう考えていたかは私にはわかりようもない。けれど彼は静かに、心の中で育てていたのだろう。第一王子たるファレナが、自分よりも劣っていることをレオナは気づいていた。そしてその疑問は少しずつ少しずつ、まるで潮が満ちるように肥大して、レオナは「なぜ自分は王になれないのか」を考えるようになる。考えれば考えるほど理不尽だ。レオナの方がよほど、よほど王にふさわしいのに。

 私も固執した。彼が望むままに学ばせ、自由にさせた。そして教えた。種族などくだらない、と。かつての百獣の王は、ハイエナすらも仲間として引き入れたのだ。くだらない種族主義に負けるな、王とは懐が広く、そして広い視野を持つべきである、と。 


 私がある男に話を持ちかけられたのは、そんな矢先のことである。


「レオナを隔離する?」
「ちょうどファレナ王子も、同じくらいの歳の時にユニーク魔法を発現した。これは通過儀礼です」
「ですが、隔離することはないでしょう?」


 男は曖昧に笑った。
 私は瞬時に悟った。彼は恐れているのだ。レオナのユニーク魔法が、どこまでも強大で素晴らしいものである可能性を。


「なに、すべては安全のためです。レオナ王子は実に聡明であらせられる。ユニーク魔法もきっと素晴らしいものに違いはないが、強大すぎて他の者に被害が起きても困るのでね」


 これは決定事項だ、と私は告げられた。要するに普段生活している場所ではなく、レオナを地下壕に隔離したいというのだ。まったくもって馬鹿げている。排除したところでどうにもならない。

 しかし男は最後に、こうささやいた。


「地下壕に隔離しているとはいえ、それを破壊するほどのユニーク魔法であれば、きっと我々も彼の能力を認めざるを得ないでしょう。これまでレオナ王子に悲しい噂が広まっているのは事実ですが、ここで力を示すことができれば皆彼を認めるに違いありません。それにあなたも——ああそうそう、王が、そろそろ後妻を考えていると話をしていましたよ。ファレナ王子の乳母はそそっかしくていけないが、あなたのその聡明さは、王の隣に並んでこそ輝くでしょうな」


 なんと、愚かであったか。
 私はその言葉に、すっかり目が眩んでしまった。


 冷静になればこの男が言っていることがいかにむちゃくちゃか、今となってはよくわかる。けれどその時の私は、「レオナの力を認めさせる」ことと「後妻に入る」という二つの餌をぶら下げられていた。私はこと能力を認めてもらうことに固執していたから、この誘いは簡単に私の目の前の視界を奪ったのだ。

 私はそして、レオナを地下壕に閉じ込めることをよしとした。


「サリーナ。どうして僕だけこんなところに閉じ込めるの?」


 レオナは泣かなかった。ただ檻に入れられたレオナは、ひどく傷ついた顔をしていた。そうだ、私はこの、聡明なところが好きだった。子供のように泣いて喚くのではなく、どこまでも澄んで、そこまでもまっすぐに輝く緑の目が——憎らしくて、そして好きだった。


「僕は兄さんよりもテストの成績がいいよ。魔法だって色々学んでる。マジフトの新しい戦略だって思いついたんだ。それなのになぜ?」

「それはね、あなたが第二王子だからよ」


 私は檻の向こうでじっとしているレオナにそう告げた。


「ねえレオナ、あなたはね、決して王様にはなれないの」
「ッ——」


 レオナは再び、ひどく傷ついた顔をした。


「第二王子だから、あなたがどれほど賢くても、どれほどマジフトが上手くても、あなたは王にはなれない」


 これは——呪詛だ。

 
「みんな噂してるでしょう? あなたはね、本来必要のない雄なのよ」


 レオナはそれきり黙って——その日から、来るたびに、私を睨みつけるようになった。


 相反する感情であったと思う。私は必死だった。レオナの中で膨れ上がった憎悪が、やがて強大なユニーク魔法の発現に繋がると信じたのだ。

 私は決してレオナを傷つけたかったわけではない。けれど百獣の王の生まれ変わりなのであれば、そのくらいのことはできてもらわないと困るのだ。私は彼のことを、レオナとして認識していなかった。彼はもう、私の中で第二の伝説になっていた。

 それからレオナの部屋に通いつめる私を、彼は冷えた目で見るばかりだった。地下壕に差し入れていた魔道書は事あるごとに読破し、レオナは何やらぶつぶつと呟きながら、時折魔法を試しているようだった。いったい何が彼をそうさせたのか——私にはわからない。けれど檻の中に収められた彼の中に肥大した憎悪は、着実に育っていく。


 そして、私たちは事件の日を迎える。


 今私は、静かで穏やかな余生を過ごしている。それもこれも王の温情によるものだけれど、それが愛ではないと私は知っている。

 これは私への罰なのだ。こうして日々、狭い檻の中でじっと過ごし続けることが。上流階級の長女として、もしあの時私が己のことをきちんと垣間見ることができて、そして自分のことを受け止めていることができたら、きっと人生は変わっていた。

 レオナ王子は、変わっただろうか。あれから——学園で、素敵な人に出会って、そしてありのままの自分を認めてくれる友人に出会っているだろうか。友人ではなくてもいい。先輩でも、後輩でも、教師でも、誰でもいい。この世界は不公平だと知っている者であれば、きっと彼の力になることができる。

 あらゆる理不尽な目にあった第二王子の人生の行く末を、私はもう見ることができない。それこそが私の悲しみだ。私の作り上げた第二の伝説は、果たして世界を救うのだろうか。壊すのだろうか。


「お誕生日おめでとう、レオナ」


 私はそして、しわだらけの手で。
 灰色の壁に飾っている、彼の幼い頃の写真をそっと撫でた。


 あの時吐いた呪詛の行く末に、想いを馳せる。





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3章◇啼哭



 父親という存在がどうあるべきか、そして王家がどういう存在であるべきか、長い間そのことは議論の対象ではなかった。

 王家というのは国を運営するための機能である。国は王家の決定に従うことで同じ方向を向くことができ、そして重大な決定をする際には、王家の決定を仰ぐことで自分達を守ることができる。国民が兵士であるとするなら、王家は盾であり鉾だ。国民を守り、戦い続けることが王家の義務であった。

 だからこそ、代々王族はその機能を守り続けなくてはならなかった。運営が円滑に進むように、人を揃え、伝統を守り、夕焼けの草原の顔でい続けるために存在していた。すなわちそこに個というのは存在してはならない。国を作るのは国民である。とするならば、王家というのは国民の望む形であるべきなのである。

 伝統を古いものだと一蹴することは、王族にとっては簡単なことではない。小さな家庭であれば運営方法が多少変更になったところで受ける影響は少ないだろうが、王家とは国民の顔なのである。そのシステムが変わってしまえば、国の方向性すら傾く。

 例えば王家が、能力第一主義にすると宣言したらどうだろう。それはいわば能力に対して優劣をつけるのと同義である。本来個人の個性とは数値で測るべきものではないが、テストで満点を取った人間は優れており、満点ではなかったものは劣っているとするのは危険だ。個とはもっと複雑で、評価などある一定の水準でしか決めることはできない。

 王もまたそうである。王にふさわしい、理想の人格というのはあるのだろうが、それを能力で推し量ることは難しい。時代とともに国民の趣向も変わる。とすればきっとその時々において、王にふさわしい人格というのもまた変わるべきなのである。その都度王を変えていくのでは王家として成り立たない。もし王家の中で、その王にふさわしい人格が生まれなければ、その時点で王家は衰退してしまうのだ。

 だからこそ、王家は第一王子が自然と王になるというシステムにおいて成り立っている。個人が王にふさわしかろうがそうでなかろうが、あらかじめ決めておくことにより、第一王子は王としてふさわしい教育を受けることができ、限りなく理想に近づくことができるのだ。これでもし能力至上主義になってしまえば、「誰が王にふさわしいか」という点で、無益な争いが起きてしまう。それでは本末転倒である。

 だからこそこの国の王も、非常に先進的で妾制度を廃止したものの、第一王子が継承権を持つという事実は捻じ曲げなかった。そこを変えてしまえばあらゆる事象が変わってしまうし、そもそも変える事を良しとしなかった。そもそも、王もまた第一王子だったのである。彼は第二王子である人生を知らない。第一王子の人生しか知らぬ男が、自然と王になり、そして王家というシステムに組み込まれていくのであれば、そのシステムを踏襲するのは当然のことだ。

 しかし。

 それと父親という存在は、また別の話である。

 王家だろうがスラムだろうが、親は親だ。どれだけシステムを重視して生きようが、親と子という関係は他と大きく変わることもない。つまり本来であれば、王としての言葉と父としての言葉を、息子たちに対して変えるべきなのだろう。

 しかしそう簡単にいくものでもない。

 夕焼けの草原の王は、王としての評価は名高い。先進的で、時代を切り開いたその手腕は高く評価されていたし、今後も歴史書において立派な王であったと評され続けるだろう。しかし歴史書の裏、決して描かれぬ箇所である家族として、父親としての彼は、果たして立派な親ではなかった。

 彼は息子たちを、機能の一部であると理解していた。第一王子と第二王子、それぞれを愛してはいたが、第一王子として立派に育つこと、第二王子として分別を持って育つことを理想としていた。第一王子が第一王子らしからぬことをしたとして、それを叱ることはなかったけれど、一方で認めることはしなかった。なぜならそれは第一王子として相応しくはないからだ。彼もそうして育った。だから息子もそのように育てた。

 息子たちに役割があるように、親にも役割があると彼は考えていた。すなわち、父ができぬことは母が行うべき、という考えである。公務で忙しい父に代わって、優しく話を聞いてやり、個を認めてやるのが母の役割だとした。それこそが家庭というシステムにおいて正しいことだ。しかし妻は病弱でその役割をまっとうできそうにない。だからこそ彼は乳母を二人雇った。息子たちには、自分にはできぬような教育が必要だったのだ。

 だが彼が目指したものは、到底システムとしては稼働しなかった。愛情というのは無条件に芽生えるものであるし、条件が揃っているからといって芽生えるものでもない。その不確実性にこそ人は神秘を感じるのである。

 乳母たちはきちんと息子たちを教育したが、一方で深い愛情を育てるといったことは——王の水準にはおそらく、達することができなかったのだ。それは当然である。母というシステムの役割をこなしたからといって、実母としての愛情が芽生えるはずもない。通常であれば、きっとそれで大きな問題が起きることはない。人はやがて成長し、成長の中で己の個を見出し、そして組織の中で己の居場所を確立させていく。現に彼の第一子、ファレナはそのように育った。結局は第一王子としての役割を進み、やがて王になるだろう。幼い頃は果たして大丈夫だろうかと心配した彼もやがて戴冠式を迎える。それは非常に喜ばしいことだ。一方で、第二王子たるレオナは——また別だった。

 彼に必要だったのが何であったか、病床の王はついぞ気づくことがなかった。ただ唯一言えるのは、彼に必要なのは血によるつながりではないということだ。家族というつながりも、王家というシステムも、彼には必要がない。おそらくそうした枠組みから大きく外れた何かが、彼を救うのだと王は考えている。父としての役割を全うすることができなかったこと、王はついに本人に謝罪することができぬまま、やがて息をひきとるのだろう。


 ◇◇◇

 
 子供を育てることがこうも難しかったのかと、私の感想はその一言に尽きる。立派な王になるための教育を受け、その通りに育ち、そして私は王になった。移り変わる時代に合わせて国を運営し、誰からも讃えられるような政治を行った。確かに王として、私は成功したのだと自負している。

 しかし一方で——子育てに関して、これで良かったのかと自問することはある。第一子であるファレナは、多少反抗期があったこともあったが、それでもなんとか真っ当に育ってくれた。王としてふさわしい人材になるべく、彼は努力した。その姿は若い頃の私を見るようであったし、私も多くを語らないにせよ、彼に受け継ぐ国がより良いものであるよう、一生をかけて努力をした。

 だがレオナは——とても難しい子供であった。第二子を育てるのは難しい。能力が高すぎても結局彼は王にはなることができないし、低すぎてもいずれ王の側近になるのに王の足枷になってしまう。自動的に王になることができる第一子と比べるとある程度自由が保証されているせいで第一子からの反感を買うこともあるし、あくまで第一子の代用品であるという意識がある以上、周囲の目もまた変わってくる。

 いったいどこで何を間違えたのか。はたまたこれは間違いではなかったのか。きっとそれは私が死ぬ瞬間であってもわかることはないのだろう。子育てに成功も失敗もない。親が望むべき道を進むことが必ずしも正しいということもない。だがそれは通常の家庭の話だ。王家においては、第一子は第一子であること、第二子は第二子であることは圧倒的な正しさであった。周囲もそういった風に接するし、幼い頃からそのことを刷り込まれて生きていく。

 もし仮に、レオナがぼんやりとしてあっけらかんとした性格であれば、あるいは違ったのだろうと思う。家という檻の中、王家という枷の中で、それが正しいと信じきり、そして洗脳されたままであれば苦しむこともなかったに違いない。

 しかし彼は賢かった。ぞっとするほど聡明だったのだ。私の血なのか、妻の血なのか、こればかりはわかりようもない。しかし親である私ですら舌を巻くほど、レオナはよくできた子供だった。

 そのせいで、随分と早い段階で気づいてしまったのだ。この世界が不公平であるということに。彼はまっすぐにぶつかってきた。第一王子が自動的に王になるのは間違っている。能力の高さによって、王というのは決められるべきではないのか、と。

 それはとても正しいことだ。だが間違ってもいる。物事というのはそう簡単に、白黒つけることができる問題ではない。特にに王家というシステムが存続し続ける限り、王は能力で選ばれるべきではないのだ。王家とは揺るぎないものでなくてはならない。絶対的な基準は、個人がどうとか、個々の能力がどうということではなく、母の胎内からどの順番で生まれ出たかという——能力が発露する前の、ただ王家の血筋としての根拠だけで判断されるべきものなのだ。

 私はこれでも必死に、彼の生きるべき道を模索した。明らかにファレナより能力が高いレオナが生きやすくするためには、人に好かれやすいファレナを王に据えた上で、そのすぐそばで能力を遺憾なく発揮できるポジションを確立することだ。私はそれを実証するかのように、長い間宰相と二人で政治を行ってきた。そして私は子供達に教えた。独りよがりであってはならぬ、己の能力を過信せず、周囲を信用し、そして使える人材を見つけよ、と。そして兄弟こそ、他人よりもよほど互いのことを分かり合える。兄が王になるなら、弟が宰相になれば良い。二人で協力し合って国を守りなさい、と。

 人生というのは、しかしそう上手くもいかぬものである。あの大事件が起きたことで、私は己の選択に大いなる疑問を抱き、そして息子たちの生き方を、大人であるから、親であるからと決めることこそが大きな間違いであると気づいた。

 しかしそれでもシステムは変わらない。変わらぬ王家という檻の中で、果たして彼らはどう生きるのか。私にはもう、知るすべはない。


 その日はよく晴れていた。私は執務室で書類の確認をしていて、そのあと役人たちと重大な会議が行われる予定だった。
 召使いが午後の茶を運んできた——ちょうど、午後二時ごろのことだった。

 王都に響き渡るほどの轟音がしたのだ。

 ビリビリと窓を震わせる音に、臣下たちの間に緊張が走った。長いことこの国は戦争をしていない。反乱が企てられているといった情報もないし、とすると事故か、何かが起きたのだ。

 私はすぐに、どこで何が起きたのかを調べるように命じたが——それはすぐにわかった。


「国王陛下!」


 肩で息をしている臣下は、事態がまるで飲み込めないようで、目を白黒させている。


「その——なんと申し上げたら良いのか——東塔の地下壕が、消滅しています!」
「は——?」


 東塔は五階建ての塔で、中には美術品や宝飾品といったものが安置されている。人はほとんどおらず、入り口に警備の者がいるだけだ。


「被害は?」


 努めて冷静にそう問えば、臣下は言いにくそうに言葉を濁した。


「その、そっくりそのまま消えてしまったと言いますか、地面がそのまま陥没してしまったと言いますか——」


 全く要領を得ない。私は書類をそのままに、臣下を連れて東塔に向かうことにした。


「これは——」


 その光景を目にした時、私は言葉を失ってしまった。東塔は堅牢にできている。美術品や宝飾品を安置する以上、簡単に壊れてしまっては困るのだ。しかし文字通り、地面の上から出ているのはどう数えても四階分のみで、一階部分は——大量の砂に埋もれて見えなくなっていた。

 風が吹いて砂塵が舞っている。視界が覆われて、そもそもよく見えない。臣下たちは次々に咳き込んだ。きめの細かい砂たちは口から、鼻から、耳から入り込み、体内を侵食するようだ。

 私は袖で口元を覆った。いったい何が起きたというのだろう。地質調査によれば、ここは随分と地盤がしっかりしていると言っていた。だからこそ国宝をはじめとした大事なものをここにしまっていたのだ。


「そこの者! 怪我はないか?」 


 砂塵でよく見えない視界の中で、私は人影らしきものにそう問うた。



「レオナ!」



 聞こえてきたのは、甲高い女の叫び声だった。


「お前は——サリーナじゃないか、なぜ」


 髪を振り乱して、砂を手に取り、 膝をついているのはレオナの乳母だ。顔を歪ませて、肩で息をしている。


「いったい何が起きてる?」
「国王陛下——!」


 サリーナは——こちらを見た。瞳を恐怖と喜びをないまぜにしたような不可思議な色に染め、そして震える唇で「レオナが、」といった。


「レオナが? あの子がここにいるのか?」
「ええ、そうです、レオナ王子がここに——」


 女は口元を震わせて、そして両手で散らばった砂をかき集めている。


「レオナ、ねえ、大丈夫なの!? レオナ——!」

「国王陛下! その女がレオナ王子を殺したのです!」


 不意に、しわがれた声がした。私の右腕、宰相のベルガンサだ。


「ベルガンサ、いったいどういうことだ。レオナはここにいるのか? 何が起きてる!」
「レオナ王子はここの地下壕に、この女によって閉じ込められたのです!」


 宰相は額に玉の汗を浮かばせている。
 女は唖然と口を開いた。


「何を言っているのです! 違うわ。私はそんなことはしない、あなたが——」
「国王陛下、この女は——厚かましくも陛下の後妻に入りたいと望んでいた!」
「っ——」
「そして彼女は今は亡き王妃を憎んでいらっしゃる!」
「なんだと?」


 私は激しく混乱した。臣下たちが集まってくる。全く状況がわからないが、宰相はひたすらに喚き散らしている。


「だから彼女はレオナ王子をずっと憎んでいたのです! 王子は王妃に随分とよく似ていらっしゃる。だからこの地下壕に閉じ込めて、そして人知れず殺そうとした! だからこんなことに——」


 頭の中が真っ白になった。次々に浴びせられる言葉に、私は言葉を失う。


「違うのです国王陛下!」
「いったい——レオナは、いつから」
「召使いに確認したところ、かれこれ二週間ほど地下壕に閉じ込められていたと——しかも彼女は国王陛下、あなたの命令だと言っていたそうです。あなたが、レオナ王子をここに閉じ込めるように言ったと——しかしそのご様子ですと」


 私は静かに首を振った。
 唖然とした。
 私は——私は、自分の息子が二週間も姿を見せないことに——気づかなかったのである。


「国王陛下、彼の言っていることはすべてデタラメです」
「なんの証拠もない!」
「でも私は、」
「こちらには数々の証拠がある! レオナ王子に食事を運んだものが君に命じられたのだと証言するだろう! これは殺人事件だ!」


 顔を真っ赤にする宰相に、私は静かに命じた。


「今すぐに砂の撤去を! 勝手に殺すな、まだ息子は生きているかも知れない!」


 臣下の間に緊張が走る。
 慌てて彼らが駆け出そうとした、その時だった。


「父上」


 静かな、声がした。


「——レオナ——?」


 途端、サリーナの目の色が変わる。

 砂に埋もれた場所の隙間から、這い出るようにして。砂まみれになったレオナが、そこにいた。


「レオナ! 怪我はない? ねえ、これはどういうことなの? まさか、まさかあなたが——」


 けほけほと咳をしているレオナに近づこうとしたサリーナの腕を、私はすかさずねじ上げる。小さな悲鳴が起きた。


「だれか! すぐにレオナの手当てを!」
「——なぜ——いったい、何が——」


 慌てて臣下の一人がレオナを助け出し、そして宰相は——顔を青くして、じっと幼子を、見ていた。


「レオナ、何があったのか話せるか?」


 臣下によって助け起こされたレオナは、治りかけの左目の傷を機にするように触れて、それから私をじっと見て——嗤った。


「父上——これ、僕がやったんだ!」

 
 再び緊張が走る。誰しもが息を飲んだ。
 これを——やった? レオナが?
 まだ幼いこの子供が——東の塔の地下を、消滅させたというのか?


「ッ——手当ては私の部屋で行う。レオナを連れて来なさい。それからサリーナを独房に繋げ」
「レオナ——あなたが、あなたがやったのね! すごいわ、やっぱりあなたはすごいのよ! レオナ——!」

 
 臣下に引き渡したサリーナは、それでもどこか恍惚としたような顔でレオナをじっと見て、そして引きずられるようにしてその場を立ち去った。


「レオナ——」


 私はレオナに触れようとして手を伸ばすも——触れることができなかった。妻に似ているその緑の目が、途端に恐ろしくなった。


 私の部屋に医者を呼び、手当てされているレオナをじっと見た。彼は興奮しているようだった。瞳はきらきらと好奇心に輝き、砂まみれになった髪をとかされている間も機嫌が良く、そして——ひどく痩せていた。気がつかなかった。すくすくと育ったファレナが王宮の練習場で箒に乗っているのはよく見ていたが、彼と比べてもレオナは小柄なように見えた。


「レオナ——何があったか話せるか」
「父上、あれは僕がやったんだ」
「——いったい、何をやった?」


 レオナの話は、実に信じがたいことだった。

 彼は二週間前に、サリーナに面白いものがあると言われ、そして地下壕に連れて行かれたのだという。そしてそこで二週間あまり監禁されていた。食事と魔道書だけが与えられる場所で、随分と腹が減ったのだという。それだけではない。彼はどうも——普段から、食事を満足に与えられていなかったようなのだ。王宮内でレオナへの風当たりが強くなっていたことを知ってはいたが、それはファレナを妬んだレオナがあの日の怪我を負わせたせいだと私は理解していた。しかしまさか虐待に近いことをされているなど思いもよらなかった。サリーナは彼に、極限状態になることで力を発揮できるとかなんだとか、そんなことを語ったらしい。まったく馬鹿げているし、私は恐ろしくなる。

 そしてレオナは、監禁されながら退屈しのぎに与えられた魔道書を読み、そして——鼠と話をしたのだという。


「鼠と——? お前はもう動物言語が話せるのか?」
「鼠と、猫と、あと鳥とはもう話ができるよ。いろんなことを教えてくれるんだ」


 衝撃的だった。
 確かに学業の成績が良いと聞いてはいたが、もうそこまでの域に達していたとは。
 私は——本当に、レオナのことをほとんど知らなかったのだ。


「鼠が教えてくれた。僕が、もうすぐ殺されること」


 私は絶句した。自分が殺されるということを、この子は——あまりにもさらりと、そう言った。


「だから僕は、夜もあまり眠らなかったんだ。いつ殺されるかわからないから」


 そして今日も、そうだったのだという。昼過ぎ、レオナのもとに少し遅い昼食が運ばれてきた。いつものように檻の中から受け取ろうとしたレオナは——檻の中に伸ばされた長い槍で、食事を運んできた臣下に刺されそうになったらしい。しかしあらかじめ鼠から殺される可能性について聞いていたレオナは、間一髪でそれを避け——そして飛んできた槍に、触れた。


「そうしたら——槍が、砂になったんだ」


 レオナは興奮して、嬉しそうに語った。

 一瞬で砂になったことに驚いてひるむ男たちが後ずさると。レオナは両手で、檻に触れた。すると檻もまた一瞬で砂になる。男たちは慌てて逃げ出す。それからレオナは壁に触れ、扉に触れ、己を閉じ込めていたあらゆるものに触れ——地上に出る道すがら、あらゆる箇所を砂に変えていくと、建物の要となっていた箇所が崩壊し、雪崩が起きるように塔の地下は完全に崩れ、レオナが地上に出たと同時に、崩壊した——らしい。


「父上、僕はやっぱりすごいでしょう?」


 レオナのユニーク魔法は、そうして発現した。


 触れたものをすべて——砂にしてしまう魔法。

 
 ひとしきり喋ると、魔力を一気に使って力尽きたのか、それから三日ほどレオナは眠り続けた。

 その後レオナは、自分を地下に送り込んだのはサリーナだが、鼠の話によるとサリーナはベルガンサと通じていたらしいと言う。私は息子の唇から吐き出される言葉をすぐには信じることができなかった。しかし口封じのためか、それから二日ほどしてサリーナの独房に何者かが押し入り、彼女が殺されかけたのだと聞いて——私は半信半疑ではあったが、ベルガンサを問いただした。

 彼はあっさり認めたどころか——今回の事件は、私のためであるとのたまった。レオナの賢さや魔力の上昇は目に見えるほどになっている。このままではユニーク魔法が発現してしまうだろうが、それがどれほどのものかはわからない。もともと魔力量も増大で、かつコントロール力にも優れた彼がどんな魔法を見出すのかわからない以上、地下で隔離し、タイミングを見計らって暗殺するべきだと判断した、と。 

 ベルガンサはサリーナをそそのかし、召使いたちにレオナをあそこで暮らせるようにしたのだと言う。ベルガンサはレオナを殺そうとしたが、サリーナはむしろユニーク魔法の発現を望んでいたのだと言う。その上で、彼が優秀であることを証明し、彼を育てた自分を私に認めて欲しかったのだ。

 はじめからベルガンサはサリーナを利用し、レオナを殺した首謀者に仕立て上げるつもりだったのだろう。

 私は——父親として、まったくレオナのことを気にしていなかったのだとその時初めて気づいた。しかしもう遅かった。レオナの恐ろしいユニーク魔法の噂は一気に王宮内に広まり、やがてそれは王都へも広まっていく。彼の能力はすべて彼の恐ろしさを証明するための材料にされた。

 私は随分と迷った末——レオナに、魔力のコントロール方法を教えた。いつどこで暴発するか知れぬなど災害に等しい。詠唱を教え、詠唱によってコントロールすることで魔力量を調整することも教えた。


 レオナは飢え、そして乾いていた。

 
 それが何に対してなのか、私はまだ答えを出せずにいる。愛情なのか、名声なのか、地位なのか。私は父として彼をもっと褒めるべきであったのか、それとも深い愛で包むべきだったのか。

 いずれにせよ私がいくら庇おうとも、王宮の人々のレオナへの視線は鋭く尖っていくばかりだ。金で雇った家庭教師たちは腫れ物に触るようにレオナに物事を教えたが、それに呼応するように、レオナも少しずつ、じわじわと性格が変わっていった。


 いつの日からか、「嫌われ者の第二王子」と呼ばれるようになった。


 彼のそばにいて彼に心酔していたサリーナは投獄され、ベルガンサもまた同様に投獄した。王子への謀反だとしたが、それでも王宮内では「あのまま死ねばよかったのに」という声が上がっているのを私は知っている。

 あれほど賢かったレオナは、その力を発揮するのを恐れるようになり、そして成長とともに、卑屈になって、そして部屋に閉じこもるようになった。日がな一日暇つぶしのように本を読んで、チェスをしているようだった。

 式典には出なくなった。式典に出れば、誰しもが怖がってレオナに近づこうとしない。それがきっと彼にとっては煩わしかったのだろう。

 私が病に臥せってから、いっそうその色が濃くなったのだと聞く。それから私は、あえてレオナの問題に触れないようにしていた。私の方こそ、レオナを腫れ物を触るようにしていたのかも知れない。

 ただ怖かったのだ。彼の存在が、私の人生を否定するようであったから。レオナが批判されるのを見るたびに、私の完璧であった王としての人生の、たった一部分の子育てという点において、それが間違っていることだと否定されているような気がした。

 レオナは学校には通っているようだった。問題を起こしているのかいないのかも、私にもよくわからなかった。私の代わりにファレナがレオナの面倒を見ているらしいと聞く。あの子は立派な王になれると私は確信している。私が逃げたことと、あの子はきちんと向き合おうとしているのだから。


 ある夜、私は弾けるような音を聞いた。

 病床の窓から見つけたのは、夜空に飛び上がる火の粉で。いったい何事かと窓の向こうを見つめれば、深夜の広場で、一人で箒に飛び上がって、そしてマジフトの練習用の人形に向かって火の粉を飛ばしているレオナの姿があった。
  
 浮遊する人形を、あまりに的確に魔法で打ち倒し、そして遥か遠くのゴールにディスクを投げ入れているその姿を見て、私は胸が苦しくて仕方がなかった。

 いったいレオナはどんな気持ちで、深夜の広場にいたのだろう。王宮という檻の中で、きっとあそこは唯一のレオナの居場所だったのだ。

 レオナは箒の上に仁王立ちになっている。不安定な柄の上でもまっすぐにたち、そして遥か高くに飛び上がった。


 咆哮が聞こえた。


 遥か高くの空の上で、彼は叫んでいた。不公平な人生への嘆きか、己の強すぎる能力への怒りか、いったいなんなのかはわからない。

 父親だというのに、私にはそれがわからないのだ。


 カレンダーを見て、気づいた。
 今日は——レオナの誕生日だった。


 啼哭が悲しく響く夜空を見上げて、私はそして——静かに目を伏せることしかできなかった。





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4章◇因果

 

 この国には一つの伝説がある。

 それは創生の物語。神のいたずらによって人と獣が交わり、獣人という種族ができるさらに過去、夕焼けの草原にはライオンたちの、プライドと呼ばれる群があった。その群には二匹のライオンがいた。王と、その弟である。

 王は朗らかではあるが傲慢で、自分たちにとっていいように世界を作ろうとした。それを止めたのは弟である。弟は聡明で、賢く、そして不屈の精神を持っていた。弟であるからと慢心せず、努力を続け、そして国を正しい方向に導こうとした。ライオンだけの楽園を作ろうとした王を止めた弟は、日陰者であったハイエナにもきちんと居場所を与え、そしてどの生物たちも平和に暮らせるようにと知略を巡らせたらしい。彼はのちに百獣の王として歴史書に名を残し、王の名前と並んで崇められるようになる。

 遥か昔の神話である。

 神話というのは突如生まれるものではない。必ずその裏には正史があり、なんらかの事象に基づいたものであることがほとんだ。そして大概、そうした神話には教訓的なものだとか、後世のものに伝えたい何かというのがあるものである。歴史学者はこの物語を読み解こうとした。

 一説には、これは兄弟間の戦争を隠すための巧妙な歴史改変であるという話もある。物語の中で英雄視されている弟は実際には悪者で、そしてハイエナとともに兄に対して戦争を仕掛けた。しかしそれに失敗した上、王家というシステムそのものが悪く言われることがないよう、兄が歴史を改変し、「王家とは常に正しいものである」と事実を捻じ曲げたというものだ。

 また一説には、これは弟による夢物語であるという話がある。すべては弟による妄想であり、兄が死んだ後に自分が英雄であった事実を作り出すため、ハイエナたちを使って話をでっち上げたというのだ。この世界においてもまた、弟は悪者として描かれる。

 いずれにせよ、王家というシステムが正しくあるためには、兄という存在は正しくある必要があった。どのような物語があるにしろ、その裏側にある事実がなんにせよ、神話そのものが弟が正しければ、読み解いた歴史は逆に兄が正しいとされるべきだった。これで事実はうやむやになり、人々の印象も変わってくる。

 善と悪は物語においては明確化されるが、事実そうしたことは一般社会においては成り立たないことがほとんどだ。物事に明確な白黒をつけるのは難しい。兄が正しいのか、弟が正しいのか、それはどの立場によって物事を考えるかによって変わってくるものだ。だからこそ人は悩み苦しむ。

 ハイエナという種族は本来ライオンの天敵である。しかし神話の弟はハイエナを傘下とし、嫌われていたハイエナすらも国に招き入れた。ハイエナからすればそれは和平条約であるが、しかしそれはライオン側から迷惑極まりない。両者は二分するし、話は平行線を辿るしかない。

 やがて兄側の血筋が後世に色濃く残るようになると、ハイエナはスラムに追いやられることになる。これによって国民たちは安寧を手に入れたが、一方でハイエナたちは苦しい生活を強いられた。果たしてこれが正しい形なのかは、誰にもわからない。

 もはや夕焼けの草原は獣人だけの国ではなくなっている。他国の血筋も入ってきたし、他国の移民もいる。人間だって暮らしている。そうして多様化した社会においては、いっそう何が正しくて何が間違っているのか、誰にもわかりようがない。

 ではそんな時——王とはどうあるべきなのだろうか。ライオンだけの国であれば、ライオンだけに利があるように政治を行えばいいだろう。しかしもはや国はそうではなくなっている。あらゆる種族が平等に、平和に暮らすことができる社会をどう作っていくか。もしかするとそれは伝統からの脱却である必要があるのかもしれないし、他者の排除であるかもしれない。いずれにせよ、変革の時が来ていることは誰しもが肌で感じていた。

 他国との貿易が盛んになってよその国の文化が入ってくれば、当然変化が起きる。変化の中で、変化についていけぬ者もいるし、ついていける者もいる。しかしどうにも、伝統を重んじる上流階級の者や王家は、いまだに歴史を捨て去ることができない。伝統を守らざるを得ない環境に、自らが収まってしまっているのだ。

 変化が起きるためには——価値観を揺らがせることだと、男は思う。

 かつての弟王がハイエナを仲間にしたように。ここはもうライオンだけが威張りちらすプライドではない。ライオンは野生においてはその力と牙で食物連鎖のトップに君臨し続けたが、この世には他にも種族が多くいるのだ。一匹のライオンは十匹のハイエナに勝つことができないように、いつだって何かしらにおいて、最弱もなければ最強もない。そんな時代はもう古い。

 男は沈みゆく夕陽を眺めて、かつての面影を探した。

 真っ赤に燃えたぎる太陽だけは、あの頃と何も変わることなくあり続けているし、あの頃と同じようにこの国を照らし続けている。太陽とは獣人の短い歴史などより遥か長い間、こうして輝き続けているのだ。それだけはきっとこれまでも、これからも絶対に変わることがない。

 しかし、時代は変わった。

 もしもすべてをやり直せるとしたら、果たして自分はどうするだろう、と思う。何が間違っていたのか、何が正しいのか、男にも実のところよくわからない。だから迷う。どれだけ月日が経とうとも、どれだけ歴史が流れていこうとも、きっと悩み続けるのだ。ただ一つだけ——人の世は短い。その中で何か一つでも、己が生きた誇りを持つことができれば、死ぬ瞬間に後悔などすることはないのだろう。

 男の緑の瞳に映る夕陽は、変わらず赤い。


 ◇◇◇

 
 ひどい場所だ、とレオナは顔をしかめた。

 あたりは雑多でうるさい。おまけに饐えたような匂いがするし、小さい虫があちこちを飛び交っていたり、通り過ぎる人々はどこかしらが薄汚れている。どこからともなくウィンドチャイムの音がからからと鳴っていて落ち着かなくて、レオナはフードを目深にかぶって、そして小さくため息をついた。

 王妃が死んで、あんな事件が起きて、王宮でのレオナの立場は悪くなる一方だった。どれだけ努力をしても兄と比べられ、何かをしても陰口を叩かれ、あんなことがあってからはレオナに積極的に近寄る者もおらず、話しかけてくるのはうっとおしい兄だけだ。

 兄はといえば何があったのか、レオナに妙に構うようになった。まるで自分は懐が深く王にふさわしいのだと証明するかのようなその振る舞いが、レオナにはいっそう憎らしい。当てつけのように感じて無視をすれば、今度は周囲の者が「これだからレオナ様は」
と陰口を叩く。そしてそれを兄が咎めれば、「やはりファレナ様はお心が広い」と噂される。悪循環である。

 そしてレオナはついに、王宮を飛び出した。喜ぶべきか悲しむべきか、追っ手は来なかった。大方どこかでのたれ死んでくれた方がマシだとでも思われているに違いない。レオナはあてもなくさまよい、途中街でリンゴを買ってかじったりしながら、王都を見た。

 なんだか妙な感じがした。

 途中馬車の荷台に飛び乗ったり、箒に乗ったりしながらあちこちをあてもなくさまよって、やがてたどり着いたのはスラムの端だった。視察などで外出したことはあれど、スラムに来るのは初めてだった。むしろ行くことを禁止されていたのである。だからこそ、余計に行ってみたいという思いがあった。半ば反抗である。

 スラムの人々はレオナをちらちらと見てくる。そしてようやく気づいた。ここにいるのは、ほとんどがハイエナだった。

 レオナは乳母であるサリーナからよく聞かされていた。かつての百獣の王は、嫌われ者のハイエナすらも仲間に引き入れたのだ、と。話を思い出すたび、レオナは自分と同じなのではないかと考えた。自分も王宮では嫌われている。とすれば、ハイエナとなら仲間になれるのではないか、と。

 そんなわけはなかった。ハイエナたちはレオナを訝しげに見て、そしてぞっとするほど冷えた目をしていた。そこにあるのは憎悪だ。レオナはそこでようやく気づく。レオナという個であるならまだしも、彼らにとってはライオンという種族こそ、憎むべき対象なのであると。

 レオナはそしてここでもなんだか妙な居心地の悪さを感じながら、路地裏の陰でじっとしていた。

 リンゴはほとんど食べ終わっている。それをぽい、と捨てると、ため息をついた。まったく、これからどうすればいいのだろう。飛び出してきたもののあてもない。癇癪を起こすように出てきたはいいが、それでもレオナにとっては王宮しか帰る場所はない。どうせ夜に戻ったとしたって、もしかすると誰もレオナが不在であったことに気がついていないかもしれない。


「あ! いいもんめっけ!」


 ため息をついた、その時だった。
 不意に、妙に明るい声がして。


「シシシ、やった!」


 目の前に。薄汚れた、ハイエナの子供がいた。その子供は嬉しそうに——レオナがほっぽったリンゴの芯を手に取ると、そのままぽいっと口に入れてしまった。


「ッ——!」
「あまっ!」


 嬉しそうに笑って、ハイエナは鼻歌でも歌いそうな雰囲気だ。ガリガリと、りんごの芯まですっかりかじって飲み込んでしまった。


「お前、今——!」


 レオナは思わず立ち上がった。それは自分の食べかけ、というか、ゴミである。このハイエナはゴミを拾って食べたのである。あまりにも——あまりにも衝撃的で、そしてレオナは言葉を失ってしまった。


「あれ、なんか変だと思ったら、あんたライオン?」
「っ——」
「しかもおぼっちゃんぽいなあ。ここだと危ないッスよ? てかリンゴ、あんたの? ごちそーさんっ」


 ハイエナはぺろ、と唇を舐めて、そしてここにいると危険であることを教えてくれた。どうにもライオンがいることで、スラム全体がざわついているのだという。


「ここはまだ入口だから大丈夫だけど、でもこっから先に行ったらわるーい人に連れてかれちゃうかもだから、とっとと消えた方が身のためッス。てかなんでこんなとこ来るかなあ。あそびにきたの? んなわけないか」


 よく喋るハイエナだな、と思った。レオナは何も言えずにいると、つい、とハイエナが近づいて、そしてレオナの目をじっと見た。


「すごい傷ッスね、それ。あんたもワケあり?」


 左目に走った傷のことを言っているのだろう。レオナは「別に」と答えた。ワケありといえばワケありだが、説明する義理はなかった。


「ふうん。ま、この辺には怪我した奴らも珍しくないからまだいいけど。多分あんた、その傷のおかげでまだ襲われてないのかもね」
「どうして?」
「ハイエナにとっちゃ、左目に傷のあるライオンって、なーんか特別なんじゃないの? くわしくは知らないけど」


 そしてハイエナは楽しげに笑って、そしてどこかに消えていた。

 レオナはそっと、左目の傷をなぞる。自らつけた勇敢の証は、あの乳母の話の伝説の百獣の王と同じなのだという。もしかするとあのハイエナはそのことを言っていたのかもしれない。

 ため息をついて、徐々に色が変わりつつある空を見上げた。スラムからは、空があまり見えない。重なっている屋根からぶら下がっている洗濯物や、ウッドチャイム、何やらよくわからない吊るされた干し肉やら何やらで、青空が遮られているのだ。遥か遠くに見える薄桃色に染まりゆく空を見つめて、夕暮れだけ見て帰ろうと思い立った。なんとなく——この場所で見る夕焼けは、普段見るものとは違うような気がしたのだ。  


 レオナはそして少し歩くと、やけにひらけた場所に出た。そこには不思議と建物などはなく、いくつか石が並んでいるだけだった。

 あまり人がいないそこはレオナにとってはなんだか落ち着けるような気がして、石の上に腰掛ける。積み上がったゴミなのか何なのかよくわからないものはあったけれど、ずっと遠くの地平線がよく見えた。 

 そこからは——太陽が沈んでいくのが綺麗に見える。


「っ——」


 そしてレオナは気づく。ポケットに入れていた、小さな巾着がないのだ。どうも体が軽いと思った。幸いにも入れていたのはハンカチと幾らかのマドルだけだったから、大した問題ではないけれど。それでもなんだか悔しくなった。


「——あの時、」


 ハイエナの子供が、一歩近づいたその瞬間。きっと彼にスられたのだ。そう気づくと、レオナはなんだか複雑な気持ちになった。

 あの子供は多分、自分よりも少し若いくらいだろう。体は随分と痩せこけてちっぽけで、髪もガサガサで、肌も薄汚れていた。しかし彼からは不思議と生命力が漲っていた。あんな子供でも、迷い込んだライオンから搾取しようとスリまで働いたのである。逞しいことこの上ない。

 あの子供は、なぜあんなに楽しげに笑ったのだろう、と思った。灰色がかった薄青い瞳は、まるで青空のようにも見えた。こんな過酷な場所でも、ハイエナは楽しげに生きていた。レオナは王宮であんなにも息苦しいというのに、それがひどく悔しかった。


「苦しいか」


 不意に、低い声がして。
 反射的に振り返ると。
 真っ黒なローブに身を包んだ一人の男が、そこにいた。


「レオナ・キングスカラー」
「ッ——」


 途端、レオナの体に緊張が走る。全く気配がなかった。レオナはフードを目深に被っているし、いくら匂いでライオンだと分かったとして、レオナであるという根拠などどこにもないというのに。


「そう怖い顔をするな。別にとって食いやしない」


 くつくつと笑って、そして男はじっと、地平線の向こう、真っ赤に燃えている太陽を見る。


「家出をしたんだな」


 レオナは答えない。


「なぜだ」


 男はレオナを見ない。
 ただ沈みゆく夕陽を受けて、静かに佇んでいる。


「嫌われているからか。第二王子だからか。王宮では息ができないからか。それとも——全部か」


 レオナは唇を引き結ぶ。
 男は笑った。


「いつ見ても——ここから見る夕陽は美しい。世界を全て赤く燃やすように照らす太陽は、沈んでまた再び登る。世界には自らを太陽と評する王もいるらしいが——全く愚かしいことよ。何者も自然には勝てまい」


 男はふう、と息を吐いた。
 すると——夕陽にわずかにかぶさっていた、細く伸びた雲が。いつの間にか風に流されるようにして消えていく。
 レオナは夕陽と男を交互に見た。
 まるで魔法だった。
 いったい——何をしたのだろう。


「せっかくなら美しく見たいだろう?」


 男は満足げに笑って、そして——レオナの隣の石に腰をかける。


「ここには、なぜ人がいないと思う?」
 

 男の指先は、つるりと腰掛けている石を撫でた。


「ここが——ハイエナの墓場だからさ」

「っ——」
 

 レオナは思わず立ち上がった。辺りを見回す。だだっ広い場所には、いくつか石が並んでいるだけだ。


「お前の知っている墓は——そうだな、美しい芝生に囲まれて、大きな石が立っていて、そしてその石には名前が彫られ、花の冠がかかっている——そうだろう?」


 レオナは静かに頷いた。


「それが——格差だ」

「っ——」

「ハイエナにとっちゃ、死んだ者の供養に金なんぞかけていられない。それなら明日自分が生きることを考える。だがだからといって、彼らが先祖をないがしろにしているわけではない。墓は質素だが、奴らは何かあると必ずこの場所に来て——祈る。夕陽が見えるこの場所は、特別だからだ」


 男はどこか懐かしそうに笑った。


「死んだものを弔う気持ちに差があるわけはない。人の死はこの世において唯一平等に起きる事象だ。だがその埋葬方法には格差が生まれる。何が幸せかなんて誰かに決められるべきものじゃない。だがお前たちライオンは——これを勝手に憐れむ」


 レオナは息を飲んだ。
 考えたこともなかった。


「お前には——力がある。賢く、勤勉で、そして思慮深い。不屈の精神もあるし、何より強大な魔力の持ち主だ。何が不満だ?」


 レオナはそして、ようやく口を開いた。


「力があっても——なんの意味もない」


 むしろ力があったからこそ、レオナは王宮において嫌われてきた。恐ろしいユニーク魔法のせいで、恐れられていた。もし第二王子でなければ、この力は国の宝だとされていたかもしれないのに。

 男はレオナの嘆きを聞いて、声を上げて笑った。


「なるほどそうか——贅沢な悩みだ」
「っ——!」


 男は夕陽から視線をそらして、そして——レオナを見た。


「それはお前が——檻にいるからだ」
「檻?」
「王家という檻——第二王子という檻」


 意味がよくわからなかった。レオナはじっと男を見る。


「しかもお前の場合は窓すらない独房だな。檻であればある程度外の世界は見えるだろうが」


 男は楽しげに笑う。


「狭い。実に狭い! この世界にいったいどれだけの国があって、どれだけの種族があると思う? 無数だ! お前の知らぬ世界がここには溢れている。お前はなんでも知った気になって、そして狭い檻の中で狭い狭いと嘆いている。全く馬鹿ている」


 男の口調が馬鹿にしたようなものになったので、レオナはぎり、と睨んだ。


「いい目をしている——そう、世界を憎んだっていい。不平等な世界を怒ってもいい。だがそれは——もっと広い世界を知ってからにしろ。それでは家の中で鳴いている猫と変わらん」


 男は笑って、そして再び夕陽を見た。


「これは——お前の業なんだ」


 赤く燃えている太陽は、とろりと溶けている。世界はいつの間にか黄金色に染まり、男が再び数度息を吐くと、あたりに散っていた雲はまたしても消えていく。


「かつて——この世界には、お前と実によく似た境遇の男がいた。彼もまた第二王子で、そして随分と苦しんだ。ライオンという圧倒的に強い種族でありながら、彼はそのことを忘れ、ただ王になれぬことを恨んだ。世界が狭かったんだ——やがて彼は王の座を手に入れようと画策するが——彼には他の世界が見えてなかったんだな。この世界には他にもたくさんの種族がいて、それぞれがそれぞれの役割の中で生きている。王になるのならば、それらの種族にも目を配らなくちゃいけなかった。しかし彼は檻の中から出られずに、広い世界を見ようとしなかった」

「それで——どうなったの」 


 レオナの問いかけに、男は可笑しそうに笑う。


「食われたよ。ハイエナにな」

「っ——」


 ぞっとした。背筋が冷える。ライオンの方が、ハイエナよりもずっと体格がいい。この国においてはライオンが強者で、スラムで暮らすハイエナは弱者だ。
 
 しかし——食われたというのか。本当に。


「奢りだ。ハイエナが群になればライオン一匹くらい、どうってことはないんだ」


 男はしみじみとそう言って、そして再び夕陽を見た。


「これは私の業であり、お前の業でもある」


 あたりは徐々に薄暗くなっていく。男の声は空気に震えて、レオナの耳にまっすぐに届く。


「一体どういうわけか、神のいたずらなのか、妄執がなせる技なのか——お前もまた第二王子として生まれた。これは業なんだ。受け入れるしかない」

「なにを——」


 男の言っている言葉が、レオナには理解できない。
 しかし男はどこか、まるで自分に言い聞かせるように言葉をつないでいく。


「受け入れて、広い世界を見るか。卑屈になって、閉じこもるか。それによってお前の運命は二分される」


 男はレオナの前に、二本の指を突き出した。


「広い世界を見つければ——業は浄化されるだろう。だが閉じこもれば——かつてのある男のように、お前に待ち受けるのは地獄だ」


 ひゅう、と喉が鳴る。男の声は低く、太く、そして地を這うようにしてレオナの耳に響く。

 気づけば——夕陽は沈んでいた。

 反射的にレオナは立ち上がる。恐怖がせり上がって、それでも男から目を離せない。


「お前は——どう生きる?」


 そして男は、レオナの方を向いて、フードをばさりと落とした。


「っ——」


 男の目は、緑色に輝いて。
 左目には、まっすぐに。傷が走っていた。

 男はそして指を突き出し、何かを唱えた。きらきらと緑色の魔法が散って、レオナの周りをぐるぐると巡っていく。


「あ——ッ!」


 じわじわと訪れつつある夕刻の中、レオナは震えていた。声が出せない。目の前の男は楽しげに笑うばかりだ。



「お前に呪いをかける。今から十年後——二十歳の誕生日の日、檻から抜け出せていなければ——お前は死ぬ」



「————!」



「狭い場所から抜け出せ。王家の、家族以外の居場所を見つけるんだ。あんな場所にいたところで、お前の人生は先が見えてる。いいか。檻から出るんだ!」


 男の瞳は、ギラギラと輝き続けている。
 はくはくと息をすることしかできず、レオナは目をそらすことができない。男が放った魔法は、やがてとぐろを巻いて、そしてレオナの心臓にまっすぐに突き刺さった。


「二十歳になったその瞬間、お前は深い眠りに落ちる。家族以外の人間に心からお前のことを祝う気持ちがなければ——お前はもう、二度と目覚めることはない」


「っ——」


「それまで必死に生きろ、檻から抜け出せ! そして気づくんだ、この不平等な世界を、どう生きるか!」


 男はそして、嗤った。


「生きてみろ。レオナ」


 あたりには闇が落ちている。
 男が指先を振ると。
 気づけば視界がぐるりと回って。



 目を開けた瞬間、そこは王宮の入り口だった。

 男の姿はもうない。 
 レオナはただ、浅い呼吸を繰り返すばかりだ。

 突如現れたレオナの姿に、近衛兵たちはギョッとして。そして何か恐ろしいものを見たような顔をして、「どちらへ行ってらしたのですか」と問うた。
 
 レオナは答えなかった。

 わけがわからなかった。なんだかとても悲しくて、苦しくて、どうしようもなかった。今まで信じていたものが突如壊されたかのような、そのくせとんでもない難問を押し付けられたかのような、そんな気がした。

 レオナはそして、行き場のない感情を吐き出すようにして、マジフト場に駆け込む。誰もいない。箒に飛び乗った。練習用の人形を取り出して、次々に魔法を打ち込む。言いようのない怒りが、悲しみが、嘆きが、焦燥がレオナを襲っていた。何かをしていなければ、その情動に殺されてしまうような気がした。

 食事をとることも忘れて。
 一体どれだけの時間そうしていただろう。

 肩で息をしながら、レオナは高く飛び上がる。いつものように、かつて兄が怪我をしたあの時のように、柄に両足を乗せて、どこまでも高く高く、夜空に向かっていく。
 
 どれだけ上昇したろう。
 ふと、下を見下ろした。


「あ——」


 どうしようもなく悲しくなった。
 遥か高みから見下ろす王宮は——悲しいほどに、ちっぽけだった。

 レオナは吠えた。広く、どこまでも広く続いている夕闇の空に向かって。広い国の中の、あまりにも小さな王宮の存在を遥か眼下に据えて、そしてレオナは叫んだ。体の中が熱くて、苦しくて、涙がこぼれた。

 目覚めたのが怒りだったのか憎しみだったのか、なんなのかわからない。ただわけもわからぬ熱い感情に苛まれるようにして、レオナは途端——自分が途方もなく小さな存在であると、認識したのだった。


 因果はそして、巡っていく。







─────────────────────────

終章◇焼けゆく目覚め



 なんの感慨もない、と思った。

 ラギーが出て行った後の部屋で一人、レオナはぼんやりと天井を見上げている。随分と長いこと、あの日のことを忘れていた。幼い頃の約束などその後の人生を過ごしていれば完全に記憶の外に出る。あの日の出来事が果たしてレオナにどれだけ影響したかといえば——忘れているぐらいだ、たいして影響はしていないだろう。
 
ただ思い返せば、なんとも理不尽に振り回されたものだ、と思う。兄にも、乳母にも、父にも、レオナは正直もはやあまり感情がない。苛立ちはするし闇を発露することもなくはないが、もはやレオナにとっては割とどうでもいいことだった。

 では己の生きている意味とはなんだ、と考えて、あまりにもらしくなくてやめた。そういうめんどくさいことは考えるだけ馬鹿らしい。どれだけ騒ごうがレオナが王になることはもうないのだし、この学園での生活はそれなりに気に入ってもいた。

 王宮から出て、なんとなく監視されているような日々から抜け出して。学ぶことは別に好きではないけれど、マジフトはまあ面白いとも思う。学友たち——別に友とも思ってはいないが——もそれなりに変人が多いし、妙なことに巻き込まれはするけれど退屈はしない。

 ウッドブラインドの向こうの空を見る。漆黒の闇に、ぽつりぽつりと星が瞬いて、そしていびつな形の月が浮かんでいた。あの日に見た夜空も同じだったろうか、と思い返して、そんなことは覚えているはずもないと一人で笑った。


 ——悪くはなかったか。


 思い出したのがつい先ほどのことなので、今更抗うのもなんだか面倒だった。というか、あと数分で日付を超えてしまうというのに、今更右往左往しようもない。

 ふかふかとした柔らかなベッドで、レオナは一つあくびをこぼした。

 悪くはない人生だった、と。自然とそう思うことができている。多分十年前、あの瞬間自分の人生は最悪だと思っていたのだろうが、まあ色々とあったけれど、今こうして穏やかに眠りにつこうとしていることはそう悪いことでもあるまい。

 幸福であったか、と言われればそうでもないと思うが、不幸であったか、と言われるとそれも違う。

 まるで走馬灯のように、様々なことが思い出された。学園でのことは、多分、レオナにとってそれなりに愉快な思い出だった。


「寝るか」


 ぱちん、と指を鳴らして、部屋のライトを消した。さわさわとした心地よい風に少しだけ笑って、そしてレオナは、目を閉じた。



  

 どこまでも穏やかな、夢を見た。
 



















「レオナさん!」


 体を揺すり起こされて、ハッと目を開ける。目の前には妙に心配そうな顔をしたラギーがいて、レオナの顔を覗き込んでいる。


「——あァ?」


 吐き出された声は掠れている。不意に外を見る。真っ赤な夕焼けが、今沈もうとしていた。


「やーっと起きた! ったく、流石に寝すぎッスよ!」

「は——?」


 目をこする。頭が混乱している。ラギーは腰に手を当ててため息をついている。


「あのねえ、確かにオレ用事あるから朝起こしませんよって言いましたけどね。だからって夕方まで寝てるとかあります? いやねーッスわ。普通腹へって目覚めたりするもんでしょ。夜更かししたんスか?」

「——ラギー」


 ゆるりと体を起こす。妙に重くて、ぐ、と伸びをした。寝すぎたのか、頭がぐらぐらしている。


「今日は、何日だ?」

「は?」

 
 ラギーはキョトンとして、そしてじ、とレオナの目を見た。


「ちょっと寝ぼけすぎじゃありません? てか本当に寝てたんスか?」

「うるせえ。いいから今はいつだ」

「はいはい、今日は七月二十七日ッスよ」


 はた、とレオナは目を見開いた。こめかみを揉んで、ベッドの上で考え込む。混乱している。なぜ、どうして、レオナは何の対策もしなかった。ただ静かに人生を思い返しながら、いつものように眠りについただけだ——。

 眉間にしわを寄せるレオナに、ラギーはやれやれとため息をついた。


「まあ寝ぼけてるのはいいんスけどね。腹減りません?」
「——減った」
「と思いました。ほら、飯作ったんで行きますよ」


 ラギーはそして、シシシ、と楽しげに笑った。


「どこに」
「食堂に決まってんでしょ」


 レオナは尻尾を揺らした。いまだに状況をよく理解していない。 


「はあ?」
「さ、いいからいいから。ほら着替えて」
「——めんどくせえ」
「実践魔法で着替えられんでしょ、早く」


 なぜだかそわそわしているラギーに、半分寝ぼけながらレオナはめんどくさそうに返すと、言われた通りに着替えた。

 部屋を出る直前、落ちかけた夕陽がやけに眩しくて、レオナはほんのわずか目を細めた。


「飯くらい、俺の部屋でいいだろ」


 吐き出す文句を無視して、ラギーはなんだか楽しそうにしている。寮を出て、夕焼けに染まった校舎を駆ける背中で、尻尾がゆらゆらと揺れている。

 なんだか——胸の奥が、不意にくすぐったくなった。その後ろ姿は——あの日に見たハイエナの子供と、重なった。
 
 やがてラギーと二人、食堂にたどり着く。


「ほら、早く」


 背中を押されて、扉に触れて——開けると。 




「「「「寮長! 誕生日おめでとうございます!」」」」




 パン! と弾けた音がして。


「は——?」


 次の瞬間、レオナは——あらゆるものにまみれていた。紙吹雪、シャボン玉、花びら、キラキラしたよくわからない粉——あらゆるものによってカラフルになった視界の向こうで、有象無象が大笑いしている。


「いえーい! サプライズ大成功ッス!」
「寮長おめでとうございます!」
「すげー! やば!」
「レオナ先輩でもあんな顔するんだな」
「びっくりした猫みたいだったわよ」
「今のレオナくんの顔まじサイコーだったからあとでマジカメあげとくね!」
「悪いなレオナ、ケーキたくさん作ったから食べてくれ。くくく」


 次から次へと浴びせられる声。食堂に集まっている寮生に、面白がっている他寮の面々。そしてレオナは突然のことに、怒ることも忘れて口を開けて立ちすくんでいた。


「あらら、レオナさんびっくりしすぎて固まってら。ちょっとまさか自分の誕生日忘れたとかじゃないッスよねえ?」


 ラギーは楽しげに笑いながら、紙吹雪まみれになったレオナの髪から金色の欠けらをとっている。


「ラギー——これは——なんだ?」

 
 思ったより低い声が出た。しかし集まった面々はレオナになんかおかまいもせず、なんだかあちこちで勝手に乾杯したり食事を始めたりしている。


「いやあ、レオナさんの誕生日どうしよっかなって寮生と話してたんスけど、きっと王宮でいろんな祝われ方してるだろうし、ここは予想外のサプライズっしょって。最初は顔面ケーキにしようかと思ったんスけど、それは勿体無いんでオレが却下したんス。感謝してほしいッスねえ。でないと今頃レオナさん、顔面ケーキまみれッスよ」


 ペラペラと喋るラギーはレオナの顔まわりを整えてやりながら、それを聞きつけたカリムが「せっかくの誕生日なら宴にしよう」と言い出し、あれよあれよという間に人が集まったのだと話した。


「ま、寮長の誕生日だからって直談判したら学園長が真夜中まで騒ぐのOKしたんで、みんな騒ぎたいだけかもッスけどね」

 
 ラギーの言葉に、何かを言いかけると。


「寮長! 誕生日おめでとうございます!」
「普段横暴だし偉そうだけど、でも俺ら寮長のことなんだかんだ尊敬してるんで!」
「うわお前やめろよ砂にされるぞ」
「あとぶっちゃけラギーさんの飯が食いたかった!」
「ラギーさんこの肉めっちゃうまいっす!」
「寮長! お祝いに寮長のいらなくなったアクセほしいです!」
「あ、お前ずりぃぞ」
「てかお祝いにお前がもらってどうすんだよ!」


 げらげらと大笑いしながら、寮生たちは楽しげにしている。ラギーはシシシ、と笑って、そしていまだなんとなく空気に馴染めずにいるレオナに、料理を取り分けてやった。


「ラギー、お前用事があるって」
「そりゃこんだけの量作るんだから、朝から大忙しッスよ!」


 レオナはきょとんとラギーを見下ろした。


「なんでだ?」
「え?」
「マドルでしか動かないお前が——なんで、」


 浮かぶのは疑問符ばかりだ。しかしラギーはなんだか複雑そうな顔をした。


「アンタ、オレのことなんだと思ってるんスか」
「金の亡者」
「そりゃ、まあ間違ってないッスけどね」


 ラギーは頰をかいて、そしてなんだか妙に晴れやかな顔で笑った。


「レオナさんさ、意外と——ちゃんと寮長してるじゃないスか」
「はあ?」


 ますますもって意味がわからない。


「アンタは気づいてないかも知んないけど」


 そしてラギーは、話し始めた。

 サバナクロー寮所属になった新入生の一般人が、上級生の貴族にいじめられていた時。種族は関係ないから魔法で勝負しろとマジフト場を貸し出した。ボロボロに負けた新入生に、ここは弱肉強食だから悔しかったら強くなれとレオナは言った。それからその新入生は再び上級生に挑んで勝ち、自信をつけてマジフト部に入部したこと。

 またある時、成績が悪くて談話室で悩んでいた二年生に、別に成績が悪かろうが死ぬわけじゃねえだろと励まして、その場で親からの怒りの手紙を砂にしたこと。

 そしてまたある時、寮生が他寮の種族主義の上級生に「下等動物」だと馬鹿にされたと知るや、怒鳴り込んでマジフト場に連れ出し、完膚なきまでに叩きのめしたこと。


「そんで、オレが誕生日だっつったら、自分のアクセサリーくれたじゃないスか」

「そんなことあったか」


 レオナはすべてすっかり忘れていた。というかそれらはすべて寮長だからやったことではなく、ただレオナが気にくわないからやっただけのことである。

 そういうと、ラギーは笑って「そういうとこッスよねえ」と言った。


「まあでも、なんかレオナさんにその都度めっちゃお礼言うとか、みんなできないみたいで。んで誕生日もうすぐだって教えたら、それならそこで礼を言いたいってさ」
「——寒気がする」
「まあまあそう言わずに」


 なんだか不思議な心地だった。

 ラギーが取り分けてきた皿の肉をつつきながら、レオナはふと顔を上げる。レオナの誕生日にかこつけて、ただ飯を食って騒ぎたいだけの奴が大半だろう。それでもなんだかこのうるささは、悪くないな、と思えた。


 不意に、心臓のあたりがぎゅう、と苦しくなる。


 いったいなんだ、と。息を詰まらせていると。


 突然、レオナの胸元からきらきらとした緑の魔法の輝きが溢れ出してきた。目を白黒していると、輝きはやがて小さな丸い光の球になる。


 それはレオナの目の前で何度か明滅し、そして——勢いよく、食堂の天井高く舞い上がった。


「——なんだあれ?」
「お?」
「なんか光ってるぞ」


 集まった面々が、天井を見上げると同時に。


 くるくると回った光の球はそして、食堂の天井いっぱいに広がる、大きな花火となった。勢いよく輝いた光はそして——きらきらと散っていく。


「へえ、誰の魔法だろ。綺麗ッスねえ」


 飲み物を取ってきたラギーが、空を見上げて感心したように言った。緑の輝きはやがてきらきらと振り注いで、そして空間全体に散らばった。あたり一面が、美しい緑の輝きで満ちていく。


 レオナはその輝きをみて。
 随分とおだやかに——ふ、と。
 笑った。


「大昔の——伝説の男の魔法だ」
「え、なんスかそれ」
「——ラギー、もっと肉」
「はいはい」


 ラギーをいなして、レオナは落ちてきた緑の輝きを捕まえる。手の中で空気に溶けて消えていくそれを見つめて、なんだかやけに、すっきりしたような気分になった。


「呪いなんざ効くかよ」


 そしてレオナは、馬鹿馬鹿しい、と嗤った。今までもこれからも、レオナは信じたいものしか信じないし、やりたいことしかやらない。それでいいと思えた。それこそが自分であると思った。



 胸の奥が、すっとした。



 それから、日付が変わっても馬鹿騒ぎは続いた。結局大半の寮生が食堂で夜を明かして、朝方、レオナは机に突っ伏した状態から目覚める。

 食堂に降り注ぐ朝日は黄金色をしていて、眩しさに目を細めた。昨日と今日で何かが変わったわけではない。それでも見回すと、宴のあとのひどい惨状がなんだか笑えて、レオナはらしくもなく吹き出した。


 たとえあの男が誰だろうと、レオナが何者であろうと、こんなことは些細なことなのだ。レオナの運命がそう簡単に、誰かに左右されるようなことはありえない。

 けれどレオナの傷跡が、呪詛が、啼哭が、たとえ因果を巡っていたとしても。
 そんなものはすべてはじき返してやると、今なら笑える気がする。


 そして吸い込んだ空気は。
 不思議とやけに、透き通っている気がした。

                         fin.
        















太陽を食べようと空で息継ぎをした
レオナ・キングスカラーの半生について。
002
2024年4月19日 08:30
ゆう
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