今回は『それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』のときに一緒に買った本最後の一冊です。出版当初から気になっていたんですが、ようやく読めましたね。

 本書は著者が勤める甲南大学での「ファシズム体験授業」の記録、その背景を記したものになっています。

うすら寒い重なり

 本書の長所の1つは、ドイツにおいてナチズムが広まった経緯を簡単に説明しておりナチス入門としても使えるところでしょう。ナチスの蛮行を知っている人でも、私を含め実はこの辺の経緯をあんまりはっきり知らない人は結構多いでしょうから。

 ナチスと独裁を語るとき、たいていの場合は「プロパガンダによって騙された国民が」とか「軍事力によって弾圧を」といった独裁制ステレオタイプのような語られ方をします。しかし、近年の研究ではドイツ国民が自ら進んでナチスを支持していった「合意独裁」としての側面が明らかになってきました。

 なぜ、どのようにしてドイツ人はナチスを支持していったのでしょうか。その背景をみると、現在の日本との「うすら寒い重なり」のようなものが見えてきます。

 ドイツにおいて特に顕著だったのが、労働者を持ち上げ知的階級を貶めるという手法です。要するに「真面目に働いている庶民」の味方であると装い、一方で批判的な学者たちを「何も生み出さないのに偉そうな人々」として軽視する戦略をとったわけです。文系的な学問を軽視するいまの政府の姿勢や、インテリを仮想的としてポピュリズムを煽った維新的手法と重なるところがあります。

 もっとも、日本における重なりのうすら寒さは、ナチスとの一致点よりもむしろ相違点にあります。というのも、ナチスは当時まじめに働く庶民のために観光地を整備したり格安の自動車を作る計画を立てたりと、労働者に報いる政策をとっていました。つまり、庶民にとってナチを支持することには一定のメリットがあったわけです。

 一方、日本のポピュリズム政治家の政策は悉く労働者の不利益になるものばかりです。労働基準法を緩めて労働時間を長引かせようとしたり、行為面からみれば庶民の味方というより敵になっているわけですが、庶民が支持しているというのはなかなか恐ろしいことです。

 もう1つ、ナチと現在の日本が重なるところは、権力者の「日常性」ともいうべきものを前面に押し出し支持に繋げようとする姿勢があるところです。ナチスはヒトラーの写真集を発売し、これは著者曰くどんな家庭にも一冊はあったのではというほど売り上げました。

 今年の春ごろ、コロナ禍真っただ中で呑気にテレビを見る動画をアップロードして盛大に批判された安倍総理ですが、最近の体調不良報道への反応を見るに、あの動画は批判者以外にはヒトラーと同じ「権力者の日常性」として捉えられ「安倍さんも大変だから……」的な理解をされているのだと思われます。

 もっとも、ここでうすら寒いのはやはり相違点でしょう。安倍首相は写真集が発売されるほど愛されてはいません。そうなっているのは天皇始めとする皇族です。要するに我々の国は戦後を経てもなおヒトラーの戦略と同じことをやっているわけで……。

権力者のお墨付き

 ファシズムの体験授業、そしてナチスを語るうえで外せないのが、権力者のお墨付きによる暴走です。

 ドイツで著名な事例はやはり「水晶の夜」と呼ばれたものでしょう。ナチスの宣伝相ゲッペルスの扇動的な演説によって各地のナチ党員がユダヤ人住居やシナゴーグを襲撃、多数の死者や逮捕者(逮捕されたのはユダヤ人のほう)を出した事件です。

 ファシズムの体験授業でも「リア充を撃退する」という反社会的な行動を学生に取らせるわけですが、ここでも教員という権力者のお墨付きがあることで学生に大胆な行動をとらせることが可能となっています。このように、権力者のお墨付きがあり、自らの責任を放棄できる場面では、人はいくらでも残酷にふるまうことが可能なのです。

 このような権力者のお墨付きによる蛮行は日本でも見られます。これは『京都のヘイトデモカウンターへ行ってきた #0309nohate京都』で詳細に論じたことですが、日本の警察はヘイトデモを積極的に警備することで彼らにお墨付きを与えてきました。また、補助金の対象から朝鮮学校を外すなどして政府も在日コリアンへの差別を積極的に煽り、それが彼らへのお墨付きとして機能してきました。

 本書の後半は、知的階級的な「綺麗ごと」への反発としてファシズムが拡散するさまを明らかにしています。そのような観点から、著者は正論をぶつけても問題は解決せず難しいものがあるだろうと指摘しています。確かに、そのような背景のある問題をどうにかするのは困難ですが、少なくとも日本はそれ以前の問題です。政府が正論すら言わずヘイトスピーチを煽るような言動ばかりしているようでは、ファシズム対応の困難さもへったくれもないでしょう。

授業の価値は高いが

 本書の一番の売りはやはりファシズムの体験授業でしょう。本書を読むと、著者がその開催にあたって入念に準備し、悪影響をできるだけ取り除こうとしているさまがありありと伝わってきます。

 このように準備された授業は、もちろん学生にとって教育効果も抜群でしょう。しかし、同じ大学教員として思うのは、これほかの教員には無理では?ということです。

 まず著者は、体験授業に先立ってかなり入念にファシズムに関する知識を学生に授業していますが、そこまで濃密に全体主義を扱う専門性と機会を持った教員はまれでしょう。また、授業の準備として大学と交渉したり周囲の教室から了解を取り付けたりと細かい仕事も多く、大量の講義を抱える昨今の教員にはなかなか骨の折れる仕事です。

 裏を返せば、教員の仕事が多いために教育効果の高い授業ができなくなっているともいえましょう。

 そして、この授業は暴走する集団をコントロールすることが求められますが、これも困難な作業です。実際、著者も受講生の統制はできているものの、勝手に行動に加わってくる野次馬まではコントロールできているとはいいがたく、危険性を指摘しています。ここまでの困難を乗り越えて授業を成立させられる教員はやはり少ないと言わざるを得ません。

 最後に、周囲の理解もやはり重要です。著者が授業を行った甲南大学は、当初かなり寛容に授業を許可していたようですが、著者がいうところでは「中国地方の右派地方議員」からクレームをきっかけに対応が厳しくなり、大学当局の規制に従うと教育効果が薄いということで開催をやめるようになってしまいます。誰がクレームを入れたのかは明らかにされていませんが、このようなあからさまな教育への介入は許されません。

 そういえば広島県に、教科書選定にクレームをつけた自民党の地方議員がいたような……関係あるのかな?

 田野大輔 (2020). ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか 大月書店