出水洸汰はヒーローが嫌いだ。
「……何がヒーローだ。同じ場所にいるだけでも気分が悪い」
理由を尋ねるなら彼はこういうだろう
ヒーローはおかしいから
出水少年は本気でそう考えていた。
誰も彼もが強力な個性を持ち、それを用いて人を傷つけることが人を救う為になると信じ切っている。
彼に言わせれば狂気の集団だ。
そんな歪んだ構造がまかり通り、あまつさえ称賛する人々
この世が狂っているのはこの個性という毒のせいでありながら、その毒を肯定する世界
この世に、個性などあるからこの世界は歪んでいる、彼はそう考えていた。
もちろん彼の主張に一般的な反論をするなら、個性という力が存在する時点で、それを利用した犯罪と自衛が生まれるのは当然の結果であり、どうしようもない現実だ。
彼の考えは“皆が暴力を持たなければ平和な世界が出来るはずだった”
そんなありもしない幼稚な理想論に過ぎない。
だが、それの一体何が間違っていると言えるだろう
彼は実際に幼く、そして暴力を使いこなす人間という生命体はイカれている。
そんな単純な事実の指摘にだれが反論できるだろうか?
彼は見せつけられたのだ。
己の親が死に、現実を受け入れられない中で世界中の人間がその死を称賛し続けるその異常な光景。
〈あなたの両親の死は立派だった〉
〈語り継がれるべき名誉ある死だ〉
〈ヒーローとして誇り高い最期だ〉
〈ヒーローの規範ともいえる死だ〉
彼にはどうしても理解できなかった。
自分の大切な人の死を褒めたたえ続ける人々
なにが素晴らしいんだ?
なにが感動できる?
なにがおもしろい?
ママとパパがいなくなってこいつらは何でこんなにうれしそうにしているんだ?
理解できない、怖い、どうかしている。
物心ついたばかりの子供が狂った世界でたった一人残された。
その孤独と恐怖から、それでも生きていかねばならない少年は気丈にも己を守るために、自分とそれ以外という明確な壁を作った。
そんな彼を誰が否定することができるだろう。
だからこそ、この呪われた個性社会の象徴であるヒーロー
そのヒーロー共を生み出す頂点である雄英高校、そこから人が来ると聞いた時の印象は最悪と言ってもよく、実際に見た後も彼は雄英生達に恐怖を含んだ嫌悪感を感じていた。
「ほら洸汰、挨拶しな、1週間一緒に過ごすんだから」
敵に囲まれる中、彼はたった一人、気丈に立つ
周りに押しつぶされないよう彼らを睨みつける。それが小さな彼の精一杯の抵抗だった。
「僕雄英高校ヒーロー科の緑谷、よろしくね」
だがその均衡は、敵の一人が上から覆いかぶさるように手を伸ばしてきたことで壊れた。
彼の心臓は跳ね、心の均衡が崩れる。
「ヒーローになりたい連中とつるむ気はねぇよ」
そう言い切って彼は拒絶し、急いでその場を後にして離れる。
「ちょっと洸汰、流石にやりすぎよ、後で謝んなさいね」
「……いやだね」
合宿場に戻った彼を諫めるのは自分の後見人
両親が亡くなった後、その後見となったのは両親のイトコに当たる女性だった。
彼も頭では理解している。
両親が死んでそのゴタゴタから彼を守ったのは紛れもなく彼女の尽力であり、彼もそのことは分かっていた。
「でも叩いちゃダメでしょ? それは分かるわよね」
「……あいつが俺に触ろうとしてきたんだ」
「それでもよ」
「ヒーローのくせにうるさい!」
「こらっ! 洸汰」
だが、彼女はヒーローであった。
頼れる人だがもっとも信頼できないヒーローだ。
項垂れるように彼の小さな背を見つめるマンダレイに気づきながら、どうしようもできない彼は、とにかく一人になるために外に飛び出す。
とにかくここから離れたい。
その一心で彼は足を動かした。
こういう時に必要となる場所を少年はすでに見つけていた。
森の周りを見渡せる小さな山の中腹、そこにせり出た岩石が軒のようになった自然の洞穴
彼にとっての大切な待避所にたどり着く。
だがそこには既に人影がある。
「……なんでここにいる。 俺のひみつきちから出ていけ」
自分だけの場所であるはずのそこに見知らぬ者がいる。
彼は体を強張らせ、最大限の警戒をした。
「うん? あぁ、一人になれる場所を探してたんだ。ごめんね、もう離れるよ」
その人影はついさっき見た者の中の一人、周りに比べて、明らかに弱そうな女だったと少年は思い出した。
ヒーローのくせに察し悪そうに見回し、初めてこちらに気づいたという風な女は、呆れるほどのっそりとした動きでこちらを見る。
「あぁでもうらやましいな、こんな良いところ、良く見つけられたね、見晴らしもいいし、草花もきれい」
女は暢気そうな声でチラリと洞穴を横目に見る。
「いいからヒーローはどっかいけ、ここは俺の場所だ。」
女は距離を取ったまま、もたもたとこの場を離れようとしながら、とぼけた声で話しかけてくる。
「でも私、まだヒーローじゃないけど……?」
「一緒だ、ヒーローなんか目指してるんだ。強い自分の個性が大好きなんだろ? 個性の特訓だとかキモイよ」
彼は初めから敵意を向けたまま、相手に暴言を吐き、拒絶し続ける。
「その通りだと私も思うよ」
「はぁ?」
相手が何を言いだしてくるか身構えた彼は予想外の答えに硬直してしまう。
こんな風に言えばヒーローなんて奴らは大体何かしら反論じみたことを言ってくるのだと彼は良く知っていた。
彼の両親が死に、そしてヒーローであるマンダレイに引き取られた時、当然のことながら、彼の出会う大人達は個性というものに関わっている人物、つまるところのヒーロー関係者が多くいた。
そんな大人達は彼の話を聞くと、頼んでもないのに余計なお世話とばかりに話しかけてくる。
彼はそういう奴らが心底嫌いだった。
知ったような口で両親を引き合いに出す奴、口先がうまくない子供をまるめこもうとする奴、君のためという風にこちらに話しかけて満足する偽善者丸出しの奴
僅かに反論をしない人間も、最後は言い聞かせるように自分の考えを認めようとはしない、……だというのに
「自分の個性嫌いだし“個性を育てよう”なんてイヤな言葉だよ、あはは私達ってちょっと似てるかもね?」
いくつも同じ状況を経験してきた彼にだけは分かってしまう。
この目の前の人間は全くそんな虚飾がなく、本心から今の言葉を吐いている。
信じられないことだが、目の前のヒーローの急先鋒であるはずの雄英の人間が、自分の意見全てを肯定している。
「う、うそつくんじゃねぇ! だって!」
だがおかしい
そう彼が考えるのは当然であろう。
なぜなら目の前の女の発言と実際は明らかに矛盾する。そんな風に考える奴がヒーローに、よりによって雄英を目指すわけがない
「あっ、そろそろ戻る時間だから、じゃあね洸汰くん」
そんな風に彼が罵倒しながら真意を確かめようとした瞬間、女は今までの緩慢さからは信じられない程身軽に、ひょいと飛び上がると、そのまま木々の合間に消えてしまう。
しばらくたった後に彼は呟く
「……なんなんだアイツ」
自分か敵か、彼の明確だった区分けの中で突然現れたその女はあまりにも正体不明だった。
「っ……、別にどうでも良い、ヒーローのことなんか」
所詮は1週間程度の合宿であると彼は自分を納得させる。
彼はヒーローを目指す学生と関わる気などないし、彼らも忙しいはずだと考えた。
彼の考えは正しく、この合宿で余程の偶然がなければそんなことは起こりえないだろう。
しかし、まるで運命のように偶然は配置されていく。
私は洸汰君の秘密基地の場所を確認した後に森の中を見回った。
「あった。この木だ」
『はい、記念すべきイベントは森のお散歩中に出会った洸汰君でした
おいおい、いきなりキーパーソン直撃かよ、と思われた皆さん、安心してください、洸汰君は現時点では好感度が存在しません
彼の好感度解禁はいくつかのイベントを踏まないといけないため、ここで遭遇しても完全なターンの消費ですのでRTAでは理想です
洸汰君のイベントで重要な点は彼の過去情報の入手後に解禁される洸汰君の秘密基地の位置情報を取得しないように祈るだけです』
……まぁその位置情報とやらは今、入手……、と言うよりは既に知っていたのだが
この後は急いで合宿場に戻らないといけない
やることは多い
私は見慣れた森を駆け抜けた。
日が暮れはじめた森から洸汰が戻った時
合宿場に戻ると彼を見つけたマンダレイが声をかけてくる。
「洸汰~、戻ってきたのなら、食材出すの手伝ってくれなーい?」
「……けっ」
「もう、返事ぐらいしゃんとしなさい、……冷蔵庫の脇のところに積んであるからお願いね」
先ほどの言い争いをまるで気にしていないかのようにマンダレイの態度は変わらない。
彼はなぜ自分がヒーロー共の飯を手伝わなければいけないのかと顔をしかめるが、そんな負い目から渋々ながらもマンダレイに従う。
そうして彼が苛立ちながら倉庫に向かうと、食材が入った段ボールがマンダレイの言っていた冷蔵庫脇ではなく、手の届きづらいシステムキッチンの上に積んであった。
「……テキトウいいやがって」
それなりに中身が入った箱は、子供の背丈では取りづらい場所においてある。
ギリギリ届かないこともない絶妙な場所ではあるので背伸びしながら、慎重に下から持ち上げようと彼は試みた。
「……よしっ」
なんとか持ち上がった箱を見て、彼は頭上に一気に引き寄せる、そしてなかなかのバランスを取って自分の頭の上に荷物を載せてみせた。
「あっ……」
しかし何と運の悪いことだろうか、不安定に投げ込まれた野菜の一角が、気を緩めた彼の真上から転がり落ちた。
「しまっ……!」
そしてさらに不幸は続く、バランスを取ろうと後ろに足を下げた彼の踵に転がり込む
重心を高くふらついた彼は足をそのまま滑らせると、訳も分からないまま後ろに勢いよくひっくり返っていってしまった。
「危ない」
しかし、地面に叩きつけられることを予期し、体を硬くした少年の背中に伝わるのは、なぜか柔らかい感覚。
「もう大丈夫だよ」
浮遊感のまま後ろから体を抱き止められ、少年の顔の真横から聞こえる知らない声の誰かは、放りだされた段ボールを片手に全ての食材を受け止めていた。
彼はしばらく抱きすくめられたまま、ここでようやく事態を把握して、身じろぎをする
「また会ったね」
「チッ……、離せよ」
「うんうん。今降すから気を付けて」
女はゆっくりと腰を落としてから、彼を地面に立たせると、そのまま同じ高さで目線が合う。
彼は反射的に目を逸らし、少しして今度は逆に目の前の女を睨みつけた。
「おい」
「なに、洸汰くん?」
「はこ返せよ」
「どうぞ」
「…………」
そのままひったくる様に箱を奪い取った彼はしっかりと箱を抱え直し、再度女を睨みつける
何か言ってきたら罵倒してやると身構えた彼だが、女は何かを言い出すことなくそのままくるりと背を向けると立ち上がる。
「じゃあね」
タイミングを外され、女が先に部屋を出て行ってしまう
仕方なく彼もそのままマンダレイのもとに戻ろうとするが、なぜか彼の目の前を女は歩き続けている。
いつかどこかへ行くと考えた彼だが、とうとう調理場まで一緒に歩いてしまう。
「すいませんマンダレイさん、ちょっといいですか?」
「あら、お腹減っちゃった? でもまだ時間がかかるから、今日だけは休んでいいわよ」
「いえ、よろしければ手伝わせていただけないかと思いまして、調理は一通りできます」
「……ふーん、その意気やよし! 食べ盛りが21人も来て正直ネコの手も借りたいくらいよ、主菜の下処理とかは済ませてきたのがあるから、サラダとかお願いできる?」
「分かりました」
「洸汰が今、サラダ用の野菜もってくるから……って、あらあら一緒に来たの?」
「ちげぇよ」
「たまたま同じ方向に歩いてただけですね」
「まぁなんにせよ、頼んだわよ! 洸汰はおねぇちゃんの手伝いをしときなさい」
「いやだね」
「ほら、アンタの分でもあるんだから……」
「いいですよマンダレイ、子供に料理はまだ難しいですから、洸汰君は遊んでていいよ」
女は彼の持った箱をひょいと奪いあげ、目も向けずに中の野菜を取り出した。
「ガキ扱いすんな」
しかし、その一言にムッとした表情をした彼に対し、女は待ってましたと間髪入れずレタスをポンと渡してくる。
「じゃあこれ、芯は抜いたから、葉っぱをバラバラにしてから洗って、終わったらそこのボウルに入れて、終わったら教えてね、お仕事任せるよ」
女はいつの間にか包丁を握っていたと思えば、すでに野菜を下準備して彼の手元に間髪入れずに置き去る
「だれが……!」
抵抗する間もなく箱を奪われ、代わりに野菜を置かれてしまった彼は、両手を頭上に振りかぶる。
振り下ろそうとした両手、しかし上に持ち上げたレタスはその頂点で動かない
「できないの? なら返してもらうね」
女は振り上げた野菜を掴むと、彼から取り上げようとする。
「勝手に決めんじゃねぇ!」
思わず取り上げられそうになったレタスを今度はもぎ取り、彼はどうだと言わんばかりにフンと鼻を鳴らした。
「あらら、洸汰は手伝いたいみたいだからお願いするわね……えーと」
「本条です」
「そうそう本条、確か下の名前は桃子ちゃんだっけ」
少年はそのままこの場を後にしようしていたはずが、いつの間にか自分の手に野菜があることに気づく。
「体育祭見たわよ、大暴れだったわね」
「お恥ずかしいです。自分では必死でしたが、後から見返すとあまりにも悪目立ちすぎでしたね、あとで家族にも怒られました」
こんな仕事していられるかと言い捨ててやろうとも思ったが、肝心の二人は自分をあえて無視しているのか他愛もない会話を続けている。
「……あなたって年下の兄弟とかいたりする?」
「いいえ居ません、けど小さい時は男の子とよく遊んでましたね」
「うーん、そっかぁ、それでかな……、私も男の子とは結構一緒に遊んでた方だったのになぁ……」
「くそっ……、あの女」
どうもやりにくい。
自分を蚊帳の外に談笑する2人を余所に、彼はそんなことを考えながら仕方なく言われた仕事をこなすことになるのだった。
『合宿初日、2回目のコミュはマンダレイですね
プロヒーロー達はインターンなどで狙い続け無ければ、本格的に好感度が上がることはないので当たりです』
「あら、結構手際がいいのね」
「もともと家の手伝いもしていましたから」
私はマンダレイとキッチンに並びながら作り終えたサラダを器に盛りつけた。
「料理は若いうちからやった方がいいわ、急に自分じゃない誰かに合わせて料理を作れって結構大変よ」
「洸汰君の料理もマンダレイが?」
「そうそう、食べても美味しいか不味いか言わない子だから困ってね」
「今日の夕食を見てもかなり美味しそうです。きっと洸汰君もそう思ってますよ」
「そう? ありがと」
マンダレイはそう一言こぼすと、キッチンでレタスをちぎっている洸汰君の背中を見た。
「まぁあんな感じの子だから、案外君たちみたいに年の近い子の方が身近なのかもね」
少し寂しそうにつぶやくマンダレイはそのまま、他の料理の仕込みに私から離れるのだった。
しばらくしてクラスメイト達が集まりだせば、ワイワイとにぎやかになってくる。
皆にとってはこの後はご飯を食べてお風呂に入って寝るだけであるが、私にはまだすべきことが残っている。
この風呂場での出来事が重要だ。
この後の入浴で峰田君がお風呂を覗こうとするのだが、それを防ぐ洸汰君が気絶する事故が起きてしまう。
この先で起こることのためにこれはどうしても避けなければいけない
「洸汰~ちょっといい?」
時刻は夜、外の森は暗く染まっている。
食事が終わり、風呂に入ろうと思った彼は、しかしヒーローなどと一緒に入るわけがなく、全員が出てくるまで時間を潰していた。
「お願い、風呂場で覗こうとする男の子がでないか見張ってもらってほしいの」
そんな風に過ごしていれば彼にとって、またも厄介ごとが転がってくる。
「なんで俺が……、ってかそんなヒーロー居るかよ」
「みんなと一緒に体を洗ってこいって言っても、ヒーローなんかと一緒に入りたくないなんて言ったのは洸汰でしょ、全員が上がったらお風呂に入ってしまいなさい」
「……っち」
「頼んだわよー」
さっさと風呂に入って寝るためと彼は自分を納得させ、バックヤードを抜けて温泉の塀の中へと向かった。
両脇に塀が立てられ、人一人通り抜けることが出来るスペースを通り、そこにかけられた整備用の梯子を登る。
するとその道中、女湯から姦しい話し声が聞こえる。
「はぁぁぁ……、さいこぉぉ……!」
「疲れた体に熱々の温泉、体に染みるねぇ……」
「ケロ、でも傷にも染みるケロ」
「まぁ、ヒーロー目指すなら傷は今更仕方ないよね」
「仕方ないです」
「って皆言うほどじゃん! というかむしろ肌綺麗だよ」
「みんな普段なにかしてる感じ?」
「ふふん、私の個性は酸、つまり粘度を調整した酸を放出してお手軽に皮膚の保湿が可能!」
「ず、ずるい!」
「実はそれ、私もできないことはないケロ」
「そんな個性の使い方……、裏切りだよ……!」
「へへーん、そんなこと言ったら私なんて生まれた時からUVカット100%だよ」
「美、美白が約束された個性……!? というか個性の美容利用は基本なの……!?」
「私は体の修復も個性の内だから、夜更かしの肌荒れも誤魔化してくれるから助かってるよ」
「あー、ウチも音の振動で親にマッサージとか美顔器の真似事をさせられた時ある。あれってきくのかねぇ?」
「クッ……、残されたのは私と八百万さんのみ……!!」
「あっ、でもヤオモモも体からなんでも出せるんだから美容液だろうが何でも可能じゃ?」
「え? いえ、そういうのは備え付けのがありますので……、それに買える物は作らずに買うことにしておりますの、その、お店の方々に悪いので……」
「
「というか備え付けの美容品?」
「いえ、両親の系列店からその手の商品が山のように送られてくるだけで、もったいないので使ってるだけですよ?」
「
「麗日ちゃんのリアクションが光ってるねー」
「そ、そんなものじゃありませんわ、じゃあ麗日さんはどんなことを……?」
「こ……」
「こ?」
「米のとぎ汁……」
笑い声の絶えない会話がつい聞こえてしまうが、少年は努めて耳を塞いで先を急ぐ
梯子を登っていくと今度は男湯の方から話声が聞こえてきた。
「いやー旨いメシにでっかい風呂、最初はやばいと思ったけど、サイコーじゃね?」
「まァ、ぶっちゃけ飯とかどうでもいいんスよ……、求められてんのはそこじゃない、その辺を分かってんスよ、オイラぁ……」
「うん? どうしたんだ峰田?」
「あのさぁ……、今日日男女の入浴時間をずらさないとかさぁ……、場所をはっきりと分けた温泉にする配慮とかさぁ……、簡単に防止できるのに対策を取らない……、そんなところじゃないのかなぁ昨今の雄英批判は、こういう所でちょいと油断してるんじゃないんスか……? そう、これは名に驕った雄英に対して一石を投じるというオイラの誠意なんスよ……」
「峰田くん! 止めたまえ! 君の意見は学級を代表して必ず先生へ伝えよう! しかし君のしようとしている行為は己も女性も貶める恥ずべき行為だ!」
「うるさいんスよ……」
「おまっ!! マジでシャレに……!?」
「壁は! 超える! 為にあるッ!! プルスウルトラァ!!!!! 」
「やべぇ! 誰か峰田を止めろ!!」
「だ、だめだ! 速すぎる!」
彼はこんな奴がいるのかと呆れながら、塀から身を乗り出す。
彼が下を覗けば、自分とそう身長の変わらない男が、目を血走らせながら近づいてくるので、思わず手の方が先に伸びた。
「ヒーロー以前にヒトのあれこれを学び直せ」
「く、くそガキィィィィィィィィイ!!!」
軽く額を上から小突かれバランスを崩した小男はただ落ちていく。
「やっぱり峰田ちゃんサイテーね」
「ありがとう洸汰くーん」
声を思わず目で追ってしまった彼は眼下に見える女性陣を視界の隅に捉える。
「わッ……!」
彼の目下に映る光景は理屈なく、見てはいけないと強く感じさせた。
彼はすぐさま塀に頭を引っ込めようと一歩下がろうとした。しかし、彼の紳士たる振る舞いは、結果、足を踏み外すことに繋がってしまう。
「あっ」
浮遊感
彼の周りの時間がゆっくりと流れる。
皆のほとんどがとっさのことで湯船から立ち上がることもできていない
「洸汰くんッ!!!」
「危ないよ洸汰くん」
そんな中、男湯から水を飛び出す波音、女湯の壁の板がきしむ音、
二つの音が同時に聞こえた。
浮遊感が終わり、彼の体を重力が捉えるその最後の瞬間
女湯の向こう側からするりと、背中にしっとりとした何かが回りこみ、ぐいと力強く引き戻される。
「大丈夫?」
抱きこまれた感触は前回よりもさらに鮮明で、思わず彼が何かを言う前に顔が真っ赤になってしまう。
「ま、またお前か!」
「それって私のセリフじゃない?」
「う、うるさい、早くあっち行け、降ろせ!」
早くこの状態を何とかしてほしいと一心に願う彼は体を振り回そうとするが、体を密着させているため下手に動けない。
「は、はな……、うぅ……」
「そうそう、危ないから動かないでね」
女はゆっくりと足場に彼を立たせた。
「よし、いいよ、覗きから助けてくれたからお互い様だね」
「う、うるさい、早くあっち行け」
彼の罵倒を援護するように下も大騒ぎになっていた。
「本条さん! 早く! 早く降りてきて!!」
「見えちゃう! 見えちゃうから!!」
「あっ大丈夫、この角度と煙じゃ絶対何も見えないから」
「そういう問題じゃないってば!」
「緑谷が塀に頭からぶつかって落ちたぞ!」
「きゅう……」
「気絶してる! しっかりしろ!」
「あ゛ぁ゛!? 絶妙に見えねぇ!! くそォ! 緑谷!! 見たんだろ!! オイラを差し置いて見たんだな!?」
「お前マジで反省しねぇなぁッ!?」
彼は喧噪のなか、急いで梯子を駆け下りた。
「な、なんなんだアイツは!」
彼の心のスタンスは、自分とそれ以外の敵
彼は誰かと関わろうとしてくる人間に対し、決して警戒心を忘れない。
だからこそ、その意表を突く突発的に出会うという状況は彼を動揺させる。
まさか付きまとわれているのではないかと彼は女を訝しむ。
だが状況的にすべては偶然、それはあり得ない。
そう思い込む彼はある種の策略のように惑わされていく。