日本で写真が初めて写された幕末から明治期の写真を集めた展覧会「日本初期写真史 関東編」が東京都写真美術館(目黒区三田)で開かれている。
日本で最初に写真館を開いた写真家の貴重な写真が多数公開され、写真黎明期の日本の実像を伝えている。 (文化部 渋沢和彦)
※ライムント・フォン・シュティルフリート「天皇陛下と御一行」1872年 鶏卵紙 明治大学図書館
1枚の古い写真「大築尚志(おおつき・たかゆき)像」(1860年)がある。
刀を持ち、堂々とポーズをとる凜々しい男。
鋭い視線に意志の強さがにじみでる。
被写体は、江戸幕府、明治政府で軍事技術者として活躍し、後に陸軍中将となった人物だった。
この写真を撮ったのがアメリカ人の写真家、オーリン・フリーマン(1830~66年)。
彼こそが日本で最初の写真館を横浜で営んでいた人物だった。
1859(安政6)年に開港した横浜。
外国人の居留地の整備が始まると貿易商に混じって肖像写真の撮影を生業とする者が現れた。
フリーマンは1859年末から60年代初頭に横浜に移住した。
写真機材などを販売しながら、肖像写真の撮影による営業を数カ月間、行っていたという。
数点しかない写真の貴重な1点が「大築尚志像」だった。
フリーマンに師事して技術を習得したのが、日本人で初めて写真館を立ち上げた鵜飼玉川(うかい・ぎょくせん)(1807~87年)だった。
開業の明確な時期は定かではないが、1861年以前に江戸で写真館を開いて活動したことがわかっている。
「横井小楠(しょうなん)像」(1861年)は現存する数少ない1点。
被写体は熊本藩出身の儒学者で藩政改革に取り組んだ人物。
鵜飼は10年間ほど営業していたという。
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展覧会では日本人を撮影した現存する最古の肖像写真2点(川崎市市民ミュージアム蔵)が公開された。
「慎兵衛(清太郎)像」と「岩蔵(岩吉)像」。両者は、荷物を運ぶ樽廻船(たるかいせん)の乗組員だった。
江戸から摂津国への帰路、マストが折れ、制御不能となって漂流。
17人の乗組員は53日後、アメリカ商船に救助されアメリカへ。
写真は1851年から52年の間にサンフランシスコで写真家、ハーベイ・ロバート・マークス(1821~1902年)によって撮影され、日本には5点あることが確認されている。
後に慎兵衛は帰国を果たし、姫路藩で西洋式帆船の建造に携わり、岩蔵はイギリスにわたり、通訳として帰国したが、浪士に刺殺されてしまったという。
初期写真には数奇な運命が潜んでいる。
展示されているのは貴重な写真ばかり。
国内で日本人が撮影された現存最古の写真の1枚が「田中光儀(みつよし)像」。
これはペリー艦隊に同乗していた写真家、エリファレット・ブラウン・ジュニア(1816~86年)が写した。
日本人に寄贈され、国内に残った数点のみが現存している。
この作品は1983年(昭和58年)、東京で存在が確認された。
ブラウン・ジュニアの作品は、この作品を含め現在までに6点が確認され、国内にある5点が重要文化財となっている。
モデルの田中光儀は1854年のペリー艦隊再来の際、米側と諸交渉にあたった幕臣。
写真は劣化が少なく画像も鮮明だ。
写真家のサインもある。
左右が逆に写るダゲレオタイプを考慮し、撮影前に着物を左前にし、刀を逆にして写された。
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パパラッチはいまに始まったものではない。
こんな不思議な写真もある。
「天皇陛下と御一行」(1871年)だ。
明治天皇が横須賀造船所に行幸した際に無許可で写され、初めて写真に姿を留めた。
これまでドックに停泊中の船内に潜み撮られたことが知られていたが、どの場所から撮影されたのがわからなかった。
一昨年の現地調査で詳細な撮影ポイントがわかった。
写したのはオーストリア出身で横浜で活動していた写真家、ライムント・フォン・シュテイルフリート(1839~1911年)だった。
隠し撮りした写真は明治新政府に知られることとなり問題化。
しかし、このことにより、新政府が国家元首の肖像写真の重要性を気づくきっかけとなった。
そして「その年のうちに明治天皇の公式肖像写真が撮影されることとなった」と同館の三井圭司学芸員は説明する。
初期写真にはさまざまなドラマが潜んでいる。写真という最先端のメディアから、幕末・明治の新時代を迎えた日本のリアルな姿が浮かび上がる。
三井学芸員は「初期写真は、そもそも写真はどういうものなのかを考えさせてくれる。関東地方の写真文化を見渡すことができる貴重な機会」と話している。約190点を展示。
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24日まで。休館日、入館料などの問い合わせは同館ウェブサイトで。
新型コロナウイルスの感染拡大で予定が変更される場合もあります。
明治天皇の隠し撮りも…幕末明治の写真ずらり 東京都写真美術館 - 産経ニュース (sankei.com)