作:朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足
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イリーナ・イェラビッチ――通称ビッチ先生。
ここ、三年E組では僕たちに対して主に実践的な英語の会話方法を教えている彼女は、実は殺せんせーを殺すために国が雇った暗殺者だ。
美貌に加えて様々な言語を操る対話能力をもち、それを活かしてどんな
当初はそんな彼女と少し蟠りがあった僕らだけど、今はもうそれもすっかり解けつつある。
「“L”と“R”は発音の区別できるようになっておきなさい。これからはその辺りも授業でチェックするわよ」
さて、これまで幾度となく潜入と暗殺を繰り返してきた暗殺者が行う授業は、その経験に裏打ちされていることもあって非常に面白いものだった。
授業では海外ドラマを教材として用いつつ、時々実演を交えながら自身の経験談なんかも聞かせてくれる。本校舎の授業ではこういった話はあまり聞くことができなかったため、とても新鮮に感じられた。
……ただ、彼女の授業には少し問題が。
授業で出題される問題に正解できた場合、あるいは正解できなかった場合、男女問わず皆の前で公開ディープキスの刑に処されるのだ。ビッチ先生は将来役に立つからって一向にやめようとしないけど、正直かなり精神が擦り減るので勘弁して欲しいというのが皆の本音である。
でも、それをしっかり自身の糧にしている生徒も、まあいるにはいた。
「……」
「……」
ビッチ先生と穂波さん――現在、教壇の上で無言のまま互いに面と向かっている両者。ビッチ先生は少し険しげな表情で、穂波さんは楽しそうに笑っている。
こうして見比べてみると、二人の容姿はよく似ている。髪色や瞳の色もさることながらスタイルまで。穂波さんがクォーターなのは有名な話だけど、それでも純正の外国人であるビッチ先生とここまで張り合えるなんて。
明確に違うところと言えば髪の長さや黒子の位置、後は漂わせている雰囲気くらいのもの。二人並んで立っているところを全く知らない人が見れば、多分大多数が彼女たちを親子と勘違いすると思う。それ程までにそっくりだ。
「あー……俺ちょっとトイレに行ってきます」
「俺もちょっと腹の調子が……」
突然、磯貝君と三村君が揃って教室を出ていった。
その音で僕はふと我に返る。周囲を見渡せば、僕以外の生徒は既に行動を起こしていた。カルマ君はイヤフォンを両耳につけながら目を瞑っているし、真剣な顔の岡島君は机の下でこっそりカメラを構えている。
その他の何人かの生徒たちも、皆それぞれ何かの作業に没頭しようとしていた。共通しているのは、一部を除いてとにかく全員が教壇に立つ二人の方をなるべく見ないようにしているという点だ。
……そうだった。僕も呑気にこの二人を眺めている場合じゃなかった。
さっき言ったように、授業でのビッチ先生は誰彼構わずディープキスをお見舞いしてくる。そんな彼女と好奇心が旺盛な穂波さん。この両者が合わさった時、とんでもない化学反応が起こるのである。
「ふーん……あんた、“訛り”についての知識もあるのね。中々やるじゃない。それじゃあご褒美のチューを……って言いたいところだけど、あんたに関してはこれも授業よ。どれだけ上手くなったのか確かめてあげる」
「はい! よろしくお願いします!」
そう言うと、ビッチ先生は穂波さんの体を片手でぐっと抱き寄せ、もう片方の手を彼女の顎にそっと添えて――
僕も皆と同じようにそっと二人から目を逸らした。視線を下に落とし、机の木目でも観察することにする。
……それにしても気まずい。彼女たちの艶かしい水音と息づかい、時折耳に入ってくるそれらを、果たして僕らはどんな気持ちで聞けばいいのか……。
一応今は授業中のため誰も何も言わず、それがなおさらこの学び舎にあるまじき空間を際立たせていて……本当に何の時間なんだ、これは。
「……ふぅ。まあ悪くはなかった、とだけ言っておくわ」
「はぁ……はぁ……。本当ですか!? それじゃあ、ついに免許皆伝ってことで――」
「甘いわよ。こんなのまだまだ及第点レベル、満点からは程遠いわ。満点が欲しいのなら……そうね、最低でも私を
「おぉ〜、なんか格好いい響き! めっちゃ欲しいです、その称号!」
(……格好いい響き? どこが?)
(それは称号とは言わねーよ)
「でも、初めての時と比べたら大分上達してるわね。この調子で努力し続けること。いい? 穂波」
「合点です! イェラ
――この二人は一体どこを目指しているんだ……。
クラス全員が心の中で総ツッコミを入れる中、ふふんと満更でもなさそうなビッチ先生。そしてそんな彼女を尊敬の眼差しで見つめる穂波さん。
……いくら好奇心が強いとはいえ、その歳でキスの仕方にまで興味を抱くのはいかがなものだろうか。何だか彼女の将来が心配に思えてくる光景である。
けれどもまあ二人とも合意の上でやっていることだし、外野の僕らがとやかく言えることでは……いや、やっぱり冷静に考えたらおかしい。感覚が麻痺してきている。
「Girls,be attractive.」
「Girls,be attractive!!」
彼女の知識欲は止まる所を知らない。
こうしてE組に誕生したエロチックなコンビは、今日も今日とて人目を憚らず濃密な口づけを交わすのだった。
| 〈穂波さんメモ その9〉
羞恥心に欠ける
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|---|
今でこそ水雲のことをかわいがっているイリーナだが、実のところ当初はかなりの苦手意識をもっていた。
『ほえー、それが殺せんせーの暗殺計画書ですかー』
彼女と初めて対面したのは、例の体育倉庫での暗殺計画を実行する直前である。旧校舎の薄汚れた職員室、そこに用意されていた安物の椅子に腰かけながら、タブレットで計画の最後の見直しを行っていた時であった。
『……盗み見するなんて、いい度胸してるわね』
『えへへ〜、ありがとうございます!』
『褒めてないわ! 皮肉に決まってんでしょ!』
金髪碧眼――太陽のように煌びやかな髪と、星のように澄みきった瞳。北ヨーロッパ辺りだろうか? 外国の血を引き継いでいるのは間違いない。
そのうえ、よく見ればナチュラルメイクも施している。自分の顔の
ハニートラッパーたる者として常に自身の容姿に絶対の自信をもつイリーナだが、その自信が思わずほんの僅かに揺らいでしまう程度には彼女の容姿は美しかった。
『それで、私に何の用でしょうか?』
『渚から聞いたわ。あんたが一番あの暗殺対象を殺すことができる可能性があったって。……どうやったの?』
『ああ、その話ですか』
まあ、容姿に関しては別にどうでもいい。
イリーナが水雲に対して苦手意識をもったのは、彼女のその天然な性格と言動にある。
単独で暗殺対象にダメージを、都合三本もの触手を切り落としてみせたという生徒に興味を抱き、話を聞くためにこうして職員室まで呼び寄せたが、結果は散々であった。
本人曰く、ただ単に相手の不意をついただけ。接近してナイフを振るったらなんかいけた、とのこと。
……はっきり言って何の参考にもならない。あまりにも適当過ぎる。完全に暗殺を舐めているとしか思えない発言である。というか、そもそも本当にこんなガキが百億円に一番近づいたのか? もしや渚が嘘をついたのでは?
『はぁ……。あんたと話してると頭痛くなってくる……。話はおしまい、もう行っていいわよ……』
『それじゃあ失礼します――あ、最後に一つだけ。先生のその計画、多分失敗しますよ』
『……は? いきなり何を――』
『でも応援してます! 暗殺、頑張って下さいね!』
そう去り際に不吉な予言を言い残した水雲。
そしてこの後、企てた暗殺計画は彼女の言葉通りに見事失敗に終わり、おかげでイリーナは彼女に対して苦手意識が芽生えたのだった。
しかし、それも少し前の話。今はもちろん違う。
「――んせい! 先生! どうしたんですか? 話の途中なのに急に黙り込んで……」
「……何でもないわ。ちょっと考え事をしていただけよ。それよりどこまで話したかしら……ああ、そうそう。確か空港で彼に腕を掴まれたところだったわね――」
この少女のことを、イリーナはまるで自らの娘のように猫かわいがりしている。
そうなった所以は、教員として水雲と接する内に彼女が意外にも努力家であることに気づいたからである。
類い稀なる容姿と才能に恵まれてもなお、彼女は決してその上であぐらをかこうとしない。むしろ自分自身をより高めるため、ありとあらゆる知識や技術、経験などを貪欲に得ようとする。その直向きな姿に、同じく努力家であるイリーナは共感したのだ。
幼い頃から凄惨で劣悪な環境で育ってきた彼女にとって努力という行為は極身近なもの。例えどんなに苦手なことだろうと逃げずに立ち向かい、克服してきた。
自身を心から敬い、親鳥に甘えるひなが如く懐いてくる水雲を見ていると、何だか幼少期の頃を思い出す。
かつてロヴロやオリガから様々な教えを受けていた時の自分も恐らくこんな感じだったのだろうな、と。
「へぇ〜、本当にそんなドラマみたいなことが……」
「Truth is stranger than fiction. 現実は時として想定をはるかに上回る――そう珍しいことでもないわ。あのタコの存在なんか、その最たる例よね」
「あはは、確かに! ……それにしても、イェラヴィッチお姉様先生の話はやっぱり面白いですね! 聞いてて全く飽きませんし!」
それからイリーナに苦手意識を抱かせた主な原因である彼女の残念過ぎる性格について。
これに関しては、初めこそ会話する度に頭を痛めていたものの次第に慣れていき、最終的にはその天然なところも彼女のよさなのだろうという結論に至った。
一見めちゃくちゃわざとらしく見えるが、信じ難いことにこれが彼女の素なのだ。矯正のしようがない。
『イェラヴィッチお姉様先生』という明らかにイリーナを馬鹿にしているとしか思えない呼び方にしても、彼女が本心からそう言っていると分かった時の衝撃といったら、本当にもう……。
ここまで突き抜けていればいっそ清々しい。
腹が立つどころか、むしろ愛らしく思えてくる。
それに相手の警戒心をいとも容易く解いてしまう彼女のこの性格は、考えようによっては暗殺にも応用できる非常に有益な個性である。これを上手く活かせば、将来きっと優れた暗殺者として大成できるだろう。
そうでなくとも彼女のそれは、ただ普通に暮らしている分にも彼女自身に得をもたらすに違いない。
「そう? 言っとくけど、褒めても何も出ないわよ」
「えぇ〜、ほんとですか〜?」
「……何が欲しいのよ」
「最近、やけに唇が乾燥するんです。……先生、私の唇をどうか潤して頂けませんか?」
「……四十五点。捻った誘い方はあんたに合ってないわ。もっと直球でいいのよ、直球で」
「先生! 私とちゅーして下さい!」
「……二十二点。直球過ぎるのも考えものね……。今度は色気が全く感じられなくなったわ……」
目を閉じてぐっと唇を突き出す水雲。
そんな彼女の頬を軽く撫でつつ、イリーナは自身の唇をそこへ向かって柔らかく重ね合わせる。
……彼女に対する苦手意識はなくなったものの、代わりに一つ思うようになったことがある。
それは、こうしてキスをしていると特に分かり易い。
確かに彼女の舌づかいはイリーナにされるがままだった初期と比べれば随分と上達した。その著しい成長には目を見張るものがある。末恐ろしいのが、それでもなお未だに高みを目指し続けているところか。
だが、
彼女くらいの年であれば少しは沸き上がってもおかしくない筈が、それが全くないというのは些か変だ。ましてやキスの相手はあのイリーナだというのに。プロたる彼女のテクニックをしても水雲の色気を引き出せない。
穂波水雲という少女は明るく朗らかな性格とは裏腹に、どこか空虚な雰囲気を内包しているように見えた。
それは単なる思い過ごしの可能性もあるし、そうでない可能性もある。イリーナにとってはどちらでもよかった。
(ま、人ってそういうもんよね)
人間誰しも心の内に何かしら抱えているものである。
イリーナにもあるよう、彼女にだって触れられたくないことの一つや二つあるだろう。
ただ、とてももったいないと思う。見た目で忘れそうになるが、彼女はまだ十代半ばなのだから。
この子がしがらみから解放されて真に心の底から笑顔になれる日は果たして来るのだろうか――
「……ぷはぁ。どうでした!?」
「やっぱり満点はあげられないわね」
「え〜、ちょっと厳し過ぎません? 今、割と結構上手にできていたような気が……」
「はぁ……。あのね、はっきり言って上手いキスができる人間なんてこの世にごまんといるわ。所詮こんなの大した技術でも何でもないのよ。ある程度経験を積めば誰だって上手くなれる……そこからさらにレベルを上げるためには
「そりゃあ、まあ……。私のキスはイェラヴィッチお姉様先生みたく相手を骨抜きにできませんし……。それじゃあその技術以外で必要な要素っていうのは――」
「それは自分で考えなさい。宿題よ」
突き放した言い方をするイリーナに水雲は口を尖らせてぶーぶーと不満を露わにする。
そんな二人の光景は、外見が似通っていることもあってまるで本物の親子のやりとりのようだ。
……もっとも、両者を親子と例えるにしては愛情表現が過激に過ぎるが。
「せめてヒントだけでも――」
「駄目。自力でたどり着きなさい」
「そんなぁ〜……」
「こういった技術って別になくても生きていけますけど、あってもいいものでしょう?」
烏間惟臣から見て、穂波水雲という少女は非常に優秀な生徒だ。明晰な頭脳に端麗な容姿、加えて性格に関しても元A組の生徒だというのに選民思想に染まっていない。
誰に対しても対等に接するその姿に、E組の生徒たちも一部を除けば彼女に心を許しつつある。非の打ち所がないとはまさに彼女のような人物を指すのだろう。
また、大層な努力家でもある。
惟臣が彼女と本格的に対話したのは彼が就任して初日のことであった。
『烏間先生! 改めまして、穂波水雲と申します!』
挨拶もそこそこに本題へと入る水雲。
その内容は、惟臣がもち得る戦闘技術を可能な限り教授して欲しいというもの。
もちろん拒む理由もなく、その日の放課後から早速彼女への個人的なレッスンは始まった。授業では教える予定のない内容、格闘技や関節技などの技術を。
彼女の覚えは異様なまでに早い。惟臣が教えたことを、水を吸うスポンジのように次々と吸収していく。
元から才能に恵まれていたこともあるが、彼女の場合はそれに驕らなかったことも大きい。
……彼女のその努力の根源は一体何なのか?
ある日ふと気になって尋ねてみたところ、水雲の口から返ってきたのが上記の言葉であった。
知識や技術は、あればある程にいい――なるほど。確かに彼女の言う通りだ。それらは必要最低限のものさえあれば生きるに困らないが、必要以上にあったとしても困らないものである。あればある程に選択肢が広がり、より豊かな環境に生きることができるようになるのだから。
しかし同時に、彼女の回答は惟臣に違和感を感じさせるきっかけにもなった。
彼女も暗殺任務を遂行するメンバーが一人。だから彼はてっきり『報酬の百億円を獲得するため』といった類いの返事が返ってくるものとばかりに思っていたのだ。
ところが、返ってきたのは一見もっともな理由のように見えて、その実何とも曖昧で具体性に欠けた言葉で。
これだけなら単に考え過ぎの可能性も否定できないが、妙に思われた部分は他にもある。
それは放課後での個別の特訓や体育の授業の際に彼女と組み合えばよく分かることだが、彼女からは殺意はおろか敵意や悪意、害意といった
別段そのような意思をもって取り組んで欲しいという訳ではないが、彼女は不自然なまでに希薄過ぎる。
……そういった点では彼女はかの少年、潮田渚と同様に極めて異質な存在と言えるだろう。
攻撃を避け難い程に感情が読めない水雲と、時折背筋が凍る程に鋭い殺気を放つ渚。
防衛省の工作員、そしてE組の体育教員として。惟臣は特にこの両者を気にかけていたのだった。