作:朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足
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私立椚ヶ丘学園の傑物、浅野学秀は現在急ぎ足でとある場所へと向かっていた。
その顔はまるで苦虫を噛み潰したかのよう。実に険しいものであった。
目的地へとたどり着いた彼は、そのままノックもせずに乱暴に『理事長室』と書かれた扉を開く。
「――理事長!」
「……ノックもせずに扉を開くとはね。礼節を欠く行為だ。感心しないな、浅野君」
扉を開いた先、果たしてそこにいたのはこの学園を経営する理事長――浅野學峯。それに加えて、学秀の実の父親でもある人物である。
開口一番に嫌みを言ってくる彼だったが、しかし学秀はそんなことはどうでもいいと切り捨てる。礼節云々よりも今の彼には優先すべきことがあった。
「そんなことはどうでもいい! 僕があなたにうかがいたいのはただ一つ、A組の穂波さんの――」
「E組行きの件かい?」
「……っ! ええ、そうです! 分かっていらっしゃるのなら話は早い。トップの成績を持つ穂波さんが、なぜ底辺のE組行きになったのですか?」
穂波水雲――学秀のクラスメイトの少女。
これがただのクラスメイトであれば、学秀とてここまで必死にならない。何の歯牙にもかけず、翌日には全て綺麗さっぱり忘れていることだろう。彼がここまで必死になるのには理由があった。
「非常に、非常に癪ではありますが……成績では、この僕ですら彼女に負けています。彼女はこの学校の中間・期末の全てのテスト、および全国模試においても、今まで僅か一点たりとも落としたことがない……。それがどれ程までに困難なことか……」
例えどんなに優秀であろうと、人間とは必ずミスをする生物だ。
トップクラスの成績を誇る学秀とて例外ではない。満点を取ったことはこれまでに何度もあるが、統計的に見れば取れなかった割合の方が大きい。
穂波水雲、彼女はいい意味で異常だった。
だからこそ、学秀は彼女を認めたのだ。自身の隣に立つことが許される唯一の存在だと。
……それが、まさかこのような事態になるなどとは微塵にも思わなかったが。
「君はやけに肩入れするんだね。彼女に」
「……彼女は特別ですから」
「特別、ね。まあ、それはともかく……浅野君、そこの棚に置いてあった壺の行方は知ってるかな?」
「壺? いえ、知りませんが……」
學峯が指差した先、そこには確かに何かが置かれていたかのような不自然な空間があった。
彼が言うには壺が置いてあったらしいが、その壺の行方など学秀には知る由もない。
「とある卒業生から頂いたものでね。何でもその業界ではかなり高名な先生がお造りになられたものだとか」
「はぁ……。それが何か?」
「
「なっ、それは……! ……いえ、そういうことですか」
一瞬驚いたものの、すぐさま冷静になる学秀。
明らかとなったのは水雲が理事長の私物を壊したという事実。たったそれだけのことでE組行き……いや、たったそれだけのことで見切りをつけるのがこの男なのだ。
今回の件で、A組の生徒たちはより一層気を引き締めることとなるだろう。例えどんなに成績が優秀でも、場合によってはE組行きになるという前例が生まれてしまったのだから。
冷徹な合理主義――それが浅野學峯という人間だった。彼の血を引く学秀はそのことをよく理解している。
ゆえに、この場は引き下がった。
既に彼女の処分が決まってしまった以上、今更彼に何を言っても無駄に終わるだろうと。
「とはいえ、君からすれば彼女がいなくなってよかったんじゃないのかい?
「ありがとうございました。用が済んだので失礼します」
だからといって馬鹿にされるのは腹が立つ。
入室した時と同じくらい乱暴な勢いで、学秀はその場を立ち去った。
教室へと戻る道中、彼の頭を過ったのは水雲との様々な思い出であった。
彼女と初めて出会った場所――図書室。
そこでたまたま同じ本を求めていた両者は、しかも全く同じタイミングで互いに手を触れ合わせたのだ。少女漫画ならここから物語が始まりそうな、そんなロマンチックな光景である。
『……君もこの本を?』
『まあ、そうだね』
『悪いけど、僕の方が少しだけ早かったみたいだ。今回は諦めて欲しい』
『そうかな? 私には私の手の方が早く見えたよ。そっちの方こそ諦めるべきだと思うけど。浅野学秀君』
『僕の名前を? 穂波水雲さん』
『そりゃあ知ってるよ。入学式の生徒代表のスピーチ、君だったでしょ……というか君も私のこと知ってるんだね』
『君の容姿は目立つからね。自覚した方がいい。鏡を見ることをおすすめするよ……それじゃあ』
『生憎、鏡はあんまり好きじゃなくて――って、ちょっとちょっと! 勝手に持っていこうとしないでよ!』
そして五分に渡る話し合いの結果、結局二人はその本を一緒に読む運びとなり――
『ねえ、浅野君』
『……何だい? 今中身に集中してるから黙ってて欲しいんだけど……』
『さっきからページを捲るのが早いよ』
『僕はもう読み終わってるからね』
『私がまだなの! こっちは逆側から読んでるんだよ? おかげですっごく読みにくいんだから!』
『それなら僕が読み終わった後でまた借りに来ればいい。放課後には借りられる筈さ。このくらい、二時間もあれば十分だからね』
『……え? 浅野君、これ読み終わるのに二時間もかかるの? 私なら一時間で読み終わるのになぁ……』
『……訂正しよう。三十分もあれば十分だよ』
『……へえ? 私なら読み終わったうえで要点をレポートに纏めることもできるよ? 二十分で』
『……僕なら十分でレポートに要点を纏めたうえで、かつ人に分かり易く解説することもできるかな?』
『……あはは』
『……ふふふ』
最終的には殺伐とした内容の会話になっていたが。
何にせよ、これが二人のファーストコンタクトだった。これを機に二人の仲は進展していく。
『浅野君ってさ、名字がこの学園の理事長と同じだけど、もしかして何か関係があったりするの?』
『……理事長は僕の父親さ。ただそれだけだよ』
『ふーん……なんか色々と大変そうだね』
『別に大したことないさ。……穂波さんの両親は? 一体どんなお仕事を?』
『私の両親は……実は二人とも、もういないの。ママは私が小さい頃に病気で、パパは事件に巻き込まれて……』
『……それはお気の毒に。そっちの方こそ結構大変そうに見えるけど』
『そうでもないよ。伯母さんが代わりに色々と面倒を見てくれてるから。あ、そういえばさ! この間他のクラスでちょっと面白そうな子を見つけてね! 確か、小山君っていうんだけど――』
時には家庭環境を語り合ったり、時にはたわいない雑談に興じたり。
『浅野君、やっほー!』
『……』
『……あれ? どうかしたの? あんまり元気がなさそうだけど』
『……いや、少し考え事をしていただけさ。例えば、君がどうやってテストで満点を取り続けているのか、とかね』
『ああ、それ? 隠していた訳じゃないんだけど……実は私ね、未来が分かるんだ!』
『へえ……』
『あ、さては信じてない? それじゃあもう一つだけ……今日の数学の時間、多分抜き打ちテストが――』
『穂波さん』
『……へ? 急にどうしたの?』
『次の中間は僕が一位を取る。もちろん全国模試の方も。今度こそ、僕は君を下してみせる』
二年の月日が流れ、気づけば彼女が自らの隣にいるのが自然となっていた。
自身を特別と確信して止まない学秀が、生まれて初めて対等と認めた存在――それが穂波水雲という少女だった。
(穂波さん……僕はこれで君に勝ったとは思っていない。君ならすぐにA組へと戻って来られるだろう?)
E組の生徒にも救済措置は用意されている。
中間または期末の試験で学年五十位以内に入り、そして元の担任がクラス復帰を許可すれば、本校舎に戻って来ることができる。どちらも彼女なら余裕の筈だ。
水雲が戻って来るまでにすべきことは、A組の生徒たちを今より更に纏め上げ、彼女がいつ戻って来ても問題ないように態勢を整えておくこと。
いつか目指す先、実の父親、學峯を越えるためにも彼女の突出した個としての力は必要不可欠だ。
当面の方針は決まった。
廊下を歩く彼の表情に、既に先程までの焦りはない。
学秀が立ち去った後、學峯は深く溜め息をついた。
脳裏に浮かぶのは件の彼女――穂波水雲と最後に会話を交わした時のことだ。
実のところ、彼は水雲のことをいたく気に入っていた。
成績面ではあろうことか自らが手塩にかけて育て上げてきた息子、学秀を越える逸材である。それに加えて性格も社交的で明るく、運動面に関しても他より秀でている。
学校中の先生から期待され、生徒からは尊敬されている彼女を學峯が気に入らない理由はない。
身内を不幸で失っている彼女だが、もし叶うならば養子として迎え入れたいくらいだ。彼女のその高い素養と學峯の教育が合わさった時、果たしてどのような反応が起こるのか。彼ですら想像もつかない。
だが、初めて彼女と対面した際、彼は確信した。
学秀はあれを特別と称していたが、あれはそんな範疇に収まる存在ではない。あれは、決して誰にも御することはできないと。
『浅野理事長、実は一つお願いがありまして……』
『……え? どうしてそんなことを、ですか? 特にこれといった理由はないですよ。ただ強いて言うなら……E組に興味を抱いたから、とかですかね』
『後は何となく面白くなりそうな予感がするというか……やっぱり駄目ですか? ん〜……じゃあこういうのはどうです? ……あー、しまったー。手が滑ったー』
『これで私もE組行きですね。……A組に未練ですか? 特にないです。戻るつもりも一切ありません。浅野君たちにもそうよろしくお伝え下さい』
あの短時間の会話では、さしもの彼も彼女の本質までを見抜くまでには至らなかった。
しかし、もはやどうでもいいことだ。
どのような意図があろうと、彼女が他人の私物を平気で割る程に問題児だったのは変えられない事実。あのような異端児はA組に必要ない。ただ邪魔なだけだ。
それに彼女がE組に落とされたことで、残りの者たちは今後さらに励むことだろう。そう考えれば、今回の判断は将来への先行投資のようなものであった。
「さて、この後は――」
次の予定を確認する學峯。
彼の頭からは、穂波水雲という少女のことなどすっかり忘れ去られていた。