pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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思えば、最初から俺はそうだった。
生まれた瞬間愛想笑いから始まった人生。これにはキリストもびっくり。さながら川に流された桃みたいにどんぶらこ、どんぶらこと周りに流されて生きてきた。流されるまま国際サッカー連盟会長となり、流されるまま会長を続け、流されるまま任期を待つ。謎の勘違いをされ、拗らせた感情を向けられることに怯えつつ釈明の機会も与えられないまま暮らす。
それでいいのだろうか?
実は俺、休んでいいのではないか?
流されるまま生きてきた人生はここで一休み。一旦川から上がって、他の流される人を見ながら悠々自適ハッピーインゲボルグタイムを行っても許されるのではないか。
そう、それは、
会長辞任という形で!
「俺を殺すのは俺を引退させるのはだーれだ!ゲーム」
「どういう意味だインゲボルグ」
「そのまま。俺はね、会長を引退しようと思ってる。次のW杯あたりで。君たちは俺のこと大嫌いで大好きでしょ?殺したいぐらい大好きでしょ?だから考えてたことがあって。」
「………」
「W杯、ゴールデンボール賞。」
それはあまねくサッカー少年の希望。世界で最も素晴らしい選手であることを証明する、サッカーボールを模した金色のトロフィー。
あのたった数十センチのトロフィーを受け渡しのために抱える時、いつも思っていたことがある。
「アレを受け取った選手はね、色々なものを貰えるんだよ。」
「……よく知ってる。」
「そ。名声、賞金、誇り、賞賛、信頼、モテ期もまず間違いなく来る。でもさぁ、世界一だよ?血反吐撒き散らすほど努力して努力して努力して…得られるものがそれだけ?」
「何が言いたい」
努力して褒められるのは当たり前だ。努力したその対価が与えられるのは当たり前だ。でも、それだけ。足りないでしょ。世界の頂点に立った男に与えられるのはそれだけ。…いつも思ってたんだよね、もっとあげてもいいんじゃない?って。
「まだサッカー界には、世界の頂点に立った選手に差し出せるものがあるよね?例えば、」
俺は笑顔で自分を指差した。
「俺とか」
「お前、まさか自分すら捧げるつもりか。」
「…足りるかなぁ?どう思う?俺如きで世界一に見合うかどうか微妙なところかなぁとは思うんだけど、俺結構複雑な感情向けられてるところあるじゃん。」
俺とて清濁合わせ飲む覚悟だ。タダで引退できるなんてもとよりちょっっとしか思ってない。多少、多少なら!ブン殴られてあげてもいいよ!痛いのはやだけど!先っちょだけなら!
「それに俺そこで引退するつもりだから、俺が賞を渡した人が会長としての俺を看取ることになるわけ!実質殺したようなもんだよね!」
「お前……お前………!!」
「どっ、どうしたんですか絵心さん!ファーレンハイト様がまた何かやらかしたんですか!?」
「こんにちはガイドさん。コーヒー入れてくれたの?ありがとう。俺は何もしてないよ。」
「やりやがったこいつ……!!!!」
「だからやってないって」
俺のこと嫌いな人多そうだし別にいいじゃんね。いみふー。コーヒー美味しいなぁ。ローゼもコーヒーを淹れるのは上手なんだよ。コーヒーはね。
「おいしー、それで会長引退のアナウンスなんだけどさ、」
「引退!?!?!?」
「落ち着けアンリちゃん、カップ置いて。」
「今からしてもいい?」
「今から!?!?!?」
パリーン!と金属質の高い音が響き、不審者さんの分のコーヒーは地に還った。虚しいことだ。俺はそれを見ながら優雅にコーヒーを飲むことにする。
「早めに引退の意を表明した方が準備も出来るでしょ?」
「な、ななななにいってるんですかっ!?」
「この世は即断即決が大事なんだよ!決めたからには即行動!てなわけで館内アナウンス使っていい?」
「待て」
俺は不審者さんを見た。彼の声の響きは沈痛な色を含んでゾッとするほど冷たいものになっていた。
「……何かな?」
「インゲボルグ、お前はお前の意思でサッカーを捨てるということだな?」
「うん。そうだよ。」
不審者さんは無言のまま立ち上がった。ガイドさんが呆然と立ち尽くす中、溢れたコーヒーを踏み抜きそのまま俺の前でゆらりと止まる。そして俺の首を勢いよく掴んだ。死ぬほどビビった。だが愛想笑いだけは欠かさないあたり俺も職業病かな…。本気で締められてないからまだマシだけど本気だったら死んでた。会長引退前に死ぬのだけは嫌。
「後継はどうする」
「探したよ。随分ね。でも見つからなかったから幹部さんのうち一人にやってもらうことになると思う。」
「サッカーが嫌いになったのか」
「……別に?」
「何が不服だったか言え」
「何も」
「じゃあなんだ」
「んー……向いてないから?」
「は?」
「俺が会長向いてないから。」
「…な、何言ってんの、お前。アンリちゃん、こいつが何言ってるかわかる?」
「まっっったくなにもわかりません」
「あれ、もしや君たち俺より頭悪いの?」
「当たり前だろこのクソ君主!!!!!」
「えぇ…急に怒らないでよ、怖い…」
情緒不安定?あとそろそろこの手どけてほしい。カイザーじゃないんだからさぁ…すぐにでも俺の首をへし折れるという意思表示するのやめて。
「うん、じゃあ俺やめるから。アナウンス借りるよ。」
「待て待て待て」
「やめて!やめてください!!」
「どのボタン?この赤いの?すご!俺こういうところでスーパーヒーローの参謀役とかやってみたかったんだよね!かっこよくない?右側に敵!とかなんとか言っちゃってさ。あ、押すね。」
ぽちっとな。館内アナウンス!
マイクの隣に放送中を表す赤いランプがついた。すごーい、はるか昔の思い出だけど学校の放送室がこんなのだった気がする。
『ぴーんぽーんぱーんぽーん』
『それは口で言うものじゃない』
『あれ、ほんと?まぁいっか。…ゴホン、やぁこんにちは、ブルーロックのみなさん、そしてブルーロックTVをご覧の皆さん!PIFA現会長をやらせてもらっているインゲボルグ・フォン・ファーレンハイトです!』
俺は多分テンションが上がって気が狂ってたんだと思う。だって長年の夢でもある会長引退、ストレスフリー、ハッピーインゲボルグタイムの始まりだ!俺に対して殺意フルスロットルで来る選手たちもきっと!この条件なら諸手をあげて俺の引退に賛成するに違いない!!
そう思ってめちゃくちゃハイテンションになっていた。しょうがないね、うん。
『やめて!やめてください!会長!!』
『ガイドさん静かに!俺今から重大発表するんだから!…みんな聞いてる?
あのね、俺、次のW杯で、国際サッカー連盟会長を引退します!!!拍手!!!』
ぱちぱちぱちぱち。
奇妙なほど音がない施設内に、その拍手の音はよく響いた。
本来コートは音が絶えない。ボールを蹴る音、跳ねる音、誰かの声、場合によっては乱闘なんてのも。だが沈黙した。誰も彼も沈黙し、動こうとしなかった。そしてコメント欄の流れも同様に。何十万何百万の人々が見守っているチャンネルのコメント欄が十秒ばかり完全に沈黙したのだ。時でも止まったように、ぴたりと。
『だから次が、会長としての俺の最期になるわけ。』
脳が理解を拒んだ。
言葉が、なんの意味もなさずに通り抜けていった。
『俺のこと大嫌い?俺を殺したい?そうだよね、知ってるよ。そんな君に俺からとっておきのチャンスをあげよう!』
ずっといるのだと思っていた。
君臨し、嘲笑い、見下し、支配し、屈服させ、誰よりも無邪気にサッカーを愛した少年。
頭の良さただ一つで神になった貴方。
ずっとずっとこれからも、俺たちの神様は、そこにいるのだと。
なのに、それなのに、
『次のW杯で優勝したチームにはいつも通り賞金とトロフィーを!
そして、MVP、ゴールデンボール賞、世界一の栄誉を奪い取った選手にはトロフィーと、そしてね』
弾むような声が館内に響く。
誰かの手から滑り落ちたサッカーボールは時代の終わりを象徴するように力なく転がっていった。
『会長としての俺を殺し、そして看取る権利をあげたい。オリンピックと違ってW杯には年齢制限が無いから全員にチャンスがある。』
『俺を殺していいよ。殺せるなら。』
誰よりも楽しそうな声で。サッカーというスポーツにおいて十年君臨し続けた独裁者は自分自身に死刑を宣告したのだ。
─────────────────────────
なんて素晴らしい日だろう。世界が輝いて見える。ブルーロックの壁はピカピカ、お日様さんさん、不審者さんすら八割り増しでイケメンだ!うわ、APP18?
「やりきった…!」
「最低最悪のクソ野郎。お前、利用したな?」
「んふふ。何が?」
今の俺は気分がいい。とっても気分がいい。さながら蝶に孵った蛹のように晴々しい気分でいっぱいだ。不審者さんの質問にだって広い気持ちで余裕を持って答えられるもんね!
「最初はサッカーの発展だと思っていた。そもそも知らせてないプロジェクトに参加してるだけでもキモいが、お前は俺たちに参加し、日本のサッカーを壊すところまで予測していた。さらに言えばその先まで。俺はその全部がサッカーの発展に繋がると思っていた。俺たちはお前の愛するサッカーに捧げられるってな。」
「う、うん?ちが、違うよ?」
「あぁ、違った。違ったんだよクソッタレ!」
ご、ごめん。俺広い気持ちになれないかも。ダン!といつぞやのように机を叩き分厚いメガネを外して顔を覆った不審者さんは、くぐもった声で弱々しく呟いた。
「エゴイストが…!どれもこれもミスリードか!俺がお前をここに留めようとすればするほど、お前の計画が進むだけだった!!」
「不審者さん?」
ねぇなに?なんのはなし?
「自分の死に場所をこれ以上なく美しく用意してサッカーに捧げるためだけに、お前は世界全部を利用するつもりだ。たとえばブルーロックに注目を集めさせ、舞台を整えた。たとえば役者が欠けないようにマルク・スナッフィーを引きずり戻した。完璧なタイミングで、完璧な引退をするために。違うか?」
ビシリと顔の前に指が来た。俺はポカンとしながらその指を見た。そ、そうなの?俺、いつのまにか世界巻き込んでたの?わかんないよ。
……む。あれ、これ、使えるんでは。だってどうせ俺引退するんだし。またあらぬ濡れ衣を着せられている気はするが、人生ってのはそんなもんだ。
「んー…うん、そうだね。でもここまで事を大きくする予定は無かったんだ。本当だよ。」
「誰がお前の言葉を信用するって?」
「そんなぁ、信用してよ。」
悲しい。俺はいつのまにそんな信用のない人間になってしまっていたんだ。俺ほど清く正しく人に優しく生きてきた人間はいないっていうのにさ。
「俺が見てきた中でもド級のエゴイストだよ、お前は。自分の願いのためだけにあらゆるものを弄びやがって…精々その玉座でギロチンがかかるのを待ってろ。日本は強い。俺たちがこの手でお前の首を切り落としてやる。」
「うん、待ってるね。」
いやー!徐々に俺退任への布石が整ってきた!!最高!!
そうだな、一旦部屋に帰って辞表を書こう。幹部さんからの連絡も止まらないことだし、一回辞表と一緒に事情説明しにいくのもいいな!もうすぐやめられると思ったらわくわくだぁ!
「オーナー」
「うあっ!?ああ…なんだスナッフィーか…スナッフィー!?」
「今の冗談、何」
俺の真横から声をかけてきたのは、ちょっといろいろありすぎて気まずい人!マルク・スナッフィー!
俺は彼が引退すると知った時、謎のタップダンスを踊りそうになるぐらいには喜んだのだが結局彼は引退を取り消した。そして何がどうなってそうなったのか、スナッフィーはその引退撤回に俺が一枚噛んでいると信じている。ちなみに俺は何も知らない。むしろ喜んでた。見事にすれ違いが発生したわけだ。そんなわけでちょっと気まずい。さっきまで追い回されてたし。
「冗談じゃないよ!君は引退を撤回して俺は引退を発表する!プラマイゼロだね!」
「は?本気なわけ?」
「ごめん……あのね、もともと辞めたいなとは思ってたからこれを機に、」
「殺したいぐらい大嫌い。」
「え」
スナッフィーの鷲を思わせる特徴的な目がギョロリと動き、俺を突き刺した。知ってる。うん、スナッフィーが俺のこと大嫌いなことなんて知ってる。泣きそうだけどね!!
なのになぜかスナッフィーは不可解なことを消えそうな声で呟いた。
「死ぬな、しなないでよ、インゲボルグ」
俺は何度か瞬きした。
死ぬな、だって?当たり前だ。俺はただ…さっさと責任やら殺意やら面倒な仕事やらから解放されて常夏のリゾートでバカンスをしたいだけ!!
「本当に死ぬわけじゃないよ。じゃあねスナッフィー、ロレンツォが心配してるだろうし戻ったら?」
それだけ言って俺はたったかたーとその場を去った。追いかけてくるかと思われた彼はそこに立ち尽くしたまま動かなかった。
「ただいまローゼ」
仕事をしていたであろう彼女に一言声をかけ、俺はヨタヨタとベットに近寄った。
「インゲボルグ様、こちらに」
「なに?」
「幹部の方々との会議をお願いいたします。」
「えぇ…?やだ。俺寝る。」
「インゲボルグ様」
怒ってる。多分ローゼ怒ってる。俺は激おこぷんぷん丸系美女に弱いのでそろそろとローゼに近寄った。
「……わかったよ」
リモート会議を始めます。とローゼが抑えめの声で言い、俺は画面を見て、
そっと画面を閉じた。
ふむ……
「ねぇ、あのさ、こういうの不謹慎かなって思うんだけど。」
「はい」
「…彼ら、一気に身内に不幸があったの?」
なんか、暗い。暗いなんてもんじゃない。もしダークマターが生まれるならあそこ以外ないだろう。ジメジメしてる気もするし、全員顔が真っ青で目が死んでるし、俺が条件反射で画面を閉じたのもしょうがない。
「ありません」
「そ、そっか」
「でも今から死にます」
「……俺身内が今から死ぬ人たちの会議参加しなきゃいけないの?」
「はい」
「う、うぅ」
「それでは再開しますね」
それからはほぼ地獄だった。明日世界が滅亡します、みたいな雰囲気の中、時たま喋るかと思いきやそれは俺の給料の向上だったり、待遇の改善だったり、新しいスイーツショップの併設だったり。俺を会長のままにしておこうとする強い意思が垣間見える。俺の意思の方が強いので断固拒否したがな。
嘘、スイーツショップはちょっと揺らいだ。
「やめます!俺辞めます!!」
『……………うちの息子が、先日お父さんと一緒にPIFAでファーレンハイト様とともに働くことが夢なのだと……。』
「泣き落としやめて?なんと言われようとも俺は辞めるから!辞表書かないといけないんです!こら!!今シュレッダー起動したの誰!?え、何!?監督陣が呼んでる!?それ今じゃないとダメかな!!次期会長はもう俺が探しまくったけど見つかんなかったからそっちで決めてよ!!決まらなかったらジャンケンね!!」
そんなこんなで一波乱あったりもしたが、俺はなんとか地獄の会議を終えた。もちろん辞める意思は貫き通したので俺の勝ちだ。はっはっはっ!!若さとは力!!俺より髪の毛の本数が少ないなら諦めた方がいいぜ!!
その後、父様と母様からかかってきた電話もそつなく対応しすぐに帰ることを伝えた俺は人生で最強に最高でハッピーだった。引退しか勝たん。
「インゲボルグ様」
「どしたのローゼ。俺の決意は固いよ。」
「知ってます。ただ…」
「ただ?」
「皆さんの決意も、同様に固いと思いますよ。」
「やめてよそんな不穏な。」
何やら恐ろしい事を言うローゼに俺はささっと耳を塞いだ。
俺が望むのはただ一つ。引退!ここまで来たらヤケだ!誰にも邪魔はさせないぞ!
─────────────────────────
インゲボルグは失敗しない。
その事実が意味するところは重い。インゲボルグが肩を叩いただけであらゆる失敗は許されなくなる。彼が引退すると決めた以上、誰がどう足掻いたところで結果が変わることはないのだ。それは十年で積み重ねられた経験と信頼。あまりにも重い未来予知。
2022年、カタール、W杯。
そこで、誰かがその手でインゲボルグ・フォン・ファーレンハイトその人を
サッカーに生きる全ての人の道標を
サッカーにおいて神様になった青年を
殺さなければならない。
これを受けて同日即座に国際サッカー連盟はジュネーブで記者会見を開き、本人との話し合いとの結果インゲボルグに強い引退の意思があることとすでに辞表が提出されたことを理由に会長の辞職を認めた。後年葬式会見と言われる記者会見である。たった三十分と少しの会見だったが誰一人顔を上げず、記者すら一つか二つ当たり障りのない質問をして終わりの地獄のような会見だったからだ。
一方インゲボルグは『葬式じゃ〜ん!まぁほぼ葬式みたいなもんか〜』と呑気に呟いて炎上した。
少し視野を広げてみると署名運動がある。世界では大きな反発が起こった。サッカーの歴史を変えた二十歳ばかりのまだまだ若い青年が、明確な理由も示さないままサッカーを捨てようとしていることに耐えきれなかったのだ。彼らはインゲボルグの会長引退に反対する旨の署名を募り、連盟の倉庫を埋める勢いで紙の束を生成した。流麗な文体のハリウッドスターからサッカーボールの絵を描いたスラムの男の子まで。その種類は多岐にわたる。
一方インゲボルグはガスバーナーを手に署名の炎上(物理)を企てて止められた。
要するに、世界は一日で混乱の坩堝に叩き落とされた。あらゆるメディアが連日連夜死んだような目でインゲボルグの会長引退を解説し、明瞭な説明を求める中、どれだけ訪問の申し込みが来たとしてもブルーロックがその戸を開けることはなかった。なぜなら身内で手一杯だったからだ。
サッカー選手。加害者になり得るもの。人生の目標とも言える世界一の座を象徴する男をこれから破壊しなければならないもの。
彼らがインゲボルグの引退を知った時、まず最初にしたことは宣言と提案だった。
いわく、
「お前を殺すのは俺。でもお前を殺す責任も俺が取ってやる。」
世界一にはなる。そのかわりお前は俺と専属マネージャー契約しろ。サッカー界から消えるなんて許さない、という内容を聞いてインゲボルグは鼻で笑った。
「やだね!!バーカ!!!」
もはやスターをかっくらった無敵状態。七色に光り輝きながら周りを蹴散らし引退目指して突っ走るインゲボルグを止められる人はいなかった。
殺したいぐらい愛している。どうか死なないでくれ。エゴの塊のような傲慢だがその一言に尽きる。お前がそこにいるから。お前がそこにいてくれるから。お前がサッカーを愛していることを知っているから。お前が俺を見ないことを知っているから、俺たちはサッカーに打ち込んだ。
憎んでいた
同時に愛してもいた
とてもとても愛していた
幼い少年が世界を変えるのを見続けた。目に痛いほどの光だった。言葉を失うほど綺麗な光だった。
インゲボルグは失敗しない。引退すると決めたならその計画は失敗しない。アイツは死ぬ。俺たちの神様は俺たちの手で死ぬ。しなないで、なんていう子供じみた感情はアイツの計画に盛り込まれていない。
あの男に対するこれ以上ない愛情表現とは、血にまみれた赤百合を手折るようにインゲボルグを殺すことなのだ。
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俺は首を傾げた。なんていうか、あれから数日、かなり熱烈なアプローチ(殺意)を受けてる気がするぞ。
うーん……さてはみんな気が狂ってるね?毎日毎日馬鹿の一つ覚えのように死ぬな殺すぞ俺の手で死ね死因はサッカーなどと…。俺は会長を辞める!!辞めるんだ!!止めるな!!わざわざ海外から日本に来るな!!ねぇキラキラくん!!
「スペインから飛んできたよ、インゲボルグさん。俺のマネージャーになって?もちろん専属で」
「だからヤだって。やーだー!」
「じゃあどうして辞めるかだけ聞かせてよ。俺は貴方以上に会長に相応しい人を知らないし貴方以上にサッカーを愛している人も知らない。こんなサッカー後進国のアマチュアたちと一緒に貴方がいることすらおかしいっていうのに…。」
「相変わらず君は笑顔で毒を吐くなぁ。」
「吐かせないでほしいな。」
「レ…ルー…うん、そうだね君!」
「レオ」
「れお」
彼はキラッと輝く笑顔で俺に笑いかけた。眩しい。貴公子だっけ?そう呼ばれてた気がする。でもレオって名前はなんか違うような…手帳どこに置いた?もーすぐ忘れるんだから。あ、そうそうポケットの中だ。案外忘れちゃうよね、ポケットの中って。
「ちょっと待ってね、キラキラくん」
「どうして辞めるのかな?」
「任期。ねぇ後ろに立たないでよ。」
「信じられるわけがないでしょ。貴方が任期を変えられるのになぜそうしようとしないの?」
「会長向いてないって昔から思ってたんだよねー。」
「ハハ、正気?」
「もち。…ああルナくん!!レオナルド・ルナくん!!久しぶりだね、会えて嬉しいよ!トンボ帰りみたいになっちゃったのか、それより最近どう?」
「この世で一番愛して憎んだ人が自殺しようとしてるぐらい。元気だよ。…それなに?」
「メモ帳」
「内容は?」
俺はキラキラ輝く笑みを浮かべるルナくんと手帳に載ったキラキラルナくんの写真を交互に見た。これは俺が自分で自分の忘れっぽさに危機感を抱き作成したオリジナル選手ブックだ。名前と顔写真とプロフィール、そして俺の簡単な一言コメントが添えられている。大した情報量はないがそれなりに使えると思う。まぁ本業のスポーツアナリストからしたらゴミとしか言えない一品だ。
「んとね、君たちの顔写真とプロフィールと、それから俺から君たちへの一言アドバイスというか備考というか…ま、そんな感じのがまとめてあるやつだよ。」
もっと人に優しく!や甘いものくれる!や目があったら逃げろなどなど。ちなみにルナくんの欄には“寝起きにその顔の光度はキツイ”などと書いてあった。俺多分この時正気じゃないな。
「…俺の欄はなんて書いてある?」
「ぜっっっったい見せたくない。」
「それ、俺的にはどんな美女や宝石より価値あるものだから大切に扱ってほしいな。ねぇ、貴方のためにオーダーメイドのケーキをいくつか見繕ってきたんだけど…それでも見せてくれないの?」
「グッ、ガッ、だ、だめです…」
「今ここで俺が全部食べちゃうよ?」
「アッ、ワッ、」
「あーあ、せっかくスペインから日本まで来たのに貴方はどうして引退するのか言ってくれないし、お土産は受け取ってくれないし、ここにはやたらと長くいるくせに俺にアドバイスの一つも無いみたいだし…」
「ちが、べつに」
「とても悲しいなぁ、インゲボルグ。」
あう…あう…と俺は謎の言語を発しながら俺は崩れ落ちかけた。落ちる前にすごい速さでキラキラくんが腕を掴んだのでセーフだったが、やはりここは本音を言うべきだろうか…。ケーキ…美味しそうなけえき…。
「貴方は膝なんてつかない」
「うんうんそうだね。君結構昔もそんなこと言ってなかった?…あー、わかったよ、言うよ。」
「!」
「あのー…もういいかなって思ったの。」
「……もういい?」
「うん、なんていうか。疲れた?」
ちょうどいい。どうせカメラもあることだ。俺が辞める理由をなんとか伝えよう。
「別に俺がいなくてもどうにでもなるでしょ。十年やったんだ、そろそろ俺も休憩していい頃合いかなって思ったの。それだけだよ。」
「…サエが聞いたら怒るだろうな。」
「ああ、君も相当怒ってるよね?腕が痛くてしょうがないから離してほしいな。」
腕がギチギチなってる気がする。キラキラくんの額には青筋が浮かんでるし、俺の足は逃げたがってる。愛想笑いを浮かべつつ、俺は脳内でひたすらローゼを呼んだ。助けてローゼ。
「なるほど、俺たちは貴方に見捨てられたんだね。」
「そうとは言ってないって。」
「それ以外のなにがある?引き止められないのは全て俺たちの責任だよ。貴方がサッカー界から興味を無くすなんて考えもしなかった…。ここの子たちの影響?」
「いいや?前々から考えてた。」
「…どうしても?」
「うん。俺が決めた。」
彼の力が弱まったうちにそそくさと半径二メートルを保つ位置まで移動する。ああしまった。キラキラくんが部屋の前に立っちゃった。もう部屋には入れない。不審者さんの部屋まで戻った方がいいかな…。
「貴方にそうさせたのは何」
「誰でもないよ。ところでどこまでついてくるの?」
「少なくともスペイン行きの飛行機に乗るまでは、かな?」
「きーんぐぼんびー」
「なにそれ」
「なんでもないよ」
最悪な旅のオトモができちゃった。すごいぞ、俺もう後光が差してるんじゃない?キラキラくんという人工の光でさ。
「インゲボルグ」
「やぁDr.こんなところでどうしたの。練習は?」
廊下の向こうからやってきたのは髪型をオシャレな…何アレ、オシャ結び?尻尾みたいな感じの髪型にしているマンシャインのDr.さんだ。Dr.とは彼の素晴らしき異名。何を考えているかわからない作画コストの低そうな顔もお医者さんや研究者っぽいよね。
「クリスが死んでる。アンタが引退を発表してからずっとそう。」
「治してよDr.延命治療はお手のものでしょ?」
「…ていうのは建前。」
「ほほう?つまりぃ?」
Dr.くんは周りに音符を散らしそうな勢いでバッ!と俺の手元を指差した。
「インゲボルグのケンキューノート!!」
「やっぱりそう言うと思った!」
「下がってキミ。永眠してる王子様のところにでも戻ったらどう?」
そうそう、Dr.くんは俺のことを研究のパイオニアだと思ってるちょっと頭がアレな人なんだよね。俺は選手のことなんてなぁんにもわからないのに、彼は俺を全知全能の凄い人だと思い込んでやたら解釈を聞きに来る。ごめん、なんもわからん。なんも答えられん。
「ここには興味深い成長の仕方をする選手が何人もいる!もっと知りたい!もっともっと!!インゲボルグのノートにはなんて書いてある!?どう研究した!?俺が理解しきれなかった部分もインゲボルグなら完璧に、」
「うわー…変態マッドDr.」
「そう言わないでよキラキラくん。これも彼なりの…感情の表現方法なんだから。あと俺の手帳はほんと大したこと書いてないよ。」
「大したことないわけがない!!」
「そこに関しては同感だけど….」
「ほら、Dr.くんのとこなんて、えっと、」
「なぜ俺には見せてくれないのにそいつはいいのか教えてくれないかい?インゲボルグ。」
「まだ見せれる方なの、Dr.くんは」
ぱらぱらとめくりつつ特徴的なDr.くんの顔を探す。キラキラくんとは違ってちゃんとマトモなことを書いたような気がするなぁ。見せられないほどじゃないやつ。
「そうそう!『俺みたいなのと相性悪そう。理解しきれたらすごーい』ぐらいでさ。」
俺みたいな馬鹿とは相性悪いだろう、彼。理論で動くタイプっぽいし。しかしそれで俺の行動を理解し始めることができたら凄いものだ。いや、凄い通り越して怖いな。
「……」
「すぐそういうことする……」
「……インゲボルグ、それ、いつ書いた?」
「んー?確か初対面の日かな?極力忘れないようにその日のうちに書くようにしてるからね。」
「キッッッッッ、」
「落ち着こうアギ。気持ちはわかるが落ち着こう。」
「え、なに?なに??」
「ムリムリ、はー、なに?セーシローのことまで見抜いてたの?いや、そうか…“天才”を理解できれば俺は……うん、インゲボルグ。やっぱりマンシャインに来ない?その才能、ポイ捨てするにはもったいなさすぎる。」
「ヤダッ!」
「そうだよ、レ・アールに来るんだから。」
「は?」
「あ?」
「どっちにも行かない!俺は引退するのッ!!」
なんでわかってくれないんだ二人とも!俺は引退するんだ、どこかに所属するとか誰かのマネージャーになるとかそういうことはしないよ!面倒!!
なにやら喧嘩をし始めた二人を置いて俺はのんびり自室へ帰り始めた。もう邪魔する人もいないしね。ゆっくりと…
「………」
「…………」
「……今日はすぐに殺しに来ないんだね、カイザー」
最悪。鉢合わせした。
ミヒャエル・カイザー。金髪に青のグラデーションが入った髪の毛に、青薔薇のタトゥーが特徴的な物凄い美形さん。しかし綺麗な薔薇には棘があるとはよく言ったもので、俺の手帳の中で彼は目があったら逃げなければいけない人物として登場している。シンプルに殺しにくるからだ。怖いね…。昔はそうでもなくて懐いてくれてたと思うんだけど…一、二年ほど前に少し喋った時、彼が俺を消火器で頭をぶん殴ろうとしたのが終わりの始まりだった。それからというもの殺意がフルマックス。ねぇ会話しよ?まだわかりあえるよ俺たち。
ところでノア。君のとこの若い子さぁ…教育方針について話し合わない?
─────────────────────────
「ねぇ、ノアから聞いたよ。君足強いんだって?じゃあさ、」
ソイツは真っ赤な瞳を輝かせて笑った。
「ゴールネット突き破れる?」
サッカーに生きる全ての人間にとってインゲボルグ・フォン・ファーレンハイトは神だった。アイツに認められるということはサッカー界には認められるということ。
ミヒャエル・カイザーは知っている。あの男の視界に入った瞬間の、背筋を炙られたような興奮を知っている。天使に頭を撫でられたような暖かさを知っている。
アイツが声をかけたのは俺だけだった。その事実の甘露さを、知ってしまったので。
「できる」
そう悪魔に唆されて答えたのもしょうがなかったのだ。
インゲボルグ。サッカーの神様。絶対君主。独裁者。同じ世代の、はるか先を行く圧倒的な才覚。天才だ。あれは神才の類だ。
アイツが一度バスタード・ミュンヘンの下部組織まで視察に来た時、アイツの隣にはノエル・ノアがいた。滅多に来ない男だったが練習よりも、十歳年下のインゲボルグといるのが合理的だと判断してそこにいた。
「今日は何をしに来たんだ。」
「本場のソーセージ食べに来た!」
「そうか。それで本命はなんだ?」
「ソーセージ!」
「本命は?」
「そ、そーせーじ……」
「誤魔化すな。秘書は?」
「…な、ないしょできた……」
「そうか。秘書の電話番号は、」
そのバカっぽい男がインゲボルグだった。黒髪に赤目のカイザーと真逆の色彩を持った同年代の少年。
初対面のソイツは整った顔立ちを華やかに明るくして指差した。
「そ!そうそう!彼をね、見に来たんだよ!」
指の先にいたのは俺だった。
「やりましたねカイザー!!インゲボルグですよ!あのインゲボルグが、カイザーを見に、」
「わかってる。黙れネス、通過点だ。」
これは通過点に過ぎない。世界一になるには、世界にカイザーという名を刻むためには、大前提としてあの男に認められる必要がある。今のサッカー界はインゲボルグが基準だ。アイツが認めれば認められ、ダメならそこで終わり。まさに独裁者。だがその判断が間違っていたことなど一度としてないからこそ、そのひどく傲慢な振る舞いは許され続けている。
「うわ、君ぶっちぎりじゃない?」
「ぶっちぎり?」
「うん、同世代でぶっちぎり。俺ここまで足が強い子は見たことないなぁ。さっきのシュートなんてネット突き破りそうだったもんね!」
この時の心臓を鷲掴みにされたような感覚を、誰がわかるというのだろうか。指先が震えて声が喉に張り付いて視界が真っ赤に染められて、ああ、自分がどこに立っているかすら曖昧になって。
褒められた。インゲボルグに。サッカーの神様が俺を見た。きっとあの高揚は同じ経験をしたものにしかわからない。
赤が好きだ。
あのファーレンハイトの赤い目が俺を見る瞬間が好きだ。
言葉が天啓のように落ちるのが好きだ。
発した言葉一つ一つがまるで未来予知のように全て美しく叶えられていくのが好きだ。
無価値なものを切り捨てる時のあの冷たさが好きだ。
底冷えするような冷酷さとそれを違和感ともしない、させない圧倒的な支配が好きだ。
完璧が好きだ。
インゲボルグ・フォン・ファーレンハイトという男は完璧だった。
結果を。完璧な男の視界に入るための、完璧な結果を。千の言葉よりも雄弁な結果を。カイザーは求めた。結果さえ出せば隣にいることが許されるのはノエル・ノアが証明していたから。
まだ若く、才覚に溢れ生意気な性格のカイザーを疎むものは多かった。練習試合のあったとある冬の日、活躍するカイザーに向かって多少なりともブーイングを飛ばそうとしたものがいた。それをいつのまにかそこにいたインゲボルグが人差し指を自分の口に押し当てただけでそこは異常なほどの静謐に包まれた。
「別に君を見に来たわけじゃなくて、この辺にあるバウムクーヘンのお店に来ただけだよ。」
「じゃあなんで黙らせた。」
「んー?うるさかったから。」
ふ、と口元が緩んだ。なんて傲慢なサッカーの統治者。
それからカイザーは少しでもインゲボルグがチームに来れば刷り込みをされたアヒルの子のように彼の後ろをついて回った。得るものは多かったように思う。アイツがほんの数秒選手を見て、ぽつんと言った一言こそがソイツの弱みであり、足りない部分。
「おい、どうすればその目が持てる。試合で使えるようになる。」
「……め?目か。うーん、見ればいいんじゃない?」
「ハッ、クソ天才」
「それ褒めてるの?貶してるの?」
サッカーの神様、と言われているのを知った時妙に納得したのを覚えている。すとんと落ちたとでも言えばいいのだろうか。神様。その通りだ。気まぐれで潰し、気まぐれで愛し、なのに誰も逆らえないほど圧倒的で。それはまさに完璧そのもの。
傷ひとつない、俺たちの神様。
きず、ひとつない、
『ノア、俺辞めるよ』
ばさりと手から赤百合の花束が落ちた。レッドカサブランカの花束。いい値段がした。アイツの象徴。好きかなと思ったから。
扉越しのその声は焦りや苛立ちを含むでもなくただ淡々と確定事項を読み上げているような落ち着いた声音だった。ほんの少しの怒りすら含んでいなかった。
「やめ、…る」
は。なんだ。俺は何を聞いてる。あいつは、インゲボルグはサッカーを見捨てたりなんかしなくて。俺たちを見捨てたりなんかしなくて。
ぐるぐると視界が回る。からからと思考が回る。
赤が。鮮烈な赤が。床に散らばる赤が。今俺の目の前に立ち俺を見ている血のような赤が。
別に、何か劇的なことが起こったわけじゃない。目の前で家族が死んだわけでも、足が千切れたわけでも、怖いゴーストが出たわけじゃない。
ただ、憧れという名の信仰が音を立てて壊れたような。そんな気がした。
「なんで」
「ん?…あ、いたの。ごめんね、俺帰るからどい、」
「なんで!!!!」
「うぇ、わ」
「ふざけんな!!俺たちを捨てるのか!?!」
違う!!違う違う違う違う、インゲボルグはサッカーを愛している!!サッカーを、サッカーだけを愛しているからインゲボルグは完璧そのもので手の届かない星たり得るのに!
俺はお前を諦めることができたのに!
「任期があるからね。もうやめるよ。」
「お前が変えればいい!!出来るんだろ!?」
「しないよ」
頭を重たいハンマーでガツンと一発、ぶん殴られた気分だった。
インゲボルグ・フォン・ファーレンハイトは完璧だ。
神の領域まで踏み込んだその知能を愛するサッカーのために使い、そんな在り方に焦がれ手を伸ばしたとしても指先すらインゲボルグには触れられない。許されない。誰だって。
会長としてのアイツならいい。世界一の男になれば並び立つことができる。だがインゲボルグその人はダメだ。ダメなはずだった。だってアイツは俺たちを見ていないから。サッカーしか愛していないから。あの赤い目に俺たちが本当の意味で映ることはないと、誰もが知っているから。
「サッカーを愛するのはやめるのか」
「….そういうわけじゃないんだけどね、ちょっと疲れちゃったから。」
「はっ、な、んだよそれ」
お前がサッカーを捨てるなら、お前は完璧じゃなくなる。
お前が完璧じゃないなら、俺がお前を諦める理由が無くなってしまう。
お前が人間であることを知ってしまう。
やめろ、やめてくれ。俺は完璧なお前が好きだ。絶対に手が届かないから憧れで済んだのに、お前が人間であることを知ってしまえば。
知って、しまえば。
「……人間の記憶に一番残ることはなんだ。」
「な、なんの話?」
「個人にとって一番傷になることは。」
「傷に?うーん…裏切られるとか…殺されること?」
「そうか」
じゃあ、それでいい。
それがいい。
他の人間に殺される前に、俺がお前を殺してやろう。
焦がれた。綺麗だと思った。手が届かないと思い知った。だからこそ俺はインゲボルグの隣に立つことを諦め、会長という地位に君臨し続けるアイツの隣を目指そうと思った。でもそれは間違いだった。
なら俺は、
「俺は完璧じゃないお前の傷になりたい。」
完璧じゃないお前の人生にミヒャエル・カイザーという形の傷を残したい。お前が膝をつくような皇帝になりたい。そんな夢を、奇跡を叶えたい。
どうか俺の手で死んでくれ、目障りな俺の星。
─────────────────────────
“ 待った!!金ならある!!!”
そう叫んで逃げていたいつもの俺はもういない。
今回の俺は一味違うぞカイザー!!
なぜなら俺は、会長を辞めるからだ!!!
「ふっふっふっ、カイザー!君は俺を殺したいよね?今回の提案なんて渡りに船でしょ?すごぉく素敵な提案でしょ?だからね!今殺すのはやめてほしいな!!」
命乞いをする時のコツは二つ!相手を楽しませることと、そして相手を納得させるだけの理由を示すこと!って誰かが言ってた!そして今日の俺はどちらも満たしている!どうだいカイザー?俺を殺したくないって気持ちが湧いてきたんじゃない?
「ああ」
「えっ」
ふっ、と柔らかくカイザーは笑った。数年ぶりに見た彼の笑顔だ。
ほんと?ほんとにほんと??
え、すごい。俺初めて命乞い成功したかも。いつもは失敗して逃走してたから…。
「お前の死体も愛してやる。」
「
ノア!ノア!!君のチームの教育方針について少しばかりお話があります!!
「お前がサッカーを愛さなくなって、俺にとっては死体も同然になって、お前に傷を残せたとしても俺は満足しない。俺の側近としてお前を雇って飼い殺しにしてやる。」
「それ聞いて君のそばにいるわけなくなーい?いつも君と一緒にいるあの子で満足してよ。」
「ただの引退ならクソ殺してたが、“そういう”死に方なら許してやる。」
「本当に殺すのはやめてね?あくまで会長としての俺を殺す権利を君たちの内の誰かに渡すだけだから。」
「あ゛?俺にだろ?」
「さぁね。未来のことはわかんないよ。」
「よくもまぁその口でそんな事が言えたもんだな、インゲボルグ?」
ガッと広い手のひらで口元を覆われて何も言えなくなる。モゴモゴとうっすら反抗のようなものを試みたがダメそうだ。なるほど、ピンチだね?
「お得意の未来予知で俺の名前を呼んでみろよ。それともその舌を切り落とせば多少はこのクソッタレな気分が良くなるか?」
「もががもごごがご」
ならないよ!よくはならないよ!俺のこの軽妙な語り口と能天気な性格がないとただでさえ地獄なサッカー界がさらに陰鬱としたものになるでしょ!?
「ぷはっ、あ!ラヴィーニョ!奇遇だね!助けてくれない?」
「インゲボォーールグ!!!!ヘイヘイヘイ、今すぐあのふざけた宣言を取り消して俺!専属!のサポーターになるってんなら助けてやっても」
「引っ込んでろジジイ」
ぴた、とラヴィーニョの笑顔が固まった。
「…ハァァン??」
「君たち喧嘩しか出来ないの?やめてよぉ、責任者俺なんだからね?全世界のパパママから子供の教育に悪いなんて言われちゃったら何も反論できないじゃん。」
「でも見つけたのはインゲボルグだろ。」
「それはそうだねラヴィーニョ…いや、君たちが凄いだけであって俺は」
「インゲボルグ様!!こちらにいらしたんですか!!」
「ローーゼーーー!!!」
ローゼだ!!ばんざぁい!勝った!!やった、ローゼがいてくれるならこの修羅場もきっとどうにかしてくれるぞ!
「勝手に喧嘩が始まっちゃって困ってるんだよね。」
「貴方がそこにいると喧嘩しか起こりません!!引き継ぎ業務が山のように残っていますよ!早くお戻りください!どうしてトイレに行っただけでこんなことになるんですか?!」
「さぁ…ひ、引き継ぎ業務か…」
積み重ねられた紙の山を思い出して遠い目になる。俺は悲しい目をしてカイザーとラヴィーニョを見たが、二人はレスバに忙しいらしく俺が救われることはなかった。
「あのね、手加減してくれると嬉しいな。」
「引退撤回すると減りますよ。」
「そか……」
ダメっぽいな。
「後で……」
「後回しにしてもタスクは減りません。」
「はい、その通りです。あー、でもね、一応プリンスの様子見に行っていい?彼死んじゃったみたいで…会長として死体の確認ぐらいは行ったほうがいいんじゃないかなと思うの。」
ローゼは一瞬眉を顰めたが最終的にはコクリと頷いてくれた。ローゼしか勝たん。勝たんしかローゼ。
「ありがとうローゼ!」
イングランド棟のマスタールームに入ってしまった俺は、下に落ちる軟体動物がクリス・プリンスであることに気がついた。生存確認、ヨシ!!
「いんげぼるぐ……」
「これどうしようかローゼ」
「クリス・プリンスは残機制なのでそのうち元に戻るかと思われます。」
「そっか!じゃあねプリンス!生きてそうでよかったよ。君のとこのDr.くんが喧嘩してるかもしれないから後で拾っておいてね。」
「いんげぼるぐ」
ガシィリと足を掴まれ俺は動きを止めた。流石はノエル・ノアと評価を二分する男。力がはちゃめちゃに強い。一歩も動けないぞ。
「きみがしぬならおれもしぬ」
「これどうしようかローゼ」
「……インゲボルグ様、彼はトッププレイヤーの一人です。彼もまとめて引退ともなればサッカー界は大きなダメージを、ただでさえ大きすぎるのに…また受けることになります。止めてください。」
「無茶振りだなぁ。」
でもそれはそう。プリンスはいい人だ。優しいし。彼まで道連れで引退となれば…ワンチャン俺の引退の影が薄くなったり?スナッフィーのように!
「ねぇ聞いてプリンス、」
「え、あ、あっ、インゲボルグ…?うわ、すげぇ!マジのインゲボルグだ!」
あ、赤い長髪の可愛い子!そうか、君もプリンスを選んでイングランド棟に入ったんだね!一番マシ…一番優しそうだもんね!パッと見!!見る目あるじゃん。
てか意外と雄々しいな…。儚げ中性的美少年かと勝手に思ってたわ。ごめんね、俺もよく勘違いされるから上手くやれたりしないかな。…んー、や、俺は見た目通り人畜無害な優しいイケメンお兄さんだから別にいいか。
「ヒョーマ・チギリさん。どうしてここにいらっしゃるのでしょうか。ここはマスタールームですが。」
「あー…マスターに足に負荷がかかりすぎない筋トレ方法を聞きに来た…です。えー、」
「彼女はローゼ。俺の秘書だよ。筋トレ?いいね、俺もちょうど体を鍛えたいって思ってたんだ!一緒にムキムキになろうよ!俺さ、同じ身長のイサギくんより遥かに軽いんだよ?頑張って鍛えたいよね!」
「インゲボルグ様はイサギ選手より身長が低く筋肉量が多いわけではないので妥当ではないでしょうか?」
「同じ身長だよ」
「いえ、ですが」
「同じ身長だよ」
「インゲボルグ様は一年前から身長が…」
「同じ身長だよ」
「…………はい」
同じ身長だけど…どうしたんだろうローゼ。らしくないぞ。きっとやることが多すぎて頭がパンクしたんだね。俺とイサギくんの身長は同じだよ。決して俺の方が低いわけではない。
「なぁ、えと、そのー…」
「うん?」
「ま、まじで辞めるんですか…?」
「エ、うん」
「い"や"だインゲボルグ!!!!」
「落ち着こうプリンス。ほら、健全な精神は健全な肉体に宿るんだよね?ごめん二人とも半径三メートルにあるものどかしてくれる?二メートル近くある成人男性の本気の駄々が繰り出されそうだからさ。」
その肉厚な肢体を放り出して大の字になり、今すぐにでも駄々をこねそうだったパーフェクトヒーローさんは急にスン…と立ち上がった。怖…情緒…。
「わかった。君が望むものは全て用意しよう。」
「いや俺金ならあるから自分で用意できるよ。」
「これ本当にクリス・プリンス?」
「そうだよオジョーくん」
「ブッ」
「あれ、そう言われてなかった?」
「いや、ちが、あってるけど」
確かオジョーって呼ばれてたような気がしたのだ。合っててよかった。
ふと視線を上げると可愛らしいぬいぐるみと目が合った。青い服を着た可愛いクマさんのぬいぐるみ。ブラツタさんから試作品を一つ貰ったんだよね。
「そ?よかった。…あー!これ俺持ってるよ、このブルーロックマのぬいぐるみ!可愛いよね!プリンスも好きなの?知らなかった!趣味合うね!」
「ミ°ッッ!!」
「それ俺からカツアゲしたやつ…」
「インゲボルグ様。写真を投稿しましたか?」
「うん!可愛いかったから!」
「そうですか、もし嫌だったら彼にしっかり伝えてくださいね。」
「…わ、わかった…?」
な、なんぞや?なんで俺が写真を投稿することとプリンスに拒否を伝えることが繋がるんだ?まぁいいか。難しいことは考えてもしょうがないし。
「じゃあ帰るね、バイバイ。…そーだオジョーくん」
「は、はい!!なんですか!!」
わ、体育会系。シャン!と姿勢を伸ばし傾聴の態勢に入った彼に向かってひらひら手を振った。
「自分の足、もっと信頼してもいいんじゃない?」
「……っ、はっ、い!!!」
俺なんかよりよっぽど筋肉も経験もあるだろうし、怪我もしてなさそうなのにわざわざ足に負担をかけない筋トレを聞きに来るとはこれいかに。もっと信頼してあげてほしい。己のマッスルを!
そう思って言っただけなのだが、思ったより気合いたっぷりの返事が返ってきてしまい俺はオロオロしながら部屋を出た。圧が強い。最近の子、皆例外なく圧が強い。なぜ。そうでなくばサッカー選手などやれないのか?
「…まだサッカーが好きなくせに」
ぼそりと俺の背中に向かって呟かれたクリス・プリンスの一言に俺はなんと返せばいいかわからず、黙って自分の部屋に向かった。ローゼは部屋に着くまで固く口を結んだままだった。
もしかして、万が一、億が一、俺の中に俺も知らなかった『サッカーが好き』という感情があったとして、はたしてそれは俺が国際サッカー連盟会長を続ける理由になるだろうか。いや、ならない。なぜなら会長を辞めたいという気持ちの方が強いから。
だがみんなは俺のサッカー愛の方が強いと言う。俺がサッカーを愛していると言う。俺ほど会長に相応しい人間はいないとも言う。そんなわけないだろ。いるよいるいる全然いる。その辺のミミズとかの方が相応しいよ。だって変なこと言って空気を凍りつかせたりしないし。
「作りません」
「…何を?」
部屋に着くならローゼはそう言った。悲壮さを漂わせた強い覚悟に、俺は先を促した。
「次期会長は決めません。」
「……」
「何かしらの決裁がある際は幹部による多数決で決めます。会長が必要な機会には現在の幹部が持ち回りで対応します。会長は、これからも、一人で」
差し出された書類を見る。俺のサインが必要なようだ。内容は簡単。俺は会長をいつでも復帰していいこと。それまでは幹部が対応すること。そして会長の席は空白の玉座として、とある人のために永久に開けることに対する同意を求めていた。俺は笑いながらサインした。可哀想に、サッカー界はこれからずっと首なし騎士デュラハンだ。
「まるで俺が英雄みたいだね。」
「インゲボルグ様に終身名誉会長の称号を与える話も進んでいます。」
「ふぅん、止めておいて。いらないよ。身分不相応だから。君の方こそ何かしらの賞を受け取るべきだと思うけどな。」
「…いりません」
「そう?」
はく、と口を動かし空気を吐き出したローゼに向かって俺は首を傾げた。
「辞めないでください。辞めないなら賞なんていくらでも貰います。スイーツもたくさん用意します。まだ…まだ、やれることはたくさんあります。サッカー界にはこれからも貴方が必要です、インゲボルグ様。どうか、」
困ったな。俺は女性のお願いには弱い紳士だ。しかもあのローゼ。困った……どうしよう、えー…会長はやりたくない。絶対もうやりたくない。生まれ変わってもやりたくない立場圧倒的第一位。でも、でも、ローゼ…。俺に尽くしてくれたローゼ…こんな俺を見限らないでいてくれたローゼの頼み…。
「〜〜っ、んー!あー、わかった、わかったよ。じゃあこうしよう。」
「!!」
「俺が会長を辞めるという事実は変わらないし変える気も無いけど、もし仮に…俺が会長に戻りたいって思うほど強烈で鮮烈で最高にヤバいサッカー界が出来たら、戻ることを考えるよ。」
「インゲボルグ様っ!!」
「考えるだけ、考えるだけね。」
そんなにキラキラした顔で見つめられても困る…。なんだよ俺、条件がアバウトすぎるだろ。でもそのぐらいじゃないと無理矢理引きずり戻されそうだし、これでいいのかも。
さて、俺はただちょっとだけ悪運に恵まれただけの人間だ。とった行動が全部深読みされるし、性格が捻じ曲がってると思われてるし、サッカーが好きだと勘違いされてるけど。
そんな俺が今までやってこれたのはひとえにローゼのおかげ。最後ぐらいは彼女に何かしてあげたい。お返しだ。何がいいだろう?アドバイスが欲しいな。クリス・プリンスなら…いや、彼ほどキザに決められる気はしないな。大人っぽくてわりと良識がある人…。ラヴィーニョは論外。不審者さんは怖い。スナッフィーは…前すごく淡々とイタリアに来ることのメリットを語られ続けたからちょっと怖い。気を抜いたらイタリアに連れて行かれる気がする。ロキくんはまだ子供と言ってもいい年齢だし…。
「ノアしかいないか……」
というわけでやってきましたマスタールーム!と言いたいところだが、なんとその途中でロキくんに出くわしてしまった。見覚えのない、ような…あるような子と一緒だ。うーん、大分幼いぞ。誰だろう。
「あ、お化け」
スパーーーン!!とあまりにも爽快な音が響き渡った。ロキくんが隣の男の子の頭をフルスイングで叩いたのだ。えぇ…?人に優しく……。
「あ、ロキくん、それから…」
「こ、こん、こんにちっ、」
「はいこんにちは」
「痛いよロキー。すごーい本物のファーレンハイト?お化けみたいな頭の、あの?俺シャルル!シャルル・シュヴァリエ!よろしくお願いしまーす!」
「はいよろしくー、っていっても俺もう引退するからなぁ。あんまりよろしくできないかも。」
「んぐ、ま、ま、まって、くだっさい」
「ロキー?ロキ、そんな喋り方だった?」
「ロキくんは喋るのに少し時間がかかるタイプなんだよ。ゆっくり待とう。」
ロキくんは俺とお喋りするとどもりがちになってしまうという謎の癖がある。まだ十七歳にも関わらず、とっくに俺の背丈を越した神童はその背中を折り曲げて口元を動かした。
「ふら、ふらんす、ききき、きませ、きませんか」
「ああ!俺ちょうどルーブル美術館で見たい絵があったんだよね!聖母マリア様の絵。俺の部屋にもあるんだけどレプリカでさ、死ぬ前に一回本物見たかったんだよねー!」
「はは、ロキどーてーみたい」
「こら!」
そういうの想像以上に傷つくからやめてあげろ。大丈夫ロキくん。たとえ君に経験が無かったとしても俺とお揃いだし俺は仲間だから…ところでそこの君何歳?
「あー、えー…き、騎士くん」
「
「シャルル、インゲボルグさんのつけたあだ名に文句をつけないでください。」
「えぇーー…?」
「騎士くん何歳?随分若いね、もしかしてロキくんよりも年下?」
「そうだよー!十五!!」
「若いねー!!」
十五…生まれて十五年…そんなのまだ赤ちゃんだよ…。それなのにこんなよくわからないところに来て難しいスポーツして世界で活躍してるなんて!人生三周目とかだったりするのかな。俺は二周目。負けた。
「か、彼は、P・X・Jの、ぱ。ぱぱさ、パサーで」
「ほほう」
ぱさー?なんだっけぱさーって。ぱさぱさしてる…乾燥とか?フランスの乾燥?乾燥しやすいってこと?へー、意味わかんない。俺サッカーあんま興味ないんだよなぁ。
「騎士くんぱさーなんだね。大変だろうけど頑張って。応援してるよ。」
「マジ?!お墨付き貰っちゃったぁ!」
「ロキくんもその歳からいろいろ考えてて偉いね。十代の
「えぁ」
「ロキ!?ロキが溶けてる!?待って待ってファーレンハイト!!」
「え?さっきまで直立不動だったのになんで?」
ロキくんは俺と喋る時、直立不動で俺に視線を固定しながら会話するくせに今は廊下に倒れている。何がスイッチなんだろうか。
「お化けみたいに頭が良いお兄さん、俺たちフランスもお兄さんの確保のために全力で動いてるみたいだけど…」
「動かないでよ」
「本当に死んじゃうの?」
「そうだね」
「いやです」
「わぁ生き返った」
ロキくん、急に手を握っちゃ驚くよ?フランスで何を学んだのさ。優雅に冷静に落ち着いて!
「し、死なないでください」
「それは…まぁ。無理かもね。」
ガーン!と音がつきそうなほど肩を落としたロキくん。それを見て騎士くんは珍妙な生命体を見る目で彼から一歩離れた。
「ぱさー、気をつけてね」
「え?」
乾燥、これからの時期大変そうだから。サッカー選手たるもの自己管理はしっかりできそうだけど年上としてここはアドバイスしておこう。
「これからいろいろと荒れる時期になるだろうから対策はしっかりするんだよ。」
「うわ!聞きたくない!それ死ぬほど聞きたくない!噂の神託じゃん!!」
「噂の…?」
「あぁーー、聞いちゃったぁ…ヤバいよロキ。ミーティング長くなってもいいから次の試合の対策立てよ。俺最悪な目に遭わされそうな予感がする。」
「い、イン、ゲボルグさ、さん。あの、あ、」
「じゃーね二人とも。俺急いでるから!」
意味のわからないことを言われたら逃げるが勝ち!じゃあまたいつか会えたら会おう二人とも!!
─────────────────────────
気を取り直して、今度こそ!やってきましたマスタールーム!いるかな?いないかな?トレーニング中かも?
とりあえずノックをしてみると、中から低い声で入れと一言返ってきた。怖いねー。そんなんだから後輩から話しかけにくいって思われるんだよ。俺昔バスタード・ミュンヘンに視察に行った時聞いちゃったんだからね。話しかけずらい…すよね、あの人。みたいなこと言われてたよ。
「失礼しまーす」
「…お前か」
「ギルさんっ?!」
「あれ、イサギくんもいたの。邪魔してごめんね、時間変えた方がいい?」
「いや、別にいい」
なんてこったいイサギくん。君自分からノアと二人で話してたの?肝座りすぎでは?俺なんてこれが最後!これが最後だから!って怯える自分に言い訳しつつ来たのに。
「コーヒーは?」
「さっき飲んだからいいよ。ありがとう。何話してたの?」
「ギルさんの殺し方です」
「帰ろうかな…」
会長ぶっ殺しゾーンに来ちゃった。この施設…何か変…!
「でも…でも、殺したいけど死んでほしいわけじゃないんです。」
一世一代の告白みたいに顔面蒼白になりながら俺の服を掴むイサギくんを指差し、俺はノアに問いかけた。
「この子が何言ってるかわかる?ノア」
「わからんでもない」
「前々から教育方針について話し合いたいと思ってたんだよなぁ。カイザーなんて」
「ソイツの話嫌です」
「のあ…」
「プレーに影響が無ければ無理に仲良くしろとは言わん。」
でもぉ…名前出した瞬間イサギくんの圧が三倍ぐらいになっててぇ……。仲良ピ☆とまでは言わないけど、ああはいはいアイツね程度の仲にまでは進展しない?俺への殺意も含めて感情をもっとこう…ふわふわしたピンク色の綿飴みたいな感じにしてくれないかな。
「う、うん。それで、」
「お前がバスタード・ミュンヘンのコーチになる話か?」
「ぶぇッ!?!?」
「いや違うよ。ちょっと相談があってさ!君は長年お世話になった人に贈り物をする時何を贈るのがいいと思う?」
「ま、まま、まっ、えっ」
「ん?」
「お、俺バスタード・ミュンヘンに入ります!!」
「落ち着いてイサギくん。俺はどこのチームにも所属しないよ。ちゃんと君にあったチームを選んでね。きっと引く手数多だろうから。」
「……はい」
俺とノアがプレゼント相談をしている間、イサギくんはずっと視線をキョロキョロさせていた。どうしたの?と聞くと
「憧れ濃度が高い」
などとよくわからないことを言っていたので曖昧な笑顔だけ返しておいた。そうだね、君はノアが憧れの選手だったね。濃度はわからないけど一緒にいれて嬉しいんだね。……濃度……?
「うん!ノア、君今までサッカーしかしてないでしょ!」
「それがどうした?」
「なんの頼りにもならないじゃないか!サッカーコートをおすすめするのやめてよ!多分サッカーコートを貰って嬉しいタイプじゃないと思うな、ローゼは!!」
「俺は嬉しいが…」
「俺も嬉しいです!!」
「うそん、これ俺がおかしいの…?」
「買えないのか?」
「俺のポケットマネーを甘く見るなよ。今この場で一括払いで買える。」
ハッ!?危うい!!流されてサッカーコート買いそうになってた…。いらないいらない。あっても困る。てかなんなら入り浸るつもりだな、さては。あぶねー!
「もーいいや、自分で考えるよ。相談聞いてくれてありがとね。」
「待て」
「ギルさん」
ガクン、と急に視界が上を向いた。知らない天井だ。なに?俺はなんで首根っこと腰を掴まれてんの?ノア?イサギくん?用事済んだんだから帰らせてよ。
「お前にとってそんなにサッカーはつまらないものになったのか。」
「そうは言ってないって。」
「俺はまだアンタに教わってないことが山のようにあります。」
「君の右隣に立ってる人の方が上手く教えてくれるよ。」
俺は一度ノアを見た。教え…うん…教える、できるのかな?あんまり後継育ててる印象がない。
「インゲボルグ、お前にはまだ出来ることがあるだろう。サッカーの技術だけの話じゃない。これからも含めての話だ。」
「君たちは全力で俺を殺そうとするくせに会長は辞めてほしくないんだなぁ。…まぁ、ねぇイサギくんそんな泣きそうな顔しないでよ。本当に死ぬわけじゃない。殺されるだけさ。」
「どっちにしろ、しんでるじゃないですか……」
うりゅ、とイサギくんの大きな青い目が一気に潤んだ。泣く。どんな馬鹿でもわかる数秒後の結末。慌ててポケットを探るも使えない手帳が一冊入ってるばかり。
「の、のあ、」
「……」
なんか言ってよ!!無視するな!!俺も一緒にイサギくんと泣くぞ!?!?
「ど、して….っ、だって、おれ、」
「う、ウンウン!!」
「あこがれたんです。すげぇな、かっけぇなって。トロフィー、あんなふうに…、でもみてくれなくっ、え、が、がんばっ、ひっ。」
「よ、よしよしよしよし!!!うん、頑張ってた!!イサギくん凄く頑張ってたよ!?U-20戦の時もネオエゴの時も成長がもうね!!ギュンッて!!」
「俺は?」
「ノアちょっと静かに!!今君のところのお子さんとお話があるんです!!」
「ようやく、よーやく、ここまで」
「そうだね!!ここまで来たね!!!」
あー決壊しちゃった。やめろよ、俺泣いてる子供に弱いんだよぉ…!なんかもうわけがわからない。俺はなんで抱きしめられてるんだ。肩が濡れてる。びしょびしょ。このスーツの値段言ったらイサギくん後ろにひっくり返りそうだから黙っておこう。あと後方マスター面やめてノア。なんでちょっとほのぼのした顔してんだよ。
「もっといっしょに、サッカーしたかったのに」
そう言ってわぁあ…!と本格的に泣き出してしまった彼の背中を必死にポンポン叩く。どうしよ、子供のあやし方、俺知らない。そうだねまだ十六だもんね、ギャン泣きの一つや二つしちゃうよねぇ!
「あのねイサギくん」
わしゃわしゃと特徴的な双葉頭を撫で回す。えぐえぐとしゃくりあげる様子は年相応だ。いつも怖い方ばかり見ていたからどことなく新鮮な気分。
「何回も言うけど俺は本当には死なないよ。世界のどっかで生きてるし、頑張ればワンチャン会えるかも。」
「うそだぁ……!!!」
「嘘じゃないって。それに意外と次のW杯は遠いんだよ?三年後とか?それまではいるわけだし、今すぐじゃない。」
「お前俺ですら一年に一回会うかどうかだっただろ。」
「…ソンナコトナイヨ。」
「目を見て言え。」
だって怖いもん!!!
ぶ、ブルーロックでいっぱい顔合わせたし。もうよくね?一年に一回すら多い方でしょ。
「まぁその話は置いといて。…ねぇ、詳しくはローゼに聞いて欲しいんだけど、もし君たちが俺の興味を惹けるようなものを作ったら、一万分の一の確率で戻ってくるかもしれないとだけ言っておくね。」
「え」
ガタッ!という音に反応して俺はそちらを見た。ノアがこっちをとても険しい顔で見ている。視線を逸らそう。怖い。
「ぎる、ぎるさ、」
「詳しく言え。全部吐け。」
「わ、わかったわかった!流石にすぐ戻るのは気まずいからどうなるかは微妙なとこだよ?でも、もし君たちが俺が戻りたいと思えるほどサッカーっていうものを盛り上げて楽しませてくれたら…ちょっとだけお邪魔することを考えようかなっていう、それだけ。うん。」
いっそ逃げ出そうかと思うほどの静けさがあった。だが逃げてばかりの俺の人生。ここで踏ん張らねばどうする。どうせ俺はサッカー界から逃げ出すのだ。ここが最後の正念場!
「ほんと、ですか」
「本当って言わなきゃ病んで人殺しになりそうな雰囲気じゃん君たち。俺が会長やってる間は人殺しとかさせるわけにいかないよ。責任とかめんどいし。」
「お前が作り上げた世界を壊してもっと面白いものを俺たちの手で作れ、と。そう言いたいんだな?」
「んー、そう…かな?」
「それは、それは…っ」
イサギくんは強く拳を握りしめた。痛そう。
「アンタを、殺すようなもんじゃないですか…」
「だから俺を殺すのはだーれだ!ゲームなんて開いてるんでしょ。」
「笑えないな」
「そもそもノアは笑わないじゃん」
ノアって笑うの?冷笑とかならまだしも爆笑とか絶対しない。
「…お前の秘書と話をつけさせろ。」
「多分ローゼの部屋か、そこにいなければ俺の部屋にいるよ。怖がらせないでね。」
「あぁ」
うぉー!ノアがいなくなった!!サッカーサイボーグことノアが!!
え、話をつけるってなんですか…。なんでローゼとノア時々俺抜きで喋ってるんですか…。そういう時の後大体ノアのいるバスタード・ミュンヘンに連れて行かれるのって俺の気のせいですか…。
ま、まぁまぁ。俺のホラー要素が消えたから。セフセフ。イサギくんも十分怖いけどまだノアほどではない。いつか届きうる気配はするけども、まだセーフ。
ふむ、イサギくんか…。
ようやく泣き止んだらしき目元がほんのりと赤い彼に目をやる。うん、決めた。
「ねぇイサギくん、君、その靴しばらく使う?」
「え?あ…サイズが合わなくなるまでは…」
「まだ伸びしろがある年齢だもんねぇ。んー、じゃあ使えなくなっても大事にしてね。」
「?」
俺はさらりと部屋の中を見渡した。デスクの上。ペン入れに入ったマジックが視界に入る。
「油性だ。消えなくてもいいかい?」
「は、はい」
油性マジックを手に取った後、困惑を顔に出すイサギくんのそばまで戻った。許可は取ったしいいだろう。そんなに俺が消えるのが嫌なら消えない証拠の一つや二つ、嫌がらせで残しちゃうもんね!
きっとイサギくんは優しいから勢いで頷いてしまっただけだ。でも言質は取った。ニヤニヤする内心を押し殺し、油性ペンをクルクル回しながらイサギくんにベットに座るよう指示を出す。彼は素直に従った。
「あの、な………っ!?!?!?は、え、まっ、ギルさん!?たっ、立ってください!!!!!」
「ん?やだ。まだ書いてないし。」
ハッハッハッ!今更気づいてたところでもう手遅れだぞ!!
俺はベットの上で慌てる彼を無視してその足元に跪いた。
はてさて、何を書いてやろうか。シンプル悪口?バレないようにドイツ語で。うーん流石に可哀想すぎるな。選手でもなんでもない俺に大事なシューズに落書きされるってだけでも相当なのに。膝に硬く冷たい床の感触を感じつつも彼の足を持ち上げ、青色のシューズにマジックペンの先を押し当てた。
「動いたらずれるから動かないで」
「…っ、ゔぅ〜〜〜!!!」
何故か唸り声を上げて抵抗を試みるイサギくんは一旦無視して考える。そうだなぁ…。無難に名前でいいか。
俺は『インゲボルグ』と自分の名前を書いた。子供の頃は随分苦労したが、今となってはもう書き慣れたものだ。だが少し殺風景で寂しい。何か付け加えてあげよう。うん、百合の花がいいね。俺は画力がわりと壊滅的にないけど家紋の百合だったら見ずともかける。
「よし!出来た!これじゃ青百合だなー…それもまたよし!」
「??、????、うぅ??、???」
「どしたのイサギくん後ろに宇宙なんて背負っちゃって。俺ノアが帰ってくるまでに退散したいから、この辺でお別れするね。」
「ギ、ギルさんっ!!!!」
これで最後だろうか。なぜなら俺は連盟本部に呼ばれている。すぐにでもスイスに行かないと。引き継ぎの仕事やらが向こうでも溜まっているらしく、俺の決裁がないと進まないものばかりだ。この先ブルーロックに顔を出せるかはわからない。他にもいろんなところから呼ばれてるからね。そう思うとイサギくんにもほんの少しの寂しさが湧かないでもない。俺も歳かな…。
「どしたの?」
「俺がアンタを殺します!」
「…」
怖い…。寂しさが消えそう…。
「でもっ、絶対!!絶対絶対取り戻すので!!アンタにサッカーを面白いと、もう一度思わせるので!!」
「エゴイストって感じ」
殺したかと思いきや取り戻そうとして、大変だねー。俺は逃げさせてもらうけど。
しかしイサギくんは俺の言葉を聞いて人懐こさを全開にしたような、会心の笑みを浮かべた。
「俺のために生きてください」
本当に、ブルーロックは何を育ててるんだろう。
ふと、彼が初対面の時俺の時間を奪うと豪語し、その後有言実行でU-20戦で俺の一日を奪い取ったことを思い出した。彼は有言実行の男だ。扉を閉め、自室までの道のりを頭に思い浮かべて最悪な想像を振り払おうとした。
最後に見たイサギくんの笑顔が脳裏にこびりつく。
あぁ、俺、逃げられないかもしれない。
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人が死ぬ瞬間を見た。
カタール。底抜けに天気のいいカラッと晴れた日だった。彼の決意を最後まで覆すことはできず、過去一荒れた大会になったカタールW杯を彼は笑いながら見ていた。
「最期ぐらいは見ておこうか。」
世界中を巻き込んだこのW杯での興行収入はかつてないほど莫大なものとなった。オリンピックをゆうに超える額だ。彼はそれを聞いてすごいねと笑った。それだけだった。利益は彼の懐には入らないだろう。全てはサッカーのために使われるから。
最後の優勝チームとMVPが決まった時も、彼はすごいねと拍手して、真っ赤な瞳を輝かせた。
「いい試合だったね。」
「はい、そうですね。」
なぜか視界が歪んだ。世界で最も尊敬した人はただ静かに笑っていた。雨かと思い上を見たが、空は青かった。
ゴールデンボール賞を渡す瞬間すら、彼は穏やかに笑い、むしろ選手の方が尊敬や後悔や憎悪や寂しさや愛情を混ぜこぜにした酷い顔をしていたように思う。
どうして辞めるの。いかないで。まだまだサッカーは発展できる。貴方さえいれば。貴方さえそこにいてくれたら。
会場中の人がそう思っていた。スタジアムに入りきらず、外からこの状況を生中継で見ている人々も、テレビやスマホでこの試合を見ている世界中の人々も。
会長としての彼の遺言を聞こうと、誰もが静かにその受け渡しを見守った。
これで終わりだ。これで_____。
本当に彼が死ぬわけではない。その肉も、血も、頭脳も、この先地球上のどこかで生きていく。だが違うのだ。サッカー界の彼は死ぬ。舞台から降り、笑顔で幕が引かれ、彼がそこにいたことを証明するのは記憶と書類しかない。これが死を意味するのでないならばなんなのか。
会長は選手に顔を近づけ、ほんの一言何か囁いた。何かはわからない。選手は顔を歪めて受け取って。ああ、最初から最後までこの人は。思わず笑みが溢れた。
それを機に万雷の拍手と罵声とも歓声ともつかぬ叫び声、花火が打ち上がり、青空が見えなくなるほどのカラーテープが宙を舞った。地面が揺れていると思うほどの馬鹿騒ぎだった。
「ねぇローゼ」
「はい、インゲボルグ様」
その瞬間、彼はスポットライトでも浴びてるかのように輝いて見えた。赤百合の花束を抱え、黒いスーツを身に纏い、降りしきる拍手と色とりどりの愛情の中で泣きも怒りもせず静かな微笑みをたたえてローゼに少しだけ顔を向けた。
綺麗だ。
今日は最高で最悪な日としてローゼの脳裏に、そしてスポーツ史に未来永劫刻まれるだろう。
「素敵な棺桶を用意してくれてありがとう」
それが
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インゲボルグ・フォン・ファーレンハイト
祖父からの遺産である権力を捨てちゃった系男子
死因:世界一のプレイヤー
葬式:W杯
棺桶:スタジアム
とかいうえげつないコンボを決めて引退し、見事サッカーファンどころか世界中の人を脳破壊したやべー男。サッカーに生きてサッカーに捧げてサッカーに死んだと思われている。本人的には辞めれてハッピーダブルピース。この後両親と一緒に世界旅行したり、自分が行きたかった国や食べたかったスイーツのために旅をするのでほぼスイスの実家には帰らなくなるし連絡もしないので消息が途絶える。やったね。
逃げられるとは言っていない
ローゼ
美人有能秘書
世界は進むけどこの人は多分2022年のあの日からずっと時間が止まってしまう。誰かからの無茶振りを待ってる。
サッカー選手
拗らせた人がとてもとてもとても多い
両親
息子の決断なら否定しない。久しぶりに家族で過ごせてハッピー!
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「ねぇーーー、試合するから監督してーー」
「いいよぉ!」
「やったーー!!みんなー!ギルさんが監督してくれるってーー!!!」
おけまるー!と俺は背丈の小さな少年たちに向かって手を振った。わらわら集まってくる少年たちはみんな手にボロボロのサッカーボールを持っている。俺は今のポケットマネーの額をサッと思い浮かべた。この後サッカーボールを買いに行こう。百個ほど。
「ギルさん曖昧なことしか言わねーじゃん!」
「悪かったね!汲み取ってよ!!」
「無理だよーオレら頭悪いもん」
「なんか…バッ!と走ってバッ!と決めればいけると思う。」
「誰かわかる?」
「わかんなーい」
「ダメかぁ」
とある国の片隅にあるスラム街。家族みんなで世界一周の途中、俺だけこのスラムにやってきた。両親は危ないので遠くのホテルで仕事や観光をしている。黙って来ちゃったからバレたら相当怒られるだろうな。でも俺サングラスかけたらマジでどこにでもいる兄ちゃんになるのだ。ビビるほど一般人になれる!オーラがないんだろうな!!
あと普通に見えないところにSPさんがいるらしい。まったくわからん。でも時々叫び声が聞こえるからそういうことなんでしょう。怖いですね。
「いやいやいけるって。走ってみ?試合開始直後に走ってみ?一点とれるよ!!ロキくんとか取ってたし!!」
「誰だよろき」
「だれー?」
「しりあーい!向こうはそう思ってない可能性もあるけど。」
「可哀想な人だー!」
「やめてよ。泣くよ。」
「はやくはじめよ!」
わー!と散っていった子供達に手を振りつつ、俺はゴロンと瓦礫の上に転がった。ぴー!と誰かが口で開始の合図を鳴らして真っ先に飛び出た男の子が棒に網を巻きつけただけの簡素なゴールを綺麗に掻っ攫っていった。すごいな。バッ!と走ってバッ!と決めたぞあの子。
その子は決めたボールを抱えて瓦礫の王様をやっている俺の元へとやって来た。そして泥がついているものの、将来が期待できそうな華やかな笑顔で彼はボールを差し出した。
「ギルさん」
「なぁに?」
「サインください」
サイン。俺に。なんて物好きな子だろう。俺が自分から無理を言って書いたイサギくんを除けば、はるか昔に一人俺にサインを強請った子がいたが…いた、が。
あれ???
俺は大昔にサインを欲しがったガリガリのみすぼらしい子と目の前に立つガリガリの穏やかそうな少年を頭の中で重ね合わせた。
ぱちん!と俺の頭の上で豆電球が光ったような気がした。
「………ああ、もしかして…もしかして!!!あの、何年前!?」
「七年と二ヶ月と十四日です」
「細か……」
「覚えててくれたんですね。」
覚えてる覚えてる。初めて俺が自分のサインを書いた日!小さな男の子が連盟支部に視察に来ていた俺の前にぴょこ!と現れてサインを書いてほしいと笑ったあの日。そんなこと今まで起こったことがなく、嬉しくてサイン記念日を俺の中でこっそり定めたほどだ。
この文字がいいねと君が言ったから何月何日はサイン記念日。
「もちろんだよ!!仕事以外で俺に自分からサインを強請ったのは君が最初で最後なんだ。あれから誰もサインもらいに来なくてね…一回だけ俺が無理を言ってサイン書いた子はいたけど。あのサッカーボール大事にしてる?」
「はい!すごく!」
「そりゃよかった。スラムの子だったんだね。売ってくれたらそれなりの値段になっただろうに。」
「これだけは大事にしたくて。」
「嬉しい!ね、今何歳?」
「多分十五、六歳だと思います。」
「もうそんな歳?十二歳ぐらいに見えるけど」
「栄養が足りないのかもしれません。細かい年齢はわかりませんが、十五歳にはなってるはずでず。」
「へー…じゃああの時も五歳ぐらいに見えたけど八歳ほどだったの?」
「そうですね。それぐらいです。」
こくん、と一度彼は頷いた。幸せに…この子は俺が幸せにせねば…!!
「サイン書いたげる!インゲボルグ・フォン・ファーレンハイト…っと。あ、ねぇねぇ君、俺のために人生捨てれる?今ちょっと困っててさ。そーゆー人探してるんだよね。サイン書いたし、お願い!!」
「わかりました。捨てます。」
「え〜!!ありがと〜!!好き〜!!!」
「お、お待ちくださいファーレンハイト様」
「うわ!どっから出てきた!?」
なんか急にSPさん出てきた!怖!!ほらもービックリして怖がってるじゃん…。俺が。
「それは現在考えられている養子の件でしょうか。スラム出身はあまりにも…あまりにも、あらぬ反感を買います。もう少しよく考えてから」
「俺が決めたんだよ。ね、引っ込んで?驚いてるじゃん。俺もビックリしたし。」
「は、はい」
「よぉし、じゃあ、君!今日から俺の息子になってよ!いろいろ困ってたんだよねぇ、もし嫌なら全然断ってくれても」
「わかりました。なります。」
「え〜!!ありがと〜!!好き〜!!!」
その場で両親に電話し、息子ができたー!と報告すると母様は嬉しそうに笑ってくれた。父様は椅子から転げ落ちるような音がしたがまぁ無視でいいだろう。
「てなわけで今から君はファーレンハイトの人間だよ。よかったぁ、後継の心配はもうしなくていいんだね。本当にありがとう!俺が全力でバックアップするから何も心配しないでね!」
嬉しくて手を握ってブンブン振る。彼は少し驚きながらもそれに答えてくれた。優しい。俺は優しい人間が好きだ。
「あの、一つわがまま言ってもいいですか。」
「いいよいいよ!俺金ならあるから!なぁんでも叶えてあげる!」
目線をあちこちにやりながら控えめにそう告げる少年にすぐさま了承を告げた。
少年はそれを見てサッカーボールを俺の手の中に滑り込ませた。
「俺にサッカーを教えてください」
俺は彼を見て、地面を見て、空を見て、手の中の白黒のボールを見て、そして諦めて首を振った。
「俺ってもしかしてサッカーに愛されてる?」
少年は綺麗に笑った。
「ええ、とても。」
─────────キャプション──────────
これで一旦本編は終わりです!今まで読んでくださったみなさん、ありがとうございます!たくさんのコメントや評価を見てニヤニヤさせてもらいました。チマチマある小ネタを拾ってくれる人もいてびっくり。さくっと終わるシリーズにしようと思っていたのに意外と続いちゃいましたね。書いてて楽しかったので結果オーライ。終盤の方結構駆け足ですいません…。
主人公の最期をどうするかは最初から決めていたけどなんか寂しくなったからラスト付け加えちゃった。
読了後推奨のヤツ
スレでもちらっと出てきた息子くん
父さん!(キラキラお目目)(純粋無垢)(父さん大好き)(外野は黙ってろ)
スラム生まれのシンデレラサッカーボーイ。このあといろんなところから殺意を受けるけどインゲボルグに育てられるため精神がオリハルコン。ノーダメ。最推しと暮らせる毎日。とりあえず父さんを殺した選手を殺すぐらいの選手になることを目標としている。
もしどうしてもどうしてもどうしても見たいというものがあればこっそり教えてください。善処します。善処。