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開示請求すると言ったら、誹謗中傷垢の一人に「白百合卒なら隣人を愛し許し右の頬を打たれたら左の頬を向けろ」と言われましたが。隣人を愛するからこそ、叩かれても怯まずに、ならぬものはならぬと譲らないのです。あの「右の頬を打たれたら〜」のくだりは、悪人にも蹂躙されろ、ではなく、右の頬を守るためには左の頬をも差し出して、痛みを恐れて怯んだり逃げたりするな、という解釈もあるし、私はそちらがイエス様の真意だと思ってます。
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あの聖句を用いて無抵抗主義を言い出したのはトルストイですよね。私の知る限り、カトリックの正統的な解釈は、 「右の頬」=霊的な善きもの(特に信仰) 「左の頬」=肉的な善きもの で、「左の頬を向けろ」というのは ,「肉体を犠牲にしてでも信仰を守れ」という 意味だったはずです。アウグスティヌスだったと思います。
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そもそも、誰かを貶めるような人が『隣人』であるはずがない。よきサマリア人のたとえで明らかです。 人は誰かを大切にすることによって、その人の隣人になることができる。自分の都合よく解釈するな、ですね。
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ええ。彼らの曲解には閉口します。彼らの主張は、要は自分の好きに殴らせろ、ですからね。姦通の女に石を投げる人たちを咎めたイエス様が、そんなことをおっしゃるとは思えません。新約聖書全体の文脈を考えると、暴力に屈して信仰を失ってはいけません(信念を曲げてはいけません)という意味だと思うんです。
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