恋愛は謎解きのあとで   作:滉大

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四条眞紀は使わせたい

 12月。本格的に冬の寒さを肌で感じる頃。私立秀知院学園の生徒はとある行事の準備に追われていた。

 

「衣装はー?」

「裁縫部から借りて来たよ」

「どんなのどんなの?」

 

 放課後の2年A組の教室から賑やかな声が飛び交う。四宮かぐやが所属するA組の文化祭の出し物は、綿密な協議の結果コスプレ喫茶に決定した。

 看板に衣装と着々と文化祭の準備が進行する中、教室前の廊下右手の突き当たりを右に曲がった、人気の無い場所に2人の男女が向かい合っていた。

 真っ赤なリボンで、烏の濡れ羽色の髪を頭の後ろで纏めた少女は少し、いや控えめながらもかなり怒っている様子で、長身の少年に言葉を放っている。

 

「さっき私のことを何て呼んだのかしら?」

「四宮さんと、お呼びしました。お嬢様に対して大変不敬だとは思ったのですが、学園内でしたのでやむを得ず」

「貴方に不敬なんて感情が残っていたとは驚きね。で、何て呼んだの?」

「……かぐやさんと」

「嘘を吐くのは不敬だとは思わないの?」

 

 誤解でございますと、前置きして恐る恐る讃岐は言葉を続ける。

 

「私としましてもその様な呼称を使うつもりはなかったのですが、藤原さんに引っ張られたといいますか……」

 

 もごもご言い訳しながら、ようやくある呼称を口にした。

 

筋肉姫(マッスルクイーン)と──勿論敬意を込めての事でございます。生徒会の面々をことごとく捩じ伏せたお嬢様の上腕二頭筋は凄まじく」

「ああもう、うるさいわね。そもそもマスクまで渡そうとしておいて、敬意もなにもないでしょ! 私に覆面レスラーの格好で接客しろって言うの?」

「いえ、そのような。私は決してお嬢様に覆面ヒールレスラーに扮して欲しかった訳では……」

「誰もヒールなんて言ってませんけど!」

 

 廊下の端で静かに言い争う主人と使用人の声に、新たに1人の声が加わった。

 

「あら、おば様。四宮家の長女ともあろうお方が、使用人1人手懐けられないなんて情けないですね」

 

 かぐやは驚いて背後を振り返る。現れたのはかぐやと同じくらいの身長で、茶色い髪をツインテールにした美少女。

 

「眞紀さん……」

 

 四条眞紀。四宮家の分家、四条家の長女でありかぐやの再従姪孫にあたる。

 驚いた様子がないので讃岐は眞紀の出現に気付いていたのだろう。讃岐は恭しく眞紀に一礼した。

 

「ご無沙汰しております、お嬢様の二番煎──いえ、四条眞紀様」

「今何か煎じなかった?」

「文化祭では茶を煎じる予定でございます。よろしければ、A組にお立ち寄りを」

 

 コスプレ喫茶のメニューにコーヒーや紅茶はあれど、お茶はない。彼は一体何を煎じるつもりなのだろうか? 

 誰が相手でもポロリと溢れてしまう腹黒ノッポの毒舌。もっとやれ、もっとやれと、かぐやは街中で始まった喧嘩を煽る野次馬のように心の中で何度も拳を突き上げた。

 

「眞紀さん、四宮の使用人は主人の命令がなければ何も出来ない木偶の坊には務まらないんですよ。四条家の貴女には分からないかも知れませんが」

「その優秀な使用人を使いこなせない様では、四宮の行末も心配ですね。私達としては有難いですけど」

 

 本家と分家の人間は往々にして仲が悪い。かぐやと眞紀もその例に漏れず、2人の間には熱い火花が散っていた。

 貴女の発言なんて気にしていませんよ、という風に笑みを浮かべるかぐやだが、プライドの高いかぐやが気にしない筈はなく、その頬は怒りで引き攣っている。

 

「では眞紀さんは、腹黒くて不調法で、怠惰な上に慇懃無礼な態度で主人を見下したような笑みを浮かべる使用人でも、全く腹を立てずに手綱を握れると……?」

 

 かぐやは隣を指差した。

 

「約1年間と数ヶ月、お嬢様に誠心誠意尽くした結果がそのような評価とは。私涙を禁じ得ません」

 

 全部事実でしょ! 

 

 白々しくもハンカチで目元を拭うフリをする使用人を、かぐやは横目で睨む。

 フンッと鼻を鳴らして胸を張る眞紀。

 張った胸に手を添えると、

 

「当然でしょう。私は学年3位の天才にして、正当な四宮の血を引く人間。不調法者の言葉の1つや2つ、あっさり受け流すくらいの度量はあるわ」

 

 学年2位のそれも四宮家長女の前でその謳い文句はどうなのだろう、と思ったがかぐやは口には出さず、

 

「言いましたね。では讃岐、放課後は眞紀さんに付いていなさい」

「はあ……お嬢様のご命令であれば構いませんが、校内で使用人のような振る舞いは今後の学園生活に支障が」

「貴方、今自分がどんな格好しているか忘れたの?」

 

 讃岐の衣服は学生服ではなく、コスプレ喫茶の扮装として用意された燕尾服を着用していた。その格好はまるで一流の執事のよう。屋敷でのダークスーツ姿より使用人らしさがある。

 

「適当にキャラ作りの為とか言えばいいわ」

 

 我ながら名案と思ったが、何故か讃岐は浮かない表情。

 

「しかしお嬢様、事情を知らない第三者が私の姿を見たら、校内で執事ごっこをするイタい変人と受け取られかねません」

「普段の自分がイタくない健常者だと思っていたの?」

 

 変人が変人だと思われたところで何の問題もない。こうして全ての問題がクリアされた。

 かぐやは讃岐と共に眞紀に背を向けて、小さい声で耳打ちした。

 

「いい、相手が四条の娘だからって遠慮する必要はないわ。どんどん毒舌を浴びせて、無礼な態度をとりなさい。あっ、でもいくら貴方が生粋のサディストとはいえ暴力はダメよ」

「……いくらなんでも私の評価歪みすぎでは?」

 

 

 ◯

 

 

 どうしようかしら。

 

 四条眞紀は廊下を歩きながら、顔を前に向けたまま目だけを周囲に走らせていた。自分から遅れてキュッキュッとリノリウムの音がする。

 眞紀の少し後ろから付いて来る人物、四宮かぐやのもう1人の近侍、讃岐光谷だ。

 売り言葉に買い言葉で妙なゲームに乗ったが、そもそも眞紀は讃岐光谷という男と殆ど接点がない。四条家の令嬢と四宮家の使用人という間柄を考えれば無理もない。

 とはいえ全く知らない訳でもなかった。友人の紀かれんや巨瀬エリカと話しているのを見かけた事はあるし、同じクラスの白銀御行、藤原千花とも関わりがあるらしい。

 多少知っているとはいえど、いきなり会話を試みるのは難しい。なにか切っ掛けを探して眞紀の視線は右往左往を繰り返す。

 ふと、廊下の壁の掲示板に貼られた校内広報が目に入った。記事には「奉心祭直前特集」と見出しがある。

『文化祭初の試み──仕掛け人の2人に迫る』『奉心祭の所以、奉心伝説』と文化祭に関係の深い記事から、『ハートの意味は色で変わる!? ハートアクセサリー各色(赤、黄、青、茶)販売予定!』『秀知院饅頭・秀知院煎餅、当日販売。お買い求めはお早めに!!』など下心が見え隠れどころか丸出しの記事まで様々だ。

 発行者の名前を見ると友人2人の名前が並んでいた。眞紀はかぐや信者の友人達が校内広報で、妄言を発信していない事に内心安堵しながら記事に目を通した。

 

「あのアクセサリー色違いがあったのね」

「今年から販売するようでございます。眞紀様はハートの色の意味をご存知でしたか?」

 

「いいえ」と答えて記事の内容を読んだ。

 

 日本では馴染みないが、海外ではよく使われる表現らしい。

 赤色は『愛情』、黄色は『ユニーク』、青色は『信頼』、茶色は『親友』と、これらが販売されるアクセサリーの意味。紫や黒、他の色にも意味があるようだが、販売するのに赤、黄、青、茶の4色を選んだのはアクセサリーの用途が関係している。

 広報にもあった奉心伝説。1人の若者が愛する姫を救う為、天からのお告げに従い、自らの心臓を捧げる。若者の心臓を火に燃べ、その灰を蘿蔔の汁に溶いた薬で姫の命は助かった。

 伝説の舞台が現在秀知院学園高等部のある場所らしく、その話が奉心祭の由来となった。

 そして奉心伝説になぞらえて、奉心祭にはとあるジンクスがある。

 曰く、

 

 奉心祭でハートの贈り物をすると、永遠の愛がもたらされる。

 

「灰を飲ませて病が治るなんて、似非医療も良い所ね。どうせ当時の支配者を権威付ける為の創作でしょ。……大体、そんな簡単にハートが渡せたら苦労しないわよ」

「ハートを渡す予定がおありなのですか?」

「はあぁー? ある訳ないでしょ! 私は四条家の長女よ。そこら辺の男に心臓を捧げる女に見えるの?」

「誠に仰る通りでございます」

 

 恭しく同意する讃岐に「まぁ、でも」と眞紀は続けた。

 

「渡された場合は考えなくもないわね……!」

「非常に既視感のあるスタンスでございます。渡されたら誰でも良いので?」

「尻軽女みたいに言わないで」

 

「翼君……」と、明らかな固有名詞を出した後、慌てて眞紀は言い直した。

 

「あたたかくて包容力があって、私の家柄に吊り合う男なら、考えないこともないわね!」

「ボロの出し方が瓜二つですね……。流石は四宮の家系といった所でしょうか」

「ん? 何か言った?」

「いえ、何も」

 

 会話の切れ目を狙ったかのようなタイミングで、新たに2人分の足音が廊下に響いた。

 栗毛色の長髪を揺らして眞紀に近付いた紀かれんは、育ちの良さが伺える上品な動きで首を傾けた。

 

「あら、珍しい組み合わせですわね」

「讃岐君の衣装はコスプレ喫茶の?」

 

 隣の巨瀬エリカが執事服の讃岐を指差した。

 

「その通りでございます。キャラ作りの為、正真正銘のお嬢様である眞紀様にご協力して頂いているのです」

「へぇ〜、意外と熱心なのね」

 

 大袈裟な敬語で応じる讃岐。エリカはキャラ作りという言葉を信じたようだった。

 

「他クラスの出し物も把握しているとは、流石マスメディア部。お耳が早くていらっしゃる」

 

 おだてられたエリカはフフーンと胸を張った。

 

「それに、早坂さんの衣装を決めるのにも協力したのよ!」

 

「それは大変でしたね」と返す讃岐の言葉は、何故かエリカにではなく、同僚に当たる早坂愛に向けているように感じた。

 

「そういえば、この記事アンタ達が作ったのよね。もっと御行とおば様の妄言で埋め尽くされるかと思ったけど、普通の記事で安心したわ」

「心外ですわ。文化祭は3年生と一緒に出来る最後の行事。記事にも気合が入るというものです」

 

 エリカも頷いて同意する。熱い友人の想いに、珍しく眞紀は関心した。

 

「かれんはともかく、よくエリカがおば様の前で正気を保てたわね」

「取材に向けてルーティーンを習得したのよ」

「ルーティーン?」

「スポーツ選手とかがよくやるメンタルコントロール法よ。一定の行動を行う事で、精神状態をリセットしてリラックスさせる効果があるの。早坂さんに教えて貰ったわ」

 

「またルーティーンですか……」隣の讃岐が小声でボソリと呟いた。意味は分からなかったが、早坂愛は四宮かぐやの近侍、讃岐にとっては同僚に当たるので、何かしらルーティーンが必要な事態が以前にもあったのかもしれない。

 

「いやはや、それは誠にお疲れ様でございました」

 

 讃岐の労いはやはり、かれんやエリカに向けているようには思えなかった。

 

 

 

 

「ウチのクラスに行くわよ」

 

 やらないといけない作業もあるし、とマスメディア部の2人と別れた後、眞紀はそう宣言した。

 

「というと、B組でございますか……」

「問題でもあるの?」

「いえ、問題はありませんが……この格好で人前に出るのは」

 

 問題ないと言う割に歯切れの悪い返答。

 執事服くらいで恥ずかしがるような人物には思えない──というか、変な帽子を被って歩いているのをそれなりの頻度で見かけるので、羞恥心とは無縁の人物なのだろうと考えていた眞紀は違和感を覚えた。

 

「何を気にしているのか分からないけど、安心しなさい。今日は殆ど残っている生徒は居ないわ」

「はぁ……本当でございますか?」

「こんなので嘘吐かないわよ」

「本当に嘘偽り無い事実だと誓って頂けますか?」

「本当よ」

「本当の本当に?」

「本当の本当よ」

「本当の本当の本当……」

「しつこいわね! どんだけ疑り深いのよ。ホントだって言ってるでしょ!」

 

「いいから行くわよ!」と眞紀は身を翻し自分のクラスへと足を進めた。先程の口論などなかったかのように、讃岐は薄い微笑みを湛え慇懃に頭を下げた。「承知いたしました、眞紀様」

 

 

 

 

 眞紀が所属する2年B組の出し物はバルーンアート。アートの展示だけでなく、客が希望した動物や植物のバルーンアートを提供する。準備といえば看板程度で、後は個人でバルーンアートの練習をするだけなので、他クラスに比べて放課後まで出し物の為に残る必要がない。

 思った通り教室に残っている生徒は少ない。教室で作業しているのは2人の男女だけだった。

 扉をスライドさせる音に反応して、ヘアピンを着けた女子生徒が、膨らみかけた風船が付いた空気入れを動かす手を止めて振り返った。

 

「あっ、マキ。やっと帰って来た」

「ちょっと色々あったのよ。でも面白い拾い物をしたわ」

 

 友人の柏木渚にそう言って、眞紀は親指で後方を刺した。

 

「拾い物とは、もしかして私の事でございますか?」

「アンタじゃなかったら何があるのよ」

 

 茶色い髪を遊ばせた男子生徒、田沼翼は眞紀に続いて教室に入った長身の執事を見て驚いた声を上げた。

 

「讃岐君? その格好どうしたの? 口調も……」

「コスプレ喫茶の衣装でございます。眞紀様にはキャラ作りに協力いただいております」

 

 そうなんだ、と人の良い田沼は笑顔で納得する。一方柏木は、そうなんだ……と苦笑いした。

 他クラスの教室が珍しいのか、文化祭用の飾りや、立て掛けられた看板に目を取られたのか、讃岐はぐるりと一周、視線を巡らせた。

 

「あれもバルーンアートなのでございますか?」

 

 讃岐が指差した机の上には、風船で作られたカニやクラゲ等海の仲間達が並んでいた。それも素人が作ったとは思えない精工さで。極めつけには、巨大な魚の生首が隣の机に乗っかっていた。

 

「ああ、それ。展示用のバルーンアートを試しにちょっと作ってみたのよ。ジンベイザメを作ろうと思ったんだけど、今から作っても当日には萎むだろうから、途中で辞めたわ」

「ちょっと作ってみた? これを?」

 

 眞紀はなんでもない事のようにさらりと言う。

 

「流石は四宮の血筋、末恐ろしい才能でございます」

 

 讃岐は驚愕した様子で呟いた。

 気分を良くした眞紀はフフンと鼻を鳴らす。そして慈悲深い精神を発揮し、

 

「せっかくだし、アンタにも作ってあげるわ。クラスでも1~2番を争う腕だから期待していいわよ」

「どう考えても1番では?」

 

 机にあったパッケージから、1つだけ残っていた白い風船を取り出した。元は7色の風船が入っていたであろうことが、パッケージの柄から分かる。

 風船を空気入れで膨らませる。ソーセージのような形になった風船を、テキパキとした動作で捩じり、伸ばし、曲げる。あっという間に、白くモコモコしたフォルムの動物が誕生した。 

 悪戯っぽい笑みを浮かべた眞紀は、目の前の執事にバルーンを差し出した。

 

「羊ですか……執事だけに」

 

 球体が集まったような体から、ちょこんと出た可愛らしい手足。顔の部分には目玉のシールが貼られている。

 讃岐の薄い反応に、眞紀は唇を尖らせた。

 

「つまらないわねぇ。『超ウケル!』くらい言ったら? 私の冗談が滑ってるみたいじゃない」

「いえ、決してそういうつもりでは。しかし『超ウケル!』はちょっと……」

 

 ふと、眞紀はある事に気付いた。

 

「そういえば渚達だけなの? 残ってた他の子達は?」

 

 教室を出る前は、柏木と田沼の他に4人の女子グループが残っていたと眞紀は記憶している。

 

「もう帰ったよ……」と答えてから、柏木と田沼は顔を見合わせた。

 

 歯切れの悪い返答に眞紀は眉根を寄せた。

 

「どうしたのよ。なにかあったの?」

「んー、あったといえばあったんだけど、ないといえばないというか……」

 

 柏木は顎に人差し指を添えて言った。

 今度は眞紀と讃岐が顔を見合わせる番だった。何が何だか分からないと讃岐は肩を竦めた。

 

「風船が無くなったんだよ」

 

 眞紀と讃岐の困惑は、穏やかな声によって解決された。

 

「風船が無くなった!? 大問題じゃない!」

 

 風船が無ければ、当然だが、バルーンアートは作れない。焦った眞紀だったが、教室に入った時柏木が風船を膨らませていたし、自分も柏木と田沼が使っている机の上にある白い風船を使った。

 眞紀は再び困惑に陥った。

 

「前に会長が使ってた風船があるでしょ。倉庫から持って来た」

「えぇ、確かゴムが劣化して割れやすくなってるとか」

「うん。使えないから捨てるつもりだったのが、今日まで残ってたんだけど……」

「無くなった、と」

 

 コクリと柏木は頷いた。

 

「それで、その風船はその子達の内誰かが持って行ったの?」

「持ち出せたのは彼女達だけだったと思う。使う予定もないし、ただ捨てるよりは良いんだけどね」

 

 ボランティア部の柏木らしい発言。

 使い道のない風船が無くなった事自体は問題ないが、持ち出した人物は風船を何に使うつもりなのか甚だ疑問だ。

 

「なんで持って行ったのかしら?」

「僕達も考えてたんだけど、全く分からなくて。マキちゃんは心当たりある?」

「新しい風船と間違えたとか……は、ないか」

 

 新しい方は、7色の風船が入っている長方形のパッケージがいくつもある。古い方も同じようにパッケージに入った風船がいくつもあるが、使う予定が無いので全てまとめて茶色い袋に入れていた。間違えたとしても、袋ごとは持って帰らないだろう。

 

「練習に使う為に持って帰ったとか?」

「うーん。古い風船は、彼女達の机から遠い場所に置いてあったし、そもそも手元には新しい風船があったから、わざわざ古い風船を持って帰ったりしないと思う」

「膨らませる以外の方法で風船を使ったとか? 繋げてロープみたいにしたり」

「袋ごと持っていくほど量が必要なのであれば、風船など使わず、他の物をロープ代わりにするでしょう。2、3個で十分であれば、それこそ近くにある新しい風船を使えば良いかと」

 

 讃岐は中身のない風船のパッケージを手に取って質問した。

 

「お聞きしたいのですが、元々古い方の風船を使う予定はあったのですか?」

「いいえ。元々はバルーンアートをするにあたって購入した新しい方を使う予定だったわ。古い風船は生徒会の活動中に見つけたとかで、後から御行が持って来たのよ」

「なるほど」

 

 顎に握り拳を添えながら生返事をする讃岐。思索に耽るその姿は、ロダンの彫刻を思わせ、不思議と期待感が沸き上がった。

 数秒に渡る思索が終わるのを待ってから眞紀は尋ねた。

 

「何か分かったの?」

 

 手を顎から外した讃岐は、白旗のつもりか、白い羊のバルーンアートを左右に振った。

 

「いえ全く。私には見当もつきません」

「……まぁ、そうよね」

 

 自分は会って間もない人物に何を期待を抱いたのだろうか。

 眞紀は無駄に拍子抜けした気分になった。

 

 

 

「じゃあ、私達は帰るね」

 

 田沼と柏木は揃って手を振り、眞紀達と別れを告げた。

 2人は仲睦まじげに──実際恋人同士で仲睦まじい男女は、肩を揃えて廊下を歩いて行った。

 途中ハートの形をした赤い風船を手渡していた。その光景を視界に収めた瞬間、眞紀は胃を紐で括られ、さらに天井から吊り下げられた感覚に囚われた。

 頭部への衝撃で、自分の頭が壁にぶつかったのと、両足が自重を支えられなくなったのを理解した。左右の足と頭の3点で体を支え、辛うじて立つ事が出来ていた。

 

「眞紀様、如何なされたのでございますか?」

 

 結果として、変人から変な目で見られるという、大変不名誉な事態となる。

 

「如何なされたって? そんなの決まってるでしょ! そんなの……」

「……」

「……」

「…………如何したんだろうね……」

「えっ、私に聞かれましても……」

 

 困惑しながらも、讃岐は教室から椅子を運び出た。眞紀は壁に頭を付けたまま、ずるずると椅子に崩れ落ちた。

 

「懸想した男性が、他の女性と仲良くしている場面を目にしてしまった眞紀様の心中、深くお察し致します」

「はぁー? 懸想? 別に好きじゃないわよ」

「まぁまぁ、恥ずかしがらず。私と眞紀様の仲ではないですか」

「アンタと仲を深めた記憶がないわ」

 

 会話している内に精神が徐々に回復する。頭を壁から離して背筋を伸ばす。

 

「そういえばアンタ、おばさまのお付きの子と、付き合っているのよね? お堅い四宮のことだから、職場恋愛禁止なのかと思ってたわ」

「四宮家の使用人が恋愛禁止かは存じておりませんが、早坂さんの事を仰っているのなら誤解でございます。お互い都合が良いので、恋人同士という皮を被っているだけでございます」

「へぇ、そういうものなの」

「そういうものでございます。私産まれてこの方、お付き合いした女性はおりません」

 

 目の前の男を見上げ、「ふぅん。意外……」と言いかけた眞紀だったが、目の前の男の言動を思い返し「でもないか」と納得。

 

「まあ、万が一アンタに気になる相手ができたら、うじうじ怯えてないで、さっさと自分から行動する事ね」

「お言葉痛み入ります。して、その心は」

「分かりきった事よ。いつまでも受けの姿勢でいたら……」

 

 言いながら悲しみが胸に降り注ぐのを感じた。どうして自分はこんなアドバイスをしているのだろう。己が吐く言葉が刃の付いたブーメランとなって自分に突き刺さった。

 

「いつの間にか手遅れになるわよ……」

 

 グスン。

 

「何故自ら傷付きにいくようなお話を……?」

 

 ハッと讃岐は何かに気付いたように目を見開いた。表情を引き締め正面から眞紀を見据える。

 

「眞紀様。先程からのお話『超ウケル!』でございます」

 

 眞紀は口をポカンと開けて固まった。此奴今なんと言った? 

 

「ま、眞紀様? どういたしましたか?」

 

 一時停止したビデオのように、微塵も動かない眞紀を心配した讃岐が声をかけた。

 

「う」

「う?」

 

 呻くように、はたまたゾンビのように眞紀は一言声を発した。讃岐が耳を近づける。

 

 

「ウケないわよ!!」

 

 

 四条眞紀渾身の叫び。讃岐は勢いに負けて後退りした。

 

「どこにウケル要素があったのよ! そもそも、『超ウケル!』なんて高貴な家の使用人が使う言葉ではない筈よ!」

「私もそう思ったのですが、冗談を仰ったようでしたので」

「いつ!?」

「先程から自虐ネタを仰って──」

「仰ってない! 何で私が身を削ってまで、笑いを取らないといけないのよ! そんな芸人魂持ってないわよ!」

「で、ではなぜあのように情緒が不安定に……」

「ショックを受けてたの!!」

 

 

 

 

「なんなのよ、コイツは!」

 

 眞紀はビシッ、と聞こえそうな勢いでコイツを指差した。

 かぐやは少しホッとしたように息を吐き、やっぱり無理だったでしょう、と言わんばかりに勝ち誇った表情を浮かべた。

 

「そういう男ですから。あの不調法者を相手に、よく耐えた方だと思いますよ」

「ホント何であんなの雇ってるのよ……」

 

 各々文化祭準備に奔走しており、A組の教室に人の姿は殆どない。

 椅子に座っている眞紀とかぐやの側に、すっと長身の影が現れ、机の上にソーサーとティーカップを静かに置いた。

 

「文化祭でお出しする時計草(パッションフラワー)ハーブティーです。どうぞお召し上がりください」

 

 パッションフラワーはアルカロイドなどの有効成分が入っており、鎮静作用、抗うつ作用、ヒステリーやノイローゼに効果がある。と友人の石上優から聞いた。

 わざと出してるんじゃないでしょうね。そんな思いを込めて、無駄に高い位置にある顔を睨みつけた。

 

「助かるわ。私は情緒不安定で、突然自虐ネタをかますような女だから、このハーブティーがよく効くのよ」

「い、いえ決してそのような意味では……」

 

 おろおろする讃岐の様子を見て、眞紀は少しだけ溜飲を下げた。

 2人の様子を見ていたかぐやが、面白くなさそうにカップに口を付けているのを見て、眞紀は何となく察しがついた。

 

 カップを空にして、讃岐が再びハーブティーを注ごうとするのを手で制し、眞紀は立ち上がった。

 

「そろそろおいとまするわ」

 

 一歩踏み出してから、あっ、と声を上げる。

 

「そうそう、使用人も返却するわ。いつまでも独り占めしてたら、おば様達も気が休まらないでしょうし」

 

 ピクリ。かぐやと、遠くの席で作業をしていた早坂の肩が小さく跳ねた。

 

「……よく分からない事を言いますね、眞紀さん」

 

 眞紀は答えずにひらひらと手を振って教室を後にした。

 

 四条眞紀と四宮かぐやは非常に近似した存在だ。何でも高いレベルでこなす才能も、大企業の令嬢という立場も。だからこそ、四宮かぐやが無礼極まりない使用人をクビにしない理由が理解できた。

 誰もが羨む才能。誰もが頭を垂れ、媚びへつらう権力。天から二物を与えられた自分に毒を吐き、見せ付けるかのように慇懃無礼な態度をとる人物が現れたとしたら。

 それは自分の特別性を揺るがしたに違いない。

 四宮かぐやは無礼な使用人と話している時、自分が四宮家の長女である事実を忘れ、普通の人間でいられるのではないか。だから自分の側においているのではないか。四条眞紀は確信に近い推測をした。

 

 お互い面倒くさい天才の相手は苦労するわね。

 

 眞紀は讃岐に妙な親近感を抱いた。

 

 まぁ讃岐の場合、隠しきれない性根の悪さが滲み出てるだけだろうけど。

 

 もっとも、あの四宮かぐやがそれだけの理由で側に置いているとは考え難い。恐らく讃岐光谷にはかぐやが利に思うだけの何らかの才能が──。

 ポケットのスマホの振動で思考の海から浮上する。取り出したスマホの画面には、天才の対義語『バカ』と表示されていた。

 

「こんな時間に珍しいわね。何の用よ、バカ」

『いきなり罵倒!?』

 

 スピーカーから聞こえて来る文句を聞き流しながら、眞紀は夕日が差し込む廊下を歩いた。1人分のリノリウムの音が廊下に響いた。

 

 

 ◯

 

 

 かぐやと早坂は後部座席に讃岐は助手席。学校から帰宅する車内はいつもの配置だった。退屈そうに車窓からの景色を眺めていたかぐやが口を開いた。

 

「それで、アレはどういう事なの?」

「アレと申しますと?」

 

 讃岐がバックミラー越しに、後部座席のかぐやと目線を合わせる。

 

「風船が持ち去られたって騒いでいたでしょ」

「騒いではおりませんが。何故お嬢様がその件をご存知なのですか?」

 

 しまった、とかぐやは口を噤んだ。

 何故かぐやがB組で起きた事件を知っているのか。それを説明するには、少し時間を遡る必要がある。

 

 

 

「おかしいわね。そろそろ罵声の1つや2つや3つ、聞こえてきてもいい頃なのに……」

 

 かぐやは怪訝そうに眉を寄せた。

 

「確かに光谷君は毒舌ですけど、そんなにポンポン毒を吐かないですよ」

「讃岐は貴女には甘いから、そう思うだけよ」

 

 曲がり角に隠れながら、廊下の先を覗くかぐやが短く早坂に反論した。

 

「そんな事はないと思いますが……」

 

 ひょっこりと、かぐやの頭の上から早坂も顔を出す。

 2人の視線の先には、校内広報を眺めながら話している四条眞紀と讃岐光谷の姿がある。その光景をじっと見つめるかぐや。

 

「後を付けるくらい気にするなら、変な提案しなければよかったじゃないですか」

 

「別に気にしてなんていません」プイッとかぐやはそっぽを向く。「眞紀さんがあっさり根を上げる姿を見に来たのよ」

 

 仕返しとばかりにかぐやが問いを投げる。

 

「早坂こそ気になっているんじゃない? わざわざ着いて来たりして」

「まさか。私は同僚が眞紀様に無礼を働かないか、監視しているだけです」

「ふぅん」

 

 物言いたげなかぐやが余計なことを言い出す前に、早坂は廊下を指差した。

 

「あっ、移動しましたよ」

「えっ!? 早く追うわよ早坂」

 

 

 

 

 このように、2人でこっそり後を付けていたから、かぐやは風船がなくなった事件を知っていたのだった。

 

「……眞紀さんから聞いたのよ。持ち去られた理由、貴方は分かっているんでしょう」

 

 不審に思っている様子だったが、讃岐はそれ以上追求しなかった。

 

「おおよそは」

「犯人は風船を何に使うつもりだったの?」

 

 ゆるゆると首を横に振るのがミラーに映った。

 

「風船を使う為に教室から持ち去った、という思い込みが今回の一件で皆様の目を曇らせているのでございます」

「使いもしないのに風船を持ち出したっていうの?」

「さようでございます。ただ風船が欲しいだけなら、手元にあった風船を使えばよかった筈です。疑いが掛かるリスクを負ってまで、遠い席にあった古い風船を選んだのは、持ち出すのがその風船でなければなかったからに違いありません。

 さて、お嬢様。2つの風船の違いとは何でしょう?」

 

 そうですね……、とかぐやは虚空を見つめて考えを巡らせた。少ししてから口を開く。

 

「ゴムが劣化している事と、保管状態ね。新しい方は7色の風船が入ったパッケージがいくつもあるのに対して、古い方のパッケージは茶色い袋にまとめて入っていたわ」

「ゴムが劣化していようといまいと、近くにある風船を使えば良い事に変わりありません。1つの袋に纏めて入っていて、持ち出すのが容易だったのは原因の1つですが、まだ重要な相違点が残っております」

 

 かぐやの隣に座って、大人しく推理を聞いていた早坂も、A組の教室の様子を思い浮かべてみたが何も思い付かなかった。手が無意識にサイドテールの毛先を弄ぶ。

 

「? どうかしましたか、かぐや様」

 

 かぐやの視線は早坂の横顔に釘付けになっていた。正確には毛先を弄る早坂の指先に。

 

「色が違うわ」

「はぁ、ネイルしているので違うとはおもいますが……」

 

 空色の自分の爪と、ナチュラルな白いかぐやの爪を見比べる。

 

「はい。お嬢様が仰られたように、色が違ったのでございます」

 

 かぐやの言う色とは、爪の色ではなく風船の色の事だったようだ。

 

「色、ですか……。風船を持ち去ったのは、その色の風船を使いたくなかったからだと? でも光谷君は、持ち去られた風船を見たことがないですよね」

「それどころか、新しい方の風船だって、全部の色を確認していない筈よ」

 

 ごもっともです、と讃岐は憎らしい程落ち着いてその事実を認めた。

 

「私も持ち去られた袋に入っていた風船の色を、全て言い当てる事はできません。ですが眞紀様達のお話と、風船が持ち去られた事実を鑑みるに、一色だけそうではないかと思われる色があるのです」

 

 リムジンが交差点を右折する。運転手が手慣れた様子でハンドルを回転させる。一流の運転により、車内は右折で掛かる重力を殆ど感じる事はない。

 車が再び直進するのを待ってから、讃岐は足元から白い物体を取り出した。

 

「眞紀様から頂いた羊です」

「……それが何なの?」

 

 讃岐はポンポンと、子供のように胸の前で羊のバルーンアートを弾ませる。早坂とかぐやは呆れて半眼になった。

 

「眞紀様は最後に残っていた白色の風船で、この羊をお造りになられました。つまり、白色を含めた7色の風船は、全て使われている事になります」

「それはそうでしょう。わざわざ使わない色が入っている物を買ったりしないでしょうし」

「そうですね。さらにこの羊には、新しい風船の7色に入っていない色のヒントが隠されているのです」

 

 ポンと、讃岐が羊を後部座席へトスする。ゆっくりと浮上した羊は、天井すれすれを通って早坂の手元に落ちる。

 普通に渡せと思ったが口には出さず、羊をかぐやにも見えるように差し出す。

 羊は1つの風船で造られている。白いボディに黒いつぶらな瞳。バルーンアートでも簡単な部類になるだろう。

 

「黒ね」

 

 短く言って羊の瞳の部分を指で示す。

 

「なるほど。目玉をシールにするなら、黒色の風船は必要ありませんね」

「その羊くらい小型のものであれば、風船ではなくシールを使った可能性もありますが、眞紀様の造ったジンベイザメの巨大バルーンアートも目玉はシールでした」

「という事は、黒色の風船を持ち去りたかったの? 何故?」

「バルーンアートに黒い風船を使わないようにする為です。ところでお嬢様。奉心祭ではなにかとハートを見かけますが、ハートの色に意味があるのをご存知でございますか?」

 

「え!? いえ、全く知りませんよ! ハート? ハートがどうかしましたか?」いきなり話題が変わったから……だけではないだろう。ハートという単語に過剰反応を示し、声が上ずるかぐや。予想外の反応だったようで讃岐の方が首を傾げている。

 

「それはマスメディア部の?」

「早坂さんは紀さん達と親しいのでご存知でしたか。マスメディア部の広報にそういう記事があったのです」

 

「そして」と人差し指を立てる。

 

「黒いハートの意味は『嫌い』」

 

 早坂とかぐやは同時に息を呑んだ。

 

「奉心祭といえば奉心伝説。例に漏れずB組バルーンアートの中にもハートはあるでしょう。客として来た人に渡したハートの色が黒色なんて事態になれば、縁起の悪い事この上ありません。それを回避する為に、間違っても黒色の風船が使われないよう、古い風船を持ち去った。恐らく犯人はここ数日欠席していて、古い風船が使えないと発覚したのを知らなかったのでしょう」

 

 出席名簿を見れば犯人の特定は容易だ。まぁ、わざわざ突き止めるほどの問題でもないが。

 

「白い風船もあったようですが。白色のハートの意味は『好きだった』ですよね。これもあまり良い意味ではありません」

「黒い風船と違い、新しい風船は全て使う予定があります。ハートを造る際に、白色を避けたとしても不自然には映りません」

 

 視線を窓へと向ける。そろそろ屋敷に着きそうだと、景色を見て思う。讃岐の推理は、帰り道の退屈を紛らわすのに大いに役立った。

 

「そういう事情なら、風船を持ち出すなんて手段を取らずに、説明すれば良かったでしょうに……」

「おや、そうですか? お嬢様なら共感できるかと思いましたが」

「どういう意味よ?」

「黒いハートは縁起が悪いと提案をした女子生徒が、赤いハートを男子生徒に渡したとしたら──」

 

 讃岐は頭だけ回転させ、かぐやを振り返る。少しだけ口角が上がっているのは、人を揶揄っている時の表情だ。

 

「好きだと公言しているようなもの、だとは思われませんか?」

 


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