「ドブ板の人間」が暮らす街で、筋金入りのバイタリティにつつまれて。10年目の横須賀。

著者: 横地広海知 

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「横須賀に住んでます」と言いたい。

JR横須賀線沿線のとある駅へ賃貸契約に向かう電車の中でその考えは浮かんだ。

独立したてだったこともあり、安さを優先して決めた新居候補はなんのイメージも湧かない駅にあった。前の勤務先は鎌倉オフィスを売りにしていて、「どこに事務所があるか?」だけで顧客満足度が上がる場面に何度も遭遇した。何の実績もない自分はピンとくる名前の駅に住むべきなのではないか? 横須賀線の中で鎌倉以外にピンとくる駅名……「横須賀」しか思い浮かばなかった。

思いついてしまったら「横須賀に住んでます」「横須賀から来ました」とどうしても言いたくなった。降りる予定の駅を通り過ぎてたどり着いた横須賀駅でその日のうちに物件を決め、私の横須賀ライフはスタートした。

「横須賀に住んでます」と言い続けただけの10年間

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いつでも戦艦の見える海岸エリア。南極観測船「しらせ」が停泊していることも

引越して10年間、私は地元のお店に入ることもなく、ただ横須賀に自宅やオフィスを構え都内の仕事をして過ごした。

プライベートでひとと会話することが苦手だったし、家の近所にある横須賀で一番有名な商店街「ドブ板通り」の店主たちは、ふらりと立ち寄るには眼光が鋭いひとたちばかりだったからだ。

大学院時代を過ごした神戸も港町だったが、横須賀はさらに海が近い街だと感じた。特に私が住むことに決めた汐入は、駅から5分行けば潜水艦の並ぶ海を見ることができた。都内での打ち合わせから帰ってちょっと寄り道をすれば、さざ波に揺れる海面を楽しむことができるのだ。

さらに海と反対側の谷戸と呼ばれる地形の住宅域は、山の中に階段が細かく切り込み、どうやって資材を運んだのかわからないような場所にまで家が建ち並んでいる。山のない場所出身の私は「関東のマチュピチュだ!」と興奮した。企画に煮詰まったときなどは、家の外に出ればそんな刺激的な風景を眺めることができた。

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谷戸エリアには都市ガスが引かれていないため業者さんがプロパンを背負って階段を上り下りする光景が見られる

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階段を数十段上った先の崖にはひとが一人だけ通れる幅の小道が

他にも通行人の3分の1くらいを外国人が占める多様性が当然の環境や、良い意味で他人に無関心な住民たち、篠山紀信さんが百恵ちゃんのMVを撮影したころから様子の変わらない、駅ビルのない横須賀駅など、誰とも交流しなくても住み続けたくなる魅力はたくさんあった。

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篠山紀信さんが百恵ちゃんのMVを撮影したころから様子の変わらない横須賀駅

都内の仕事で「横須賀に住んでます」と言うと、リアクションも上々だった。先人たちのつくった少しとがった街という印象と、穏やかで自然も豊かな暮らしやすい街という実態の組み合わせは「最強」だと思えた。

18歳で一人暮らしを始めて以降2年以内に引越しする生活を続けていたが、横須賀は私が人生で初めて住居の契約更新をした街となった。

遅すぎる横須賀デビュー

大好きだけど近くて遠い街、長い間私にとって横須賀はそんな存在だった。しかし、横須賀に住んで10年が過ぎた2018年、次の計画をスタートさせることを決めた。なぜだか、横須賀と私の関係性が変わるタイミングのように感じたのだ。

具体的に私がしたかったことはいくつかあったと思うけれど、まとめると以下の2点だった。

1. スカジャンづくりに参加する
2. 街づくりに参加する

派手な服が好きでしょうがない私は、横須賀に越してきた時からいつかはスカジャンづくりにかかわるのだと勝手に決めていた。また、スカジャン発祥の街と謳いながらスカジャンを着こなすファッション好きを見かけないことから、なんとしてもカルチャーとしてのスカジャンを盛り上げるのだという変な使命感があった。

街づくりに関してはもう少し明確な理由があった。当時の私は、売れない自称イラストレーターからスタートした広告系のモノづくりの業界で12年以上を過ごし、WEB・映像・イベントなどあらゆる制作物の企画制作までを経験していた。そのスキルを活かし企業のクリエイティブチームの育成などにも挑戦していたが、人生を懸けてつくりたいモノを考えたときに思い浮かんだのは「自分の子どもたちが育つ街の暮らしをより素敵にクリエイションしたい」という想いだった。

2つの目標にむけて年初にぼんやりと思い浮かべていた計画は、突飛だけど至極単純なものだった。

「まだどこの政党にも所属してないない政治を志す青年を見つけ、そこから人間関係を拡げてスカジャンづくりと街づくりにかかわろう」

とにかく街と一切かかわらずに過ごしてきた自分が失礼のないように地元の方々と交流するには、仁義を大切にしながら人脈を拡げているであろう、政治を志す青年を見つけるしかないと思ったのだ。

候補者は割とすんなり見つかった。最初の出会いは3月ごろ、Sくんは駅前でビラを配っていた。そして二回目の8月、やっぱりビラを配っていたSくんに、私は用意していた自己紹介とともに声を掛けた。初めて積極的に横須賀のひとと話した瞬間だった。

ちょうど2018年は激動の年だった。大好きな友人から闘病の間オフィスを守ってほしいと依頼され、いきなり原宿駅の目の前にオフィスを構えることになり、4月にはその友人が空に旅立ち、まるで入れ違いのように告別式の翌日に第3子が生まれた。私はその激動に後押しされるかのように、本格的に横須賀での活動をスタートすべく12月にはあの「ドブ板通り」でオフィスを契約した。

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引越し当日のドブ板オフィス

「ドブ板の人間」

ドブ板通りは、日本海軍の拠点「横須賀鎮守府」の門前にある街として戦前から横須賀経済の中心地だった。戦後は建物疎開で更地になった場所にすぐにバラックが建てられ、米軍基地の門前の街として瞬く間に華やかな歓楽街兼スーベニア(お土産)の街になった。

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ドブ板通りFUJI前

戦後に次々訪れる外国人を相手に商売をしてきたせいか、この街で働く人々には独特の連帯感がある。それを象徴するのが「ドブ板の人間」という表現だろう。具体的には「ドブ板の人間ならやると言ったら最後までやる」などの使い方をするが、地区ではなく商店街単位での気質があるという意識をひとびとが共有していることが興味深い。この街のひとたちは時々、横須賀を「ドブ板」と「それ以外」とで分けて見ているようにすら感じる。

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ドブ板通りハニービー前

ともすると排他的に思える環境だけれど、それでいて新参者を拒まないバランス感覚がこの街の最大の魅力ではないかと思う。明文化されていない通過儀礼のようなものがあって、それをパスすればどこから来たか、国籍などに関わらず家族のように扱われる。戦後ドブ板で商売がうまくいったひとびとは遠方から親せきを呼び寄せることも多かったという。「よそ者」を受け入れ続けて発展した街ならではの「受け入れ方の流儀」が自然につくられてきたのだろう。一見さんには厳しい眼光を飛ばすが、街のためになると判断すれば、新しいことに挑戦するひとを軽やかに受け入れる。乱暴な言い方をすれば、この街は出る杭の伸ばし方を心得ているように感じる。

では肝心の私はどうなったのか? チャンスはドブ板オフィスをスタートさせてすぐ訪れた。Sくんの紹介で知り合った、目つきが人一倍鋭いドブ板生まれドブ板育ちのUさんは、ある日オフィスにやってくるとこう言ったのだ。

「スカジャンの柄描ける?」

Uさんの迫力に圧され声を詰まらせながらも、私は「はい!」と返事をした。そこからはトントン拍子で話が進んだ。根っからの研究好きの私は、スカジャン柄特有のタッチを習得することにのめりこみ、今ではスカジャン文化を継承しようとする「若手」としてタウン誌や新聞の取材を受けるようになった。2年前に立てた私の目標1は叶えられた。そして恐ろしかったUさんは今ではドブ板での一番の友人になった(と思う)。依然として目つきは怖いままなので会うたびに緊張感があるけれど、毎週ご飯に誘われるし、よく冗談も言ってくれるのでこれは友だちと言って差し支えないはずだ。

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1950年代の建物が使用されているお店もチラホラ

街の古参メンバーからお墨付きをもらうという形で幸いにも通過儀礼をパスした私は、恐ろしくて入店すらできなかった店の店主たちと道端で立ち話ができるほどになった。私の子どもたちに至ってはお店の中を遊び場感覚で走りまわっている。これまでの人生で地域コミュニティと関わったことはなかったが、敷居が高い分、内側に入ったときの温かみが大きいように感じる。今ではドブ板内に一歩足を踏み入れただけでちょっとパワーアップした気持ちになるほどだ。

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ドブ板通りスカジャンショップ MIKASA Vol.2内

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ドブ板通り大将ミシンししゅう店の店頭

筋金入りのバイタリティを楽しむ街

横須賀に住みたかった私は横須賀に住んだ。スカジャンづくりに参加したかった私はスカジャンをつくっている。もちろん、街づくりにもチャレンジ中である。

何をもって「街づくり」に参加しているとするかの正解はわからないが、この2年間で馬鹿みたいに積極的にひととかかわった成果か、色々な角度から「それらしい」ことをさせてもらえている気がする。街づくりの基礎は子育て環境を整えることにあるだろうと、Sくんと出会った直後に始めた子育て系の団体は、横須賀最大の子育て系イベントを主催するようになった。最近は市役所から市のIT発信手法についての助言を求められるようにもなった。ドブ板通り商店街のオフィシャルショップに行くと、市選出の大臣が私が柄を描いたスカジャンに身を包んだ写真が飾られているし、海軍カレーコーナーには私がパッケージをデザインした商店街オリジナルカレーが売られている。

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オフィス向かいのカキタ商店の3代目とは窓越しに会話することも

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ドブ板通り周辺のネコ。左下のタイルの壁が華やかだった時代の面影を感じさせる

こんなことを書きながら、正直少し困惑している。すでにずいぶん具体的に街づくりにかかわってしまっていることに気づかされたからだ。10年間横須賀は、私とは別個の存在だった。今私が住んでいる横須賀は確実に私を含んでいる。それは少し大それた感じがする。

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1950年代「天国」というスーベニアショップだったころのままの MIKASA Vol.2 2階越しのドブ板商店街の空

しかし、この街の魅力はきっと私が初めてJR横須賀駅に降り立った時から何も変わっていないのだろう。海と山と多様性、そして黒船来航に代表されるような変化にずっとさらされ続けることで備わった筋金入りのバイタリティ。何もしなくても楽しめるし、出る杭がのびのびと活躍できる街。観光地のようなフリをしているが、住んだほうが圧倒的に楽しめると確信している。

そんな街への愛情を噛みしめながら、これからも私は「横須賀に住んでます」と言い続けるだろう。


著者:横地広海知 

横地広海知 

クリエイティブディレクター / スカジャン絵師。1981年名古屋出身。神戸大学大学院で認知心理学を学ぶ。株式会社カヤックでプランナー・ディレクターを経験し独立。イラストから専門学校設立までさまざまな制作に関わる。クリエイションのゴールは暮らし作りと考え近年は居住地横須賀で積極的に地域活動を行う。Twitter note

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編集:ツドイ