「……起きて、起きて、しのぶ」
「……うぅん、姉さん、……もう少し」
「胡蝶先生じゃないわよ。しのぶ、起きてったら。今日こそは学校に行かないと……」
胡蝶しのぶはその言葉にようやくしっかりと覚醒した。ゆっくりと目を開けると、すぐそばに希世花の姿があった。ぼんやりと見つめてくるしのぶに、希世花は微笑みながら口を開いた。
「おはよう、しのぶ」
「……おはよう、ございます」
「今日はちゃんと隣にいたわよ」
悪戯っぽく笑う希世花になぜかほんの少し腹が立って、手を伸ばして鼻を軽くつまむ。
「う?何よ、しのぶ」
「なんかムカついて……」
「えー?」
首をかしげる希世花の鼻から手を離すと、しのぶは体を起こし、時計へ視線を向けた。
「……まだ、早いじゃない」
「今日は少し早めに学校に行きたいって、昨日話したでしょ。ほら、例の……」
「ああ…」
しのぶは不満そうに唇を尖らせた。
「……もうちょっと、寝たい」
「ダメ。遅刻するわよ。ほら、早く着替えて。朝ごはんの用意もしなきゃ」
「……」
しのぶは不満そうな顔をしたまま、希世花の腕を掴んだ。そのまま押し倒す。
「わっ、しのぶ?」
「……」
希世花は戸惑って声を出す。それに構わず、しのぶは希世花の胸に顔を埋めるように抱きついてきた。
「えー……、そんな可愛いことされると、いろいろまずいんだけど……」
「もう、今日も学校休みましょう」
「……魅力的な誘いだなぁ」
希世花は笑いながらしのぶを抱き締める。
「でもダメ。あなたはともかく、私はちょっと休みすぎたし。今日こそは本当に学校に行かなきゃ」
「……」
不満を表すようにしのぶが抱き締める腕に力を込める。それにクスクス笑いながら希世花は言葉を続けた。
「ね、決めたわよ」
「……何が?」
「ほら、テストが終わったら二人でどこかに出かけようって約束してたじゃない。私が行きたいところなら、どこでもいいって」
「……どこに、行きたいの?」
「本当のところ、しのぶと一緒だったらどこでもいいんだけどね。……あのね、私、また、しのぶのおうちでお泊まりしたい」
「……」
「前に泊まったときは緊張して楽しむどころじゃなかったから。またしのぶと、それからカナエ様やカナヲと遊びたいなぁ……」
「私は二人だけがいい」
「うーん?そっかぁ。じゃあ、お泊まりはやめて、どこかに……」
「いえ」
しのぶは希世花から離れると、苦笑した。
「あなたの行きたいところなら、どこでも、と言ったのは私だし……。またお泊まり会をしましょう」
「いいの?」
「ええ。二人で出かける機会なら、今後いくらでもあるし」
その言葉に希世花は顔を輝かせて微笑んだ。
「うん!二人で、いろんな所に行こう」
「不死川先生、おはようございます。」
朝早く登校した希世花がまず足を踏み入れたのは自分のクラスではなく、職員室だった。まっすぐに不死川の元へ向かい、挨拶をする。不死川の方は、ここ数日休んでいた希世花が突然現れたことで戸惑ったような顔をしていた。
「よう、八神。久しぶりだなァ。休んでいたようだが、大丈夫か?」
「ええ。少し事情があって、休みを頂いておりました」
「そうか。……それで、お前は……」
何かを言おうとした不死川を遮るように、希世花は手に持っていた包みを不死川に差し出した。
「どうぞ」
「あ?何だァ、これ?」
「不死川先生には大変お世話になったので、お礼です」
「あァ?礼だァ?」
「最初はおはぎにしようかと思ったんですが、先生の好みが分からなかったので……、おはぎに合いそうな茶葉を持ってきました。とても美味しいと評判のお茶なので、是非おはぎと一緒にどうぞ」
不死川は眉をひそめつつ、その包みを受け取った。
「なんで礼なんだ?」
「……えーと、テストの後、いろいろお世話になったので……」
数学準備室での事を濁すように言うと、不死川はますます戸惑ったような顔をした。
「別に俺は何もしてねェだろうが」
「いえ、とても、本当にとても助かりました。ありがとうございました」
希世花はそう言って頭を下げた。そんな希世花を見つめながら不死川は顔をポリポリと軽く掻き、口を開く。
「ところでよォ、八神……」
「はい?」
「さっきからこっちを親の仇のように睨み付けているそこの背後霊は何だァ?」
「背後霊とは何ですか!?」
希世花の後ろで、無言で不死川を睨んでいたしのぶが大きな声でそう言って、希世花は苦笑した。
朝早くに学校に登校したのは、不死川にお礼を言うためだった。結果的に不死川のお陰で記憶を取り戻せたため、きちんとお礼をするべきだと思ったのだ。しかし、職員室に一緒についてきたしのぶは、希世花が不死川にお礼の品を渡すのを何故か不満そうに見ていた。
「不死川先生がいらないなら、それは私がもらいます。こっちに渡してください。さあ、早く」
「いらねェとは言ってねェだろうが。なんでそんなに怒ってんだ?」
「怒っていません。ちょっと気に入らないだけです!!」
「なんだァ、それ?」
不死川がまた首をかしげたところで、胡蝶カナエが出勤してきた。希世花としのぶの姿を見るなり声をあげる。
「あっ、しのぶ、八神さん!!」
「姉さん、おはよう」
「おはよう、じゃないわ、しのぶ!2日も帰ってこないし、学校は休むし!一体何をしていたの!?」
「うっ、えーと、いろいろ……」
「八神さんもよ!最近ずっと休んで、連絡しても何にも返事してくれないし、……本当に心配したのよ!」
「すみませんでした、先生」
カナエの言葉に素直に頭を下げた。そのまま大人しくしのぶとともにお説教を受ける。説教をされている間、次々と出勤してきた他の教師達が不思議そうにこちらを見てくるのを感じた。やがてカナエがため息をつきながら頬に手を当てた。
「はあ……、もう、本当に心配したんだから。とにかく、もう授業が始まっちゃうし、……何があったのか、放課後にちゃんと話を聞かせてもらいますからね」
「はーい」
しのぶが短く返事をして、希世花も口を開く。
「あの、先生……」
「うん?」
声をかけられたカナエが希世花の方を見て、軽く首をかしげる。希世花が迷ったようにしながら口を開こうとしたその時だった。
「今日こそは、そのピアス、外してもらうぞ」
「何度も言いますがそれは無理です、冨岡先生!」
体育教師の冨岡が炭治郎を引き連れて職員室に入ってきた。炭治郎は職員室にいる希世花としのぶの姿を見て、不思議そうな顔をする。そしてそのまま軽く頭を下げて、その場を通りすぎようとしたその瞬間だった。炭治郎の鼻がピクリと動き、ギョッとした顔で立ち止まった。勢いよく後ろを振り返り希世花に向かって大きく声で呼び掛けた。
「―――――圓城さん!?」
炭治郎の声が職員室に大きく響き渡り、前世の関係者達が一斉に希世花の方を見た。近くにいたカナエと不死川も面食らったように炭治郎を見る。そして、希世花も炭治郎の方へ顔を向けた。
「………」
少しの沈黙の後、希世花は微笑んだ。次の瞬間、いつもの穏やかな雰囲気が一瞬でガラリと変わった。その微笑みは、かつての優美で、凛としていて、勇ましい、そして懐かしい微笑みで、前世の関係者達は息を呑む。
圓城菫は優雅にお辞儀をして口を開いた。
「ごきげんよう。再びお逢いできたこと、大変嬉しく存じます」
顔を上げると、周囲の人々がポカンとこちらを見つめていた。その光景に思わず希世花は声を出して笑った。
「あはははは、それじゃ、授業が始まるので失礼しまーす。しのぶ、行こ!」
「え、えーと、じゃあね、姉さん」
希世花はしのぶと手を繋ぎ、笑いながら職員室から廊下へ飛び出す。
「え、あっ、ちょ、ちょっと、待って、待ちなさい!!」
カナエが慌ててその後を追った。
職員室では教師達がまだ呆然としている。それに構わず、炭治郎は希世花としのぶ、そしてそれを追いかけるカナエの後ろ姿を見つめた。
「不思議だなぁ……」
今の彼女の匂い。八神希世花と圓城菫が混じり合い、不思議な匂いとなっていた。今までの彼女の匂いと全然違い、驚いて声をかけたのだ。しかし――――、
「幸せそうだなぁ……」
希世花としのぶ、二人が手を繋いだ瞬間、今まで嗅いだことのないくらい幸せの匂いを感じた。
炭治郎は微笑みながらその後ろ姿を見つめ続けた。
「ねえ、しのぶ」
「なあに?希世花」
呼ばれた名前に笑みがこぼれる。
嬉しい。幸せで、涙が出てきそう。
「ありがとう。名前を呼んでくれて」
「うん?」
「私、大好きなの。あなたに名前を呼ばれることが」
そう言うと、しのぶは少しだけ驚いた表情をして、そして微笑んだ。
その笑顔を見て、胸の奥からたまらなく愛おしい気持ちがあふれてくる。
きっと、永遠だ。
どれほどの時間が経っても、世界が変わったとしても、この気持ちは、永遠に色褪せないだろう。
彼女の笑顔が好きだということ。
名前を呼ばれるだけで幸せを感じたこと。
全てが、永遠だ。
「しのぶ、私と出逢ってくれて、ありがとう!」
そうだ。今日は早く寝よう。きっと、昔の夢を見るはずだ。根拠はないけど、そんな予感がした。
昔の、蝶屋敷で過ごした日々。温かくて優しい、幸せな夢を見たい。
そして目が覚めたら、学校に行って、しのぶにこんなこともあったねって、たくさん話をしよう。
「希世花」
「ん?」
しのぶが声をかけてきて、視線を向ける。
「ありがとう。諦めないでくれて。思いを繋いでくれて、ありがとう。あとね、言い忘れてたけど……」
しのぶは希世花の耳元で小さく囁いた。
「圓城菫としても八神希世花としても、―――あなたのことが大好きよ」
その言葉に、耐えきれなくて涙がこぼれる。それでも、夢のような幸福感に胸がいっぱいになった。
そんな様子を見て、しのぶがまた笑う。希世花も涙をこぼしながら微笑んだ。二人はお互いに強く手を握りしめながら教室に向かった。