「なんか申し開きはあるかァ?」
「……………すいませんでした」
数学準備室にて、しのぶと共に不死川の前で正座をする。不死川が睨んでいるのが分かったが、目を合わせられなくて希世花は下を向いた。
「俺も教師になってそこそこ経つがよォ、生徒指導室で不純同性交遊してる馬鹿を見るのは初めてだァ」
「ふじゅ………っ!?そんなはしたない事はしておりません!!」
とんでもない言葉に顔を上げて、思わず叫ぶように反論するが、不死川に舌打ちされながら睨まれて、またしおしおとうつむいた。その時、隣のしのぶが口を開く。
「……申し訳ありませんでした、不死川先生。ですが、誤解です」
しのぶの冷静な声に、不死川が眉をひそめた。希世花も不安そうな顔でしのぶに視線を向ける。
「誤解?」
「私が掃除の途中でつまずいて、倒れた拍子にあのような体勢になっただけです。ですから、先生が思っているような事はしておりません。全て誤解です」
「……」
「……」
「私ったら、うっかりです。」
涼しい顔でそう述べるしのぶに、希世花は複雑そうな顔をして黙ったままだった。不死川は少し考えるような表情をした後、
「………はあ、分かった。もういいわ。見なかった事にする。お前ら、もう帰れェ」
ため息をついて、物凄く面倒くさそうに言い放った。
その言葉にホッとしながら希世花は立ち上がる。隣のしのぶも立ち上がる姿を確認しながら、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「……二度と学校であんな真似するんじゃねェ。俺はもう忘れることにする」
また頭を下げると、希世花としのぶは数学準備室から出ていった。
不死川はその後ろ姿をじっと見つめた。二人が出ていった後、数学準備室に静寂が戻る。不死川は少し考えた後、鞄からスマホを取り出した。そしてスマホの画面に触れてから、それを耳に当てた。
「……よう。お前の妹、またなんかやらかしたっぽいぜェ」
数学準備室から出た希世花はすぐさましのぶに背を向け、歩きだした。素早くしのぶから離れる。しのぶが慌てて希世花の腕を掴んだ。
「八神さん……っ、話は、まだーー」
「話すことなんて、ない」
希世花が振り向いて、しのぶと真っ直ぐに目を合わせた。その暗い瞳に、息を呑む。
「……っ、」
「……悪いけど、ちょっと距離を置きましょう。私も、あなたも、混乱してるんだわ。……心の、整理が必要なのよ」
「わ、私はーーーー」
「ごめん、だけど……」
希世花は少しだけ迷うように目を逸らしてから、またしのぶを真っ直ぐに見つめ、口を開いた。
「……その方がお互いのため、だと思う。……正直、今は、しのぶの顔を見たくない」
その言葉に、しのぶが雷に打たれたような顔で固まった。そんなしのぶを尻目に、希世花は素早く背を向けると、小走りでその場から離れた。
胡蝶カナエは帰宅した瞬間、家の空気が沈んでいる事に気づいた。
「ただいま」
「おかえりなさい、……あの、……カナエ姉さん」
カナヲが何かを訴えたいが、何と言えばいいか分からないというような顔をして出迎えてくれた。そんなカナヲに苦笑しながら頷く。
「大丈夫。分かってるから。しのぶは部屋にいるの?」
「……はい」
「分かったわ。ちょっと話してくるわね」
カナエは苦笑したまま、しのぶの部屋へ向かった。
コンコンと扉を軽くノックする。
「しのぶ、入るわよ」
返事はなかったが、気にする事なく扉を開けた。電気のついてない暗い部屋でしのぶはベッドの上にうつ伏せで横たわっていた。制服も着がえていない。顔を枕に埋めている。
「……しのぶ」
「……」
しのぶは何も答えない。カナエは黙ってベッドに座ると、しのぶの頭を優しく撫でた。
カナエは何も言わずにしのぶに寄り添う。
「……何も、聞かないの?」
やがて、しのぶが小さな声を出した。
「聞いた方がいいの?」
「………」
「しのぶ。おいで」
カナエがそう言って腕を広げると、しのぶは顔を上げて躊躇ったような顔をしつつカナエに抱きついた。
カナエがギュッと抱き締め、しのぶはその肩に顔を埋めた。沈黙が落ちる。カナエがしばらくそのまま抱き締めていると、ようやくしのぶが口を開いた。
「………ーーーーあの子に、ーーーーーーれた」
「うん?」
「あの子に、……か、顔を見たくないって、言われた。ーーーー距離を置きたいって、」
「……あらあら」
カナエは困ったような顔をしてしのぶの背中を擦った。
「喧嘩しちゃったのね……。原因は?」
「……」
「姉さんには言いたくない?」
しのぶは再び口を閉ざし、カナエの背中に回した腕に力を込める。カナエはそれ以上何も言わずにずっと背中を擦ったり頭を撫でてくれた。
姉の優しさに感謝しながら、しのぶはぼんやりと考えていた。
『……その方がお互いのため、だと思う。……正直、今は、しのぶの顔を見たくない』
希世花の言葉が脳内に響いて、頭が揺れるような感覚がした。意識がバラバラになりそうだ。
カナエが優しく頭を撫でてくれて、少しだけ心が落ち着く。しかし、
「ああ………、そっか……」
「うん?」
しのぶは小さな声で呟き、カナエが不思議そうな声を出した。
今日の希世花の言葉。前世で一度決別した時、しのぶが言った言葉とほぼ同じだった。
『ええ。約束しましょう。あなたの邪魔はしません。もう関り合いになるのも、やめましょう。……その方がお互いのためだわ。正直、あなたの顔はもう見たくない』
しのぶがそう言った時の、彼女の顔を、覚えている。まるで、世界から光が消えたような絶望の表情だった。深い悲しみを宿した瞳。でも決して涙は流さなかった。
今の自分は、きっとあの時の彼女と同じ顔をしている。
まるで、大きな悲しみの底へ一気に突き落とされたみたい。
知らなかった。知りたくなかった。拒絶されることが、こんなにも、苦しくて、痛いだなんて。
ああ、でも、それでも、あなたはーーーー、
「………姉さん」
「大丈夫よ、しのぶ。大丈夫……」
カナエの優しい声が、温かい。しのぶの心にじわじわと広がっていく。
支えてくれる姉に感謝しながら、しのぶは思った。
今なら分かる。あの時のあなたの悲しみが。そして、強さが。
絶望に突き落とされたあなたは、それでも、立ち上がったのね。
前に進んできたのね。
最後まで、折れなかったのね。
やっぱり、あなたは強い。ーー誰よりも。
『しのぶ』
声が脳裏に響く。昔のあなたと、今のあなた。
今日の彼女の暗い瞳。あんな目をするなんて、初めて知った。
彼女の言う通りだ。心の中にあるのは、昔の彼女の姿。だって、ずっと、ずっと、待ってた。昔の彼女に会いたくて、会いたくて。
だから、彼女を真っ直ぐに見ていなかった。
「………会いたかったの。ただ、それだけなのに」
しのぶが小さな声で、また呟く。それを耳にしたカナエは、またしのぶを強く抱き締めた。
今日が休みでよかった。
希世花は洗面所で顔を洗いながら、そう考えていた。
昨日の生徒指導室での事件後、しのぶを拒絶してしまった。しのぶのショックを受けた表情を見て、少し後悔したが、お互い心の整理が必要だと考えたのは間違ってない、と思う。
希世花は鏡の中の自分を見つめて、顔をしかめた。ひどいクマだ。昨日もほとんど眠れなかった。眠るのが怖い。最近、苦しい夢を見ることが増えている。夢の中で苦しむくらいなら、無理矢理にでも起きていた方がマシだ。
そう考えながら、リビングのソファに座り、教科書を広げる。テスト勉強をして気を紛らわせよう。
「……あ」
不意に思い出した。悩み事がもうひとつ。
あの童磨とかいう胡散臭い男から生徒手帳を返してもらっていない。昨日はあまりにも顔を見るのが嫌すぎて、いつもとは違う道から下校した。そのため、遭遇はしなかったが、あの手帳は返してもらう必要がある。悪用されるかもしれない、と考えただけで頭に血が上りそうだった。
「どうしよう……」
頭を抱えながら呟いたその時、希世花のスマホが何かの通知を示した。首をかしげながら、スマホに触れる。そして、送られてきたメッセージに目を通して、大きなため息をついた。
「こんにちは、八神さん」
「……こんにちは」
希世花のスマホにメッセージを送ってきたのは、胡蝶カナエだった。
呼び出された公園に行くと、カナエはもう到着していて、いつもの優しい笑顔で声をかけてきた。しかし、
「八神さん?体調が悪いの?」
「あー、勉強していて、あまり寝てないだけです。……気にしないでください……」
希世花の顔を見たカナエが心配そうな顔をした。化粧でなんとか睡眠不足を隠そうとしたが、あまり効果はなかったみたいだ。希世花は誤魔化すように笑った。
「それよりも、先生、どうしたんですか?突然……」
「少しだけ、あなたとお話したくて、ね」
カナエはニッコリ笑った。
「テスト前に悪いけど、散歩しながらお話しない?いい天気だし」
「……はい」
その言葉に頷きながら、カナエの隣に立つ。二人でゆっくりと公園を歩き始めた。
「テスト勉強は大丈夫かしら?」
「……範囲は予想していたほど広くは、ないので。多分大丈夫だと思います。化学と数学はちょっと大変ですけど……」
テストの事や部活の事など、他愛もない話をしながら二人で肩を並べて歩く。
希世花はカナエと話しながらぼんやりと考える。
この人と一緒にいると、心から安心する。不思議だ。考えてみれば初めて出会った時から、そうだった。なんと言うか、うまく言い表せないが、すごく温かい。目の前の景色がほんの少し光って見える気がする。
なぜだろう。この気持ちを、ーー私はずっと前から知っている。
いや、知っているんじゃない。
「八神さん。少し座りましょうか」
カナエにそう言われて、考え事をしていた希世花は我に返った。カナエが示す方に視線を向けると、ベンチが設置してある。
「疲れてない?」
「平気です……」
近くの自販機で飲み物を購入し、並んでベンチに座る。
少しだけ沈黙が落ちた。希世花は購入したコーヒーをゆっくりと飲む。
「八神さん、あのね……」
「しのぶとは、いずれきちんと話します」
カナエが口を開いたが、希世花は先回りするようにそう言った。カナエが目を見開く。
「……八神さん」
「ごめんなさい。でも、今は、話したくないです……。距離を、置きたいんです。いろいろと、考えることが多すぎて……」
希世花はうつむいて、手の中の缶コーヒーを見つめる。
向き合わなければならないと、分かっている。自分の記憶に決着をつける必要があるということも、分かっている。
だけどーーーー、
「……しのぶは、何か言ってましたか?」
「……いいえ。あの子は、何も言わなかった。だけど、ずっと悲しそうにしていたわ」
そう言われて、昨日のショックを受けたしのぶの顔を思い出した。缶コーヒーを強く握りしめる。
「……しのぶのこと、嫌いになったわけじゃ、ないわよね?」
「あり得ません。万に一つも」
カナエの質問に思わず即答し、希世花は気まずそうに顔を逸らした。
「……逆に、しのぶが、私の事、嫌いになったのでは、ないですか?昨日、ちょっと……いろいろあったので……」
「それこそあり得ないわよ~」
カナエのフワフワした声に、希世花は顔を上げた。
「しのぶは、あなたの事が大好きなの。だから、そんな事は絶対にないわ。断言できる」
その言葉に安心する。迷うように目を泳がせてから、希世花は口を開いた。
「……すみません。だけど、」
「うん?」
「……ちょっと、距離感が、分からなくなりました。しのぶとの」
「距離?」
カナエが不思議そうな顔をする。希世花は言葉を選ぶようにしながら話を続けた。
「……私、もともと親しい人がいないんです。両親は仕事にしか興味がなくてほぼ家にいないし、兄とも年が離れてるからほとんど話さないし……。お金だけはある家だったから、なに不自由なく暮らしてきたし、感謝はしてるんですけど、ね」
「……」
「前の学校は、幼稚園から通っている厳格な女子校で……全然馴染めなくて、友達もいなかったんですよ……別にそれを寂しいとも悲しいとも思わなかったんです……当たり前だったから」
「……それで、うちの学校に?」
「いえ、家出してきちゃいました」
笑いながらそう言うと、カナエは驚いたような表情をした。
「家出?」
「……両親が、私の将来を勝手に決めて強制してきて……私には、どうしても、無理でした。親の敷いたレールを、歩くのは。だって、いきなりお見合いしろ、なんて言うんですよ。学校を卒業したら結婚するようにって」
「そ、それはすごいわね」
「だから家を出たんです。幸い、祖父が味方になってくれたので、いろいろゴタゴタはありましたが、結局実家を出て、一人暮らしをすることになりました。その時、祖父にお願いして、今の学校に転校もさせてもらいました」
「……大変だったのね」
「はい。でもーー」
希世花は小さく笑った。
「家を出たこと、後悔は、しません。今の学校に、転校してよかった。だって、先生やしのぶに出逢えたから」
「……そう」
「たくさん友人もできました。楽しい思い出も。ーーーーだけど」
再びうつむく。
「……最近、分からなくなったんです。しのぶとの距離が。今まで、親しい人がいなかったから……、自分の気持ちを自覚して、どんなふうに接すればいいのか、分からなくなって……」
「………気持ち?」
無言でこちらを見つめてくるカナエから顔を逸らすように、真っ直ぐに前を見て、希世花は口を開いた。
「しのぶの事が、好きなんです」
カナエが目を見開く。希世花は淡々と言葉を続けた。
「好きだから、もっと近づきたい、と思う。他の人と仲良くしてほしくない。ずっとそばにいたい、なんて思ってしまう……しのぶを独占したい、なんて考えて、しまって、……っ、」
カナエの顔を見るのが怖かった。下を向いて、言葉を続ける。
「……好きだから、しのぶと一緒にいるだけで、楽しくて、幸せ、だと感じます……だけど、同じくらい心が、痛い」
「痛い?」
「だって、しのぶは私を見ていない。……先生も、ですよね。たまに私を通して、私じゃない誰かを見てる」
「……」
「ああ、すみません。違いますね。しのぶと先生が見ているのは、私じゃなくて、ーーーー」
「私の知らない、私、なんですよね」
目を伏せて微かに笑うと、カナエが震えるように声を出した。
「……八神さん」
「あはは。すみません。なんだか、湿っぽくなっちゃって。こんな話をするつもりは、なかったのに」
わざと明るくそう言って顔を上げる。カナエは顔を強張らせていた。それを見て、希世花は自分の言葉を後悔する。そんな顔を、してほしくなかった。
だって、私はーーーー、
「八神さん、あのねーー」
「すみません、先生。変な話をしてしまって。別に、気にしてません。きっと、二人にとって大切な人だったんですよね」
カナエが何かを言う前に言葉を重ねる。
「気にしてません。本当に……」
「私は……」
「ごめんなさい。ただ、なんと言うか、……ちょっと悔しかったんです。悔しい、というか、………嫉妬しました。私じゃない、私に」
「………」
「悔しいな。……本当に悔しい。きっと、私は、その人には決して敵わない……」
そう呟きながら、思わず笑った。我ながら、女々しい。馬鹿だな、と感じる。
本当は、こんなにも強く強く、気にしているのに。気にしていないと、とぼけたふりをして嘯く。
「……違うわ。違うの。八神さん」
カナエが首を横に振りながら口を開いた。希世花の手を包み込むように握ってくる。
「ごめんなさい。知らず知らずのうちに、あなたを傷つけていたのね」
「……傷ついてなんか、いませんよ」
「これだけは分かって。私もしのぶもあなたの事が大好きで、大切なのよ」
「……」
「私達は、あなたをずっと待ってたの。あなたの事が大好きだから……」
「だから、それは私じゃないんでしょう、
思わず口をついたように出てきたその言葉に、希世花はパッと両手で口元を抑える。そしてサッと青ざめた。
「や、八神さん……」
カナエが震えるように声を出した。
「やっぱりそうなの?記憶が、戻ってるの?」
口を抑えたままカナエに視線を向けると、呆然とこちらを見つめていた。
「い、いつから?どうして……」
戸惑ったようにオロオロしているカナエに希世花は諦めたように手を口元から離した。
「……先生のお家で、お泊まり会した日に……」
「えっ……、そ、そんなに前から…?」
「いえ」
希世花は顔を強張らせた。
「正確には、思い出したわけじゃありません。あの日、先生のお家に泊まった日から……ずっと、ずっと、夢を見るんです」
「夢?」
「私じゃない、私の夢……。夢の中で、私は誰かと、……懐かしい誰かと過ごしたり、戦ったり、してる……」
「それはーー」
カナエが戸惑ったように言い淀む。
「何度も何度も、思い出しそうになってるんです。だけど、なぜか、思い出せない。多分、……私の心が、それを拒否してる」
「思い出したく、ないの……?」
カナエが悲しそうに顔を歪めた。希世花は考え込むような顔をしながら答えた。
「……どう、なんでしょうね……。私は、思い出したいのかな……、思い出したくないのかな。つらくて、苦しい思い出なら、いっそ、思い出さない方が、幸せなんじゃないかって思って……。だけど、きっと、それじゃあ………」
しのぶの瞳に私は一生映らない、そう続けそうになって口を閉ざした。
思わず笑ってしまいそうになる。馬鹿みたいだ、本当に。自分に嫉妬するなんて。
怒りと悲しみ、いろんな感情で頭が混乱して、おかしくなりそうだった。拳を強く握りしめ、立ち上がった。
「先生、すみません。疲れたので、お先に失礼します」
「八神さん、待って!」
カナエが慌てたように希世花の腕を掴む。
「お願い、これだけは、信じて。私は、今のあなただって大好きなのよ。もちろん、しのぶもそうなの」
「……失礼します」
希世花は唇を噛みしめて、その場から逃げるように走り去った。
***
また、この夢だ
目の前にはこちらを睨む自分自身
彼女に向かって、声の限り、叫ぶ
「私に干渉しないで!もう、嫌よ!私はーー、私はーーーー!」
そして、目の前の自分自身を見つめる
美しい雛菊の着物を着た、人形のような彼女は笑った
『なあに?あなたは、どうしたいの?』
覗き込むように顔を見てくる。
「私はーーーー、思い出したい」
『本当に?本当に思い出したい?』
彼女が、問いかけてくる
『いいじゃない。思い出さなくても。つらいことや苦しいことなんて、思い出す必要はないでしょう?』
その言葉に、情けないほど狼狽した
その様子を見た人形のような彼女が、笑う
『あなたは私。私はあなた』
そして、囁いた
『結局、自分の意思を持てない、お人形なのよ』
その言葉に怒りが心に満ちる。真っ直ぐに彼女を見据えた。
「ちがう!!私はーーーー、」
***
希世花は目を覚ますと、うんざりしながら起き上がった。
急いで身を整えると、鞄を持ってマンションを出る。今日からテストだ。遅刻はまずい。
時間を気にしながら教室に入ると、既にしのぶは椅子に座って教科書を広げていた。希世花が入ってくると、ハッとしたようにこちらを見てきた。
「……あ、あの」
「おはよう」
しのぶが何か話しかけてきたが、顔を逸らしながら挨拶だけして隣に座る。そして、しのぶを無視するように鞄から単語カードやノートを取り出し、そちらに集中するふりをした。
しのぶの表情が固くなったのが分かったが、その顔を見る勇気はなかった。
数日かけて、テストは行われた。難しい問題もあったが、思ったよりも上手く出来た、と感じる。現実逃避するように勉強したお陰だ。しかし、流石にテスト最終日になると、疲れが襲ってきてグッタリしていた。最後のテストは数学だった。計算式を書きながら、隣のしのぶがチラチラとこちらを見ているのを感じる。今の自分が、また顔色が悪いことは気づいていた。勉強で忙しいということもあるが、夢を見るのが嫌で、テスト期間中は一睡もしていない。暇さえあれば寝てしまう希世花にとって、信じられないことだ。こんなにも長期間起き続けるのは初めてだった。倦怠感でどうにかなりそうだ。頭痛もひどい。
それに、と希世花は解答欄に数字を書きながら、思わず顔を歪めた。童磨から、生徒手帳を返してもらわなければならない。あの日から童磨とは会っていない。この数日は遭遇するのが嫌すぎて他の道から下校していた。幸運にも童磨と顔を合わせることはなかった。しかし、問題から目を逸らすのもそろそろ限界だ。本当に返してもらわないとーーーー、
「よし、終了。手を止めろォ」
ようやくチャイムが鳴った。テストが終了し、試験監督の不死川の声が響く。ホッとしながら立ち上がり、テストを集め、不死川に手渡した。今日はこれで学校も終わりだ。早く帰ろう。
「……あ、」
自分の机に戻った時、しのぶと目が合ったが、思いきり逸らした。そして、自分の鞄を抱えて逃げるように教室の扉へ向かう。
「あれ?」
その時、教卓の上にペンケースがあるのを発見した。見覚えのあるペンケースだ。どこで見たんだろうと一瞬考え、そして思い出す。不死川のペンケースだ。補習の時に使っていたのを覚えていた。
「忘れ物かな……」
見つけてしまったので、放っておくというのはなんだか悪い。仕方なく希世花はそれを手に取ると、数学準備室に向かった。きっと試験直後だから、そこにいるはずだ。
その姿をしのぶはじっと見つめていた。
数学準備室の扉をノックして、声をかける。
「すみませーん。不死川先生。いらっしゃいますかー?」
すぐに扉は開いた。
「おう、八神。どうした?」
「これ、不死川先生のですよね?教卓に残っていましたよ」
希世花がペンケースを差し出すと、不死川が頷いた。
「ああ、俺のだ。悪かったな、わざわざ……」
「あっ、子分じゃねえか!!」
その時、数学準備室から大声が聞こえた。その声に思わず部屋の方へ視線を向けると、嘴平伊之助の姿があった。
「伊之助さん?」
「よう!」
「こんにちは。どうしてここにいるの?」
不思議に思ってそう尋ねると、不死川が苦々しげに答えた。
「こいつ、テストだっつーのに、遅刻しやがった。しかも俺のテストをほぼ白紙で出しやがった」
「だから、悪かったって言ってんだろう!」
「うるせェ!!てめえのそれは反省してねぇだろうが!!」
伊之助が大声で叫び、不死川も負けじと怒鳴る。その姿に希世花は苦笑いした。
「先生も大変ですね……」
その時、伊之助が希世花の方へ近づいてきて、口を開いた。
「子分!!お前、そろそろ思い出したか!?」
その言葉に希世花の表情が大きく引きつる。伊之助はそれに気づかないように言葉を続けた。
「なんか権八郎が匂いがしたとか言ってたしよ!そろそろ思い出すンじゃねえかって……」
勢いよく言葉を続ける伊之助とは逆に希世花の顔色はどんどん悪くなっていった。うつむいて、唇を噛み締め、拳を強く握る。それを見た不死川が驚いたように、
「お、おい、八神?大丈夫か?」
と聞いてきた。その問いに答えられず、身体が震える。
「……っ」
慌ててその場を離れようとしたが、伊之助が腕を掴んできた。
「子分、どうした?何かあったのか?」
「……なん、でもない」
やっとのことでそう答えるが、伊之助はグイッと顔を覗き込んできた。
「誰かにやられたのか?それなら、お前に代わって俺がぶっ倒してやる!子分の面倒を見るのは親分の役目だからな!!」
「……」
何と言えばいいのか分からず下を向いた。伊之助と不死川が不思議そうな顔をする。
「八神?本当にどうした?」
「……私は、……」
途方に暮れたように、か細い声が自分の口からこぼれ出る。そして、身体を震わせながら、言葉を続けた。
「……こ、子分じゃない……、あなた達の知ってる、人間じゃない……っ」
涙がこぼれそうになって、下を向いた。その姿にギョッとしたらしい不死川が慌てたように希世花の腕を引っ張るように数学準備室へ入れる。そして、素早く扉を閉めた。
「や、八神?どうしたァ?何があった?」
「誰にやられた!?言え、子分!!」
「嘴平がなんか嫌なこと言ったか?こいつをぶん殴ればいいか?」
「てめぇ、なんでそうなるんだよ!!」
オロオロしている不死川と、怒ったような顔をしている伊之助が次々と声をかけてくる。希世花は口を一文字に結び、じっと下を向いていたが、しばらくしてようやく口を開いた。
「……私は、……みんなが知ってる私じゃない」
その言葉に、不死川がハッとしたような顔をした。
「ダメ、なんです……、心が、拒否してる……、思い出すのを……。つらいことや、苦しいことから、目を背けて、……ずっと逃げてしまって……いっそ、思い出さない方が、いいって、どこかで、考えてて……、だけど……それじゃあ、………しのぶが……私を、見てくれない……」
耐えきれずに、涙がこぼれた。
「………私は、ここに、いるのに……ずっと、ここに、いるのに……っ」
その言葉にどう答えればいいか分からず、不死川が言葉に詰まった時だった。
「お前、何わけの分からねぇこと言ってんだ?」
伊之助がキョトンとしながら口を開いた。
「馬鹿じゃねーか?お前はお前だろ。昔も今も俺様の子分だ。全部お前自身に決まってるじゃねえか」
あまりにも普通にそう答える伊之助に希世花が呆然とする。
「え………」
「つーかよ、お前、しのぶのこと、好きなんだろ?しのぶも、お前のことめちゃくちゃ好きじゃねえか。いっつも二人でホワホワしてるしよ。それだけでいいんじゃねーの?」
「えっと……」
当然のようにそう言われ、どう反応すればいいのか分からず涙も引っ込む。
「俺はな、子分!お前に文句があるんだ!あの時、親分である俺様を差し置いて、トドメを刺しちまいやがって!!しかも、あっさり死にやがって!!今でもクソ腹が立ってるんだからな!!」
伊之助が睨みつけながら言葉を続けた。
「でも、一番言いたいのは、……っ、礼を言いたかったんだよ!!お袋としのぶの仇を取ってくれたのはお前だ!!あの時はなんも伝えられなかったからな!!」
唐突な言葉にわけが分からず、伊之助の言葉が頭をグルグルと回る。
「だから、つべこべワケ分かんねぇこと言わず、とにかく思い出しやがれ!!話はそこからだ!!よく分かんねえことグダグダ考えてんじゃねえよ!!分かんねえことは後から考えりゃいいだろ!!」
どう答えればいいのか分からず、立ち尽くしていると、今度は不死川が声をかけてきた。
「あー、八神。なんか、よく分からねェが……、昔のお前は……そりゃあ、いろいろあってつらかったり苦しかったりしただろうがよォ……」
不死川が顔をポリポリと掻きながら、続けた。
「お前はずっと胡蝶の事を想っていたはずだァ。俺が最後に見たお前は、……少なくともすげェ幸せそうだったぞ」
不死川は、自分が見た圓城菫の最後の姿を思い出す。
髪に付けた黄色の蝶の髪飾りに触れながら、小さな声を出していた。
『……一つは、昔、師範ーー花柱様にいただいたもので、もう一つは、先日、蟲柱様にいただいたんです……』
その時の、彼女の顔を今でも覚えている。一瞬だけ、見せた表情。
それは、花が咲いたような美しい笑顔だった。最高に幸せで、これ以上満足することなんて、絶対にないというような、眩しいほどの笑顔。
「それは、お前にとって大切な思い出じゃねェの?それすらも、思い出したくないのか?」
「……たい、せつ」
ああ、そうだ。
いつもいつも、夢に見るの。途中で邪魔されるけれど、でも、それでも、覚えてる。ほんの少しの、幸せな記憶の欠片。
優しい眼差し
温かい声
そして、輝くような笑顔
その声で名前を呼ばれるだけで、私は前に進める
あなたの笑顔のためなら、私は何度だって戦える
私の、大切な、最後の一欠片
「……不死川先生」
「ん?」
「……変な宗教やってるんじゃないかって疑ってすみませんでした」
「あァ!?」
顔を引きつらせる不死川を無視して、希世花は伊之助に声をかけた。
「伊之助さん、ありがとう。私、頑張るわね」
「おう!!よく分かんねえが、猪突猛進だ!!」
その言葉に微笑んで、希世花は数学準備室から出ていった。
できるだけ急いで走り、昇降口から飛び出す。汗だくになりながらマンションに帰り着いた。
取りあえずはシャワーを浴びて、部屋着に着がえる。そして鏡に写った自分をじっと見つめる。そしてゆっくりと口を開いた。
「ーーーー私は、思い出したい」
鏡に向かって手を伸ばす。
「彼女が待ってるの。全てを置いてきてしまった。忘れたまま、彼女と再会してしまった。でも、それでも、ーーーー私は、私よ。全部私なの。もう間違わない。つらいことも苦しいことも、全て受け入れるわ」
指が鏡に触れた。
「私の、わがままよ。でも、どうか、お願い。力を貸してほしいの。……私も、頑張るから」
鏡の中の自分を撫でて、微笑む。そして、希世花は寝室に向かい、ベッドに横になった。
***
宮殿みたいなきらびやかな場所で、人形のような彼女が笑う
『思い出さなくてもいいでしょう?このままでも十分なはずよ』
「ちがう!!私は、思い出すわ!!」
叫んだ私に、彼女の表情が揺れた
「だって、待ってるの!!しのぶが待ってる!!」
いつの間にか、手には大きな刀が握られていた。
「しのぶが待っててくれるから、私はもう迷わない!!また、走ってそこに行くんだ!!」
そして、私は素早く距離を詰めると、手を動かした
彼女が避けようとするが、もう間に合わない
雛菊の着物が揺れる
そして、刀を振るってーーーーーー
刃が当たる寸前で、私はその動きを止めた
『……え?』
彼女が戸惑ったようにこちらを、見てきた
「ち、がう……」
私は手を下ろした
刀が床に落ちる
「こんな、ことを、したいわけじゃない!!殺したいわけじゃない!!」
彼女がポカンと見つめてきた
「傷つけたくなんて、ないの!!だって、あなただって、私なんだもの!!人形なんかじゃ、ない!!あなただって、“八神希世花”よ!!全てが、私なの!!」
こちらを見つめてくる彼女に歩み寄る
そして、抱き締めた
「一緒に、行こう。前に進もう。きっと、私なら大丈夫。どんなにつらくても、立ち上がれる。もう、諦めない。傷つけたりなんか、しない。だから……」
そして、笑った
「今度こそ、一緒に生きていこう」
そう言うと、呆然としていた彼女の体が震えた
静かに泣いているのが分かった
しばらくすると、腕の中の彼女が動いた
『あっちよ』
「え?」
彼女が前方を指差す
『あっちに、あるわ。あなたの探していたものが。あなたの、最後の一欠片が』
「……」
『何してるの、早く行きなさいよ』
「あなたは……?」
『私はここから離れない。あなたの心の一部分だから』
「……」
『ほら、行きなさい。取り戻したいんでしょう』
「……ありがとう」
小さく呟いて、立ち上がる
そして、彼女が指差した方向へと走り出した
『ーーーーごめんなさい』
後ろから彼女の声が聞こえた
『ごめんなさい。羨ましかっただけなの。何にも縛られず、自分の意思を貫いて、自由に生きることができるあなたが羨ましかった。私も、ーーーー本当は、そうしたかった』
もう振り返らない
『一緒に生きていこうって言ってくれて、嬉しかった』
私はあなた
あなたは私
『ーーーーありがとう!』
こちらこそ、ありがとう
心の中でそう言いながら、私は走る
そして、見つけた
「……あ」
美しい、光輝く球体
「……綺麗」
目が眩むほど、キラキラと輝く
まるで、太陽みたい
ゆっくりと近づき、それに触れた
そうすると、それは一層力強く輝く
なぜか涙が浮かんで、微笑んだ
それを包み込むように抱き締める
日だまりのように温かい
次の瞬間、目の前が光に包まれた
※“八神 希世花”
雛菊の娘。主人公の、心の化身の一人。お人形のようにおとなしく、従順で、周りに流されるだけのお嬢様。その性格ゆえに表面化することはなかったが、無意識領域にひっそりと存在していた。
心のままに自由に生きている「自分自身」を羨ましく思い、更にかつて“殺された”事を思い出し、怒りが芽生えた。その妬みと恨みから夢の中に現れ、記憶を取り戻す事を妨害、「自分自身」を翻弄する。だけど、本当は何よりも、己の意思の弱さを憎み、嘆いていた。