風邪をひいたものの、すぐに熱は下がり、頭痛やのどの痛みも消失した。看病に来てくれたカナエ、しのぶ、カナヲのおかげだ。しのぶの爆発というわけの分からない事件は起こったが、週末はゆっくり体を休め、次の週から無事に学校に復帰できた。
「無理をしてはいけませんよ。気分が悪くなったらすぐに言ってください」
「……うん。」
隣の席のしのぶの言葉に小さく頷く。
「もうすぐテストもありますし、体調管理には気を付けないと、ダメですよ」
「……ああ、そういえば、もうすぐだね」
少しだけうんざりとしながら言葉を返す。
「……嫌だなぁ」
「頑張りましょうね」
その言葉に苦笑いしながら頷いた。
授業が始まり、しのぶは気づかれないようにそっと希世花の顔を見つめる。なんだろう。彼女の様子はやはりどこかおかしい。夏祭りの後くらいからだ。最初は風邪をひいたため、体調が悪いのだろうと考えていたが、それだけじゃない気がする。今も授業を聞いているふりをしているが、何か他の事を考えているような…
「………?」
視線を感じたのか希世花がこちらに顔を向けた。しのぶは慌てて誤魔化すように微笑んで視線を前に戻す。授業に集中しなければならない。
そんなしのぶを、今度は希世花がじっと見つめていた。そして、うつむくと、思い悩むような表情で唇を噛んだ。
数日後、テストが近いため、希世花のマンションで二人で勉強をすることにした。
カリカリとペンを走らせる音が響く。希世花は教科書を開いてノートに文字を書き綴っていた。正面にはしのぶが座り、同じように勉強をしている。
「……うーん」
「どうしたの?」
「いえ、ここ、ちょっと分かりにくくて……」
「ああ、それは公式を使って……」
行き詰まったらしいしのぶに問題の解説をする。一通り終えると、希世花はペンを置いて、思い切り伸びをした。
「……少し休憩にしましょうか?」
「そうね。なんか飲み物でも持ってくる」
教科書を閉じて、キッチンへ向かった。2人分のコーヒーを用意して、自分としのぶの前に置く。
「……前から思ってましたけど、あなた、あれだけ授業中に居眠りする割には、勉強できますよね」
「まあ……、居眠りしてその上成績も悪いのは、さすがにマズイしね。受験生だし」
受験生、という言葉に反応したかのようにしのぶが口を開いた。
「そういえば、あなた、どこの大学に行くんです?」
「うーん、ここから通える大学……、一応目指してるのはーーーー」
近くの大学名を希世花は口にした。
「……そっちは?」
「薬科大を……」
「ああ、さすがね」
希世花は納得したように何度か頷いた。
「姉さんと同じ大学にしようか迷ったんですけどね」
「へえ………」
苦笑するしのぶに、希世花は笑いながら口を開いた。
「本当、姉妹仲いいわよね。うらやましい」
「普通ですよ」
「そうかなぁ?うちは兄弟仲あんまり良くないから、そういうの、なんかいいなーって思うよ」
「……え?」
「ん?」
しのぶが驚いたような声をあげたため、希世花は首をかしげた。
「兄弟仲って……、あなた、ご兄弟がいるんですか?」
「え?うん。兄が一人」
「……知らなかったです」
「まあ、別にわざわざ言うことじゃないでしょ」
しのぶが突然頭を抱えたため、希世花は面食らった。
「え?どうしたの?」
「……いえ、私は相変わらずあなたの事をよく知らないなって再認識しただけです」
その言葉に戸惑っていると、しのぶが言葉を続けた。
「お兄さんと、仲、悪いんですか?」
「うーん、悪いって言うか……、年も離れてるし、あんまり話したことがないのよ……えーと、元々、私、家族とは合わないというか、ちょっと縁が薄い、のよね」
言いにくそうにそう言う希世花に、しのぶが悲しそうな顔をした。
「それは寂しいですね……」
しのぶがそう言うと、希世花は教科書を開きながら口を開く。
「うーん?今は寂しくないよ」
「はい?」
「しのぶがそばにいてくれるから、寂しくないよ」
「………」
しのぶが黙りこんだ。奇妙な沈黙が落ちたため、希世花は教科書からしのぶの方へ視線を移し、再び首をかしげた。
「しのぶ?」
「……そういうとこですよ、八神さん」
「ん?」
「いえ」
しのぶは微笑むと言葉を続けた。
「テストが終わったら、二人でどこかに行きましょうか?」
「あ、いいわね。どこに行く?」
「どこでも。あなたが行きたいところでいいですよ」
「本当?」
希世花は顔を輝かせた。
「えっと、遊園地とか、水族館……、また映画も行きたいなぁ……、あとは、買い物とか……」
「あらあら、行きたいところがたくさんですね。テストが終わるまでに決めておいてくださいね」
「うん!」
希世花は嬉しそうに笑いながら大きく頷いた。
***
『ーーーーーー』
また、この夢だ
誰かが笑ってる
ああ、そうだった
忘れていた
この笑顔、大好き
あなたが笑ってくれると、私も幸せ
夢でも、幻でも、逢えて嬉しい
とても、嬉しいわ
あなたの笑顔の全てを、忘れないように、心に刻みたい
だから、もう少しだけ
もう少しで……
『ダメよ』
その時声が聞こえた
後ろから誰かに目隠しをされる
目の前が闇に染まる
『思い出すなんて、許さないわ』
***
「八神さーん、そろそろ起きましょうか」
「………んあ?」
しのぶの声が聞こえて、覚醒する。変な声が漏れた。ぼんやり顔をあげると、クラス全員がこちらを見ていた。
「………あー、よく寝た」
思わず呟くと、すぐ近くから低い唸り声が聞こえた。
「八神……、俺の授業はよく眠れたようだな?」
気がつくと目の前に化学教師の伊黒が希世花を睨み付けながら立っていた。それを見て思い出す。そうだ。今は化学の授業中だった。顔が思わず引きつる。
「最近、貴様は居眠りをしなくなったと聞いていたが、どうやら噂に過ぎなかったらしい」
「あ……、いえ……」
「放課後の補習を楽しみにしておけ。ペットボトルはいくらでもあるぞ」
「……」
伊黒はイライラしながら教壇へと戻る。希世花はガックリと肩を落とした。
「八神、俺はとてつもなく怒っている。なぜか分かるか?」
「えーと、居眠りして申し訳ありません……」
放課後、教室で伊黒の用意したプリントを解きながら希世花は謝罪した。伊黒がますますイラついたように目を吊り上げる。
「そうだな。出来ることなら磔にしてペットボトルロケットを食らわせたい。貴様の成績が悪ければ即座に刑を執行していた」
「………」
「しかし、残念ながら、八神、お前は成績だけはいい。しかも、お前を可愛がっている胡蝶からそれだけはやめろと何度も言われている。命拾いしたなあ?」
「………」
「だが、俺が一番怒っているのはそんな些細な事ではない」
「え?」
希世花は不思議そうな顔でプリントから顔をあげた。伊黒が鋭い目で希世花を見据えた。
「八神。貴様、甘露寺と遊んでいるそうだな。それも何度も」
「……はい?」
なぜここで甘露寺の名前が出てくるか分からず希世花はポカンとした。伊黒がネチネチと言葉を続ける。
「最近俺が甘露寺と話す時、何度も貴様の名前が出てくる」
「え、えっと……?」
伊黒の言う通り、甘露寺とはしのぶを交えて何度か食事に行ったり遊んだりした。だが、なぜその話が今ここで出てくるのか全然分からない。
「甘露寺は貴様とどこに行っただの、何を食べただの、それはそれは楽しそうだ」
「は、はあ」
「クズが、馴れ馴れしく甘露寺に近づくな」
「ええ……?」
なぜそこまで言われなければならないのか、さっぱり意味が分からず希世花は呆然とする。
「え、えーと、伊黒先生は、蜜璃さんと……」
「このゴミカスが!甘露寺を名前呼びだとーー!」
「ええ…?だってそう呼んでもいいって、ご本人が……」
伊黒が怒りでプルプルと震え出した。希世花は戸惑いながら言葉を続ける。
「先生は蜜璃さんと、その、お付き合いを?」
「そんな事を貴様が知る必要はない」
「え、えーと、すみません……?」
伊黒の視線がもっと鋭くなった気がする。どうやら違うらしい。伊黒の片思いなのだろうか。
そんな事を思いながら希世花は再び口を開いた。
「……お二人が並んでいたらお似合いだと思ったのですが……」
その言葉に伊黒の震えがピタリと止まった。鋭かった目が、大きく見開かれる。
「……ふん。早くプリントを終わらせろ」
そのまま伊黒は希世花から視線を外して、そう言い放った。取りあえずは怒りが治まったらしい。
そのことに安心した希世花はぼんやりとプリントの問題を解きながら口を開く。
「……恋って、楽しいものですか?」
「………はあ?」
突然の希世花の言葉に伊黒が訝しげな声を出す。
「なんだ、その質問?」
「あ、えーと、すみません」
希世花は謝りながらも、少し考えてから話を続ける。
「……好きな人が、できたら、それは楽しいことだ、幸せなことだ、って以前は思ってたんですけど、……なんか、難しいですね、人を好きになるって」
「………」
「好きなだけじゃ、ダメなんだな、と思って。相手の気持ちとか、距離とか、いろんなことがよく分からなくなって……、ずっとモヤモヤしてる……」
伊黒は不審そうな顔をしていたが、ネチネチと声を出した。
「そんなわけの分からんことを言ってないで、さっさと終わらせろ、クズが。俺の貴重な時間をこれ以上無駄にするな」
「あー、すみません。もう終わります」
希世花は素早くプリントに文字を書き込み、それを伊黒に手渡した。
***
また、この夢だ
目の前に誰かがいる
優しい微笑みを浮かべている
なのに、顔が見えない
誰だっけ?
知っているはずなのに、分からない
いや、ちがう
思い出した
そうだ、この人は
私が、誰よりも尊敬していて信頼していた人
ぼんやり考えていると、ふいにその人が近づいてきて、私の頭を撫でてくれた
それがうれしくて、頬が緩む
ああ、逢いたかった
逢いたくて逢いたくて、たまらなかった
次の瞬間、再び目を隠された
『思い出しては、ダメだと言ったでしょう?』
その声に、鳥肌が立った
思い切って振り返る
そこに立っていたのは、自分自身だった
華やかな花柄の着物を着ている
自分自身が、口を開いた
『これは呪いであり、報いであり、罰よ』
そして、微笑んだ
『あなたが私を殺したの』
***
「………あ?」
希世花は目を覚ました。ゆっくりと体を起こす。また何か、とても不思議な夢を見ていた気がする。なのに、全然覚えていない。最近よく分からない夢を見る事が増えた。
何の夢だったっけ?
ぼんやり考えながら、ベッドの近くの時計に視線を向け、顔をしかめた。
「しまった……」
「遅刻して申し訳ありませんでした……胡蝶先生」
寝坊して急いで学校へ向かったが、結局1時間目には間に合わなかった。本日の1時間目は生物の授業だったため、担当の胡蝶カナエに謝罪するため希世花は職員室に足を踏み入れた。
「八神さん、どうしたの?また体調が悪い?顔色が悪いわ」
目の前で胡蝶カナエが心配そうな表情で顔をのぞきこんてきた。
「……いえ、ちょっと疲れてるだけです。すみませんでした……」
「授業には出られる?体調が悪いのならいつでも言ってね。部活も無理しなくていいし、しのぶを頼ってもいいのよ」
「……ありがとうございます」
優しい言葉に感謝しながらもう一度頭を下げた。
「……大丈夫です。部活も、きちんと参加しますので……」
別に体調が悪いわけじゃない。変な夢を見て、その夢がなぜか気がかりというだけだ。そんなおかしな話、とても他人には話せない。
「大丈夫?本当に無理しないでね」
ふいに、カナエが希世花の方へと手を伸ばし頭を撫でてきた。
その瞬間、希世花の顔が固まった。見たことがないほど表情が強ばり、目を見開いている。
「八神さん……?」
カナエが不思議そうに声をかけると、希世花が震えながら目を閉じて頭を抑える。そして、口を開いた。
「……っ、先生」
「うん?」
「………わ、私、……先生と、……前に、どこかで、会ったこと、ありますか……?」
その言葉にカナエは息を呑み、職員室の他の教師達が一斉にバッと二人の方へ視線を向けた。
「……どうして、そう思うの?」
カナエが恐る恐るそう聞くと、希世花は目を閉じたまま、首を横に振った。
「……いえ。すみません。変なこと、いいました。そんなわけないのに。忘れてください。失礼します」
そしてパッと職員室から足早に出ていった。
「あ、待って、八神さん」
カナエは慌てて呼び止めようとしたが、希世花はすぐに廊下の向こうへと消えてしまった。
カナエは職員室の自分の席に戻ると、呆けたように椅子に腰を下ろした。
「今のってよォ、まさか、あいつ……」
「南無……。記憶を取り戻しかけているのか……?」
「ようやくか。ド派手に遅かったな」
「遅すぎるくらいだ。まったく、鈍感にもほどがある」
「よもや!なんだか感慨深いものがあるな!!」
職員室に集結し、たまたま話を聞いていた前世の関係者達がワイワイと騒ぎ始めた。
それに構わず、カナエは少し考えたあと、ため息をついて頬に手を当てた。
「……しのぶがまた暴走しなければいいけど……」
※伊黒 小芭内
記憶がないとか、名前が変わっているとか、主人公の事はどうでもいい。甘露寺とはたまに食事に行って話すくらいの仲。前世と同じく甘露寺ガチ勢。甘露寺が幸せならもう何でもいいや。