希世花は痛みを訴える頭を抑えながら教室に入り、自分の席についた。なんだろう、先ほどの伊之助の言葉。何か引っ掛かる。
「おはようございます」
「……あ、おはよう」
希世花が席についてすぐにしのぶも教室に入ってきた。希世花の顔を見て訝しげな視線を送ってくる。
「どうしました?顔色が悪いですよ」
「……うーん、なんか、忘れた気がして……」
「忘れ物ですか?教科書なら見せますよ」
「うーん、そうじゃなくて……」
上手く言えずに希世花は曖昧に笑って誤魔化す。しのぶは何かを言いかけたが、直後に教師が教室に入ってきたため、心配そうな表情をしながらも前を向いた。
徐々に頭痛も治まっていき、昼前にはすっかり良くなっていた。しかし、妙な心の引っ掛かりは残ったままだ。
「失礼しまーす」
休み時間、希世花は生物の課題ノートを提出するため職員室に入った。生物教師のカナエのいる机へと真っ直ぐ向かう。カナエは希世花が職員室に入ってきた事に気づかず、何やらスマホを楽しそうに見ていた。
「うふふ……」
「すみません、胡蝶先生、ノートを………え!?」
「あっ、八神さん――」
後ろからカナエに声をかけた時、カナエのスマホが目に入った。心の引っ掛かりが全部吹っ飛び、思わず大声をあげる。スマホの中には自分としのぶの寝顔が映っていた。
「な、……な……、なんですか、それ!?」
「あー、見られちゃったわね……」
「先生!それ、い、いつ!?」
「うふふ。この間のお泊まりの時、ちょっとね」
カナエがニッコリ笑いながらそう言って、希世花はクラクラした。
「け、消してください!!」
「あら、ダメよ。お気に入りの写真なのに」
「いやいやいやいや!!そんな写真、即刻削除してください!」
動揺のあまり、思わずスマホに手を伸ばすが、カナエは希世花の手に届かないようにスマホを思い切り高く上げた。
「先生!そもそも、なんでそんな写真撮ったんですか!?」
「だって~、あんまり可愛くて……つい、ね?」
「つい、じゃありません!本当に消してください!!」
「それはイヤよ」
「先生!!」
希世花が叫び、カナエが楽しそうに笑った。
「それは姉さんが悪いわ」
「え~」
「え~、じゃない!」
放課後、華道部の部室で、希世花の話を聞いたしのぶが怒鳴った。希世花も拗ねたように頬を膨らませている。近くではアオイが呆れたような顔でこちらを見ていた。結局絶対にカナエは写真を消してくれなかった。
「ほら、姉さん。早く消して」
「え~、でも~」
「姉さん!!」
「……しのぶだってこっそり八神さんの写真を持ってるくせに」
「はあ!?」
カナエの言葉に今度は希世花が大きな声をあげた。
「な、な、なに、なに、それ!撮られた覚えなんてないんだけど!」
「…………」
しのぶが無言になって目をそらした。
「ちょ、ちょっと!それ、どんな写真!?」
「……どうでもいいでしょう、別に」
「よくない!ちょっとスマホ貸して!」
「ダメです。プライバシーの侵害です」
「盗み撮りしといてそれはないでしょう!!」
二人でワーワー言い合っていたその時、カナヲが部室に現れた。
「あら、いらっしゃい。カナヲ。遅かったわね」
「すみません。……あ、あのー、姉さん、お願いが、あるんですけど………。あとでの方がいいですか?」
しのぶと希世花の様子をチラリと見て、カナヲが言いにくそうに切り出す。
「いえ、大丈夫よ、カナヲ。どうしたの?」
希世花から逃げるように、しのぶはカナヲに近づきニッコリ笑った。
「えっと、これ、行きませんか?みんなで……」
「あら、お祭り?」
カナヲが机に出したのは花火大会のチラシだった。どうやらこの近くで開催されるらしい。希世花も一旦気持ちを落ち着けてそのチラシに視線を送る。
「いいわねえ。みんなで行きましょうか。アオイや八神さんも予定がないなら一緒に行きましょう!」
「すみません。私は家の手伝いがあるのでちょっと難しいですね……」
アオイが残念そうな顔でそう言った。
「あら、残念ねえ……。八神さんは?」
「え……」
「一緒に行きましょうよ。きっと楽しいわ」
「は、はい……」
なんとなくカナエの笑顔に押し切られるように頷いた。しのぶが微笑んで口を開く。
「楽しみですねえ、お祭り」
「それよりも!写真っていつ撮ったの!?」
「………さあて、私もそろそろ部活に行ってきますね」
「ちょっと!しのぶ!!」
そしてしのぶは素早く逃げるように部室から去っていった。追いかけようとした希世花はカナエに肩を掴まれて止められる。
「まあまあ、八神さん。落ち着いて」
「先生!」
「それよりも、八神さん、いつの間にしのぶのこと名前で呼ぶようになったの?」
「え、あ、あー、昨日そう呼ぶように言われて……」
「ずいぶん仲良くなったのねぇ。先生、嬉しいわ」
カナエが嬉しそうに笑って、希世花は少し照れたように下を向いた。
結局カナエもしのぶもスマホの写真は消してくれなかった。何度か詰め寄ったがのらりくらりと躱される。カナエとしのぶに写真を削除するよう懇願するうちに、伊之助の言葉をすっかり忘れてしまった。
そして花火大会当日。
「うん!とっても似合ってるわ!」
「すみません、先生。でも、本当にいいんですか?」
「いいのいいの!私の昔の浴衣なんだけど、ピッタリでよかったわ~」
胡蝶家にて希世花はカナエによって浴衣を着付けられていた。紺色の生地に赤い金魚が描かれた可愛らしい浴衣だ。本当は普通の服で行く予定だったが、カナエの勧めで浴衣を着て行くことになった。カナエの浴衣を借りて着付けてもらい、鏡を見る。無意識に顔が緩んでしまう。
「あら、いいじゃないですか」
「先輩、すごく似合ってますよ」
「あ、しのぶとカナヲさんのも可愛い浴衣ね」
胡蝶姉妹も華やかな浴衣を身に付けていた。
「じゃあ、行きましょうか!」
カナエ、しのぶ、カナヲと共に祭りの会場へ歩いていく。到着すると、既に多くの人が集まっていた。夜空の下、会場には屋台が連なり、にぎわっている。
「わあ……」
希世花はその光景に目を輝かせた。
「すごい。こんなの初めて……」
「え?お祭り、初めてなの?」
カナエがびっくりしたようにそう聞いてきて希世花は頷いた。
「はい……。こういう場に、あまり行く機会がなかったので……」
ワクワクしながら周りを見渡す。
「人が多いから、はぐれないようにね」
カナエの言葉が耳に届いたが、屋台を見るのに夢中になっていた。
「ね、ねえ、しのぶ、あれ、なに?」
「射的ですね」
「あっちは?」
「金魚すくいです」
「あの赤いのは何を売ってるの?」
「りんご飴の屋台です」
「あれ、りんごなの?なんか可愛い」
「甘くて美味しいですよ。買ってみますか?」
「うん!」
初めてのお祭りに希世花は珍しく気持ちが高ぶっていた。胸を踊らせながらしのぶやカナヲと共に屋台でりんご飴やたこ焼きを買ったり、射的に挑戦する。その姿をカナエがニコニコと見守っていた。
「……あっ、」
射的を楽しんだ後、歩いていたその時、すれ違った人とぶつかってしまい、その拍子にバッグを落としてしまった。バッグの中身が地面に散らばる。
慌てて手早く中身をかき集めて顔を上げると、前を歩いていた胡蝶姉妹の姿が消えていた。
「しまった……」
表情を曇らせて、自分のスマホを取り出す。
「………」
スマホの充電が切れていた。うんざりしながらスマホをバッグの中に仕舞う。どうしようか。このままここで待つべきだろうか。下手に動くよりもその方が無難かもしれない。でも人通りも多いし、どうしよう。
そう考え込んでいたその時、ドン、とまた誰かとぶつかった。
「すみません!」
「ご、ごめんなさ……」
ぶつかった相手と目が合う。希世花よりも年下らしい少女だ。あれ?と首をかしげる。この子、知ってる。誰だっけ。確か――――、
「あ、あのー、八神先輩、ですよね?」
「え、あ、は、はい。確か同じ学校よね?ええと……」
「あ、一年の素山恋雪です。こんばんは。」
恋雪と名乗ったペコリと頭を下げた。そうだ。思い出した。噂を聞いたことがある。高校生にして、既婚者の後輩だ。希世花とは違うクラスの同級生の男子生徒と結婚していた。二人が仲良く話しているのを何度か見たことがある。
「こ、こんばんは。ええと、素山さん、よく私の名前知ってるわね…学年も違うのに……」
「あ、はい。八神先輩って有名なので……」
「え、有名?なんで?」
「あ、えーと、いろいろ……」
恋雪が誤魔化すように笑い、希世花は首をかしげた。
「あ、あの、それより、狛治さんを見ませんでしたか?」
「え?うーん。見てないわ。ごめんね」
「そうですか……」
恋雪が不安そうな顔をする。その顔を見て希世花は口を開いた。
「はぐれたの?」
「……はい。さっきから探してるんですけど、人も多いし、見つからなくて……」
「スマホとか携帯電話は?」
「家に忘れてしまったんです……」
「あー、私とおんなじね」
「え?」
「胡蝶先生と、その妹さん達と一緒に来たんだけどはぐれちゃった。見てない?」
「見てないです……。すみません……」
恋雪が申し訳なさそうにそう言ったので、希世花は苦笑した。
「えーと、素山さんはこの辺ではぐれたの?」
「それが、いつの間にか、一人になってて……。狛治さんを探して、はぐれた場所からかなり歩いてきてしまいました……」
その時、アナウンスが響いた。あと三十分ほどで花火が打ち上がるらしい。
そのアナウンスを聞いた恋雪が今にも泣きそうな顔で下を向いた。
「……せっかく、一緒に、……花火……」
か細い声で呟く。その声を聞いた希世花は恋雪の手を握って歩き出した。
「あ、あの、先輩?」
「一緒に探すわ」
「え、で、でも……」
「いいから。はぐれた場所はどこ?大体でいいから、覚えてない?」
恋雪が慌てたように口を開く。
「多分、なんですけど、……金魚すくいの近くで…」
「金魚すくい?それなら、私、さっき見たわ。行ってみましょう」
歩きにくい下駄で少しだけ早く歩き、金魚すくいの店を目指す。恋雪の手を離さないようしっかり握りながら、人波の中をグングン進んでいった。やがて、金魚すくいの店が目に入った時、声がした。
「恋雪さん!」
「あ、は、狛治さん!」
大きな声と共に現れたのは、八神とは同級生で恋雪の夫である素山狛治だった。狛治の姿を見た恋雪はすぐに駆け寄り、狛治に抱きつく。
「恋雪さん、よかった。本当に……」
「ご、ごめんなさい。狛治さん」
仲のいい若夫婦を、離れた場所から希世花は黙って見つめた。
やがて狛治から体を離した恋雪が慌てたように希世花の方へ顔を向け、ペコペコと何度と頭を下げた。
「先輩、ありがとうございました。本当に、本当に、助かりました」
「いや、私は何もしてないから……。ここに連れてきただけで……」
狛治の方は何故か物凄く複雑そうに顔を歪めて希世花の方を見てきた。
「えーと、お前は……」
「…蓬組の八神よ」
「狛治さん。八神先輩が一緒に狛治さんを探してくれてたの」
それを聞いた狛治が慌てて頭を下げた。
「そ、そうか。世話になった」
「ううん。気にしないで。それより、花火が始まるわよ。楽しみにしてたんでしょう?」
「あ、ああ。じゃあ……」
「先輩、本当にありがとうございました!」
恋雪は何度もお礼を言いながら、狛治と共にその場から去っていった。去り行く二人の手はしっかりと握り合っていた。もう絶対に離さないとでもいうように。
その後ろ姿を、希世花はじっと見つめた。
いいなあ、とぼんやりと思う。
あんな風に、はぐれたら探してくれて、手を繋いだら絶対に離さない相手がいるなんて、羨ましい。
やがて二人の後ろ姿が人混みの中へと消えた。見届けた後、フラフラと人混みから少し離れて、邪魔にならないように隅っこに佇む。どうしようか。はぐれた場所からずいぶんと歩いてきてしまった。この人の多さでは胡蝶姉妹を見つけるのは無理かもしれない。
じっと、祭りを楽しむ人々を見つめる。みんな笑顔で誰かと楽しそうに歩いている。ただ一人、自分だけ違う世界に取り残されたような感覚になる。
みんな、誰かと一緒なのに。
私は、ひとりぼっちだ。
覚えのある感情が心を支配した。最近すっかり寂しがりやになってしまった。
「……帰ろう、かな」
ふと呟いてしまい、思わず笑う。自分のマンションに帰ったとしても、誰も待っていないのに。ますます孤独感が増すだけだ。
夜空を見上げる。雲はほとんどなく、星が輝いていた。黒よりも藍色に近い、美しい夏の夜空だ。きっともうすぐ花火が始まる。
ここで一人で花火を見るというのも、悪くない。ほんの少し、寂しいけど。
そんな事を思った瞬間、声が聞こえた。
「――――さん!」
綺麗な、声。
騒がしさの中からその声だけが耳に届く。どれだけ人がいても、姿が見えなくても、聞き逃すことはない。
「………しのぶ」
声に応えるように、その名を呼ぶ。足を動かそうとしたその時、手を掴まれた。
「――――八神さん、見つけた!」
しのぶが息を乱しながら怒ったように眉を吊り上げていた。希世花は大きく目を見開いて、息を呑んだ。
「もう!勝手にいなくなって……、心配したんですよ」
しのぶはハアハアと息切れしており、その髪は少し乱れていた。その姿を見て、小さく声を出す。
「……探してくれたの?」
「当たり前でしょう!突然いなくなって……。携帯も繋がらないし。姉さんとカナヲに連絡しないと……」
しのぶがスマホを取り出して電話をかける。やがてカナエと繋がったようで、何事か話していたが、希世花は聞いていなかった。しのぶの片手は希世花の手を握っていて、その手をじっと見つめる。
なぜか目が燃えるように熱い。一瞬の後、自分が泣いていることに気づいた。さっきまで冷たかった心臓が、どくんどくんと、音をたてて耳に響く。
希世花が泣いていることに気づいたしのぶがギョッとした。
慌てて電話を切り、ハンカチを取り出す。
「八神さん、大丈夫ですか?なんで泣いてるんです?」
「………っ、」
ハンカチで涙を拭われながら、希世花は眉をひそめた。
本当に、なんで泣いてるんだろう。
少し考えて、その理由に思い当たり、そっとうつむいた。
嬉しかった、からだ。
先ほどの素山恋雪に狛治という存在がいるように、自分がいなくなったら探してくれて、そして手を握ってくれる人がいるということが、心が溶けそうになるほど嬉しい。
胸の高鳴りが、歓喜が、止まらない。温かな気持ちで満たされる。震える声が口から漏れた。
「……はぐれてしまって、ごめんなさい」
「本当ですよ。ほら、早く姉さんのところに行きましょう」
しのぶが手を握ったまま、導くように引いてくれた。
群衆の中を掻き分けるようにして進んでいく。
握ってくれるその手が信じられないくらい温かくて、また、涙がこぼれた。自分はいつの間に、こんなに泣き虫になってしまったんだろう。
胡蝶姉妹と過ごす時間が、楽しくて、楽しくて、楽しくて、世界が色づく。だから、一人になった瞬間、全てに見放された気がして、怖くなった。
でも、探してくれた。そして、見つけてくれた。
寂しかった。
ひとりぼっちは嫌なの。
ずっと、ずっと、隣にいてほしい。
無意識にそんな言葉を口走りそうになって、慌てて唇を噛んだ。
あなたがいてくれるだけで、光が灯ったように、心がほんのりと明るくなる気がする。
不思議。こんな気持ちになるなんて。
「……しのぶ」
その名前を呼んだ時、突然大きな音が響いた。
耳を襲うような炸裂音。空に火花が一瞬だけ花開き、儚く消えていく。
「……わあ」
夜空を彩る美しい花火に思わず見とれた。しのぶと共に足を止める。
「綺麗……」
「本当ですね」
火の雫が夜空を支配し、暗闇に消えていく。周囲からは自然に歓声が沸き上がる。きらきらとした火の粉が広がっていく。その光景はこの世のものとは思えないほど美しい。
不意に隣を見ると、しのぶが少しだけ微笑みなから花火を見つめていた。その手はしっかりと希世花と繋がっている。
二人並んで花火を見続けた。カナエやカナヲ、そして素山夫妻も楽しんでるといいな、と思った。
やがて、花火は全て打ち上がったようで、夜空に静寂が戻る。暗い空は、しんと静まり返り、さっきより黒くなったように感じる。
「すごかった、ね」
「ええ。綺麗でしたね。さあ、そろそろ行きましょう。姉さん達はあっちで待ってるそうです」
そう言われて、頷き、しのぶと共に歩き出す。希世花は歩を進めながら口を開いた。
「ごめんね、迷惑ばかりかけて」
「まあ、いつものことです。来年はこんなことにならないようにしてくださいね」
来年、と自然に言われて、希世花は首をかしげた。
「………来年」
「ええ。来年はみんなで見ましょう」
その言葉にまた歓喜が胸を満たした。しのぶの手を強く握りしめる。
ああ、私、この子のこと、好きだ。
不意に、希世花はその気持ちを自覚した。
※素山 狛治
恋雪と共に花火を楽しみ、幸せ。妻とはぐれた時は焦ったが、見つかって一安心。見つけた時は、自分が前世で殺しかけた女が一緒だったので動揺した。何も覚えていないらしい主人公にどう接せればいいのか分からない。恋雪が世話になったようなので、今度改めてお礼をするつもり。
※素山 恋雪
狛治とはぐれてしまい心細かったが、再会できてほっとした。主人公と学年は違うが、名前と顔だけは知っていた。転校当初は「お嬢様が転校してきた」などと噂されていたが、「不死川の授業で堂々と居眠りする勇者」「フェンシング部の胡蝶しのぶに何かやらかしたらしく、追いかけられている」などと意味不明の噂に広がっていって、どれが本当なのかよく分からない。一緒に狛治さんを探してくれて、あの先輩優しい人だったなー、と思った。