「あら、八神さん、どうしたの?目が赤いわよ」
「……何でもないです、先生」
朝食の席で、希世花はぼんやりと答えた。
今朝、しのぶに抱きつきながらひたすら泣いた。ようやく涙が止まり、体を離すと、しのぶは穏やかな顔で尋ねてきた。
「どうしたんですか?そんなに泣くほど、怖い夢を見たんですか?」
「……覚えてない」
うつむきながら小さな声を出す。動揺のあまり、しのぶに抱きついて大泣きしたのが恥ずかしかった。
「……先輩、大丈夫ですか?」
カナヲも心配そうな顔をして問いかけてきた。希世花は無理やり笑顔を作ると、顔を上げた。
「うん。ごめんね。なんか怖い夢を見て、びっくりしただけだから」
「……もう大丈夫ですか?」
しのぶがそう聞いてきて、希世花は気まずそうな顔でチラリとしのぶを見て、頷いた。
「……はい。ごめんなさい。こんなことして……」
「いいえ。気にしないでください。そろそろ朝食の時間ですし、着替えましょうか」
しのぶの言葉にコクリと頷き、希世花は立ち上がった。
朝食の席ではカナエが心配そうな顔をしていたが、なんとか誤魔化した。
「今日はみんなでお買い物にでも行きましょうか?」
朝食の後、カナエがそう提案してきて、希世花は首をかしげた。
「……買い物、ですか?」
「ええ。最近できたショッピングモールがあるでしょう?いい機会だし、みんなで行ってみましょうか」
そういえば大型のショッピングモールがあったな、と思い出して希世花は頷いた。
外出の準備をしていると、しのぶが声をかけてきた。
「八神さん、こっち来てください。髪がボサボサですよ。整えてあげますから……」
「……ん」
ぼんやりとしのぶの前に座る。しのぶが櫛で髪をとかし、髪を結ってくれた。
ちょうどその時、別室で着替えていたらしいカナヲが部屋に入ってきた。しのぶと希世花の姿を見て顔を綻ばせる。
「……しのぶ姉さんと先輩、今日は仲良し、ですね」
「………あ」
ぼんやりとしていた希世花は自分の行動に気づいて、慌てて後ろを振り向く。しのぶは楽しそうに笑っていた。
「……ありがとう、胡蝶さん」
おずおずとお礼を言うと、しのぶは
「どういたしまして。八神さん」
とますます嬉しそうに笑った。希世花は複雑そうに表情を曇らせる。いつもしのぶに怯えて避けていたのに、今日は何故だか自然に近づいていた。
「………」
「八神さん?どうかしました?私の顔に何かついてますか?」
「……ううん。なんでもない」
しのぶの顔をじっと見つめ、それに気づいたしのぶが首をかしげる。希世花は視線を外した。
不思議だ。今日はしのぶが近くにいるだけでうれしい、と感じる。そばにいたい、と感じるなんて、変だ。今日の私はおかしい。おかしすぎる。
「………」
変な夢を見たせいで調子が悪いだけだ。きっと、それだけ。
希世花は無理やり自分を納得させるように心の中で呟きながら、胡蝶姉妹とともに玄関から足を踏み出した。
ショッピングモールでは服や雑貨、インテリアなどを見回って買い物を楽しんだ。モヤモヤしていた心も自然と明るくなる。
「少し疲れちゃいましたね」
「……うん」
現在、希世花はモール内のソファに座り、コーヒーを飲みながら休んでいた。隣ではしのぶが同じように座ってジュースを飲んでおり、少し離れたところではカナエとカナヲが楽しそうにアイスクリームを買おうとしている。
「……八神さん」
「…なに?」
「八神さんは、楽しんでますか?」
しのぶの突然の質問に希世花はぼんやりと答える。
「……うん。楽しいわ。こんなふうに、誰かと買い物に行くことは、初めてだったから」
「それは、よかったです」
しのぶの笑顔をチラリと見て、少し迷ってから希世花は思い切ったように口を開いた。
「……胡蝶さん、は」
「はい?」
「私に、何を、したいの?」
「……何を、とは?」
希世花は言葉を選ぶように、言いにくそうな顔で言葉を続けた。
「……胡蝶さんが、何を考えているのか、よく分からない。……最近は、ないけど、私に変な食べ物を食べさせようと、するし……、いつも、私の事、監視するようにしてる、でしょう?」
「………」
「私、胡蝶さんを、怒らせるようなことを、何かした、かな?気に障るようなことをしたのなら、謝りたいの、……だけど……考えても考えても、私、胡蝶さんになにをしたのか分からない……理由も分からないまま、いい加減な謝罪はしたくないのだけど……」
「……忘れてしまったからですよ」
「え?」
しのぶが何かを言ったが、よく聞き取れなかった。怪訝な顔をして視線を向けると、しのぶが珍しく笑顔を消して下を向いていた。
「……ひどい人、ですね。あなたは。私はずっと、ずっと、ずーっと、待っていたのに……」
「……え?」
「そばにいたい、と言ったくせに。本当、ひどい人………」
「胡蝶、さん?」
しのぶが顔を上げる。その瞳を見て、希世花は思わず息を呑んだ。その瞳は、希世花を映しているのに、そのはず、なのにーーーーー、
「ごめんなさいね、選ぶのに時間がかかっちゃって……」
「しのぶ姉さん、先輩、今度はどこに行きますか?」
その時、アイスクリームを購入したカナエとカナヲが近づいてきた。瞬時にしのぶが笑顔を作り、立ち上がった。
「ああ、やっと買えたんですね。それじゃあ、今度は八神さんの行きたいところに行きましょうか?」
「………」
希世花は固まったようにしのぶを見つめたままだった。そんな希世花を見て、カナヲが不思議そうに声をかけてくる。
「八神先輩?どうしました?」
「……ううん。なんでもない」
希世花はゆっくりと立ち上がった。
「楽しかったわねー。こんなに買い物したの久しぶりだったわ!」
夕方になって、一行はショッピングモールから外へ出た。ニコニコしているカナエに声をかける。
「すいません、私、そろそろ帰ります」
「あら、もう帰るの?」
「はい。今日は楽しかったです。お世話になりました」
希世花がペコリと頭を下げるとカナエとカナヲが残念そうな顔をした。
「なんだか、寂しいわね」
「先輩、またうちに遊びに来てくださいね……」
「はい。ありがとうございました」
二人から目をそらすようにそう言った時、しのぶが口を開いた。
「……姉さん、私、八神さんを送ってくるわね」
「え?」
希世花は驚いてしのぶに視線を向ける。
「あら、あんまり遅くなるのはダメよ」
「分かってる。それじゃあ、行きましょうか」
「え?え?」
戸惑っているうちに、しのぶが希世花の腕を掴んで引っ張っていく。それをカナエとカナヲが微笑ましそうに見送っていた。
「八神さん、お家はこっちですか?」
「……うん。」
二人でゆっくりと歩く。なんだか気まずい。
「……」
「……」
会話が途切れた。希世花は歩きながら口を開く。
「あの……」
「はい?」
「こ、胡蝶先生が、言ってたんだけど……、胡蝶さんが、その、私と仲良くしたいだけだ、って……」
「……」
「……あ、あの、胡蝶さん、は、私を殺したい、わけじゃない、のよね?」
「そんなわけないでしょう」
しのぶが即座にそう言ったので、希世花はホッとして胸を撫で下ろした。そして言葉を続ける。
「そ、それじゃあ、」
「私と、……と、と、友達になれない、かな?」
「………」
しのぶがその場で立ち止まり、表情が固まった。
「あ、あの、嫌なら、いいの。ごめ、ごめんね。変なこと言って。わ、忘れて」
そのまま何も言わないため、希世花は慌てて誤魔化すようにそう言った。しかし、その直後にしのぶが勢いよくこちらに顔を向けてきた。その視線の威圧感に、思わず後ずさる。
「………ひっ」
「……そうですね。それは素敵な提案です」
悲鳴を上げた希世花に、しのぶはニッコリと微笑んだ。
「え、えっと、じゃあ……」
「はい。改めまして、お友達ということで。よろしくお願いしますね、八神さん」
「う、うん。よろしく」
その言葉に安心して希世花は微笑んだ。しのぶが笑いながら言葉を続ける。
「それじゃあ、手を繋ぎましょう」
「………へ?」
突然のその言葉に希世花はポカンとする。
「……手?」
「友達なら手を繋いで歩いてもおかしくありません。ええ、全然おかしくなくて、普通の事ですよ。友達ならできるはずです。そうですよね?」
「え、えっと」
「手を繋いでください、八神さん。さあ、早く。」
「あ、あのー」
「遅いですよ。何をしてるんです。手を繋ぐだけですよ。それとも、何ですか?本当は友達じゃなかったんですか?悲しいですね。ひどいですね。友達になるといったのにーーーー、」
「わ、分かった!」
言葉を続けるしのぶに根負けして、希世花はその小さな手を握った。すぐに温かい手が握り返してくる。
「………?」
その温かい手を、前にも握った事がある気がして希世花は首をかしげた。しのぶと手を繋ぐのはこれが初めてのはず、なのにーーーーー、
「さあ。帰りましょうか」
しのぶが満足げな顔をしてそう言った。希世花は首をかしげながら、しのぶに引っ張られるように帰路についた。
「……八神、最近大丈夫か?」
「え?」
数日後、希世花は放課後に公民の補習を受けていた。公民教師の悲鳴嶼行冥から突然そのように話しかけられて戸惑う。
「え?授業中のことですか?居眠りなら前からしてますけど……」
「南無……。それも問題だが、胡蝶しのぶのことだ……」
「あー…」
「最近、よく一緒に行動しているらしいな」
希世花は困ったように笑う。改めて友人という関係に収まり、以前のようにしのぶから逃げることはしなくなった。相変わらずその距離の近さに戸惑いながらも、昼休みに食事をしたり、放課後は一緒に過ごしたりもしている。少しずつ、ではあるが関係が改善されていき、親しくなっている、と感じる。
「少し前まではよく悲鳴をあげながら逃げていたが……、何かあったか?」
「……えーと、逃げるのはやめようかな、と思いまして」
「……ほう」
「胡蝶さんが、私を恨んでいるわけじゃない、と分かりましたし……きちんと、向き合おう、と思って……うーん、なんと言えばいいのか分からないんですけど……」
どう伝えればいいか分からず首をかしげながら言葉を続ける。
「……えーと、怖がらずに、話してみよう、みよう、と思って……今さら、ですけど。逃げてばかりでは、前に進めませんから……」
それを聞いた悲鳴嶼が安心したように微笑んだ。
「……南無。心配無用だったようだな」
「え?」
「いや、胡蝶しのぶに何か弱味でも握られてそばにいるようならば、こちらも介入しようと思っていた…」
「あはは、大丈夫ですよ。でも、ありがとうございます」
希世花は笑いながら、仕上げたプリントを悲鳴に手渡した。
「……これで授業中の居眠りさえなくなれば本当に安心できるのだが……」
「……善処します」
胡蝶しのぶは部活が終了したため、荷物を持ちながら廊下を歩いていた。希世花の補習は終わっただろうか。タイミングが合えば一緒に帰りたい……、終わっていないのなら待っていようか……などと考えていると、悲鳴嶼行冥が廊下の向こうから歩いてくるのに気づいた。
「あ、悲鳴嶼先生」
「む、胡蝶か」
「八神さんの補習、終わったみたいですね」
「南無……。八神はまだ教室にいる」
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げ、教室に向かおうとした時、悲鳴嶼が声をかけてきた。
「……胡蝶、あまり八神に無理をさせるな」
「……はい?」
しのぶは眉をひそめて悲鳴嶼を見返す。
「……失った記憶を取り戻すことを、八神が望んでいるとは、限らん」
「……」
「こうして平和な世界に生まれたのに、わざわざ残酷な過去を思い出させることが本当に良いことか?」
「……」
「お前の気持ちは分かる。忘れられてしまい、悲しむ気持ちも分かるのだ、本当に………。だが、八神の記憶を刺激し続け、無理矢理思い出させることが、本当に八神の幸せなのだろうか……」
「……先生」
「本当に八神の事を思うのならば、今の幸せを願ってやるべきではないか……」
「……私は、……」
「南無……。よく考えろ、しのぶ……」
そう言うと、悲鳴嶼は職員室に向かって去っていった。
残されたしのぶは、そのまましばらく考え込むようにその場でうつむいていた。
※悲鳴嶼 行冥
他の教師と同じように、授業中の主人公の居眠りに頭を抱える公民教師。教え子達の追いかけっこに介入するべきか迷いつつも、結局遠くから見守ることにした。最近しのぶと主人公が仲良くなってきたようなので一安心、と思っていたが、しのぶが脅迫でもしているようならば、やはり介入するべきかと悩んでいた。
記憶を取り戻すことが、幸せに繋がるとは限らない、と思いつつも、しのぶの事を思うと、主人公にはやはり思い出してほしいと願ってしまう、複雑な心境を持つ。