| カテゴリ 近現代

映画「七人の侍」は智頭がモデルだった!?(日本海新聞2007-01-10)

映画「七人の侍」と同じ舞台が記された資料について織田町長(手前)に説明する村尾さん

農民に雇われた侍が野武士から村を守る故・黒沢明監督の名作「七人の侍」と同様の“出来事”が、中世の鳥取県智頭町であった事が、横浜市金沢区の金沢文庫所蔵の古文書に記されている。現在の同町那岐地区で、農民が自己防衛のために用心棒を雇い、村を守る防護柵を作った費用などが綴られた文書は、映画のシナリオに酷似。関係者や専門家の話からも、この資料が参考になった可能性が高く、織田洋智頭町長は「多くの人に町の歴史と文化財などを合わせて見て頂き、地域おこしに役立てていきたい」と話している。

資料は横浜市金沢区にある金沢文庫所蔵の「称名寺文書」の1つ「因幡国智土師ちはじ郷上村ごううえむら結解状けちげじょう(暦応5年・康永元年・興国3年=1342)。町誌などによると、那岐地区は鎌倉時代の末期、智土師郷東方上村(現・同町奥本)と呼ばれ、幕府の重要な祈願寺であった称名寺の領土となっていた。しかし、南北朝の動乱期に入ると幕府の後ろ盾を失った寺領の農民たちは反幕府勢力から略奪を受けるようになり、自己防衛手段を取らざるを得なかったという。

結解状中世の収支決算書)には、用心棒8人分の費用24石のほか、防護柵や堀を作ったとされる「城こしらえ」作業員の食料など、村の防衛に使った費用が記されている。

「影武者」「まあだだよ」「乱」などの黒沢作品に出演し、監督と親交の深かった俳優の油井昌由樹さん=東京都=は20年程前に「江戸勤めの侍の日常生活を描いた作品を考えている時に、『農民が武士を雇った資料があった』という記事のようなものを見て、そこから一気に『七人の侍』のシナリオが出来上がった」と黒沢監督から聞かされたという。

智頭町誌編纂室の村尾康礼さんは「30年以上、歴史研究に携わっているが、農民が武士を雇う資料は称名寺文書しか知らない」と黒沢監督が見た資料が同一のものであった可能性を指摘する。

残念ながら、同町が作品のモデルとなったかどうか真相は、はっきりしない。村尾さんは「智頭町に『七人の侍』に似た歴史の舞台があった事は事実。そこに住む人が郷土の歴史を知り、語ることで、誇りや喜びを見い出して欲しい」と同町の歴史を通して郷土を愛する心が培われる事を願っている。



映画「七人の侍」モデル地の智頭 10月にイベント(日本海新聞2007-03-18)

映画「七人の侍」の舞台のモデルになったとされるシヤウノ尾城跡がある杉山

鳥取県智頭町は、同町那岐地区が映画のモデルとなった可能性が高いとされる黒沢明監督作品「七人の侍」にまつわるイベントを計画している。開会中の3月定例議会に提案しており、今後、同地区住民らと実行委員会を起ち上げて、今年10月の開催を目指すという。

横浜市金沢区の金沢文庫所蔵の古文書(暦応5年・康永元年・興国3年=1342)には、南北朝の動乱期反幕府勢力から略奪を受けるようになった那岐地区の農民が、自己防衛のために用心棒を雇い、村を守る防護柵を作った―など、映画のシナリオに酷似した内容が記されている。映画関係者や専門家の話からも、この資料が参考になった可能性が高い事が指摘されていた。

町では、名作「七人の侍」を町おこしに生かそうとイベントを企画。中国横断自動車道・姫路鳥取線開通のプレイベントに位置付け「黒沢明監督作品~七人の侍の世界展(仮称)」と題して映画関係者らとの接触を行ってきた。

実行委員会では今後▽映画関係者の講演▽作品の上映▽防衛拠点だったともいわれる同地区の「シヤウノ尾城跡」の散策―など、様々な催しを検討。新たな町の文化史跡スポットを目指し、町と住民が一体となった地域作りが進められる予定だ。

同町の織田洋町長は、「用心棒を雇ってまで集落を命懸けで守った先人の気概を大切にし、史跡などをこれからの町作りに生かしていきたい」と話している。



「七人の侍」モデルの智頭町那岐 東大助教が視察(日本海新聞2007-09-07)

故黒沢明監督の映画「七人の侍」モデルといわれる鳥取県智頭町那岐地区を5日、東京大学史料編纂所の村井祐樹助教が視察に訪れた。防御拠点とされた荘ノ尾しゃうのお城跡に登り「南北朝時代山城やまじろであれば、遺構は稀」と評価。10月に同町で開くイベント「智頭町の古文書と七人の侍」に向け、城跡への興味も高まりそうだ。

村井助教は、室町から戦国時代日本中世史が専門。出席する同イベントシンポジウムの事前調査も兼ねた来町で、農民が用心棒を雇い、村を守ったとされる城跡を同町誌編纂室の村尾康礼さんが案内した。

村井助教は、住民が整備・復元した敵の侵入を防ぐ「城柵」や落とし穴の「堀切」などを熱心に視察。村井助教は「人の屋敷ではなく、見張りもする軍事的機能が大きい」と判断し、「少なくとも戦国時代には使われ、鎌倉南北朝時代の可能性もある。南北朝時代の遺構であれば、現存は稀」と評価した。

城跡からは時代を示す土器などが未発見で時代は不確定だが、荘園があった時代を感じる城名や城の古い形式などから、村尾さんは「南北朝とみた方が良い」と期待を膨らます。

同イベントは10月13日の山城散策会に始まり、20日のシンポジウムなど、同月末まで開催する。村井助教は「地域史としての重要性は間違いない。先ずは遺構を地元の人が知り、興味を持つ事が大切」とし、イベントが町民の歴史再発見に繋がる事を望んでいた。



「7人の侍」の墓? 智頭町に語り継がれる8基(日本海新聞2007-10-12)

福本さんと江戸時代から代々伝わる墓

農民が武士を雇って村を守ったという黒沢明監督の映画「七人の侍」同様の史実が古文書に残る鳥取県智頭町で、「七人の侍の墓」が語り継がれている事が分かった。映画と史実は時代背景が異なるが、今月13日から始まる同映画関連イベントに向けて、新たな発見として注目を集めそうだ。

金沢文庫所蔵の古文書には、同町那岐地区で農民が野武士を用心棒として雇い、村を守ったとの記述が残っている。映画関係者の証言などから、黒沢監督がその古文書をヒントに「七人の侍」を描いた可能性が高いとされている。

今年に入って「七人の侍」が町おこしのテーマとして注目され出し、驚いたのは同町智頭の智頭宿まちづくり協議会映画部長、福本昭夫さん。福本家は江戸時代から「七人の侍の墓」と語り継がれる墓を代々守り続けてきたからだ。

福本さんによると、福本家は江戸時代に宿屋を営んでおり、この墓は当時、宿泊したが行き倒れてしまった浪人の墓として代々伝えられているという。智頭宿内の墓地には7人の墓石と、昭和に入ってから近くの河川で工事が行われた時に無縁仏として運ばれた1基の計8基の墓が並び、長年にわたって維持管理、供養を続けている。

福本さんは「見ず知らずの人の墓を守ってきた先祖の功績に温かい人情を感じる」と語る。

同町の織田洋町長は「古文書でも農民が8人の武士を雇ったという記述がある。智頭町を訪れ、是非歴史散策を楽しみ、イベントにも足を運んで頂きたい」と、新たな話題を観光振興の1つの材料にと期待を寄せている。



「七人の侍」智頭で満喫(朝日新聞2007-10-13)

「七人の侍」の舞台との説もある智頭町那岐地区を写した大正時代の写真

◇今日から31日まで 屋外上映会やシンポ

黒沢映画で観光客を呼び込もうと、屋外上映会やシンポジウムなど多彩な催しを展開する「『智頭町古文書』と『七人の侍』」が13日、智頭町で幕を開ける。黒沢明監督の代表作「七人の侍」(昭和29年=1954)は鎌倉時代同町那岐地区が舞台との仮説をもとに、町民が実行委員会を起ち上げ、準備を進めてきた。映画の著作権を持つ映画会社が「智頭町が舞台と断定できない」と映画の上映などに難色を示す一幕もあったが、熱意で協力を取りつけたという。31日まで。

称名寺領千土師郷(同町那岐地区)の百姓が、「悪党」と呼ばれた野武士から村を守るため、8人の侍を雇ったとの記述が、横浜市に現存する金沢文庫所蔵の「称名寺文書」(暦応5年・康永元年・興国3年=1342)にある事に村尾康礼・町誌編纂専門員が注目。「七人の侍」に似ていると約30人の町民が今年5月、実行委を発足させたという。

黒沢監督と親交があった俳優の油井昌由樹さんからも協力の申し出があり、同町も約480万円の事業費を予算に計上。黒沢作品の上映会や同町大背に残る中世山城やまじろの復元などの企画を練ってきた。

ところが、9月中旬、「七人の侍」の著作権を持つ映画会社「東宝」が映像の提供に難色を示したという。同社広報室は「『七人の侍』は東宝だけでなく日本映画界の大切な作品。映像を提供すれば、智頭町が七人の侍の舞台と、お墨付きを与えてしまう事になる」と理由を話してくれた。

織田洋町長や副町長、企画財政課長ら町幹部が上京し9月27日、油井さんも交えて担当役員と話し合った結果、10月3日夕、「七人の侍の舞台の町と、はっきり打ち出さない事」を条件に、同社からフィルムでなくDVDなら提供すると連絡があった。同社広報室は「11月に発売する黒沢作品の廉価版DVDシリーズのプロモーションの一環」と説明している。

油井さんは「このイベントをきっかけに、全国を行脚して子供たちに黒沢作品の良さを伝えていきたい」。織田町長は「東宝側に熱意が伝わったと思う。智頭町の豊かな自然や歴史や文化をアピールしたい」と話している。問い合わせは町企画財政課へ。

(主な催し)

・映画「七人の侍」上映会

20日午後5時15分から那岐小学校近くの野外特設会場。
21日午前9時から那岐小学校
28日午前9時から智頭小学校

・荘ノ尾城跡の散策会

13日午前9時智頭宿駐車場に集合。さくや堀が復元された中世の山城を見学

・「智頭町古文書」と「七人の侍」シンポジウム

20日午後1時半から那岐小学校。パネリストは俳優の油井昌由樹氏、村尾康礼町誌編纂専門員、村井祐樹東京大学史料編纂所助教授ら

・七人の侍展

13日~31日、石谷家住宅。映画の絵コンテや台本などを展示。入館料は大人500円、高校生400円、小中学生300円



南北朝の荘ノ尾城見学 「智頭町古文書」と「七人の侍」開幕(読売新聞2007-10-14)

城跡に現れ、参加者を喜ばせた侍たち

百姓が武士を雇って村を守ったという、黒沢明監督の代表作「七人の侍」に似た史実の残る智頭町のイベント「『智頭町古文書』と『七人の侍』」が13日、開幕した。史実の残る那岐地区では、南北朝時代山城やまじろ荘ノ尾しゃうのお城」の見学会があり、県内外から参加した歴史や映画ファン約150人が、イベントに合わせて復元された防護柵や堀切を見学した。20日午後5時15分から城跡近くの水田で「七人の侍」の野外上映がある。

国道53号近くの水田で開会式があり、黒沢監督の「影武者」などに出演した俳優油井昌由樹さんが「虫の鳴き声や小川のせせらぎを聞きながら、『七人の侍』を見るのは夢のよう。存分に映画の世界を楽しもうじゃありませんか」と呼びかけた。

参加者はこの後、約3時間30分かけて荘ノ尾城や昔ながらの農村の風景が残る近くの集落などを見て回った。荘ノ尾城では、住民らが「七人の侍」に扮して登場し、参加者を喜ばせる一幕も。岡山県津山市の男性は「映画の場面を思い出しながら歩くと、とてもリアルに感じられて楽しい」と喜んでいた。

31日までの期間中、歴史シンポジウムや音楽ライブ、資料展なども開かれる。

問い合わせは、町企画財政課へ。



150人歴史ロマンに浸る 智頭で「七人の侍」イベント(日本海新聞2007-10-14)

映画「七人の侍」のヒントになったといわれる荘ノ尾城で説明を受ける参加者

故黒沢明監督の代表作「七人の侍」に因んだ一連のイベントの第1弾「荘ノ尾城と周辺史跡の散策会」が13日、鳥取県智頭町那岐地区で開かれた。町内をはじめ鳥取市、岡山県津山市などから訪れた郷土史研究家や愛好者ら約150人が山城やまじろ跡を巡り、歴史ロマンに浸った。

同町大背地内の荘ノ尾しゃうのお城跡麓で行われた開会式では、地元の人たちが侍に扮して歓迎。縄で編んだロープを鎌で切って開幕を告げた。黒岩委員長、同町の織田洋町長らが「700年前のロマンと歴史を感じて欲しい」と挨拶。実行委員で黒沢監督作品に出演した事のある由井昌由樹さんが、同町古文書の記述と作品がよく似ている事などを紹介し、地元の熱意で「七人の侍」が野外上映(20日)される事を称賛した。

参加者は町誌編纂専門員の村尾康礼さんや地元郷土史専門家の案内で城跡集落などを見学。実行委や地元住民によって城柵堀切りが整備された荘ノ尾城跡では、村尾さんらが山城の歴史や遺構の規模、役割などについて解説した。

岩美町大谷の女性は「映画のヒントになった資料が身近にあった事に驚いている。歴史や古文書に興味がわいてきた」と満足そう。黒岩委員長は「皆の協力で大成功となった。続ける事で地域の活性化を図りたい」と確かな手応えを強調していた。

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近現代
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