永遠に散歩できる人がいい。
新潟に暮らしていた頃、日本海に沈む夕陽が好きで、毎日毎日海に行った。夕陽を嫌いな人は少ないが、毎日夕陽を見ていると、変人扱いされることが多かった。海の近くに住む人間が、毎日夕陽を見ているわけではない。いつでも見られるからこそ、何年も見ていない人の方が多い。朝日や夕陽を見ると、世界は毎日こんなに美しい姿を見せてくれるのかと思う。ウユニ塩湖やオーロラを見たいと言う人はたくさんいるが、今、目の前で展開されている美に目を向ける人は少ない。美しいものは、視聴率が低い。
一日に何回も最高だなと思っている。そんなことを言ったら「幸せな人だね」「おめでたい人だね」「何の悩みもない人だね」と言われた。そんな人は少数派なのだろうか。夜明けの青、朝焼けの黄金、海面に輝く白、鳥の囀り、花の香り、美しいものを数え上げたらキリがない。一体、みんなは何を見ているのだろうか。私の感覚が、他者と大きくズレているのだろうか。先日、静岡在住の女性T様が熱海の家に遊びに来た。T様は「これを持ちながら散歩に行くのが好きなんです」と言って、ルーペを出した。
私は「素敵だな」と思った。一輪の花を理解できれば、われわれは自分が何者であるかを、世界は何であるかを理解することができるのではないかと、アルフレッド・テニスンは言った。どんなにつまらない事柄でも、宇宙の歴史やその因果の無限の連鎖と関わりのないものは存在しない。思考停止が問題視をされるが、私は、思考停止よりも感覚停止になることを恐れる。空を、花を、鳥を、綺麗だと思えている間は、私はまだ大丈夫だと思う。テニスンは言った。恋して恋を失ったのは、まったく愛さないよりもましだ。君を想うたびに花が一輪増えていくのなら、いつまでも花園を歩くことができる。
おしゃれなカフェより、古くて渋い店を好む。新しいものより、自分より年齢を重ねているものを好む。人気のある場所より、見捨てられた場所を好む。多くの人たちが見落とすことの中に、ささやかな美や、逞しい息吹きを感じる。落ち着く。あがるのではなく、落ちる。発つのではなく、着く。金をたくさん持っている豊かさもあれば、花の名前をたくさん知っている豊かさもある。花を買う余裕がないのではなく、花を買わないから余裕がないのだと思う。本を読む時間がないのではなく、本を読まないから時間がないのだと思う。傘を買えば雨が楽しみになる。ロウソクを買えば夜が楽しみになる。
大阪在住の女性N様が、熱海の家に来て涙を流した。比べてしまう自分。焦ってしまう自分。完璧になることができない自分。私たちの体は水でできている。水に戻ろうと流れるものが涙なら、そこに故郷がある。自然は急かさない。自然は比べない。自然は代償を求めない。自然は優しい無関心を決め込んでくれる。そして、ただ、一緒にいてくれる。言葉ではなく、音と共に。香りと共に。色と共に。手触りと共に。ぬくもりと共に。美しいものは視聴率が低い。進化することはない。ただ、変化するだけだ。完璧なまま変わり続ける。好きなタイプを聞かれても困るが、永遠に散歩できる人がいい。無理して合わせるのではなく「私もそうなんだ」となる人がいい。一緒に、永遠に散歩できる人がいい。散歩の達人は、人生の達人だと思う。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!