数多くの隊員達を指導していった柱稽古はだいぶ落ち着いてきた。
「はい。合格としましょう。それでは、次へ」
「ありがとうございました!」
合格を告げた隊員がホッとしたような顔をして稽古場を後にする。圓城はその姿を笑顔で見送った後、ため息をついた。やはり、今日も痣は出てこなかった。
「お嬢様、そう気を落とさないでください。きっと、大丈夫ですよ」
「……ダメなのよ、きっと、では、ダメ……」
じいやの言葉に小さく呟く。じいやが首をかしげた。
「お嬢様?」
「……ごめん、何でもないわ。隊員もほとんど合格を出して次に行かせたし、稽古は一段落したわね。明日からは私の訓練は休止よ」
「え?よろしいのです?」
「うん。正直まだまだだけど……明日から私は個人的な用事もあるし、隊員は他の柱達が鍛えているから大丈夫よ」
「用事?」
じいやが不思議そうな顔をする。圓城は笑って頷いた。
「お館様のところへ行くの」
圓城はゆっくりと産屋敷邸の門をくぐった。少しだけ足を止めて、その大きな屋敷を見上げ、庭を見渡す。
「………」
平和で静かな光景だ。とても大きな戦いが始まるとは思えない。
「お館様はこちらです」
おかっぱの子どもに導かれて屋敷内を静かに歩く。初めて通る廊下を歩き、やがてふすまの前へと案内され、その場に正座をした。
「睡柱様がいらっしゃいました」
「……ああ、待っていたよ。菫」
圓城はそのまま深く頭を下げる。同時にふすまが開かれた。
「……本日は、ご療養中のところ、申し訳ありません。心よりお見舞い申し上げます。」
「いや、君と話したいと思っていた……手紙をありがとう。こちらへおいで」
圓城は言われた通りに頭を上げた。そして唇を噛む。緊急柱合会議のあと、誰にも内緒で会って話したいとお館様に手紙を送っていた。療養中のため、恐らく不可能だと考えていたが、意外にもお館様から了承の返事を頂いた。しかし、お館様の姿を目に入れた瞬間、後悔に襲われた。お館様は布団に横たわっており、顔は包帯で覆われていた。ヒューヒューとか細い呼吸をしている。そばには妻のあまねが静かに寄り添っていた。
表情を変えないようにしながら素早く部屋へ入る。お館様のそばに近寄り、再び頭を下げた。
「……申し訳ありません」
「どうして謝るんだい?」
「……お館様がお辛いのに、私個人の我が儘で時間を取らせてしまい、本当に申し訳ありません」
「大丈夫だよ。じゃあ、さっそく用件を聞こう。何か伝えたいことがあったのだろう?」
圓城は一度だけ深呼吸し、口を開いた。
「……私は、お館様にずっと秘密にしていることがありました」
「うん。知っていたよ。君が何かを隠していることは」
「……お館様は今まで何も言ってきませんでしたね」
「君が自分から話してくれるまでは待とうと思っていた。カナエもそうしていたみたいだしね」
その名前が出た瞬間、圓城はうつむいて、ほんの少し微笑んだ。そして、すぐに顔を上げてお館様を真っ直ぐに見る。
「信じ難い、話かもしれませんが……」
「信じるよ。君が嘘をつく理由はない」
お館様のはっきりしたその言葉に圓城は目を見開いた。
「さあ、聞かせておくれ、菫。君の話を…」
「……私には、少し変わった、ある能力があります。その能力が目覚めたのは今から6年前、鬼に襲われた時でした……」
圓城は自分が見る不思議な夢の事を話し始めた。何度も何度も鬼殺隊の柱や隊員達が戦う夢を見たこと。そして、それは予知夢や他人の過去の夢だったこと。その夢がきっかけで鬼殺隊に入ったこと。
「……本当に、信じられない話かもしれませんが」
「いや、信じるよ。君があれほど睡眠を嫌ったのは、夢を見たくなかったからだね」
「……はい。恐ろしい、夢ばかりでした。それに、……夢を見たからといって、未来を変えられるとは、限らないのです……。師範……元花柱様も救うことは出来ませんでした……」
「……それで、菫。君は、何を伝えに来たのかな?」
圓城は一瞬だけ下を向いて、真っ直ぐにお館様を見据えた。そして口を開く。
「お館様。私達が、勝ちます」
お館様の顔が一瞬だけ揺れた気がした。あまねが圓城の方を見つめてくる。
「鬼舞辻は、倒されます。鬼殺隊の手で追い詰められ、太陽に焼かれ、死にます。消滅します。もうすぐです、お館様。私達の代で全てが終わります。お館様、最後に笑うのはーーーー私達です」
「……ああ……ああ」
お館様が言葉にならない声を上げた。
「菫………それは、………確定された未来なのかな?」
「はい」
短く答えるとお館様が笑みを浮かべた。
「……そうか………そう、なのか……」
お館様が呟くように何度もそう繰り返す。その手をあまねが包み込むように握った。
圓城はその姿から目をそらすようにうつむきながら声を絞り出した。
「……しかし、犠牲者も出ます。多くの、隊員が死にます。柱もほとんど生き残らないでしょう……」
その言葉にお館様が圓城の方へ顔を向けた。
「……ああ、そうか。菫」
「はい」
「……君は私の最期も知ってるんだね」
そう言われた瞬間、涙がこぼれた。思わず畳に突っ伏すようにして必死に嗚咽を出すのをこらえる。
「……申し、申し訳、ありません……」
「いいんだよ。ごめんね。」
「お館様が……爆発で……っ、鬼舞辻が………」
「ありがとう、菫。私のために泣いてくれて」
お館様が優しい言葉をかけてくれた。ちがう。私は、あなたに、そんな言葉をかけられる資格はない。
だって、未来を知ってるのに、何も出来ないのだ。あなたの子ども達を救う強さを、私は持っていない。
必死に涙を止める。羽織の袖で目元を拭った。
「申し訳ありません。お館様。そして、心より感謝申し上げます」
そして、深々と頭を下げた。
「私に居場所をくださったこと、人を護るために戦わせていただいたこと、感謝しております。本当に、ありがとうございました」
「礼を言うのは、こちらだ。世のため人のために戦ってくれたこと、産屋敷家一族を代表して感謝する。本当に、ありがとう、菫。いやーーーー」
「ありがとう、
呼ばれたその名前に、ゆっくりと顔を上げて、微笑んだ。
「……やはり、お館様は、私の素性をご存知だったのですね」
「確信があったわけではないよ」
お館様は少しだけ笑った。
「……君は、多くの事業を展開している八神家の息女、八神希世花だね。莫大な資産を持ち、華族にも連なる家柄の…」
「分家の一つです。たいした権威は持っていない、事業を興してそれが少し成功したというだけの、成金ですよ……」
お館様の言葉を思わず遮るように言ってしまい、圓城は顔を伏せた。
「……6年前、八神家の娘が鬼に襲われた、という報告は聞いていた。そして、その怪我が元で、亡くなったという噂が流れてきたんだ」
お館様の言葉に思わず笑いそうになった。そうか、自分は死んだことになっているのか。
「奇妙なことに、娘が鬼に襲われて亡くなったというのに八神家は特に騒ぎもしない。亡くなったという噂だけが静かに広がって、まるで娘など最初から存在しなかったかのように、忘れられていった。ずっと、不思議に思っていたよ」
「家を出て、ちょっとした小細工をして名前を変えました」
圓城は目を閉じた。
「鬼殺隊に入って、人を救いたかったんです。……家族を、人生を、名前を捨てました」
お館様が少しだけ笑った。
「……希望の、世に咲く、花、か。捨てるにはもったいない、君にピッタリの名前だね」
「……雛菊を象徴してるそうです。私が生まれたときに庭に咲いていたとか。雛菊は、希望を示す花、と言われているそうなので……」
「ああ、だから、君は昔から雛菊模様の羽織を着ていたんだね」
圓城は目を閉じたまま、笑った。
「……今は、スミレの花の羽織を着ております。私は、今の名前を、愛しています。大切な人達が呼んでくれた名前だから……。一生本名を名乗ることは、ないでしょう。そう決めております。」
「希世花、今からでも、遅くない。ご両親に……」
「いいえ」
またお館様の言葉を遮ってしまった。しかし、圓城はそのままゆっくりと言葉を紡いだ。
「鬼殺隊に入った日、全てを捨てました。もう、絶対に過去は振り返らないと、決めました。私は、後悔していません。例え、どんな結末が待っていようとも。私は、私の意思をもって、前に進みます。過去の私は、もう存在していません。」
「八神希世花は、私が殺しました」
「捨てたものは二度と戻ってこない。死んだ者は生き返らない。お館様、私は、睡柱・圓城菫です。」
「……そうか、……菫、ありがとう。鬼殺隊に入ってくれて。戦ってくれて、ありがとう。ごめんね、たくさんの物を背負わせて」
その言葉にジワリと涙が浮かんできた。耐えきれずにその場で泣き崩れる。
「……お館、様……申し訳ありません……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……、私では、全てを救えません。皆を、……助けたかった。……お館様に……死なないで、ほしかったんです。生きていて、ほしい……っ、」
「大丈夫だ、菫。大丈夫。ほら、涙を止めて。」
そう言われてしまったが、止められなかった。次から次へと涙がこぼれ、嗚咽が漏れる。
「……う、……ご、ごめん、ごめんなさいっ、……うぅ……っ」
「カナエの言った通り、泣き虫だね。菫は、いつも誰かのために泣いている、優しい子だと言っていたよ」
お館様が布団からゆっくりと細い手を伸ばしてきた。ハッと顔を上げて、あまねの方へ向ける。あまねは無言で頷いてくれた。その手を、そっと握りしめる。
「……お館様」
「私も、君も、そして鬼殺隊の皆も、思いは一緒だよ。それは決して消滅しない。永遠であり、不滅だ」
「……はい」
「菫、どうか、その強い思いを繋げておくれ。いいね?」
「……はい」
お館様は微笑んで、ほんの少しだけ力を込めて手を握ってくれた。
「さあ、そろそろ時間が来たようだ。暗くならないうちにお帰り」
「はい。……お館様、お時間をいただき、ありがとうございました。……どうか、つつがなくお過ごしください。」
そう小さな声でいいながら、圓城は手を離す。そして立ち上がり、涙を拭いつつ部屋から出ていこうとした。その時、お館様が声をかけてきた。
「ああ、菫。私からの最後のお願いをしたいんだが、聞いてくれるかな?」
「は、はい。何でしょうか」
最後、という言葉に思わず反応してしまいながら振り返る。
「菫、しのぶと話しなさい」
「………」
「もうそろそろ、気づいているだろう。君もしのぶも意地っ張りだ。喧嘩したまま、というのは悲しいからね」
「………御意」
静かに返事をして、圓城は今度こそ部屋を後にした。
「お帰りなさいませ、お嬢様。その顔、どうされました?」
「何でもない。じいや、話があるから、こちらへ」
帰宅した圓城は真っ赤になった目を隠すようにしながら、じいやを屋敷の客間に連れていった。向かい合って座る。
「お嬢様……?」
「……じいや」
圓城は少しだけ躊躇ったような顔をした後、真っ直ぐにじいやを見据えて口を開いた。
「私はもうすぐ死にます」
「………」
「大きな戦いが起きることは前に話したわね。私は恐らく生き残れないでしょう。あなたには本当に申し訳ないけど、後片付けをお願いしたいの」
「………」
「事業の方はだいぶ整理をしているから、続けるなり潰すなり、あなたの好きにしてちょうだい。あなたにはきちんとお金を残します。一生遊んで暮らせる、というのは難しいけど、働かないで食べていけるくらいのお金は残すから……」
「……お嬢様」
じいやが震えるように声を出した。そして、頭を下げる。
「……お任せください。このじいやが、全て責任持って最後まで終わらせます」
「……ありがとう」
圓城は笑った。その笑顔を見て、じいやが涙ぐむ。
「お嬢様、一つだけ、聞いてもよろしいですか?」
「なあに?」
「本当に、後悔していませんか?お嬢様はお嬢様として、生きられましたか?」
「当然でしょ」
圓城はキッパリと言いきる。
「私は、人生を捨てたことを後悔していません。私は、新しい人生を、圓城菫として、心のままに、生きました。そして、最後まで、私らしく生き抜きます。」
それを聞いたじいやが安心したような表情をした。
「……よかった。本当によかったです。それだけで、十分です。十分でございます。……妻も、喜びます」
「……うん?」
「お嬢様は覚えていらっしゃらないと思いますが、お嬢様が小さい頃、私は妻と共にお嬢様の実家で働いておりました。妻は昔から少し心臓が弱く、…私どもには子どもが出来ませんでした。それもあってか、おこがましい事ですが、妻は、お嬢様の事を娘のように思っておりました」
「………」
「妻はずいぶん前に、病気が悪化して亡くなりました。最後までお嬢様の事を気にかけておりました。自分の意思を封じ込め、大人の道具として生きることしか出来ないお嬢様が可哀想だと何度も言っていて……。ですから、もし、お嬢様が自分の人生を自分で決めたその時は、必ず味方になってあげたいと、言っていました」
「……ああ、そうだったのね。だから、あなたは、何も言わずに、私の手助けをしてくれたのね」
「はい。妻の遺志でもありました。ですから、私も、後悔はしておりません。お嬢様がお嬢様らしく、自由に生きることが出来たのであれば、それだけで、十分でございます」
「……ありがとう。そして、ごめんなさい。許してね。あなたを残して、逝くことを。最後まで、我が儘を言ってごめんなさい。残酷な事を、頼んでしまって、ごめんなさい」
圓城はまた涙が出そうになって、必死に堪えた。そんな圓城にじいやが声をかける。
「……無理を承知で、お願い申し上げます。どうか、悔いのない戦いを。そして、最後まで、生きることを諦めないでください」
「……うん」
圓城は静かに頷いて、また笑った。
圓城は自邸の庭に立つ。じいやは今日、この屋敷にいない。圓城以外誰もいない屋敷は、信じられないほど静寂に満ちている。ゆっくりと上を見上げると、美しい青空が広がっていた。
「……あ」
フワリ、と美しい蝶が飛んできた。圓城は薄く笑いながら指を蝶に差し伸べた。フワフワと舞うように飛んできた蝶は圓城の指に静かに止まる。
「……その羽織、似合っていますね」
後ろから声をかけられた。圓城は驚く様子もなく、笑う。そして、ゆっくりと振り向いた。蝶が指から離れて、どこかへと飛んでいく。
「……ごきげんよう。お褒めの言葉、ありがとう。そして、ようこそ。蟲柱サマ」
胡蝶しのぶと圓城菫は真っ直ぐにお互いの姿を見据えながら向き合った。