あの人は、とても真っ直ぐな瞳をしていた
『……カナヲ』
あの人の声が聞こえる
『……よく聞いて。絶対に忘れないで……』
優しい微笑みを、覚えている
『……ごめんね』
ああ、どうしてそんな事を言うの
***
ある日突然、あの人は蝶屋敷にやって来た。
「圓城菫です。今日からお世話になります」
カナエ姉さんの継子になったあの人。最初はどうでもよかった。関わるつもりはない。一緒に住む人が一人増えた。それだけ。
何度か話しかけてくれたけど、なんと言えばいいのか分からなくて、いつもみたいに笑って、何も言わずにその場から逃げた。あの人は何も言わなかった。ただ、目が合ったら優しく微笑んでくれた。
カナエ姉さんやアオイとはよく楽しそうに話をしているのを見かけた。しのぶ姉さんとは仲が悪いみたいであまり一緒にいるところを見たことはない。
ある日、アオイが忙しそうにしていた。たくさんの怪我人が運ばれてきたらしい。
「あ、カナヲ、菫さんを呼んできてくれる?」
そう言われたから頷いて、あの人の部屋へ向かった。
あの人は部屋ではなく縁側でぼんやりとしていた。どこか悲しげな顔をしている。近づいていくと、こちらへ向かってにっこり微笑んだ。
「ごきげんよう、カナヲさん。何か用事ですか?」
「……」
何と言えばいいか一瞬だけ迷って、口を開く。
「…アオイが、…呼んでいます」
あの人は少し笑ってから、ゆっくり立ち上がった。
「分かりましたわ。すぐに行きます」
そのまま横を通りすぎるのかと思ったらあの人はこちらに右手を突きだした。
「カナヲさん、どうぞ」
「……?」
突然そう言われて反応ができなかった。そんなことを気にする様子はなく、あの人は手を取ると、小さな四角の固まりをコロンと渡した。
「お菓子です。もしよければ食べてくださいね」
そう言って、すぐにその場を離れた。しばらくそれを見つめた後、迷いながら懐から銅貨を取り出して、ピンと弾いた。その結果を確認してからそれを口に放り込む。想像以上の甘さを感じ、びっくりした。なんという食べ物か知らない。ただ、美味しい、と感じた。
お礼を言わないと、と思った。でも、なんと話しかければいいのか分からない。あの人は、任務以外では、いつもカナエ姉さんに稽古をつけてもらうか、一人で鍛練をしていた。声をかける隙を見つけられなかった。
そのうち、しのぶ姉さんとも仲良くなったらしく、よく一緒にいるのを見かけた。二人が屋敷の庭で鍛練をしたり、何かを話しているのを見かけた。しのぶ姉さんが何か怒って、あの人が笑う。そのうちしのぶ姉さんも一緒に笑い出す。それは、遠くから見てるだけでなぜかフワフワして、奇妙な心地よさがあった。
ある晴れた暖かい日、あの人が屋敷の庭に一人で立っているのを見かけた。珍しく鍛練をしていない。上を見上げて、右手を空へ向かって伸ばしていた。まるで何かを掴もうとしているみたいだった。
不思議に思って思わず近づいてしまった。あの人は気配で分かったのかこちらを振り向いた。そして苦笑する。ゆっくりと屈んでこちらと目線を合わせた。
「……恥ずかしいところを見られてしまいました。今のは見なかったことにしてくださいね」
意味が分からなくて、首をかしげる。
「……空をね、掴めそうだなって思ったの。あんな風にどこまでも高くて、透き通るような青空が好きだから。ほら、私の羽織とおんなじ色でしょう?」
あの人がフワリと微笑んだ。その微笑みは少しカナエ姉さんに似ていて、ドキッとした。
「こんなこと、してるの知られたら恥ずかしいから、二人だけの秘密にしてね、カナヲさん」
あの人が口元に人差し指を当てる。よく分からないけど、頷いたら、あの人が苦笑した。
「ダメねぇ、私ったら。師範もしのぶもいないから、気が緩んじゃったわ」
そして立ち上がった。
「カナヲさん、そろそろお昼ごはんだわ。一緒にアオイのお手伝いに行きましょうか?」
頷くと、こちらの手を握った。思わずビクリとすると、あの人はハッとしたように手を離した。
「あ、ごめんなさいね。つい」
嫌だったわけじゃない。ただ、びっくりしただけ。でも、なんと言えばいいのか分からない。あの人はこちらを咎めもせずにまた笑い、ゆっくりと台所へ向かって歩き出す。それについていくように歩を進めた。あの人はこちらの方をチラチラ伺いながら歩いていた。目が合う度に優しげに笑う。そのカナエ姉さんと似ている微笑みが安心できて、自然と言葉が口から飛び出した。
「………ありがとうございました」
あの人が不思議そうな顔をする。
「何が?」
「………前に、もらった、……」
あの人が、ああ、と頷く。
「キャラメルのことね。美味しかった?」
あれはきゃらめるって名前なんだ、と思いながら、その言葉に頷くと、あの人は嬉しそうな表情をした。
「よかった。甘いもの、苦手じゃなくて。美味しいわよねぇ、キャラメル」
あの人はそう言いながら、こちらの方へ体をクルリと向けた。
「ねぇ、カナヲさん。今度の休みに、行きたい甘味処があるの。甘いものがいっぱいあるお店。もしよければ一緒に行ってくれる?」
その言葉になんと答えればいいのか分からなくて、体が固まった。あの人が慌てた様子で言葉を続ける。
「あ、私と二人じゃなくて、しのぶも誘ってみるつもりよ。カナヲさんが忙しければいいの。無理しないで」
忙しいなんて、あるわけない。ただ、どこかへ出かけるのに緊張しただけ。あまり関わりのない人と出かけるのは怖い。しのぶ姉さんが一緒なら大丈夫かもしれないけど。
考えがら、銅貨を取り出す。表なら行く、裏なら断る。あの人がじっと見ている前でピンと弾いた。銅貨は表を出した。それを確認して、口を開いた。
「………行きます」
あの人は嬉しそうに笑った。
甘味処ではあの人が言ったみたいに、たくさんの甘いものがあった。あの人がたくさん注文していて、しのぶ姉さんが怒っていた。でも、あの人はそんなこと気にせず、食べながら話す。
「カナヲさん、銅貨で自分の意思を決めてるでしょう?でも、裏か表か、どちらかしか選べない。何かを選ぶってことは、それ以外を諦めるってことだから、それなら、ぜーんぶ選ぶって選択肢もあるんじゃないかなって、ふと思ったの」
全部、なんて、そんな選択肢、選んでもいいのか、とぼんやり思った。甘味処からの帰り道、あの人がまた手を握ってきた。その温かさにまたビクリと震えてしまう。
「今日は楽しかったわ。カナヲさん、私の遊びに付き合ってくれてありがとう」
なんと答えたらいいか分からなくて、体が固まってしまう。ちがう。私の方がありがとうって、言わなければならないのに、言葉が出てこない。あの人はすぐに手を離した。
「ねえ、もしまた暇な時があったら、アオイや師範とも行きたいわね」
「その時はぜっっったい全部の品を注文させないから!」
「あら残念」
あの人が、菫さんが楽しそうに笑う。しのぶ姉さんも怒ってるけど楽しそうにしているのが分かった。いつもと全然違う表情をしていたから。
二人が楽しそうにしている姿を見ると、不思議な気持ちになる。なんだろう、これは。
菫さんの手を見る。傷だらけ、だけど温かい手だった。しのぶ姉さんの手も見る。こちらは菫さんよりも小さな手。きっと、大丈夫、怒られない。そんな気がして、思いきって二人の手を握った。どっちの手も温かい。同時に握り返してくれて、安心した。菫さんが笑いながら口を開く。
「ねえ、しのぶ」
「……なに?」
「こうやって、何も考えずに遊びに行ける日々が来るといいわね」
「……」
「時々、想像するの。争いがなくて、誰も戦う必要がなくて、家族を愛して、友達と語り合って、何にも怯える必要のない、平和な未来を」
「……」
「でも、待ってるだけじゃ、それは来ないから。だから、ね。私は作りたいの。平和な世の中を、未来を。カナヲさんが生きる世界はそんな希望のある世界であってほしいなぁ」
「……うん」
二人が話しているのが聞こえたけど、あまり聞いていなかった。カナエ姉さんとしのぶ姉さんと初めて出会った日を少しだけ思い出していたから。ギュッと手を握ると、二人とも握り返してくれる。それが、嬉しかった。
その後、三人でシャボン玉を買ってから家に帰った。何日か経って、蝶屋敷のみんなでシャボン玉を飛ばした。
「綺麗ねぇー。自分でシャボン玉を作るのは初めてだわ。貴重な体験ねー」
「シャボン玉作るのが貴重なの?」
「だって、楽しいもの。ね、しのぶ、どっちが大きく作れるか対決しましょうよ」
「もう、子どもなんだから」
しのぶ姉さんと菫さんがシャボン玉を作りながら、笑顔で話していた。二人が笑っていると、やっぱり不思議な気持ちになる。温かくて、心地よくて、
「あっ、見て、しのぶ!カナヲが一番大きいの飛ばしたわ!」
「騒ぎすぎよ、菫!でも綺麗ねー」
楽しい、と感じる。
***
カナエ姉さんが死んだ。私は泣けなかった。
泣けなくて、ごめんなさい。
***
菫さんはもうここにはいない。
あの日、しのぶ姉さんと菫さんは、しのぶ姉さんの部屋で何か話をしていた。アオイと二人で部屋の外から話を聞いてしまった。よく聞こえなかったけど、菫さんが何かを言って、しのぶ姉さんが怒っていた。その後、菫さんは出ていき、しのぶ姉さんは、しばらく部屋に閉じこもっていたが、笑顔を顔に張り付けて部屋から出てきて、仕事を再開した。菫さんがいないことについて、何とも思っていないみたいだった。ただ、笑顔で仕事をこなしていた。
失ってから、気づいたことがある。私は、しのぶ姉さんと菫さんが二人で笑顔でいてくれることが嬉しかった。三人で一緒に町まで出かけて、手を繋いでくれた帰り道、楽しかった。
もう、戻ってこない。しのぶ姉さんは菫さんの話をしたら、露骨に嫌がる。顔は笑顔だけど、よく見れば分かる。菫さんの事が嫌いになったみたいだった。
菫さんは鬼殺隊の柱になったらしく、忙しいらしい。でも、怪我をすることはほとんどないみたいで、屋敷に来ることはない。それが、たまらなく寂しい。あの人の温かい笑顔が好きだった。
定期健診の時、ようやく菫さんが屋敷に来た。アオイや他の子もソワソワして、菫さんに話しかけていた。でも、菫さんはよそよそしい笑みを浮かべて、ほとんどしゃべらずにすぐに帰ってしまった。私と目が合っても、無表情で少しだけ頭を下げて何も話しかけてくれなかった。じっと見ていたけど、しのぶ姉さんともほとんど話をせずに、それどころか目も合わせなかった。健診が終わると、そのまま足早に帰っていった。その後ろ姿を、ずっと見ていた。
どうしようもなく、悲しい。胸が詰まり、心が沈んでいく。
しのぶ姉さんと菫さん、もう二人が笑い合うことはないのだろうか。
二人の関係が、元に戻ってほしい、と思う。
だけど、それは私の勝手な願望で、きっと不可能に近いのだろう。
それでも、願ってしまう。
いつか、菫さんがこの屋敷に帰ってきますように。
いつか、しのぶ姉さんとまた笑い合えるような関係に戻れますように。
言葉には出せないけど、それでも、願った。
***
『……カナヲ』
あの人は、とても残酷な事を言った
『……ごめんね、……っ、だけど』
どうしてこんなことになったんだろう
『……カナヲ』
あの人の瞳はどこまでも真っ直ぐだった