私はあの子に何かを残せただろうか?
私にとって、あの子の存在は、誰よりも複雑で不可解だった。
たった1つだけ、確かなことがある。
あの子のことが、大好きだから、過去も未来も現在も、独り占めしたくなるの。
私は今日も願う。
妹とあの子の未来が希望に照らされますように。
あの子が涙を流しませんように。
その願いだけは、私の中にいつまでも残っている。
***
胡蝶カナエにとって、圓城菫という継子は、妹のしのぶとは別の意味で大切でかけがえのない存在だった。
長い真っ直ぐな黒髪と華やかな美貌を持つこの少女は、パッと見は近寄りがたく、取っ付きにくい印象を相手に抱かせてしまうらしい。本当はとても優しくて、泣き虫な少女なのに。
継子としても申し分ない。圓城は才能豊かな剣士だった。元々の身体能力の高さに加え、心肺機能や呼吸器系が発達しているため、厳しい鍛練を課しても易々とこなし、教えたことは全て吸収していく。何よりも素晴らしいのは、攻撃の速さだった。正確で息もつかせぬ連続攻撃を繰り出す。いまいち能力が生かしきれていないのは、水の呼吸が合っていないせいだろう。しかし、合っていない呼吸の型でそれだけの能力が出せるのだ。圓城が自分に合った呼吸を見つけた時、攻撃の威力がどれだけ上がるのか楽しみだった。
妹のしのぶはそんな彼女のことが気に入らないらしい。蝶屋敷にやって来て、しばらく経つのに2人の関係はギクシャクしていた。
「う~ん…」
カナエはしのぶと圓城の関係をどうにか改善したかったが、下手に口を出すともっと拗れる予感がして、前に踏み出せなかった。現在、圓城は遠方の任務に出向いており、しのぶの方は町に必要な物の買い出しへ行っている。
「あの2人、絶対に仲良くなれると思うんだけど…」
カナエが報告書をまとめながら頭を悩ませていると、アオイが部屋にやって来た。
「カナエ様、お客様です」
「は~い、誰かしら?」
「えーと…」
珍しくアオイが言い淀んだように言葉を濁して、カナエは首をかしげた。
蝶屋敷の玄関に行くと、そこに立っていたのは洋装の黒いスーツをピシッと着こなした、髭のある壮年の男性だった。眼鏡をかけており、優しそうな瞳をしている。
「あの…」
見覚えのない人物にカナエは困惑して声をかけると、男性は頭を深く下げた。
「お初にお目にかかります、胡蝶カナエ様。わたくし、圓城菫様にお仕えしております、使用人です。お嬢様がたいへんお世話になっております。」
「しようにん?お嬢様?」
聞き覚えの無さすぎる単語に思わず挨拶も忘れて首をかしげた。男性は苦笑しながら口を開く。
「圓城様の保護者、のような者でございます」
「はあ…」
よく分からないが、圓城の関係者だという事はなんとなく理解した。頭の中で使用人、という単語がやっと追い付く。使用人の存在や、彼の“お嬢様”という呼び方で、なんとなく分かっていたがあの子は裕福な家の娘なのだろうな、とカナエは思った。
「初めまして。鬼殺隊、花柱の胡蝶カナエです。菫に会いに来たんですか?生憎、あの子は…」
「いえ、お嬢様が任務という事は承知しております。遅くなりましたが、使用人として、保護者として、一度きちんとご挨拶をしたいと思いまして…」
「まあ、ご丁寧にありがとうございます」
カナエはニッコリ笑いながら男性を中へ招き入れた。
アオイにお茶を入れてもらい、カナエと男性は向かい合って座る。
「お嬢様は息災ですか?」
「ええ。いつも熱心に鍛練をしています。任務も本当に頑張っていて…」
「そうですか。心配しておりましたが、大丈夫なようですね」
男性は心の底からホッとしたように笑った。カナエは迷ったが、少しだけ踏み込む。
「あの…」
「はい?」
「あの子の、家族は…」
男性は少しだけ固い顔をして首を振った。
「申し訳ありませんが、わたくしの口からはお答え致しかねます」
「…それは」
「申し訳ありません」
男性の口調は頑なだったため、カナエはそれ以上詳細を尋ねるのは諦めた。少しだけ気まずい沈黙が流れる。男性の方が静かに口を開いた。
「……花柱様は、」
「はい?」
「お嬢様が、道楽や気まぐれで鬼殺隊に入ったとお考えですか?」
その質問に目を見開き、すぐに首を横に振る。
「いいえ。鬼殺隊は、道楽や気まぐれで入れる組織ではありません。確かにあの子に関して、そんな噂もありますが…、戦っている菫を見ればすぐに分かります。あの子は、いつも真面目でひたむきで、誰よりも人を救おうとする気持ちが強いです」
そう答えると、男性は安心したようだった。
「その通りでございます。お嬢様は決して遊びで鬼殺隊に入ったわけではありません」
男性は笑みを消すと、難しい顔をして口を開いた。
「お嬢様の家族の事や、過去の事はわたくしの口からは何も話せません。ただ、1つだけ。お嬢様は大変な思いをされて鬼殺隊に入ったのです」
「大変な思い…?」
「あの方は、」
「--鬼殺隊に入るために、人を殺したのですよ」
「……は?」
とんでもない言葉が耳に届いた。その意味を脳が理解し、唖然とする。
「ころ…、え?」
「あの方は、殺したのです。自分自身を。」
男性の言葉の意味が分からず、カナエは眉をひそめた。男性はそんなカナエの様子に構わず言葉を続ける。
「失礼しました。不謹慎な言い方でしたね。……お嬢様は、少し前まで別人でした。あるきっかけから、鬼殺隊に入ることを決心され、その時に…それまでの自分を切り捨てました」
「……」
「全ての人生を捨て、幸福を放棄し、自分自身を殺しました。それはあの方自身の望みでした。お嬢様は鬼殺隊に入るときにこう仰っていました。『私は人殺しだ。過去の自分を殺してしまった。その報いはいつか受けるでしょう。せめて、その日が来るまでは、できる限り多くの人を救いたい』と。お嬢様は、鬼殺隊に入ったその時に、…一度死んだのです」
「昔の…」
カナエがゆっくりと口を開く。
「昔のあの子は、どんな子だったのですか?」
「……お嬢様は、昔の自分のことを、『誰かの付属物としてしか、生きられない子ども。流されるだけで決断力どころか、意志も何も持たないお人形』だと語っていました」
男性は悲しそうに笑った。
「的確な自己分析だと思います。まさに、そのような方でした」
「…なぜ、あの子はそこまでして鬼殺隊に?」
一番知りたかったことをカナエは聞く。男性の答えは予想通りだった。
「お答えできません」
「……私が、菫に聞くしかありませんね」
「簡単には答えないでしょうね。それでも知りたいですか?」
カナエは少し考えて首を横に振った。
「…あの子が自分から話してくれるまで、待ちます」
男性はカナエの言葉に安心したようだった。お茶を1口飲むと、カナエに頭を下げる。
「感謝申し上げます。お嬢様を理解していただいて…」
「いえ、……」
「…正直に言うと、ずっと不安でございました。お嬢様が鬼殺隊で受け入れられないかもしれないと思いまして…。あの方はとても難しい方なので…」
男性は再び頭を深く下げた。
「どうか、お嬢様のことをよろしくお願いいたします。無茶なことをしないように、見守っていただけたら幸いです」
男性は何度も頭を下げて、暗くなる前に帰っていった。
「ただいま戻りました」
男性が帰ってしばらくして、圓城が任務から帰ってきた。
「師範、圓城菫、ただいま任務より帰還しました」
「……」
「…師範?」
いつもなら温かい笑顔で「おかえり」と言ってくれるのに、今日は無言で自分を見つめるカナエに、圓城は首をかしげる。カナエはその姿を見つめながら思った。
菫、あなたは何者なの?
そう口を開きかけたが、思い直して閉ざす。そんな聞き方をしたら、きっとこの子は困るだろう。この子のこと、何も知らない。知りたい。どこで生まれ育ったのか。今までどんな暮らしをしていたのか。家族はいるのか。なぜ鬼殺隊に入ったのか。--、
昔の菫に会ってみたい、とカナエは思った。でも、それはきっと不可能なのだろう。あの男性が言ったことが真実ならば、他ならぬこの子自身が捨てたのだから。カナエはいつものように笑った。
「おかえりなさい、菫。今回の任務はどうだった?」
「はい、少し厄介な鬼がいて…、」
一生懸命任務の事を報告する菫を見て、カナエは思う。いつか、きっと自分から話してくれるだろう。それまで待とう。話してくれるその日までは、この子を甘やかそう。いつも厳しい鍛練を課しているのだから、それくらい、いいだろう。
そして、いつか話してくれたその時は--、
カナエはそう考えながら圓城の話をニコニコしながら聞いていた。
***
日々は穏やかに過ぎていく。カナエは圓城に花の呼吸を教え始めた。とはいえ、花の呼吸も圓城には合っていないようで刀を振るいながら首をかしげていた。最近は自分で呼吸の型を作り出すことを考えているらしく、ますます鍛練に力が入っている。
また、しのぶと圓城はいつの間にか仲良くなったようで、最近は2人で楽しそうに笑いながらお喋りしている様子をよく目にした。
ある日のこと、しのぶが診療室で作業をしながら、怒っているような顔をしていたため、カナエは声をかけた。
「しのぶ?どうしたの?」
「……っ、姉さん。聞いてよ!菫が--」
しのぶの話によると、昨夜の任務の際、他の隊員が圓城の悪口を言っていたらしい。しのぶがその隊員に言い返そうとしたところ、圓城が止めたとのことだった。恐らく、圓城は事を荒立てたくなかったのだろう。カナエは苦笑した。
「菫は、強いのに…、実力があるのに!もう!あの子は!」
「まあまあ、落ち着いて、しのぶ」
「菫のこと、何も知らないくせに!あの子がどんな思いでここにいるか、知ろうともしないで…っ!」
「…え?」
しのぶの言い方が引っかかり、カナエは首をかしげた。
「?どうしたの、姉さん」
「…しのぶ、もしかして、菫から何か聞いたの?あの子の昔の話とか…」
そう言うと、しのぶは焦ったように首を横に振った。
「う、ううん!何にも!」
「……そう」
しのぶの様子から、その答えが嘘だと分かった。恐らく圓城がしのぶに何かを話したのだろうと検討がつく。
モヤモヤとよくない何かが心を支配する。少し考えて、それが不満と寂しさなのだと分かった。
圓城がもし自分のことを話してくれるのだとしたら、最初はカナエに話してくれるだろう、と勝手に思っていた。過去や自分の思いを打ち明けてくれるとしたら、カナエにだけだろうと。しかし、圓城が話したのはしのぶの方だった。
なんだか、面白くない。そんな事を考えてしまい、カナエは慌てて、そんな思いを振り切るように首を振る。
「姉さん…?どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないの!」
しのぶが訝しげな視線を向けてきて、誤魔化すように笑った。
***
鬼殺隊という組織に身を置いていたら、死とはいつも隣り合わせだ。
昨夜の任務は圓城を含めた数人の隊員による合同任務だった。見かけは子どものような姿の鬼だったが、そんな姿に似合わずかなり強い鬼だったらしい。外見に騙された数人の隊員が喰われた。最終的には、見事圓城が頚を斬ったらしい。
「ただいま戻りました」
「菫!大丈夫?」
カナエとしのぶが出迎えて、しのぶが声をかける。圓城は泥だらけだったが、怪我はほとんど見当たらなかった。
「…圓城菫、ただいま任務より帰還しました」
「おかえりなさい、菫。怪我は?」
「…顔に少し…。あとは大丈夫、です」
「こっち来て、私が手当てする!」
しのぶに手を引かれ、圓城は治療のためにすぐそばの部屋に入った。カナエはホッと息をつく。かなり難しい任務だと聞いて心配していたが、圓城は生き残った。それもほとんど無傷で。本当によかった。安心感で胸がいっぱいになり、自分の継子に誇りを感じる。やはり強い子だ。
圓城は軽傷だったので、処置をしのぶに任せて、カナエは他の隊員の治療へ向かった。
一通りの治療が終わり、カナエが診療室で物品の後片付けをしていると、しのぶが入ってきた。
「姉さん、菫を見てない?」
「え?こっちに来てないわよ?」
「あの子ったら、傷の手当てが終わったらすぐに休むって言ったくせに、部屋にいないの。探したんだけど屋敷にはいないみたいで…。どこに行ったのかしら…」
「あらあら…」
圓城が何をしているか察してカナエは苦笑した。
「しのぶ、私が探すから、ここの片付けを頼んでいい?」
「え、ちょっと、姉さん!?」
「よろしくね~」
しのぶが戸惑っていたが、笑いながら部屋から出ていく。そのまま屋敷中を見回る。しのぶの言った通り、圓城の姿はどこにもなかった。
「うーん、どこかに行ったのかしら…」
カナエは蝶屋敷の庭を見渡して首をかしげる。
「もうすぐ雨が降りそうだから、早く帰ってくればいいのだけど…」
と、庭から上を見上げてそのまま蝶屋敷に視線を移す。
「あら…」
そして、圓城を発見した。圓城は蝶屋敷の屋根の上にいた。膝を抱えて座り込んでいる。
「……」
カナエは困ったように笑って屋根へと登った。
「…菫」
圓城は屋根の上で顔を膝に埋めていた。カナエが名前を呼んでも顔を上げない。
「菫、顔を上げて」
圓城がゆっくりと膝から顔を出す。思った通り、その顔は涙で濡れていた。大粒の涙がゆっくりと頬を流れ、膝に落ちる。
「菫…、」
カナエが背中を擦ると、圓城は袖で涙を拭った。
「申し訳、ありません。すぐに、すぐに…止めますから…」
必死に涙を止めようとする姿がいじらしくて、カナエは圓城の体を抱き寄せた。
「…うー」
腕の中で、何事か呻いて圓城が体を離そうとするが、更に強く抱擁する。やがて諦めたように力を抜いた。
そのまま圓城はカナエの腕の中で声を出さず静かに泣いた。
きっと、それは今回の任務で亡くなった隊員達を思っての涙なのだろう。この子が泣く時は、いつも誰かのために涙を流しているから。
やがて、圓城の体の震えが止まる。
「…もう大丈夫?」
圓城がコクリと頷き、ゆっくりとカナエから身を離した。もう涙は流れていない。どうやら少し落ち着いたらしい。
「……申し訳ありませんでした」
「どうしてこんな所にいるの?落ちたら危ないわ」
泣いていたことには触れずに、そう切り出すと圓城はばつの悪そうな顔をして口を開いた。
「……こんな、顔、誰にも見られたくなかったんです。しのぶとか他の子達にも。弱い、隊員なんだって、思われたくない。それに、私が泣いたって、何かが変わるわけじゃない…っ」
また涙があふれそうになったのだろう。圓城はグッと耐えるような顔をした。
カナエは圓城の頭をゆっくり撫でる。こうすると圓城の心が穏やかになるのを知っていた。思った通り、圓城は少し落ち着いたような顔をする。
「…師範にも、本当は、こんな姿見せたくないんです。申し訳ありません。不甲斐ない継子で…」
「そんなこと、言わないで。あなたはとても頑張ってるわ」
「……でも、私は弱い。また、救えなかった…。全然、ダメだ。なんでこんなにダメなんだろう…っ、」
ああ、この子の悪い癖だ、とカナエは思う。圓城は自己評価が低く、何かと自分を卑下する。どんなに強くなっても、その癖は治らなかった。
「菫、そんなことを言うのはやめなさい。」
「……」
「さあ、立ち上がりなさい。そして鍛練をなさい。強くなりたいのならば、泣くのではなく、努力をしなさい」
「…はい」
厳しい言葉をかけると、圓城は静かに頷いた。そして立ち上がる。
「申し訳、ありませんでした。師範」
「頑張れるわね?」
「はい」
圓城が今度は強い意志を持った目でしっかりと返事をした。その姿にカナエは思わず笑う。カナエは真っ直ぐで強い瞳をした圓城が好きだった。
「あなたはやっぱり泣き虫ねぇ」
「……師範の前では、つい涙が我慢できなくなるんです。いつもは堪えられるんですけど、師範は優しいから、その優しさが嬉しくて。すみません、甘え、ですね…」
ああ、そうか。この子は私の前では素直に泣けるんだ、とカナエは思う。ならば、この子の泣いている姿は私だけが知っている姿なのだろう。私だけが、知っている菫の一部分。
なんだかそれが特別なような気がして、カナエは圓城の手を握った。圓城は強く握り返してくれた。
「……師範、私、もっと頑張ります。師範みたいに、なりたいから…」
「あら、私みたいに?」
「師範のように強くて優しい人でありたい。誰かが傷ついている時や泣いてる時、すぐに手を差し伸べるような、そんな人になりたい、です」
「嬉しいことを言ってくれるわねぇ」
「…師範がそばにいてくれると、世界が優しく光って見えるんです。自分の存在もほんの少し輝ける気がする。ここにいていいんだって思えるんです。師範の事を思うだけで、心が温かくなって、胸が詰まって、でもそれが心地いいと思うんです。変ですよね?」
「……」
なんだかすごい事を言われたような気がする。カナエは思わず真顔になった。
圓城に自覚はないのか、涼しい顔で気合いを入れるように深呼吸をしていた。そしてカナエの方を見て、花が咲いたように笑った。
「師範!明日から、また指導をお願いします!私、必ず自分の呼吸を作って、もっと強くなります!」
「…ええ」
やっぱり自分が言った言葉の意味に気づいていないのだろう。カナエは苦笑しながら頷いた。
***
それからしばらく経って、圓城が自分の呼吸の型を作り出し始めた。独自の呼吸を使い始めたことで、圓城の攻撃はどんどん鋭く、大きなものへと変化していく。
「うふふ、どうしようかしら」
ある時、しのぶがカナエの部屋へ訪れると、カナエは数枚の紙を手に、筆で何事か書き込んでいた。
「姉さん、何してるの?」
「あ、しのぶ、どれがいいと思う?」
「え?」
カナエが見せた紙には『春の呼吸』やら『彩の呼吸』やら『蕾の呼吸』など書き込まれていた。
「なにこれ?」
「決まってるじゃない!菫の呼吸の名前の候補よ!」
「……」
「どれがいいと思う?やっぱり花の呼吸の派生だし、女の子だから華やかなのがいいわよね。もちろん最終的に決めるのは菫だけど、でも、私の一押しは…」
「えーと、いや、姉さん…」
「うん?」
「呼吸の名前なら、菫、自分でもう付けていたわよ。睡の呼吸にするって…」
「え~!!」
カナエがガックリと肩を落とした。
「そんなぁ~…」
「いや、そんなに落ち込まなくても…」
「だって、私が名前を付けようと思ってたのに…」
「まあ、こればかりは本人の意志が大事だからね」
しのぶは落ち込む姉を慰めながら苦笑した。
***
圓城が独自の呼吸の型、睡の呼吸を本格的に使い始めた。階級も上がっていき、恐らくはそう遠くない内にカナエと同じ柱になるだろう。その日が来るのがカナエは楽しみだった。
しかし、心配事もあった。圓城の顔色が悪い気がするのだ。
「ねえ、しのぶ。菫、体の調子がおかしいのかしら?最近、特に顔色がおかしいような気がするのよね…」
「…あー、」
しのぶが何かを知ってそうな顔をしたため、カナエはグッと顔を近づける。
「しのぶ、何か知ってるの?」
「姉さん、近いわよ。…あの子なら、多分寝不足ってだけよ」
「寝不足?」
「菫って、元々睡眠時間が物凄く少ないのよ。なぜか眠るのが嫌いなんですって。睡の呼吸を使ってるのに、変な話よね?」
「……」
知らなかった。でも、考えてみれば圓城が最初にここに来た時も過労と睡眠不足のための入院だった。眠るのが嫌いと言うのは確かに変な話だ。それに、しのぶはずっと前から知っていたらしい。カナエが知らない菫の一部を知っているしのぶに対して不思議な感情が湧く。
「……じゃあ、最近寝てないってこと?」
「まあ、寝ないのは元からだけど。最近は特にずっと起きてるような気がするのよね…必死に隠しているみたいだけど…」
「…なんで眠るのが嫌なのかしら…?」
「さあ…?何度も聞いたけど教えてくれなかったわ」
カナエは顔をしかめた。
「しのぶ、今日はあなた、任務はなかったわね?」
「?ええ」
「私は今夜任務があるから、いないの。菫が帰ってきたら無理矢理にでも寝かせてちょうだい」
「うーん、でもあの子、何度も怒ってるけど全然寝ないのよね…」
「私に言いつけるわよって言えば、さすがに寝ると思うわ。このままじゃ体が危険よ。」
その言葉にしのぶが固い表情をしてしっかり頷いた。
「ただいま~」
その次の日の早朝に、任務を終えたカナエは蝶屋敷に帰ってきた。カナヲが静かに出迎えてくれる。
「カナヲ、いい子にしてた?」
カナヲが黙って頷き、カナエは笑って頭を撫でる。そこにしのぶも顔を出した。
「おかえり、姉さん」
「ただいま、しのぶ。菫は?」
しのぶが苦笑して圓城の部屋の方を指差した。圓城の部屋を覗くと、布団の中でぐっすりと眠り込んでいる姿があった。
「よかった。寝たのね」
「姉さんの言う通りだったわ。姉さんに言うわよって言ったらすぐに寝たの」
カナエは苦笑して圓城の頭を撫でる。寝ているのにそれが分かったのか、圓城の顔が少し綻んだ。
「そろそろ起こす?」
「いいえ。ぐっすり寝てるし、かわいそうだわ」
カナエは圓城の穏やかな寝顔を見つめながら微笑んだ。
起きたら、お説教だ。きちんと体調管理をしなさいと、叱らなければ。
「しのぶ、菫は今日は任務もないし、このまま自然に起きるまで寝かせておきましょう。アオイにも伝えておいてくれる?」
「うん。分かった」
「さて、今夜はお互い任務だし、私達も休みましょうか」
「姉さんはどこの任務?」
「南西の町よ。しのぶは?」
「私は…」
カナエはしのぶと小声で話ながら圓城の部屋から出ていった。そして思う。この任務が終わったら、みんなで甘味処にでも行こう。以前圓城と約束していたのに、まだ行けていなかった。お説教のあと、圓城にそう提案したらきっとあの子は大喜びするだろう。圓城の笑顔を予想しながら、カナエは自分も小さく微笑んだ。