なんだろう。これは。
まず認識したのは竈門禰豆子の姿だった。いつもの可愛らしい姿ではない。大人の女性の姿だ。額からは鬼の象徴である角が現れ、体に枝葉のような紋様が現れている。
これは、何?
今度は奇妙な薄着の女の鬼が現れた。2体の鬼が屋根の上で対峙する。禰豆子がその鬼に蹴りを入れた。鬼が帯を操り、禰豆子の足が切れる。
ダメ、禰豆子さん。このままじゃ。炭治郎さん、早く、早く助けてあげて----、
「……あ?」
圓城は目を覚ました。夢だったようだ。
「痛い……」
凄まじい痛みが全身を襲う。いつの間にか川辺に倒れていた。
なぜここにいるのか分からず、一瞬混乱する。唐突に鬼に攻撃されて、崖から突き落とされた事を思い出した。川に流されながら必死に泳いで川辺にたどり着き、そのまま気を失ってしまったようだ。取りあえずは溺死を免れたことに息を吐く。
「……うぅ、……」
起き上がりながら呻いた。全身のあちこちに切り傷があり、出血している。骨が折れているため痛みも酷い。
目の前には深い森が広がっていた。ここはどこなのだろう。自分がいる場所が分からず途方に暮れる。チラリと上を見上げるが、鎹鴉の姿も見えなかった。まだ日は高いのが救いだ。刀がないため、鬼に襲われでもしたら流石に対処できない。
一体何時間気絶していたのか。圓城はそう思いながら立ち上がった。幸運にも足の骨は折れていない。義足もまだ動くので歩くことに支障はなさそうだ。
「…はあ、」
取りあえずは森を抜けなければならない。圓城は痛みに顔をしかめながらゆっくりと川沿いを歩き始めた。
「……まずい」
本当にまずい。川沿いを歩き始めて2日ほど経った。全然森を抜けられない。思ったよりも深い森だった。川があるため、水分補給は心配ないが、流石に体力の限界が近い。
それに、身体の傷があちこち痛む。歩くのも精一杯で1日に少しの距離しか歩けない。歩いている途中で人間に会わないかと希望を持っていたが、何も見かけなかった。
「……」
どうするべきか。自力で森を抜けるつもりだったので、ここまで歩いてきてしまった。こんなことなら最初の場所で留まっておくべきだった。もしかしたら、不死川や他の隊員が捜索してくれていたかもしれない。圓城は唇を強く噛む。いや、他人に頼ろうとするのはダメだ。鬼殺隊は常に鬼を倒すために忙しいのだから。
鬼殺隊隊員で、しかも柱とあろう者がここで挫けるわけにはいかない。必ず帰らなければ。
そう思いながらも、いつしか足が重くなっていく。意識が朦朧としていった。空腹のまま、傷だらけで動いた結果だ。圓城はフラフラと歩いていたが、やがて力尽きたように、近くの大きな樹木に体を預けるように倒れこんだ。
「----れ、菫」
「はい、師範」
大好きな優しい声が聞こえて、圓城は反射的に返事をした。パッと目を開ける。目の前には胡蝶カナエがいた。圓城は困惑して口を開く。
「え、え?師範?なんで?」
「…菫」
カナエが泣きそうな表情で圓城の顔を両手で包み込んだ。
「よく頑張ったわねぇ」
「……師範」
「疲れたでしょう?とっても、とっても痛いでしょう?」
「……」
「あなたが自分で思ってるよりも、ずっと大きな怪我をしてるのよ。もう無理しないで」
「……」
「……疲れたら、休んでもいいの。ね?」
カナエの大きな瞳と目が合う。そして、圓城は口を開いた。
「それはできません、師範」
カナエが目を見開いた。圓城は思わず笑う。
「私は、前に進みます。疲れてはいませんよ、師範」
「……菫」
「私、頑張ったんです。でもね、しのぶの方がずっと、ずーっと、頑張ってるんですよ。師範もご存知でしょう?」
「……」
「あの小さな背中にたくさん背負って、いつも頑張ってる。私の努力なんか比じゃないくらいに。だから、これくらい全然苦じゃないんです」
「……」
「私は生きますよ、師範。ご心配なく。ここで死んだりしません。こんな森なんか必ず抜け出します。そして、もっともっと強くなる!人を護るためにー--」
「…菫、ごめんね」
カナエが圓城の頭を撫でた。圓城は心地よさに目を閉じる。カナエが頭を撫でてくれる瞬間が、大好きだった。目を開いて笑いながら口を開いた。
「…それに、師範。らしくないですよ、休めばいいなんて、そんな事を言うなんて」
「だって、あなたは人一倍がんばり屋で、自己評価が低くて、いつもいつも自分に厳しいから。ついつい甘やかしたくなっちゃうの」
カナエの言葉に苦笑した。そして、
「……師範、ごめんなさい」
そんな言葉が口から漏れた。
「うん?」
「私、師範が望んだような隊員には、なれませんでした」
「……」
圓城はうつむいた。
「あの時、間に合わなくてごめんなさい。救えなくてごめんなさい。私が盾になるべきだったのに--」
「菫、ちがう。ちがうわ」
「師範が、いなくなってから、鬼が憎くて仕方ありません。あなたのような柱にはなれませんでした。鬼を救いたいとは、思えませんでした--」
「ちがうでしょう、菫」
カナエの言葉にハッと顔を上げる。
「菫、あなたはずっと嘘をついている。周りにも、自分にさえも。本当はずっと、心の奥底で鬼が可哀想だって、気の毒だって、思ってるでしょう?」
その言葉に拳を強く握った。
そうだ。本当はずっとそう思っていた。鬼が憎いと思いながらも、怒りを胸に抱えながらも、心の奥ではずっと哀れんでいた。ほんの僅かな慈悲の心がどこかに残っていた。気づかないふりをしていた。見て見ぬふりをしていた。こんな気持ち、しのぶと決別したあの日に全て捨てたはずなのに。
自分でも認めたくなかった。誰にも悟られたくなかった。
だからこそ、お館様に無理を言って単独任務ばかり請け負ってきたのだ。誰かと仕事をすると、その気持ちを見透かれそうで、怖かったから。
「やっぱり、あなたは優しい子ねぇ」
「…優しく、なんかないです。しのぶの、ことも」
圓城は思わず涙を浮かべそうになってグッと唇を噛んだ。
「あの日、あんなこと、言うべきじゃなかった。鬼を倒せない、なんて。しのぶの気持ちは分かってるはずだったのに、何も分かってなかった。だって、私、しのぶには死んでほしくない--」
「……ええ」
「幸せになってほしい。笑顔でいてほしいんです。あんな、空っぽの笑顔じゃなくて、心から笑ってほしい。だって、誰よりも、大好きだから。」
「そうね。私も、そう思ってる。そして、あなたにも…」
カナエが圓城を強く抱き締める。
「あなたにも、幸せになってほしいの、菫。人を護るために戦って、誰かのために泣いてしまうあなたにも、笑顔でいてほしい。しのぶと一緒に」
「……もう、泣いてませんよ。」
圓城は笑った。
「師範が、泣くなって言ったから。私、あの日から一度も泣いていないんです。いつも前へ前へ進んでる。ね?頑張ったでしょう?」
「ええ…」
「でも、師範の事を思い出す度に、涙が出そうになるんです」
圓城はカナエから身を離し、その手を強く握った。
「もっと教わりたいこと、たくさんあった。話したいことも。師範がくれたもの、私、一度も返せてない。お礼も十分に言えなかった。いっぱい恩返ししたかったのに。」
「一度でいいから、カナエ姉さんって呼びたかった」
カナエがフワリと笑った。
「呼べばよかったのに。私、何度も師範じゃなくてカナエか姉さんって呼んでちょうだいって言ったでしょう?」
「……だって、しのぶの姉さんだから。」
「あら、遠慮していたの?」
「それも、あるんですけど。一度でもそう呼んだら、甘えてしまいそうで、怖かったんです」
「もう、菫は本当に自分に厳しいわねぇ」
カナエの言葉に圓城も微笑む。ああ、そうだった。この人は誰よりも優しくて温かい人だった。随分と長い間、忘れていたような気がする。幻でも、夢でも逢えて嬉しい。
私が一番信頼してた人。大好きだった人。あなたの力が私を生かしてくれた。ここまで命を引き伸ばした。あなたにもう一度逢いたくて、生きていたのかもしれない。苦しくても、悲しくても、決して屈したりしなかった。だって、ずっと、ずっと、逢いたかった。
ずっと、あなたに、逢いたかったんです。
カナエが微笑みながら口を開く。
「菫、知ってる?」
「はい?」
「私、あなたの事が大好きなの」
圓城はキョトンとした。
「私も師範の事、大好きですよ」
そう言うとカナエはクスクス笑い、再び圓城の顔を両手で包み込んだ。そして額と額をくっつける。
「さあ、そろそろ帰らないと。きっとしのぶが待ってるわ」
「……え?」
「忘れないで。覚えてて。睡柱、圓城菫。私はあなたの事をいつも誇りに思ってる。」
「…師範」
「挫けそうになったら、悲しみに襲われたら、思い出して。人の強い想いと希望だけは、誰にも奪えない。鬼にさえも。あなたが、それを覚えているだけで、永遠になるわ。決してそれは、なくならない。消えたりはしないの」
「…はい」
「菫、大好きよ、心から」
そして、カナエの姿がフワリと消えた。
気がつくと目の前にアゲハ蝶が見えた。ぼんやりとその蝶を見つめる。圓城の鼻にとまっているらしい。
「…師範」
口を開くと、蝶は舞い上がるように飛んでどこかへ行ってしまった。そして、圓城は目の前にいる人物を見て、目を見開いた。
***
胡蝶しのぶは森の中を駆け巡りながら必死に目を凝らす。圓城の姿は全然見えない。今は真夜中だった。夜明けまであと少し。
川の中に沈んでしまったのだろうか。だとしたら、絶望的だ。そんな考えが脳裏を過り、しのぶは首を横に強く振る。
圓城がそんな簡単に川に沈むわけがない。あの子が死ぬわけない。
周囲に目を走らせた。1日中、休む間もなく足を動かしたせいで身体が重い。視界も霞んできた。
しのぶは足を止めた。空を見上げる。青みがかった空が広がっていた。そろそろ夜明けだ。
「…菫、どこにいるの…」
もう、ダメなのだろうか。これだけ探してもいないなんて。
「返事を、して。お願いだから…」
もう、失くしたくない。4年前、姉さんが死んでから絶望に突き落とされた。あんな思いはもうたくさんだ。
「……姉さん」
思わず最愛の姉を呼んだ時だった。
「………あ」
目の前を何かが横切る。
それは美しいアゲハ蝶だった。フワリフワリと舞うようにしのぶの目の前に飛んできた。
「……」
しのぶはまるで吸い寄せられるように蝶に近づく。蝶は軽やかに飛んでいった。
なぜこんな事をしたのか、しのぶにも分からない。まるで導かれるように蝶の後に付いていった。
木々の間を進んでいく。そして--、
「……っ!」
大きな樹木に身体を預けて目を閉じている圓城を発見した。
一瞬、しのぶは圓城が死んでいるのかと思い、息を呑んだ。圓城は傷だらけで顔もやつれていたからだ。しかし、アゲハ蝶が圓城の鼻にとまると、ゆっくりとその瞳が開いた。
***
圓城は目の前に立つしのぶの姿を見て、大きく目を見開いた。しのぶの顔はいつもの張り付けたような笑顔ではなく、呆然として口が開いていた。ぼんやりとその顔を見つめる。そして、圓城は笑った。
「…すごい。こんないい夢初めて見た」
その時、しのぶが圓城に駆け寄り、強く抱き締めてきた。息が止まるほどギュッと抱き寄せられる。
「…よかった。よかった。本当に。菫……」
しのぶの声が聞こえた。顔は見えないが泣いているのが分かった。圓城は朦朧としながら自分もしのぶを抱き締める。そして思った。
こんなにいい夢、初めてだわ。また菫って、しのぶが呼んでくれるなんて。しのぶ、あなたは知らないでしょう。あなたのその声で、菫と呼ばれるだけで、私の心がどんなに震えるか。何千回だって、何万回だって、あなたに名前を呼ばれたい。
本当に、なんて幸せな夢なんだろう。こんな夢ならいつまでも見ていたい。温かいなんて、おかしな夢。ああ、夢は儚くて、脆いものだけど、今なら、私、言える。
「……ねぇ、しのぶ。ごめんね。…私の事、許してくれないって分かってるけど、それでも--」
しのぶの事が大好きなの。この世で、一番。
そう言って圓城はそっと目を閉じる。そして意識が遠くなった。
***
しのぶは圓城を強く抱き締めた。圓城は酷い状態だが、それでも生きていた。涙が流れるのが止められない。感情が、涙腺が制御できない。いや、そんなのどうでもいい。生きていてくれたのだ。死ななかった。よかった。本当に。
フワリとしのぶの視界の上でアゲハ蝶が舞う。まるで安心したようにどこかへと飛んでいった。
きっと、姉さんだ。姉さんが助けてくれた。奇跡なんて信じないけど、でも、それでも……、
ありがとう、姉さん。
しのぶは心の中で叫んだ。その時、圓城の小さな声が聞こえた。
「……ねぇ、しのぶ。ごめんね。…私の事、許してくれないって分かってるけど、それでも--しのぶの事が大好きなの。この世で、一番…」
しのぶはただ強く圓城の体を抱き締めた。