彼女にスミレの花は似合わない。
青に近い美しい紫色の花。ひっそりと静かに咲いている花なんて。
彼女には、似合わない。
***
その日、胡蝶カナエと胡蝶しのぶの姉妹は買い物のために町を歩いていた。
「姉さん、あと買うものはある?」
「それじゃあ、カナヲの服を買いましょうか!」
「ダメよ!この間も買ったじゃない!いっぱいあるんだから、無駄遣いは禁止!」
「そんな~」
シュンとして落ち込む姉の顔をしのぶはチラリと見た。姉は目を離せば、すぐに必要ないものをアレコレ買おうとする。
「もう帰りましょう、姉さん。もうすぐ食事の時間だし。それに、今日は菫と鍛練する約束してるんだから」
「あ、そうだったわね。ウフフ」
落ち込んだ顔から一転、突然笑い始めた姉にしのぶは眉根を寄せる。
「なんで笑ってるの?」
「嬉しいのよ。しのぶと菫、すっかり仲良くなっちゃって。あなた達2人とも本当に可愛いわ~」
「……」
しのぶが何も言わず、照れたように唇を尖らせたため、カナエはますます笑った。
「あ!そうだわ!」
「どうしたの、姉さん?」
「思い出したの。もう一つ、買いたい物があるのよ!」
「何?」
「あっちの店に寄りましょう!」
カナエが突然何かをひらめいたようにしのぶの腕を引っ張り、早足で歩き出す。しのぶも慌てて付いていった。
「ここ!」
「ここって……」
カナエとしのぶが来たのは装飾品を売っている小さな店だった。
「姉さん……、必要ないものを買うのは…」
「絶対必要なの!」
カナエはしのぶの言葉を気にする様子もなく、店に入っていく。しのぶは深いため息を吐きながらそれに続いた。
「ね、しのぶ。どれがいいと思う?」
「?」
カナエは真っ直ぐに髪飾りのある店の一角に向かい、しのぶに声をかけた。しのぶは姉が指し示す物を見て、思わず首をかしげる。
そこに並んでいたのは、いくつかの蝶の髪飾りだった。カナエやしのぶ、蝶屋敷の少女達が付けている物に非常によく似ている。
「え?姉さん、髪飾りを新しくするの?」
「私じゃないわよ~。菫に買ってあげるの!」
「菫?」
カナエは楽しそうに頷いた。
「菫はいつも髪をおろしているから、任務や鍛練中は邪魔になりそうだし。あと、単純に蝶屋敷でこの髪飾りを付けてないのはあの子だけなのよ。なんだか寂しくて」
カナエは髪飾りを一つ手に取りながら言葉を続けた。
「私から贈れば、きっと菫は付けてくれるでしょう?どれがいいかしらね~」
「ふーん。まあ、どれも似合うだろうし、どれでもいいんじゃない?」
しのぶが適当にそう返すと、カナエは少し膨れっ面をした。
「どれでもじゃダメよ、もう!ほら、しのぶが選んで」
「ええ…?なんで私が…」
「ほらほら、どれにする?」
カナエに促されるように髪飾りに視線を向ける。ふと目に留まったのは、端っこにあった、黄色の蝶の髪飾りだった。
「……」
檸檬のような明るい黄色に、少しだけ淡い桜色も入っている。華やかで可憐な髪飾りだ。しのぶがそれを手に取ると、カナエの顔がパッと輝いた
「あら、いいじゃない!これにしましょうか!」
「え、これ?」
「きっと菫に似合うわ~」
しのぶが戸惑っているうちに、カナエがサッと素早く会計を済ませた。そのまま上機嫌でニコニコしながら店から足を踏み出す。
「髪に着けてあげるのが楽しみね~」
「……うん」
そういえば、昨日は圓城の本来の誕生日だった。カナエは知るよしもないが。姉からの贈り物として、きっと圓城は喜ぶだろう。そう考えると、しのぶの顔は自然に綻ぶ。
「……あ」
ふと目の前を桃色の何かが横切る。それは桜の花びらだった。
「あら、綺麗ねぇ」
カナエが上を向いて感嘆したようにそう言い、しのぶもそちらを見ると美しい桜の木が花を咲かせていた。
「本当、綺麗…」
あまりの美しさに呆けたように声が漏れる。
淡い桃色の花びらが幾重にも重なり、太陽の温かい光の粒が降り注いだ。散りゆく花たちがその儚い存在を主張するかのようにフワリと揺れる。信じられないほど美しい光景だ。
「あら、見て、しのぶ!こっちも可愛いわ!」
しのぶが桜の美しさに見とれていると、カナエが声をあげる。そちらに視線を向けると、カナエは木の根元にしゃがみこんでいた。しのぶが不思議そうな表情で近づくと、カナエが指で何かを指し示す。
「……あ、スミレ?」
「ええ。可愛くて、綺麗ねぇ」
桜の木の根元には小さなスミレの花が咲いていた。ひっそりと一輪だけ、紫の花を咲かせている。カナエが見つけなければ気づかなかっただろう。ふと、昨日の圓城との会話を思い出し、しのぶは苦笑いをした。
「?しのぶ、どうしたの?」
「…いえ」
突然苦笑したしのぶに、カナエが不思議そうに首をかしげる。しのぶは少し笑いながら言葉を続けた。
「昨日の、菫との会話を思い出しちゃって…」
「菫?」
「菫って、名前なのに、あの子にはスミレの花は似合わないなって。そう思ったの」
しのぶは根元のスミレの花をじっと見つめる。やっぱり圓城にスミレの花は似合わない。こんなふうに誰にも気づかれないようにひっそり咲く花よりも、上で満開に咲いている華やかな桜の方がよっぽど似合っている。
そう考えていたら、カナエがきょとんとしながら口を開いた。
「え?似合ってるじゃない?」
「え?」
今度はしのぶがきょとんとする。
「だって、スミレの花って、こんなに可愛いのに、実はすっごく強い花なのよ?小さな花だけど、山や森だけでなく人が多く住んでいる町の道端でも花を咲かせるの。ほら、可愛くて強い菫にピッタリでしょう?」
「へぇ……」
確かに言われてみれば、スミレの花を町中でもたまに見かけることがある。しのぶはカナエと共にしゃがみこんで、そのスミレを見つめながら、
「……確かに、似合ってるかもね」
と呟いた。
翌日、新しい羽織を見に纏った圓城に、カナエがさっそく髪飾りを着けた。
「はい、出来上がり。どうかしら?」
カナエが圓城の髪を後ろで緩くまとめる。可愛らしい黄色の蝶の髪飾りが揺れた。
「師範、これは…」
「気に入らない?皆とお揃いなのよ」
「…ありがとうございます」
圓城はしのぶが選んだ黄色の蝶を着けて、本当に嬉しそうに笑った。その光景に思わず頬を緩ませながら、しのぶが声をかけた。
「姉さん、菫、早く任務に行かないと!」
***
あの日から数年経った。
胡蝶しのぶが蟲柱として任命されて、初めての柱合会議が開かれる。
「新しく蟲柱に任命した、胡蝶しのぶだ」
「ご紹介に預かりました、胡蝶しのぶと申します。何卒よろしくお願いいたします」
自己紹介で頭を下げる。そしてゆっくりと顔を上げて、しのぶは顔に張り付けた笑顔で他の柱を見渡した。
柱の中に、空色に雛菊が描かれている羽織を着た、かつての友人がいた。黒い瞳がしのぶの顔を真っ直ぐに見つめ、優雅に笑っている。
ふと、彼女の髪が目に入る。その髪には黄色の蝶が着いていなかった。まるで初めから存在していないかのように。
髪を横で結い、左肩に垂らしている。黄色の蝶の代わりに着いていたのは、スミレの飾りが着いた純白のリボンだった。
一瞬だけ幸せな思い出が甦る。
買い物、姉の笑顔、自分が選んだ蝶の髪飾り、そして桜とスミレの花---。
「……やっぱり、似合わないわよ」
しのぶは誰にも分からないようにそっと呟いた。